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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第2章 幼なじみ
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2-3

 ならんでシラサギをみつめる桜子と速仁の小さい背中に目を細めていた紫式部は、ほどなくして、大きな草紙箱から、〈わかむらさき〉と表書きされたものなど、数冊の綴じ本を取りだした。それぞれ異なる色の染紙に金銀砂子きんぎんすなごで装飾がほどこされた、優美な冊子だった。そして式部は、桜子と速仁をそばに呼んだ。

「ちい姫、これはね、おばあちゃんが書きつづった物語です。あなたに差しあげようと、おばあちゃんがこの手で、あらためて筆をとりました。あの草紙箱のなかのものも合わせて、全部で五四帖あります。歳のせいで手がふるえ、上手な字ではないけれど、ゆるしてください」

「わぁぁ、きれいだ。あばあちゃま、ありがとう!」

 十歳の桜子には、書かれている中身よりも、料紙の美しさがうれしかった。目を輝かせて表紙を見つづけた。桜子は、その紙に絵を描きたかった。


「その紙に絵を描き足してもいいですよ」

 えっ!?、と思って桜子は式部の顔を見あげた。

「おばあちゃまは、なんでもわかるのね。すごーい。ねぇ、どうして?」

「なんでも、ってことはありませんよ、ほほほ。でも、ちい姫はお絵かきが好きでしょ。それに源氏の物語は、いまのあなたでは難しいところが多いはずですからね」

 桜子は、気恥ずかしそうにうなずいた。

「あなたが大きくなって、おばあちゃんのような歳になるまで、なんども読んでもらいたいと思ってさしあげるのです。読みかえすごとに、生きていくうえでのなにか励ましになるものを見つけてもらえれば、おばあちゃんは、うれしいですよ」

「うん、わかった。だいじにするね」

 桜子は式部の首にまとわりついて、頬と頬をくっつけた。

 その甘えたしぐさが、速仁にはとてもまぶしかった。


「ぼくも、それをよんでいいかな?」

 速仁は、まだ式部にまとわりついている桜子に、ボソッとたずねた。

「いいよ。でも宮ちゃんは、漢字が読めないじゃない」

「ぼくがよめないわけじゃない。桜ちゃんがよめすぎるんだよ、女のくせに!」

「女が漢字読めて、どこが悪いのよ!」


 式部は、また派手な口げんかをはじめそうなふたりに頬をゆるめていた。だが、速仁がさきほど寂しげな表情をみせたことが、気になってもいた。式部は、桜子の髪をなでながら、ふたりに話しかけた。

「ちい姫、源氏の物語は漢文ではないですから、すこし漢字を知っていれば、それで十分に読めますよ。それに、宮さまはこれから、たくさん漢字を覚えていかれるでしょ」

 そう言われても自信なさげに首をすくめる速仁に、式部は微笑みを注ぎながら言葉をついだ。

「新しい冊子を若宮さまにもお書きしましょう。五四帖すべてをあらためて書きあげるのは、この歳ではもう無理かもしれませんが……」

「わーやったぁぁ!」

 飛びあがらんばかりの速仁に、式部の頬がますますほころんだ。

「どのお話を、まずお書きいたしましょうか?」

「ぼくね、あれがいい!」


 速仁がいきおいよく指さした先には、〈葵〉帖があった。

 桜子は式部の体から離れ、その冊子を両手で胸に抱えた。

「宮ちゃん、これはわたしのだからね。わかってるよね」

「うん、わかってる。でも〈あおい〉のお話のなかに出てくる歌が、ぼく好きなんだ。それを手習いして、桜ちゃんにあげただろ……。はかりなき ちひろのそこの みるぶさの ……」

 桜子の目がつり上がった。

「そういうのを、バカのひとつ覚え、っていうんだよ」

「あっ、またバカ、って言った!」

 速仁と桜子は、ふたりながら、味方を求めて式部を見やった。

「まぁ、ふたりとも仲のいいこと」

と笑いだす式部に、桜子と速仁は同時に叫んだ。

「仲なんかよくない!」


「そういう風に声がそろうのが、仲のよい証拠ですよ、ほほほ」

 式部はそう言ったあと、まるで一心同体の双子のようだと思いながら、桜子と速仁を、あらためて自分のまえにならんで座らせ、居ずまいをただした。

「いまからお話しすることは、ここにいる三人だけの秘密です。よろしいですか?」

 なにか重大な話をこれから式部がしようとしている。桜子も速仁も、幼いながらにそう感じた。ふたりは真剣な顔になり、目と目を合わせた。それから顔をまっすぐまえにむけ、式部が口を開くのを待ちかまえた。


「おふたりにさしあげる源氏の物語は、石山寺の観音さまのおかげで書くことができました……」

 式部は、源氏の物語をなぜ書くことができたのか、そのいきさつから語りはじめた。そして遠い未来のことまで、桜子と速仁に話してきかせるのだった。――

 作中の人物と、その身のまわりの品とを現実世界に呼びだす秘密の力を観音から授かり、その力に助けられて物語を書いた。桜子に贈った冊子も、光源氏らを呼びだし語りあいながら、あらためて清書したのだ。昨年の秋、これが最後だと思いさだめて石山詣をしたおり、この力を観音に返上しようとした。

