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天狗  作者: 無依
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第五話 八嶋

 ――我が罪に見合いし永遠の責め苦を、探さない日は、ない……。


 葉が色づき、全てのイキモノが休息へ向かうための準備を行う季節――秋。

 ここ、八宮もまた、秋が来ている。八宮は最も秋が美しい宮、別名秋宮。

 現在の八宮の宮、八嶋やしまは外見は少女。齢、百二十二。宮となった歳月はそう長くない。

 八嶋は以前、この秋の美しい山で、紅葉が一面に降り注ぎ、真っ赤に染まったこの土地で、自らの手を赤く染めた。

 自分は穢れている。そんな自分が宮であってよいものか。否、そんなはずはない。だから、祈っている。早く、一刻も早くに八宮に新たな宮が起つことを。

 あれはいつの話だったろうか。既に過去。でも思い出せる、忘れはしない。それでも時は八嶋に忘却を強いるのだ。その鮮明な記憶だけが残っていていつのことやったろう、と思い出せずにいる。

 そう、始まりはいつやったろうか。おぼろげな記憶だけが頭に残っている。なしてこないなことをせねばはならんかったのやら……。



 先代、八宮の宮は若き雄の天狗だった。名を八耶ややさまと言った。自分勝手で好奇心旺盛、宮としてはあまりに偏った性格の持ち主だった。

 それでも八宮の天狗は皆、は宮さまを愛していた。宮さまのその子供らしいことところ、唯我独尊なところ、すべてを仕方あらへん、と笑って許してしまうような感じが宮さまには備わっていた。可愛いひいなを見ているようで、老臣も口酸っぱく小言を漏らしては、笑っていたように思う。

 八耶さまは天狗に珍しき黄金こがね色の頭髪を持ち、青い目をした天狗やった。唇が霊力の高い天狗は真っ赤になる事が多いのに、薄い桃色でいつも不敵な笑みを口元に浮かべていた。

 風駆けが大好きで、それでも翼を使わずに飛ぶことが多かった。宮さまがいつから宮をしなさっていたかは知らない。でもあたしが生まれたときには、宮さまはすでに宮さまで、その笑みを浮かべてこう言って下すった。

「お前、かわいい女子じゃな。なんにしようか……。宮になって一番嫌なんが、名付けよ。おれ、上手い事付けられんさかい」

 こまったように頭をがしがし掻いていて、生まれたばかりのあたしはきょとんとしとった。

「ここは秋宮じゃ。そうよ、お前……やっぱり似合うなぁ」

 赤い葉っぱをあたしに翳して、宮さまは満面の笑顔になった。

「お前は今日から紅葉。おれの、八宮の天狗じゃ」

 あたしは紅葉になった。宮さまが一番好きだという、赤いきれいなかわいい葉っぱをつける樹。それがあたしに与えられた名前。

 うれしかった。それに見合うよう努力した。だからかあたしは他の同期の天狗より上達が早かったらしく、宮さまに面倒を見てもろうた。



 話は変わってしまうが、ここらの天狗は全て山神、道主どうしゅさまが管理しておられる。あたしも宮さまも、全ての天狗が道主さまが創られた修験道を通って生まれた。

 あたしはちゃんとした天狗やったみたいで他の天狗より成長が早かった。それにあたしは宮さまが大好きやった。ほんに、ほんに大好きやった。せやからまるでくっつき虫のように後をついてまわっとった。

