公共事業への不安(アベノミクスへの警鐘)
政府が執る経済政策。
その中で、もっとも不安な経済政策の一つに公共事業があります。現在(2013年10月)、行われているアベノミクスでも、これは行われる予定で、国土強靭化政策などと主張され、巨大な予算が割かれそうな気配すらもあります。
では。
この“公共事業”とは、一体、何なのでしょうか?
今回は、その辺りの根本的な話から、その問題点について書いてみたいと思います。
皆さんは“投資”というものを知っているでしょうか?
お金を持っている人が、何かしら事業を始める人にそのお金を渡して、成功したなら(場合によっては、成功していなくても)、その見返りにお金を稼げる。
漠然としたイメージでは、こんな感じじゃないかと思います。
ギャンブル的なものを思い浮かべる人も多いとは思いますが、本来の投資はギャンブルではありません。確かに、その要素はありますが、少なくともそう捉えてはいけないものです。
投資を行えば、そこに設備なり何なりが整えられます。新たな設備が整えられれば、そこから新たな生産物が世に産み出されます。例えば、車が走る為の道路や工場が造られれば、“車”という生産物が生み出され、その“車”が売買される事で、“通貨の循環場所”が増えて、その分経済は成長をするのです。
公共事業というのは、実はこの“投資”の一種です。ただし、普通の投資は、民間によって行われますが、公共事業は国によって行われます(もっとも、災害対策などの場合は、少しばかり性質が異なって来ますが)。
国が行う投資。
大雑把に言ってしまえば、公共事業とはそういったものです。国は税金、或いは借金によってこの“投資”を行う訳ですが、その点にこそ最大の問題があります。後でもっと詳しく説明しますが、自分のお金ではない為、国は無駄な投資を行ってしまうのです。失敗しても自分は損失を受けないどころか、汚職によってむしろ得をします。だから、平気でやり続けるのです。利益を得る為に。そして、当然、その負担は国民が負うことになります。
これは、政治家や官僚に、国民がお金をプレゼントしているのと同じことです。
非常に、困った話ですね。
では、以上の内容を、もう一度、簡単な疑似社会(通貨循環モデル)を使って簡単に説明したいと思います。
新技術の開発、及びに工場が建設されるなどして、生産性が向上したとしましょう。少ない労働力で、より多くの生産物を生産できるようになったとするのです。
仮にその生産物をAとしてみましょうか。生産性が向上した事で、このAを、社会の人達がより多く買うようになれば、これだけでも経済成長が起こる訳ですが(因みに、これも投資によって起こる現象です)、このAは既に消費需要が飽和点を迎えているとしましょう。
平たい言い方をするのなら、Aはもうこれ以上、売れなくなっていたのです。作り過ぎれば、余るだけです。
作れるのに、売れない。これは、つまりは需要が不足しているという事です。今の不景気はこの状態ですね。モノを作る能力の方が高くなってしまって、余っているのです。
そして、モノを作るのは労働者です。とどのつまり、需要不足の状態とは、労働者(労働力)が余っている状態、という事です。
ここで“投資”を行って、この余っている労働力を使って何かしら設備を整えれば、それだけでも経済成長は起こります(設備投資について、“通貨の循環”が発生するようになるからです)。
ただし、ここで注意点です。
この“投資”によって整えられた設備が、失敗に終わってしまえば、この経済成長は一時的なもので終わります。“投資”を長期的な経済成長に結びつける為には、その設備が使われ続け、そしてそこに“通貨の循環”が発生する事(平たく言ってしまえば、商品の売買でお金が循環する事)が絶対に必要な条件になります。
さて。
先ほど述べた通り、公共事業でも、民間に因る設備投資でも、基本的な理屈は同じです。
つまり、余っている労働力を使って、設備投資を行う。そして、この設備が有効に使われなければ、それが一時的な効果しかない点も同じです。はい。それがよく言われる“無駄な公共事業”ですね。
そして。
国は今までにこの“無駄な公共事業”を、さんざんやって来ました。車の走らない道路や、船のない港、飛行機の降りない空港などを造りまくって来たのです。
数百兆円という規模の公共事業を行っても、日本の景気が良くならなかったのも当然の話ですね。
この“公共事業”は、ケインズ経済学の理論に基づいて行われるものです。。
アダム・スミスからの流れを引き継ぐ、古典派経済学では、需要は無限で、だから作った生産物は無限に消費されるという“セイの法則”が成立すると想定(直感的に判断しても非現実的な考えですよね)し、生産面を重要視しましたが、後に登場したケインズ経済学では、この考えを否定しました。