「でもね、観音さまは、お受け取りになろうとなさらなかったの」

 観音が言うには、授けた力は源氏の物語を世に出すためのものであり、源氏の物語とは、式部の筆になるものだけではない。式部の書いた物語は、いつの日か絵にも舞にもなり、さらに、何百年、何千年先にわたって、それぞれの世の人びとにとってわかり易い形に変えられることで楽しまれるだろう。式部の血を継ぐ者たちのなかに、新しい息吹を与えて物語を再生させうる才ある者がいるなら、その人物に、その力を式部の手で分け与えればよい。

「観音さまはね、そうお告げになったのです」


 式部は話しおえた。だが、桜子たちに伝えなかったことがひとつあった。観音は、新帖の公開を後世の者に託すためにも、形代を操る力を係累に委ねよ、と式部に諭していた。式部は、五四帖から先は世に問わないという、大陰と結んだ約束をかたく守り、新帖の公開にかかわる観音の言葉は桜子と速仁にも伏せたのである。


 桜子は式部の話を、むずかしそうな顔をして聞いていた。ほんのりした輪郭の両眉が、わずかに真ん中に寄っている。式部は右手の人差し指と中指をそろえ、桜子の幼げな額に押しあてた。

「ちい姫、あなたはお絵かきが大好きでしょ。それに、昨日おばあちゃんにくれた、桜を挿した銀の花瓶の絵は、とても上手に描けていましたよ。観音さまからいただいたお力を、あなたが継いでくださいね」

 桜子は、式部の語った秘密をすべて理解できたわけではなかった。だが、式部の目をまっすぐみつめながらコクンとうなずいた。すると、式部の両指先が触れていた桜子の額の一点が、黄色く光りだした。


「桜ちゃんのおでこ、ホタルのようでキレイだね!」

 速仁は、式部の語ったことを、桜子よりもわかっていなかった。だが、なにか不可思議な力が式部から桜子に伝えられ、それを自分もたいせつに見守っていかなければならないのだと、ぼんやりと感じていた。

 速仁は、桜子の額のまんなかでポツンと灯っている光に、熱くないだろうかと思いながらも、おそるおそる人差し指を近づけた。そして思いきってふれると、光がスッと消えた。


 式部は、指先を残念そうにみつめている速仁にむきなおった。

「若宮さま、これは三人だけの秘密です。観音さまからわたしがいただいたお力は、わたしでは、わたしの係累の者にしか伝えることができないようです。ですが、ちい姫と若宮さまは一心同体のようでいらっしゃいます。どうか、この秘密を守って、ちい姫が困っているときは助けてやってくださいませ」

 そう頼まれた速仁は、言葉の意味がわからず、かたまってしまった。

 ――ケイルイ? イッシンドウタイ? どういういみ? いみをきいたら、また桜ちゃんにバカにされちゃうしなぁぁ。うーん、まっ、いいか!

「うん、わかったよ! イッシンドウタイだもね」

 思いっきりの笑顔をつくって、速仁は力強い声で答えた。

「ありがとうございます、若宮さま。それから、ちい姫も聞いてください。秘密といっても、信頼できると思える人には、打ち明けていいのですよ。その人が、源氏の物語を多くの人に親しんでもらえるお手伝いをしてくださるなら、観音さまも、秘密にしておけとは仰らないでしょう」

「はーい!」

 桜子と速仁は、また同時に返事をした。

「まぁっ、やはりね、ほほほ」

 

「ねぇ、おばあちゃま、どうしておかしいの、どうして?」

 そう言いながらまた首にまとわりついて甘えてくる桜子に、式部は、源氏の物語のどの人物に会いたいかとたずねた。すると、しばらく間をおき、手に料紙と絵筆を持つ青年姿の光源氏が、三人のまえに現れた。

 式部は、観音から授けられた力が桜子に伝わったことを確信した。そして、目をまるくしている桜子に、

「会いたいと心のなかで念じれば、物語から、そのお方や、身のまわりの品が現れるのですよ」

と、やさしく声をかけた。


 速仁も、仰天顔で光源氏をみつめていた。式部の言葉は、ほとんど耳に入っていないようだった。

「こ、このおじさん、だ、だれ? もののけ?」

 怖がる速仁に、光源氏は内心かなり機嫌を損ねながらも、自信たっぷりに流し目をしながら返答した。

『式部殿がいま仰ったではないか。ちい姫が心のなかでわたしのことを思われたので、源氏の物語から現れ出たのです。世の人々から光る君とよばれているのが、そう、このわたしです』