「紅葉、お前、おれが好きやの」

「あい、好きです。宮さまほんにすごかやもん」

「なして。なしてそう思うん」

 紅葉は即答した。考えるまでもない。

「尊敬できますもん。強いし、偉いし、優しいし、おもろい。それに綺麗や」

 少し照れたように笑って宮さまは言われた。

「照れるなぁ。おれ、そんなにすごいか」

「ええ」

 自信たっぷりに答えたのを覚えてる。

「でもな、おれはすごかないで。この狭い八宮やさかい、おれがすご見えるんやで」

「そんなことあらしまへん。他の宮さまとは比べものにもならしまへん」

 紅葉は否定した。当たり前だ。自分の尊敬して止まない宮さまを否定できるはずはない。

「一宮の一支かずしさまはほんにすごか方や。あの方はすごい。一番天狗ん中で長生きしとる方やさかい、紅葉も一回会うたらええ。会うだけでも勉強になる。二宮の二刃ふたばさまはおれにとっては少し怖い方やな。もとが人間やからかな。三宮の三由みよしさまは和む方やけど力はすごい。あの方は力の底が見えんさかいな。四宮の四紋しもんさまはまだ若い。年の頃はおんしより少し上かな。会うたら仲良うなれるかもしれんで。あの方はまだまだ伸びるやろな」

 懐かしむように宮さまが語る。それを聞いていて紅葉は少しむっとした。自分が知らない世界を宮さまが大事そうに話される。ちょっとした嫉妬だ。

「五宮の五生いつきさまはすてきな方やで。美しゅうてな、でもな、紅葉。おんしもあの方に負けん位に綺麗になるておれは思うてるで」

 くすって笑う宮さまに紅葉は少しだけほほを染めた。

「六宮の六仁むつひとさまは一言で言うとぉ、堅物や。ほんに冗談通じないやっちゃで。でもからかうとおもろいな、だって冗談通じんさかい。おれと会うの嫌いらしいけど、おれは行くで、からかいにな」

 笑う宮さまの話に引き込まれて紅葉は嫉妬を忘れて聞きたがった。

「なぁ、なぁ、ほな七宮は、宮さま」

「……あー、七宮な。ちょい、まだ七宮さまのことはおれはわからへんね」

「なしてですか」

「この前な、代替わりしてん。新しい宮さま、七矢さま言うんやけど、やっぱわからんな。烏天狗はわからんで少し気味悪い。こないなこと仲間やなのに言ったらあかんな」

 苦笑して言う宮さま。紅葉は未だ八宮から出たことはなく、烏天狗に遭った事はなかった。

 道主さまが束ね、支配する天狗集団には純粋な天狗とそうでない天狗がいる。その代表例が烏天狗だ。

 烏天狗の他に天狗の仲間といえる厳密に言えば天狗ではないものは、人間が修験道を修め、天狗に変質したといわれる、白天狗の集う宮、二宮。

 もともと人間の尼が修験道を通って天狗に変じ、その本質は狐といわれている女天狗の集まり、五宮。よって五宮には雌の天狗しかいない。

 最後が木葉天狗と呼ばれる狼や狗から天狗に変じたものの天狗の集まり六宮。

 しかしやはり特出して気味が悪いのが七宮だ。それは彼らの格好にある。烏天狗というだけあって彼らは烏をかたどった面を付けていて素顔が見えることはない。そこが気味悪いのだ。

 もしかしたら天狗は修験道を通って、変質すればどの天狗も姿かたちは一様に天狗になるのに対し、烏天狗だけがもとの形を残していることの嫌悪感からくているのかもしれなかった。

 これは宮さまに聞いた話だったが八嶋も実際、八天狗になってそう感じたものだった。

 しかし七矢はそこまで嫌な天狗ではない、と思う。



 何故一人の山神に対し、天狗が集うのか。



 八百万の神がいるとされるこの地はそれに見合うだけのアヤカシが存在する。その中で人間にとって悪行を働けば不名誉極まりない呼ばわりをされ、力があれば書物に記されたりする。そういう意味では天狗は誰にでも知られていた。

 三大勢力の一角を担う大集団。天狗は群れる。そしてその種もさまざまだ。ずっと平和な世が続くこの地で穢れは少ない。宮さまの結界があるから不浄のものは入れない。

 だのに、なぜ天狗は群れ、何かわからないものから山を守るのか。紅葉はずっと不思議だった。

 それを宮さまに聞いたことがあった。

「そいはな、紅葉。人間から隠すためよ」

「人間なんてよわぁて、相手にならしまへんのに、人間から隠れるのですかや」

 紅葉の問に宮さまは真剣な顔をして言った。

「人間の怖さはその集団の大きさよ。ちょいと前までは人間の村は今の都の一角程度の大きさしかなかった。せやけど、かなりの速さで人間は勢力を増しておる。なぜかわかるかや」

