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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第1章 新帖
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1-1

 紫式部は、このところ憂うつだった。日になんども溜め息をこぼす、そんな毎日をおくっている。

 気がめいるのは年のせい。

 ということに式部はしておきたかった。たしかに、五才の孫娘から「おばあちゃま!」とよばれる身なのだ。足腰がよわり、体が思うにまかせない。

 しかし、それよりもなによりも、あの源氏の物語五四帖が悩みの種になっていることは、式部本人にもよくわかっていた。

 皇后の彰子(しょうし)に仕えながら書いたその物語は、式部自身さえ驚くほどの好評を博している。彰子の父にして、時の権力者である藤原道長のおぼえも、たいへんめでたい。だが、名声が高まれば高まるほど、なにか大切なものを書きおとしてしまった、という思いにつきまとわれるのだ。半年まえに宮仕えを辞してから、この思いはますます強まってきた。

 あらたな帖をいくつか書きおこそうと、この一か月ほどは毎日のように筆をとっている。だが、草稿からさきへなかなか進まない。

 大晦日(おおみそか)の今日も朝から、〈中川のあたり〉にある、曾祖父の代からの古屋敷で文机のまえに座りつづける式部だが、その筆は止まりがちだった。


 〈中川のあたり〉とは、東の鴨川と西の桂川とのあいだを流れるので中川とよばれる、その小さな流れの近辺をさす。平安京の東北端に位置し、源氏物語では、花散里(はなちるさと)末摘花(すえつむはな)といった女君(おんなぎみ)たちの屋敷があった。物語のなかで主人公の光源氏はさまざまな女君と一夜をすごすが、そんな逢瀬の最初の舞台になった紀伊守(きいのかみ)の屋敷も、この近辺にあった。光源氏は十七歳のとき、紀伊守の年若い義母である空蝉(うつせみ)の寝所へ忍びいったのである。

 空蝉は年下の光源氏から強引に言いよられ、その熱情にほんろうされた。しかし、すでに受領(ずりよう)の夫をもつ身であることから、光源氏への愛惜をたちきり、父のような年かさの夫とともに、その任地である伊予国(いよのくに)へ、ついで常陸国(ひたちのくに)へと下っていった。夫の任期が明けて都にもどると、まもなくして夫は亡くなり、こんどは、紀伊守から河内守(かわちのかみ)へと出世していた義理の息子から懸想される。それをきらった空蝉は出家し、その尼姿の空蝉を、光源氏は自邸のひとつである二条東院(にじようひがしのいん)にひきとった。

 これが、五四帖のなかで語られている空蝉の物語である。だが、その後の空蝉は、どのような思いを胸に秘めつつ二条東院で暮らしつづけるのだろうか。そして光源氏の死後、空蝉よりも身分の高い花散里が二条東院を相続してそこの女主人となったとき、空蝉は残りの人生をどこで送ろうとするのだろうか。

 世に出まわっている五四帖だけでは空蝉の心奥が書ききれていないことに、式部は歯がゆかった。

 そのうえ、光源氏の息子である薫と、浮舟(うきふね)の女君との心のすれ違いを語った最終帖〈夢浮橋(ゆめのうきはし)〉についても、わだかまりがある。出家した浮舟は薫との復縁をかたくなに断り、そんな浮舟にたいして薫が、だれか男にかこわれているのではないだろうか、と邪推するところで〈夢浮橋〉は閉じられる。式部は、ここで筆をおいたのが全五四帖の大団円としてふさわしいかったのだろうか、という思いに、ずっととらわれてきたのだ。


 文机にむかっている式部の口から、

「それに〈雲隠(くもがくれ)〉のことも……」

と、また吐息がもれた。

 式部はゆっくりと筆をおき、文机のうえの人形に顔をむけて言葉をついだ。

「光る君さまの出家と死を描く帖は、名前だけ〈雲隠〉とつけて中身を書きませんでしたが、それでよかったのでしょうかね。どう思われますか? ……光る君さま」

 すると、

『わたしが死出の旅へむかうところなど、ひとに読んで欲しくないですよ、アハハ』

 光源氏姿のその人形が口を開いた。

 式部は人形にやわらかな笑みを返したあと、ふたたび溜め息をついて愚痴をこぼした。

「やはり年のせいですかね、どうも筆がすすみません。もういちど、石山寺にお詣りし、観音さまにおすがりしようかしら……」


 五年ほどむかし、なにか新しい物語を書くようにと彰子から請われたとき、式部は近江国(おうみのくに)の石山寺に参籠し、そのおかげで源氏物語の着想を得たのだった。しかも作中の人物と、その身のまわりの物とを現実の世界に呼びだす力も、本尊の如意輪観音(によいりんかんのん)から授かった。式部は、そうして呼びだした光源氏らと語りあいながら、物語をつむいできたのだ。

 新帖の構想に取りくんでいる今日も、式部は、小さな姿の光源氏を目のまえに置いていた。そして、式部から石山詣について相談された生き人形の光源氏は、あでやかな声で返答する。