「おじさん、光る君なの?」

 その問いに光源氏が穏やかな顔でうなずくと、速仁は不服そうに言いたした。

「うそっ! ぼく、もっとかっこういい人かと思っていた」

 速仁の言いざまに、光源氏の唇がこきざみに震えた。そして一拍をおき、その唇がいっきにまくしたてた。

『おまえよりは、どう考えてもわたしの方が恰好いいではないか! それに、わたしがおまえと同じ年齢のころは、漢詩文だってすらすら暗誦できたのだぞ!』


「ほほほっ、若宮さまにかかれば、光る君さまも形なしですね」

 そう言って笑う式部に、光源氏は不服そうに言葉を返した。

『式部殿、それはちがいます。この子が物知らずなだけです』

 そして光源氏は、しれっとした顔を速仁にむけ、源氏の物語の一文をそらんじた。

〈世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず〉

『よいか、少年。こんなふうになれるよう、しっかりと勉強をするのだぞ。――おい、少年。人の話を、きちんと聞きなさい!』


 光源氏から「少年」だとからかわれた速仁は、ほほをふくらませ、そっぽをむいていた。そして、

「光る君じゃなくて、光るじじいダ!」

と言いはなつや、両方の黒目を真ん中に寄せ、舌も突きだし、その奇妙な顔を光源氏にむけた。

 光源氏は、内心で、

 ――この悪ガキが!

と毒づきながらも、ますます涼しい顔をとりつくろった。

『元気な少年だ、ハハハ』

 そして顔をプイと速仁からそむけた。

『ともかく、わたしはちい姫に呼びだされたようですので、ちい姫にごあいさついたしましょう』


 桜子は、辞儀をする光源氏におそるおそる頭をたれてあいさつを返しながらも、泣きそうな目を式部にむけた。

「おばあちゃま、どうして光る君さまがここに来られたの? なにかわたしのせいなの?」

 不安げな桜子に、式部は、光源氏が現れた理由をもういちど説明することにした。

「ごめんなさいね、ちい姫。驚かせてしまいましたね。でもこれが、石山寺の観音さまのお力なのです。おばあちゃんもね、はじめて光る君さまが物語から現れたときは、仰天しました。でも、光る君さまたちといっしょに、おばあちゃんは源氏の物語を書いたのです。物語のなかの人たちと語りあって書いたからこそ、源氏の物語は、世間の方々からたいそうほめていただけるものになったのだと、おばあちゃんは考えているの。その力を、あなたにお分けしたのです。物語のなかのどの方にお会いしたいですかと、さきほどおばあちゃんがたずねたとき、ちい姫は、幼い若紫ちゃんといっしょに絵を描いて遊んでいる光る君さまのことを思ったのでしょ。それで光る君さまが、絵筆を持ってわたしたちのまえに現れたのです」

『そうですよ、ちい姫。これからは、ちい姫ともおつきあいできるのが、うれしくてなりません』

 もの柔らかな光源氏の口調に、桜子もようやく安心した。今日この日から、速仁でなく光源氏と、人形や絵筆で遊べそうなこともうれしかった。


 急にニコニコしだした桜子を、速仁はいぶかしげな目で見やった。桜子が光源氏を使い、勉強のことでまた自分をからかうのではないだろうか。そう怪しむ速仁には、光源氏の存在が疎ましくてならなかった。

 速仁は口をとがらせながら、式部に、

「このおじさんを、ものがたりのなかに返しちゃうには、どうしたらいいの?」

とたずねた。

 式部のよこで、光源氏が、かすかに眉根をよせた。

 ――なに、現れたそうそう、もう帰れというのか? ほんとうに、礼儀知らずな悪ガキだ!


 光源氏が憤慨しているのに気づいた式部だったが、素知らぬふりをして、両目をゆっくりと閉じた。

 ――おぉぉ、式部殿まで酷いではないですか!

「ちい姫が、『おもどりください』と、こんなふうに心をしずかにして念じればよいのですよ」

 桜子は、式部のヒザのうえに飛びこみ、はしゃぎ声をあげた。 

「そんなことわたし、しなーい。光る君さまとお絵かきしたいもの。あそこにいる変な鳥を、いっしょに描きたーい」

 式部は、パッと両目を開いた。

「そうですね、せっかく物語からお越しいただいたのですから、絵の達人でいらっしゃる光る君さまに教えてもらうといいですよ」

 式部は、桜子が成人したのち、観音から授かった力を使い源氏の物語絵を描いてくれるのだろうかと思い、それがうれしくてならなかった。


 桜子と光源氏がならんで絵筆を動かしはじめると、速仁はますますおもしろくなくなった。桜子を光源氏にとられたような気分だった。

「ねぇ、式部ばあちゃん。桜ちゃんが心のなかでねんじなければ、あいつ、いつまでもいることになるの?」

 心配げな速仁が、式部はおかしくてならなかった。

「念じなくとも、もう必要でなくなったと観音さまがお考えになると、物語のなかに消えてしまわれますよ」

 式部の返答にぱっと明るい顔になった速仁は、絵筆を握って夢中な桜子に声をかけた。

「ねぇ、ぼくもいっしょにお絵かきしていいかな?」

 桜子は、キョトンとした顔で速仁をふり返った。速仁の方から絵を描こうなどと言ったきたのは、これが初めてだった。

「もちろんいいよ。三人ですれば、もっと楽しくなるもの!」

 桜子は、その名の通りの、盛りの桜のようなほほえみを速仁に返した。

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