「いえ」

「人間は欲が強いからよ。その欲は今この時において、何にも優る力がある。その力は望むものを手に入れるためならなんにでも変わる。せやから土地を穢すことになにも感じることはあらへん。自らを守るためといい、そのためには殺すことに厭いもせん。それが一番の恐るべき力や」

「その力から守るために天狗は群れたと」

「そや。人間の力は神にも今や優る。人間から土地を、住処を命を守るためには人間が感知できぬようにこちらが変わるほうが事は簡単に運ぶじゃろう。せやからアヤカシは姿を変えた」

 そういえば昔はもっと感謝を捧げにきた人間が多くいた。その姿を見なくなったのはいつからだろう。

 アヤカシは人間と違うから人間に視えないのではない。人間から逃れるためにアヤカシが視えなくなったのだ、と宮さまは言う。

「人間のためにそこまでする必要があるのですかや」

「だからゆうたろう。人間の力は強いと、山神さまに優るのだぞ。その力に永遠に勝ち続けることなぞできひん。せやから簡単に逃げることを選んだ。アヤカシは自らの土地を持ってへん。だからこそ、簡単に住処を捨てられる。せやけど、天狗は違う、せやろ」

 天狗は山を守るためだけに存在する。すなわち土地を捨てることは出来ない。

「だから隠すのですか」

「ほや。……せっかくやから覚えとき、紅葉。道主さまの支配下の山々にあるおれら天狗の八つの宮。その宮の中でも一番人間に近いのが三宮。その次は二宮。そん次が四宮と八宮よ」

「三番目ってことですかや」

「ほうよ。せばな問題がある。二宮はもとが人間の白天狗の宮や。人間の理解が深く、対処はおれらとちごうて完壁や。そして三宮は宮さまに力がある。でもおれは違う。八天狗の中でおれは弱い。紅葉、おれらは危機感を持たな、あかん」

「そないなことあらしまへん。宮さまはお強い」

「ゆうたやろうが。狭き八宮の中やさかい、そう思えるだけや」

「でも、宮さまが宮をお努めになられてから人間は一匹も入ってやしまへんのでしょう」

「ああ、一応、な」

 宮さまはそこで俯き、話しを変えるように無理矢理笑って、歩き出した。翻った橙色の狩衣の裾が風に強く煽られて、紅葉はそのままその光景だけを見ていた。

 なぜかその後姿についていく事が出来なかったのだ。今思えば、あのときから宮さまは覚悟していたのかもしれない。



「道主さま、八耶、参りました」

 そう宣言して暗闇の中に一歩踏み出す。ここはいつも暗闇しかない。たぶん神の御前ではたとえその下っ端であっても神のご尊顔を拝謁することは許されない事に違いない。だからこの場所に来ると目がつぶれて闇しかないのだ、と八耶は考えている。

