あから始まって、るで終わってる
土岐は明日、この職場を離れる。
一緒に入社したくせに、俺より先に栄転だ。新幹線で向かっても二時間掛かるところで、新しく設けられる支店のチーフマネージャーになる。
鈍臭い俺のフォローをしながらも、てきぱきと仕事を済ませる土岐が、他とは比べ物にならないくらい優秀だってことは、とっくに気付いていた。先輩も課長も部長も、土岐はすごい。土岐は仕事が出来ると口を揃える。
だから、土岐が栄転することを土岐本人から聞いたときは、「やっぱりなぁ」と思った。俺はまさに平凡ど真ん中の平社員だけど、同い年の土岐は、とんとんと昇進するタイプだろうと、ずっと思っていたわけだし。
同期が昇進なんて、普通だったら嫉妬と劣等感でおかしくなりそうなところだけれど、相手は土岐だったから、すんなりと受け入れた。
おめでとう、と土岐に言って、缶ビールを開けた。土岐の部屋で飲む、冷えた缶ビール。仕事終わりの一番の贅沢だったのに、土岐が転勤してしまったら、それも出来なくなる。
土岐は、俺が酒のつまみに作ったツナとほうれん草の和え物を箸で突きながら、うん。と頷いた。
その夜の土岐は、いつもよりも無口だった。
土岐の送迎会を終えて、俺は職場に戻った。
真っ暗な部屋は、夜目が利かない俺には辛い。土岐が一緒だと手を引いて歩いてくれるけれど、今日は土岐はいない。
今日は、じゃないか。と小さく呟いて、俺は足を止めた。
俺の隣の席だった土岐の机の上は、何も乗ってない。昨日、使っていた資料や愛用していたペンを段ボールに入れていた。新しい支店で使うらしい。
土岐が愛用していたペンは、俺が土岐にあげたものだ。
なんでも出来る土岐だけど、唯一減点するとすれば、字が汚い。爽やかで、穏やかな笑みが似合う精悍な容姿の土岐は、その整った容姿に反して、ミミズが紙面を這ったような崩れた字を書く。土岐にしか読めない暗号だ。
土岐の誕生日に、俺はペンを上げた。
本当か嘘か知らないけれど、字が上手くなるペンらしい。
社会人にもなって男同士が誕生日プレゼントなんてあげあうのはどうだろうと思われるけれど、俺と土岐は、出会ってから毎年お互いの誕生日を祝っていた。
下ネタなんて言いそうにない爽やかを具現化したみたいな見た目の土岐から、大人のおもちゃ詰め合わせを手渡された時は、思わず爆笑した。ネタだろ、と笑いながら言えば、一瞬だけ眉を寄せた土岐は、まぁね。と返した。結局一度も使ってない。就職して以来、俺には恋人がいないから。
土岐にペンをあげた時、土岐は喜んでいた。珍しく実用的だ、と笑って。
それまで俺が土岐にあげた物といえば、馬面の覆面とか、土岐の部屋には不相応な可愛い熊のぬいぐるみだとか、大胆なスリットが入った紅いチャイナドレスとかだった。
チャイナドレスは、職場の忘年会で俺と土岐が女装したとき、あまりにも土岐が似合わなかったから、それをからかう意味であげた。
けど、気付けば俺の部屋にある。虎視眈々と、土岐は俺にドレスを着せようと目論んでいたようだから、俺が没収した。一度も着ていない新品のままだ。
そういえば、そんな微妙なプレゼントばかりだったのに、土岐は、俺があげた物を大事にしていた。
馬面の覆面はベッドヘッドに飾られていたし、熊のぬいぐるみは本棚の上にちょこんと置いてあった。土岐の部屋は汚いのに、どちらも埃は被っていなかった。
一番大事にしていたのは、あのペンだ。
土岐の精悍さに似合わない薄いピンクのボディのペンなのに、いつもスーツの胸ポケットに忍ばせて持ち歩いていた。インクが無くなった時は、近所の店には無いからと言ってわざわざメーカーからインクを取り寄せたらしい。
