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高田が吉田神社の境内から神使の鹿によって追いだされて半時間ほどのちのこと、京都大学の時計台広場にやって来た桜子と悠斗、速仁の三人は、キャンパスで懸命にシロを探した。そのあと、吉田神社にも足をむけた。頭中将から檜扇を得たことを本殿まえで報告したのち、三人は境内でなんどもシロの名を呼んだ。
探し疲れたころ、悠斗が、
「出町柳にもどろうか……」
と、気乗りしない声で桜子に呼びかけた。
「はい、しかたないですね。宮ちゃんを出町柳で見送って、鞍馬にもどりましょう」
桜子は、ぎこちない作り笑顔で応じた。
今出川通りを出町柳へむかう道すがらも、桜子は口を閉ざしたまま街路樹ごとに立ち止まり、シロの姿を葉陰に探した。だが見つからない。
気落ちする桜子に、悠斗と速仁はなんども声をかけた。
「きっとシロは、どこかで元気にしているよ。アイツはかしこいから……。かわいいメスのスズメを見つけて、遊んでるのかも……」
「悠にいちゃんの言うとおりだと、おれも思う。大空を飛びまわっているのだよ」
桜子は、慰めてくれるふたりの思いやりがうれしかった。しかし、祖母の紫式部から教わったことが、心におもくのしかかっていた。白いスズメは、幸福をもたらしてくれる吉兆のはずだ。それがうしなわれたとしたら……。
心細い千年後の世界で白スズメと出会いさまざまな幸運に恵まれてきたと、桜子は考えていた。シロを初めて見つけた鞍馬堂は、わが家と変わらない、ぬくもりのある居場所になった。源氏の新帖につながる品も、シロといっしょに外出した日に、三つ目、四つ目を見つけることができた。それになんといっても、心を通わしあえるような、悠斗という男君と出会えたのだ。シロに餌を与えるときの、悠斗のうれしげな顔が、桜子は好きだった。
せっかくつかんだこれまでの幸せが、白スズメがいなくなったことで、指のあいだからスルッとこぼれ落ちてしまうのではないだろうか。桜子は、そう思わずにはおられなかった。
「元気だせよ! 桜ちゃんらしくないぞ」
わざとぞんざいな言葉で力づけようとしてくれる速仁に、桜子は、
「うん、そうだね。ありがとう」
と、なるだけ明るい声で返事をした。
だが、それっきりで、桜子は口を閉ざした。
「おれ、早く鴨川に行きたい!」
賀茂大橋の近くまでやってきたとき、速仁が、街路樹を見あげている桜子の背中にむかって声をかけた。桜子はふり返り、どうして、と言いたげな目差しを速仁にむけた。
「だって、川で水遊びしている鳥を見るの、楽しいじゃない! 桜ちゃんは、鴨川の水鳥を描いて、おれによく見せてくれただろ。絵もいいけれど、本物を見るほうが楽しいにきまっている」
速仁はそう言うと、橋にむかってかけだした。そして、橋につづく交差点で立ち止まってふり返り、桜子と悠斗にむかって、両手を頭のうえでおおきく振った。
「はやく!」
屈託なさそうな速仁のそぶりを見て、桜子の心がやわらいだ。そして、シロを絵に描くことを思いついた。そのことが、また幸せをもたらしてくれるような気がした。
桜子は、悠斗にむかってほほえんだあと、早足で速仁のもとへ急いだ。
悠斗は、すこしは元気をとりもどした桜子のようすに胸をなでおろした。だが悠斗には、気がかりなことがあたらしく胸にうかんだ。今日の鴨川で水鳥が見られるとは思えなかったのである。
悠斗の懸念は的中した。鴨川は、四日まえの穏やかな清流から一変し、濁流の川と化していたのだ。
三人は、季節はずれの寒風が吹きぬける賀茂大橋の欄干にならんで手をつき、重低音をたてて激しく流れる大量の水をみつめた。高野川が鴨川に合流する出町デルタは、水没しかけてさえいる。剣先と呼ばれているその先端部分の石畳は一段低く、すでに冠水していた。あと数十センチメートル増水すれば、河川敷も波にあらわれそうだ。
悠斗は、顔をこわばらせている桜子と速仁とはちがい、
「この数日、大雨が降りつづいたから……。この流れだったら、水鳥もおぼれてしまうよな、ハハハ」と、
いたってのんきに構えている。
「洪水にならないでしょうか?……」
心配する桜子に、悠斗は、寒さで縮かんできた両手をパンツのポケットに入れて、
「それはないよ。あと何日も豪雨がつづけばべつだけど、そんなことにはならないよ」
と、気楽にうけあった。
桜子はホッとした顔でうなずいた。
だが速仁は、ますます顔をひきつらせた。心の動揺を桜子と悠斗に気づかれないよう、速仁は、ふたりからソーッと離れ背中をむけた。
「宮ちゃんこそ、元気だしなさいね。天気がよくなれば、水鳥だって見られるから……」
桜子から背中越しに声をかけられ、速仁は力なくうなずいた。
「一宮って、ほんとに鳥が好きなんだな……」
悠斗が半分からかい顔で言うと、速仁は後ろをむいたまま、またちいさくうなずいた。
――鳥も好きだけれど、また雨が降ったら、みんなが困ると思って……。それに、まだ九月なのにこんなに寒いのはへんだよ。
速仁は半身になり、あらためて川面に目をおとした。人の小さな体はもちろん、平穏な暮らしを一切合財、いっきに押しながしそうな奔流だ。速仁は、直衣のふところにソッと右手を入れ、石山観音から渡された黄水晶をつよく握りしめた。
――これは、ぜったいに使わない!
「一宮、どうした? 顔色が悪いぞ。寒いのか?」
心ここにあらずの速仁だったが、悠斗の呼びかけにおもわずふりむいた。
そこには、悠斗だけでなく桜子の曇り顔があった。速仁は、助けにきた相手の桜子をかえって心配させていることで、自身のふがいなさを思った。
――おれのバカ! しっかりしろよ!
速仁は、自分自身を叱咤するように左手で拳をつくり、
「ううん、なんともない。――でも、すこし寒いかな、エヘッ」
と、明るい声を懸命にしぼりだした。
「ほんと、寒いよな。頭中将さんの屋敷では暖かかったけど、現実世界にもどってきたら、あいかわらず寒い」
悠斗はそう言うと、パンツのポケットに両手を突っこんだまま身をすくませ、桜子と速仁をカフェに誘った。
「一宮も、帰るまえに、あったかいものを飲んでいけよ」
速仁は、すなおにうなずいたあと、
「おれ、悠にいちゃんとおなじように、こうひいにするぞ」
と、おとなびた低い声をつくって答えた。速仁は、ようやく気持を切り替えた。