「なした。八耶」

「八宮に新たに起つ宮をようやく見つけました。準備に取り掛かかる許可を頂きたく、参じました」

「……時間がかかったの」

 重々しい声は自分を責めているようだ。

「宮にしたくなかったんです、おそらく」

「なにゆえ」

 八耶は紅葉の顔を思い浮かべる。配下の中でおそらく誰よりも自分を慕ってくれているかわいい天狗。

 雛からようやく育った。これからやっと自由になれるのに、自分がふがいないばかりに重荷を背負わせる未来しか与えられないとは。

「もう、おれが狂っているからでしょう。八天狗の一ならいろいろなことを望めますさかい」

 重い沈黙が降りる。

「違うな。嘘をついておるだろう。朽葉くちは

 久日ぶりに真名を呼ばれてはっと視線を上げた。

「そないなこと、あらしまへん」

「……ではそういうことにしておこうか。朽葉、そなたの羽が無くなってどのくらい経つ」

「今年で十五年になります」

 天狗は性質が変質して天狗になると羽を必ず持つ。雛のときは翼が未熟で飛べず、長距離を飛ぶときは羽根蓑を貸し与えることになっていた。

 だが八耶の羽は二十年前に異変が起こった。八耶の羽は天狗に珍しい純白だったのにも関わらず、灰色が混じり、みるみるうちに黒色に変わってたった五年で葉が枯れ落ちるように羽もまた、干からびて翼から一枚二枚と羽を落とし、最後には両翼ともなくなった。もう羽を動かすための動きさえ思い出せない。

「身体に異変がでてきたのじゃろ」

「……ご存知でしたか」

 仕方なく、八耶は白状するように橙色の狩衣を脱いだ。捲り上げた袖から覗く腕は翼と同じように黒く炭化したかのようになっている。

 そう。翼と同じ運命を辿るならば、腕も足も身体すべてが朽ちていくことになる。そうなれば命も、もう無いに違いない。それでは間に合わない。新たな宮を選定し、その時に備えなければ八宮の未来はない。

 それは道主さまの山の一角を落とす事になる。天狗として許されない事であった。だから仕方なかった。そして現在の八宮で新宮にふさわしいのが紅葉しかいなかったのである。

「なんということじゃ。そこまでひどうなっておったとは」

 落胆の色が滲む。

「仕方ありまへん。道主さま。宮として起つにはおれには力が足りんのです」

「ほんに人間の力はどう作用するかわからんのが恐ろしい」

 そう、八宮は清浄そのものだ。紅葉が言ったように八宮に八耶が宮として起ってから人間は一人として近づかなかった。それでも人の穢れは近くに存在する宮に影響を与え続ける。

 宮から守るために、八耶が取った行動は自己犠牲だった。己の身に積極的に穢れを入れ、封印しつつ緩やかに浄化する。普通の浄化では間に合わない量が八宮の周りには絶えず存在していたからだ。それを続けるうち、穢れに染まった羽を落としていった結果がこのざまだった。力がなかったことを本当に悔やむ。

「三宮も穢れに染まっておる」

「ほうですか。でも清浄ではないですか」

 少し驚いて思わず三宮の方向を眺めてしまう。

「三宮は天狗が穢れておる。三由は新宮を選定できておらん。じゃが八宮は間に合ったのじゃな」

「ちなみに三由さまは新宮選定の後に、なにを」

「おんしと同じ覚悟をしておる」

 心は道主さまには隠せないものらしい。八耶は苦笑する。

「そこまでご存知とは」

「朽葉、これ以上身体を捨ててはいけん。動揺が走ろう。おんしは上手い事配下から隠してきた。翼を用いぬ空駆けが好きと言い、翼を使わぬから翼がすでに無い事を気づいたものはおらなんだ。じゃが身体はそうはいくまい」

「はい」

 八耶の力はすでに配下の協力なしでは結界の維持すら難しくなっている。その配下の力が弱まる事は避けなければならない。

「残りの命、すべては新宮の為にのみ使う所存です。でも紅葉は俺と同じく……八宮を支えるだけのちからはありません。ですから特例を許して頂きたいのです」

「申してみよ」

「おれの命、八宮の為に」

「……朽葉、それは禁忌じゃよ。天狗に穢れを呼ぶ」

「紅葉なら越えられましょう」

 そう言って八耶は微笑んだ。闇が息を飲む気配が感じられた。神も迷うのだな、と思った。

「それでは失礼します」

「朽葉」

 焦った声が聞こえたがそのまま出口を開いた。穢れた部分を捨てられず、身に背負い込むことを続けたら、穢れてしまうのは自分自身。間に合うか。紅葉をそれまでに育てられるか。一種の賭けのようなものだった。