需要は無限ではない。だから「社会は需要不足に陥る場合もある」、と考え、その場合は、国がその需要不足を補ってやらなければならないと主張したのです。そしてその“需要不足を補う”手段こそが、公共事業だったのです。
とても現実的な主張だと思います。
ただし、「“無駄な公共事業”じゃ、一時の効果しかない」という点を、もっと強調しなければいけなかったのではないかと僕は思います。世界的な経済大恐慌が起こってから、このケインズ経済学は、国の政策として広く用いられるようになっていくのですが、結果的に日本だけに限らず、世界中で“無駄な公共事業”が行われるようになってしまったのです。
そして、その多くの国で反省されたのですが、この日本では未だにこの点が充分には反省されず、“無駄な公共事業”が行われ続けているのです。
少し前に、僕はネットで有名になった経済作家の方の主張する内容を読んだのですが、何故かその方は「民間の行う投資は失敗するが、国の行う投資は失敗しない」という前提で、話を進めているように思えました。
民間が行おうが国が行おうが、投資は投資。失敗する可能性は大いにあるし、何より、現実に失敗しています(むしろ、リスクを負わない分、慎重さに欠ける国の投資の方が失敗し易いと考えるべきでしょう)。
この人を支持している人も多いですが、もう少し冷静になって、物事を考えてみるべきじゃないかと思います。
さて。
先にも述べた通り、アベノミクスにおいても、この公共事業が行われようとしています。再び“無駄な公共事業”になってしまうかもしれません。もちろん、安倍政権は「過去の問題点は反省した」と主張していますが、信頼できるだけの根拠は提示されていません。
それに、国土強靭化政策の場合、新たな生産物が生み出される要因は少ないので、長期的な経済効果は望めません。確かに、災害対策は重要ですが、それとこれとは全く別問題でしょう。
長期的な経済効果を望めないのであれば、災害対策には全く別の考え方をもって、当たらなければなりません。具体的には、借金に頼って行ってはいけないのです。何故なら、経済成長による税収の増加が見込めないからです。なので、その分は、増税で賄わなければいけないのですが、どうやら国は借金に頼ろうとしているようです。
正直、僕は非常に不安です。
公共事業の問題点は数多くありますが、今回、その中でも僕は特に“維持費の軽視”を挙げたいと思います。それがとても重要だからです。
何故、重要なのかといえば、それが今後、日本が陥るだろう“労働力不足の時代”の大きな負担になるだろうと予想されるからです。この問題点はまだ世の中で、それほど強く主張されてはいません(時折、似たような内容を見かけはしますが)。
国の執る政策の特徴として、“長期的視野が欠けている”という点があるので、特に注意を向けるべきです。
普通、民間では維持費の事まで考えて、設備投資を行います。ところが、国ではこの点が軽視されているので、予想以上に経費が膨らんでいき、それが財政赤字の増加を呼び、更に結果的に存続不能、或いは管理不能状態に陥ります。
その分かり易い事例が、まだ記憶にも新しい“笹子トンネル天井板落下事故”でしょう。
意味もなく公共事業を行い過ぎた結果、管理し切れなくなり、あのような大参事を招いてしまったのです。
公共事業派は、何故かこの事故を受けて、公共事業予算の必要性を訴えましたが、むしろ管理し切れないほど野放図に公共事業を行った結果でしょう。
確りと公共事業を必要なものだけに絞り、管理し易い体制を作っていれば、あのような事故は防げたはずです。
このように、今でも“維持費の負担”は、大問題な訳ですが、今後、訪れるだろう“労働力不足の時代”では、更に深刻になります。
労働力が不足すれば、当然、人件費は高くなります。つまり、それは“維持費の増加”を招きます。
これは、つまりは、“労働力を確保できない”という事を意味しています。労働力を確保できなければ、当然、管理されず、公共事業は荒れていきます。安全に廃棄する手段すらなくなり、放置される可能性もあります。
とても明確で、単純な問題点ですね。
今は労働力が余っていますから、この点はそれほど問題になっていません(もっとも、震災復興などで、一部では既に問題になっていますが)。ですから、政治家や官僚の方々も、それほど意識していない可能性が大きいです(或いは、知っていて無視している)。ただ、公共事業の維持費に関する懸念が、官僚から出されたことも確かあったはずなので、一部の人達は理解しているとは思いますが。
また、今、既に巨額の財政赤字は大問題ですが、“労働力不足の時代”では、事態は悪化します。
もしかしたら、財政破綻に陥るかもしれません。