結局、土岐の字は綺麗にならなかった。
それでも、土岐はあのペンを大事に使う。気に入ったなら、それはそれで良いんだけれど。
土岐が使っていたデスクを撫でてから、俺は自分の席に着いた。
自分のデスクの上だけ照明を点けて、うすぼんやりした室内で俺はじっと土岐の席を見る。
明日、土岐は最後の挨拶に来る。それが終わるとすぐに、新しい支店に向かうらしい。
一週間前に、新しい住まいを決めたと言っていた。
今の部屋より少し広くて、誰かが泊まりに来ても心配無いそうだ。そう言う土岐に笑った。
俺が土岐の部屋で酔い潰れると、土岐はせっせと俺を自分のベッドに運んで、ぐーすか眠りこける俺がベッドから落ちないように腰を支えながら同じベッドで寝る。
来客用の布団なんて用意してないし、そもそも部屋が狭いから布団を敷くスペースも無いから仕方ないことだけど、度々同じベッドで二人身を寄せ合いながら寝てるなんて、墓場まで持っていく秘密にしようと、土岐と一緒に笑った。
土岐は、来客用の布団も買ったらしい。
これで、ベッドで一緒に寝ることはないな。と言う土岐は、笑ってなかった。だから、俺も笑わなかった。
そうだな。と返して、缶ビールを煽る。土岐も、こくりと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。
土岐に転勤すると告げられてから、俺達の夜の晩餐は、時折沈黙に包まれるようになった。
何を話していいかわからなくて、困った。何も話せなかった。
今までは、明日の仕事の話をしたり、週末にスノボをやりに行く予定を立てたり、新しい居酒屋が出来たからいつ行こうとか、次はこういうつまみを作ろうとか、話していたけれど。
でも、もう土岐とは『未来の話』が出来ないんだと思って、言葉が浮かばなかった。
土岐は、遠くへ行く。こうして仕事終わりに土岐の部屋でビール片手に笑い合うことが出来なくなる。
そう思うと、土岐に告げなければいけない言葉が喉元で詰まって、何も言えなくなった。
自分のデスクに乗ったパソコンを立ち上げようとして、やめた。
土岐の送迎会に参加する為に途中で放った仕事の続きをしようと思っていたけれど、そんな気分ではなくなってしまった。
俺が仕事に詰まってうんうん唸っていると、土岐は隣からひょいと覗き込んできて、手伝ってくれる。絶妙なタイミングで俺をフォローしてくれるのは、入社当時から変わらない。
周囲をよく見ている土岐は、フォローが上手だ。
仕事が速くて正確。尚且つ、周りの人との関係も良好。完璧な土岐が羨ましくて、そして誇りだった。土岐が誉められると、俺も嬉しい。土岐の昇進も、ただただ嬉しかった。
でもさ、土岐。
土岐が使っていたデスクに指を伸ばして、爪で引っ掻いた。小さく出来た傷を、指の腹で撫でる。
土岐が使っていたデスクは、明後日入社する新人が使う。土岐にフォローされてばかりだった俺が、その新人の教育係になる。
無理だよ、土岐。
そう弱音を吐くと、土岐は笑った。
大丈夫だよ。大丈夫。
土岐の言葉は魔法の言葉だ。土岐に大丈夫だと言われると、勇気が出る。大事なプレゼンの前、緊張し過ぎた俺が貧血を起こしたときも、土岐は大丈夫だよ。と肩を抱いてくれた。
耳元で響く土岐の優しい低音は、俺をしっかりと両足で立たせてくれる。
大丈夫。
土岐が言うから、きっと大丈夫なんだろう。不安だけど、でも、大丈夫。
土岐と初めて会ったのは、入社説明会の時だ。
会議室に集められた同期の中に、土岐はいた。女性ばかりの職場で、同期も俺と土岐以外は女性。俺と土岐が仲良くなるのは、自然な流れだった。
土岐は、よく笑う。