『石山寺とは、よいお考えですね。わたしもいちど、詣でさせていただきました。往きの、逢坂の関(おうさかのせき)あたりの山あいで、常陸国から京の都へ帰ってくる空蝉と、偶然に()きあいましたね。その話が書かれている〈関屋(せきや)〉は、とりわけ好きな帖のひとつです』

 光源氏はそう言ったあと、おだやかに相づちをうっている式部に、からかい顔をむけた。

『ですが式部殿は、そのお年でだいじょうぶですか? 山越え道が心配です』

「まぁぁ、ひどい仰りようだこと。でも、ほんとう。光る君さまのように大きな牛車で石山詣をするわけにはいかないですからね。わが家では、粗末な小さい網代車(あじろぐるま)がせいぜい。あれでは体を横たえることもできず、山越えで車酔いしかねません。それに、お詣りできたとしても、帰りがまたたいへんです」

『それでは石山寺の参籠部屋で、中将の君を物語からお呼びよせになるとよいでしょう。中将の君は、足をもむ名人ですから』

「それはいけません。石山の観音さまからいただいた力は、物語を世に出すためのもの。身勝手に使えば、罰があたります。そのうえ、この力を人に知られないようにしなさいと、観音さまから仰せつかってもいるのです。女房たちの目につかないよう、陽のあるうちには、光る君さまには小さなお姿でいていただいているでしょ」

 式部は両手を合わせ、心のなかの石山観音にむけて頭をちいさくたれた。そして顔をあげると、温かさのなかにも茶化した目となり、言葉をついだ。

「それに光る君さまは、足もみが上手だから中将の君をお側に召していたわけでは、たしか、なかったのではありませんか? ふふふ」

 だが光源氏は、悪びれもせず、

『まっ、そういうことですかね、ハハハッ』

と、そのつややかな顔をいっそう輝かせた。


 式部は光源氏と語りあい、すこしばかり気持ちがやわらいだ。筆を取りなおし、ふたたび草稿を書きはじめる。そして、文机のうえでは光源氏が、生あくびをかみ殺しながら、式部のその筆運びをながめるのだった。

 こうして、しずかに数刻がすぎていった。

 陽がとっくに沈み、燈台の油もなくなりかけたころ、ようやく式部は筆をおき、

「明日から春だというのに、雪がふってきたようですね。今日はここまでにして、年寄りはそろそろ寝るといたしましょう」

と、ひとり言のようにつぶやいた。そして、また冗談めかした目で、

「今宵はどちらの女君のところへ、お出かけになるのですか?」と、

光源氏に問いかけた。

『またまた、そんな。おからかいはお止めください。わたしは、式部殿の思いどおりに動く形代(かたしろ)にすぎません』

「とはいえ、お望みの場所はあるのでしょ?」

『いえ、式部殿の手により、物語のなかの、どの女君のもとへ送られようと、その場その場は誠心誠意、懸命におなぐさめするのが、はい、わたしの務めだと心得ております』

 キリリとした顔で答える光源氏だった。

 すると式部は、

「それでは、末摘花さまのところへ、お出かけになりますか?」と、

真面目顔をつくってたずねた。

『えぇぇ、そっ、それは……。式部殿は意地悪だ!』

「そんな情けない顔をなさいますな、ほほほ」


 不美人で趣味も古風すぎる末摘花の名を聞き、光源氏はうろたえた。だが、すぐにたちなおり、

『意地悪なところにも、不思議にひかれます。お慕いしております』

と、思いっきりのモテ顔をつくって式部にささやいた。そして、この美貌と甘言にほだされない女はいないだろう、とばかりに、自信たっぷりの上目づかいで言葉をついだ。

『さきほどまで書いておられた文章を拝読するに、式部殿のお気にいりの女君は、空蝉のようですね。今宵は、紀伊守の屋敷にお送りいただきましょうか。でもわたしとしては、ここで一夜をすごすのが……』


 だが式部は、いたってつれない。

「わたしのような年寄りがお好みなら、源典侍(げんのないしのすけ)さんをお呼びしましょうか? 典侍さんとの火遊びは、光る君さまが、たしか十九歳のときでしたね」

 父の桐壺(きりつぼ)帝に仕える老女官の名を聞き、光源氏は口をとがらせた。

『ほんと式部殿は意地悪だ! やけどは、もうこりごりです!』

「ほほほ、それでは紫の上(むらさきのうえ)さまのもとへ、今宵はおもどりなさいませ」


 光源氏は、もっとも愛しい女君の名を聞き、ホッとした表情をうかべた。幼いときは若紫とよばれ、光源氏と生涯をともにする女君だ。

 式部は、晴れやかな顔になった光源氏にむかって、ちいさくうなずいた。すると、

『ありがとうございます。おやすみなさい……』

という声をのこして、光源氏の姿が虚空に消えていった。



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