“維持費が高くなる”のだから、財政の悪化は当然だと思われるかもしれませんが、それよりもむしろ(労働力不足になれば、物価が高くなり、税収が上がるので、維持費の増加はある程度は相殺されるはずです)、借金をする為の財源がなくなる問題の方が大きいでしょう。
労働力不足になり、物価が高くなれば、当然、貯蓄は減ります。今、国は民間の貯蓄から借金をしていますから、そうなると国はお金を借りる先がなくなってしまうのです。
お金を借りられなくなれば、国は運営が不可能になりますから、当然、財政は破綻します。
アベノミクスでは、日本銀行が膨大な額の国債を買い取って、借金し易くしていますが、この手段が可能なのは、経済がデフレ傾向にあるからです。日銀が国債を買い取る行為は、通貨を増刷しているのと非常によく似ていて、物価が上昇している状況で、もしこんな事を行えば、更なる物価上昇を招き、経済は酷く混乱し、ダメージを受けます。
更に注意点です。物価上昇。特に、通貨の発行によって起こる物価上昇は、国家破綻と同じです。物価が上がれば、実質的に借金が減るので、それは「借金を踏み倒している」ことと同じになるからですね。
世間では、「いつ国家破綻が起こるか分からない」とよく言われていますが、僕は述べて来た理由から“労働力不足の時代”になってからが危ないと考えています。
そして、この状態に至れば、更なる不安が浮かび上がって来ます。
先ほども書きましたが、“維持”の為の労働力を確保できなければ、公共事業は放置されます(国土強靭化計画も、やりかけで頓挫する可能性が大きいかもしれません)。そして、管理されなくなれば、そこは危険な廃墟となってしまうでしょう。
建物や道路などなら、まだマシかもしれませんが、例えばダムやトンネルがこの状態に陥れば、非常に危険です。
そして、最も最悪なのが“原子力発電所”です。
原発は民間の電力会社が管理している事になっていますが、実質は公共事業です。いえ、国か民間かはそれほど重要ではない。重要なのは、管理体制が維持できるのか、どうか?といった点です。
特に核廃棄物は、埋立地すら決まっていません。しかも、“ゴミ処理”は、いくらコストをかけても少しも生産物を生みません(それ自体が、生産物だとも言えますが)。労働力が足りない状況下で、そんなものの為に、貴重な労働力を割く事になってしまうのです。
つまり、純粋に負担になります。
労働力不足の時代に、そんな負の遺産を残すのは、いくら何でも酷過ぎるでしょう。
もしかしたら、放置され、核廃棄物がある周辺の土地は、立ち入り禁止になってしまうかもしれません。仮に管理できるとしても、その分の費用は、税になるのか電力料金になるのかは分かりませんが、どちらにしろ国民が負担する事になり、生活を苦しくします。
将来的な“労働力不足”、維持費の伸びを考えるのなら、今の時期に設備を整えておくべきなのは、維持費のかからないものです。そして、実はそれに相応しい設備があります。
それは『再生可能エネルギー』です。
全てではありませんが、太陽電池や風力発電、地熱発電といった再生可能エネルギーの多くは、維持費が極めて安価です。ですから、労働力が不足していてもあまり問題になりません。再生可能エネルギー批判している人達が出してきている数字を見ると、この点が全く考慮されていません(少なくとも、僕は一度も考慮されている内容を見た事がありません)。
労働力不足に伴う物価上昇を考慮するのなら、再生可能エネルギーの利益率はその分、良くなります。
今の余っている労働力で生産すべき生産物の一つは、間違いなく『再生可能エネルギー』です。
それで、景気も回復するので、非常に理に適った行動と言えます。
因みに、もしかしたら、「これから出生率が高くなれば、労働力不足にはならない」と思っている人もいるかもしれませんが、これは楽観的過ぎます。むしろ、既に手遅れだと考えた方が良いでしょう。何故なら、今の段階で、子共世代の人口が既に少ないからです。なので、今の子共世代が大人になって働く頃になれば、必然的に労働人口が足りなくなります。
仮にこれから出生率が高くなったとしても、労働力不足が解消されるのは、少し後の世代ですし、そもそも、出生率は高くならないでしょう。高齢者への社会福祉の高負担を、子育てをする若い世代へ強いている現状では、とてもじゃありませんが、労働力不足を解消できる程、子共が産まれるはずはありません。
ただし、別の手段で労働力不足問題を緩和、或いは改善することならば可能です。どれだけの効果が望めるかは分かりませんが。
ざっと挙げると。
「女性の社会進出を促す」、「ネットの活用で、労働力を節約する」、「高齢者も労働力として活用する」
などの手段があります。
どれも一部では既に行われていますが、もしこれらで労働力不足を補えたなら、問題を回避できるかもしれません。