でも、それは俺の前だけだと、最近知った。土岐が栄転すると社内に広まってから、土岐と一番仲が良かった俺に探りを入れてくる女性が多くて、その流れで知った。
周囲の女性社員が土岐に対して抱いているイメージは、『寡黙でストイック。仕事ができる不言実行の完璧主義』。
それを聞いて、笑ってしまった。だって土岐は、確かに仕事に対してストイックではあるけれど、寡黙なんかではない。よく喋るし、よく笑うし、よく怒るし、よく落ち込む。
けれど、それは俺の前だけだった。
そんな土岐を知っているのは、俺だけ。
土岐の部屋で、俺だけが見れる土岐の色んな表情。色んな声。色んな言葉。色んな感情。全部、俺だけ。
字は汚いし。
料理も出来ないし。
米すら炊けないし。目玉焼きも作れないし。
部屋も汚いし。
俺が定期的に掃除してやらないとすぐにゴミ屋敷になるし。
缶ビール煽りながら、愚痴ったりするし。
課長のネクタイの柄がおかしい、って盛り上がるし。
きゅうりが食えないからって、俺の皿に勝手に移したりするし。
女性と何話していいからわかんないから苦手だとか言うし。
だから、俺といるのが楽しいって。
だから、彼女はいらないって。
これからも、俺が隣にいればいいなって。
ずっと、一緒に仕事して。
ずっと、こうして並んでビールなんか飲んで。
ずっと、ずっと。
土岐が俺に嘘をついたのは、たった一回だけ。
これからも俺と一緒に仕事頑張るって、言ったくせに。
転勤なんて、断れよ。
俺、平凡だから、お前のこと追うことも出来ないよ。
お前の字、汚すぎるから、新しい支店の社員だって読めなくて困るからさ。だから、行くなって。
お前がいなくなるのが、ただ、怖いんだよ。
滲んだ視界の向こうで、土岐のデスクは閑散としている。デスクの上にあった、俺と色違いのデジタル時計。一緒に見に行った京都の紅葉が、華やかに収められた写真立て。社員旅行で買った、赤べこの置物。ぎっしり詰まった資料を押さえつける緑色のブックエンド。
全部、無くなってしまった。もう、戻っては来ない。
さよならを告げることは出来ない。俺に、そんな勇気は無い。
でも、またな。と言うことも出来ない。そう告げるほうが、もっと勇気がいる。次に会ったとき、土岐はもう、俺の知ってる土岐では無くなっているからだ。
同期の土岐は、遠くに行って消える。そして、俺より偉い土岐に変わる。
そんな土岐を見るのは怖い。
握った拳で目をぐいぐいと拭って、大きな溜め息を吐き出した。
大丈夫。
土岐は言った。土岐が大丈夫って言ったから、大丈夫なんだ。だから、大丈夫。
土岐は明日、この職場を離れる。
それはつまり、俺とも離れるということ。でも、大丈夫だ。土岐はすごいヤツだ。土岐は良いヤツだ。心配なんかしない。
空っぽになった土岐のデスク。妙に、寒い感じがした。そこに土岐がいた面影すらない。いっそ、清清しい。
よっしゃ、と気合を入れて、俺はパソコンを立ち上げようと手を伸ばした。
二つに折り畳まれたノートパソコンの端に指を置いて、押し広げる。土岐が新幹線に乗る頃、俺は大事な会議に出る。その会議の為の資料の印刷を終えなければ。
開いたパソコンのキーの上に、四角いポストイットが張ってあった。
土岐が好んで使っていた、ちょっと大きい、緑色の付箋だ。
ぺり、と小さな音を立てて、キーから剥がす。
静かな室内に、俺の掠れた笑い声が響いた。
「汚すぎて読めねぇよ」
頬を伝って、顎を伝って、ポストイットを濡らす。
土岐から貰った五文字の暗号。
ひらがなと思われる、五文字の暗号。
少し濡れて滲んでしまったそのポストイットを、そっと、スーツの胸ポケットにしまい込んだ。