 でも勝算はあると八耶は踏んでいた。否、そう信じたかったのかもしれない。



 宮さまはあるときを境に紅葉を放さなくなった。そしていろいろなことを教えてくれるようになった。突然どうしたのかと問えば、そんな気分なんだと笑う。老臣もいつもの気まぐれだ。ほんの二、三年つきやってやれと苦笑気味に言った。

 宮さまといっしょにいれて嬉しいし、新しい事を教えていただけるもの楽しくて、その濃厚な時間を紅葉は楽しんだ。

 宮さまは紅葉に戦い方、結界の張り方、力の使い方、人間の対応の仕方、隠し方さまざまなことを教えた。そんな楽しい日が続いたある日、紅葉ははっと気付いたことがあった。

「宮さま、目、どないしはりました」

「え、なんぞなっとるかや」

 異常なほど驚いて宮さまは川に己を写した。宮さまの目は端の方がじわりと灰色になっていたのだ。

「っ」

 苦しそうな顔をしたあとで、目をしばらく押さえた。

「痛むのですか」

「いや、いとうない」

 押さえていた手を離し、宮さまは紅葉に言った。

「もし、おれがこれから先、天狗にもとる行為を止められなくなったなら、おれが許す。紅葉、お前がおれを殺せ」

 紅葉はその瞬間に周囲の音が聞こえなくなった。今、なんていわはった。

「なんて、おっしゃり、ました」

「おれを殺してくれ、そうゆうた」

「嫌です。そんなん嫌。ありえません。宮さまは立派で強い天狗です。なして、そないなこと冗談でもおっしゃらんで下さい」

 怒鳴ると宮さまは少し困った顔をした。

「冗談やないねやけど」

「約束なんてしやしません。そんなこと言わはる宮さまなんて嫌いです」

感情にまかせて叫ぶ。そして宮さまに背を向けて駆け出した。宮さまがどんな顔をしているかも気づかずに。

「……もう、時間が……」

 八耶は呟く。じわりと穢れが身体の中で渦巻く。身の内の穢れをこれ以上の力で浄化したら、八宮を危険に晒す。そこまで力はない。だが、八耶は自分の身体がすでに危ういことを自覚していた。殺戮衝動がこみ上げる。すべてを破壊してしまいたいと思うようになっていた。

「紅葉……」

 そこで八耶は気を失った。本当はもう少し持つはずだった。八耶の力をもってしても消せない穢れ。

 それは人間側で戦が起こったからだ。八宮の近くの野原は戦場となり、多くの血が流れ、怨嗟が渦巻いた。獣は本能で戦を恐れ、八宮に逃げてくる。その獣の出す通常の生き物として当然の穢れでさえ、祓うのに苦痛を伴う。浄化しきれない。

 戦も一度ならどうにかなるが人間達が戦を止める様子は今のところ見られない。殺戮衝動が八耶の中で荒れ狂うのも穢れが戦から生まれたからだろう。

「紅葉。おれでは、もう……八宮を……守れへん」



 宮さまの冗談はいつもひどい。今回のはいつもに増してだ。老臣に注意してもらおうか。それではへこたれないだろう、とどうやって懲らしめようかとずんずん歩いてはや数刻。いつしか流れていた涙も止まった。なにもあんな冗談……。

「ん。なにこれ。……穢れ」

 ふっと漂ってきた気配を敏感に感じ、その方向に向かう。すると一羽のウサギが死んでいた。

「おかしいな。死ぬくらいで穢れは生じひんのやけど」

 寿命や他者のえさとなって死ぬなど、どちらににしろ、穢れが生じる死は普通無いものだが、そのウサギから穢れを感じた。浄化しようとしてはっと息を呑む。

 そのウサギは生きるためでもなく、殺されていた。ウサギの怨嗟が聞こえてくる。ただ殺されて放って置かれたその苦しみが、穢れとなっている。

「なにがこないなこと」

 怒りがまず浮かび、そして疑問。人間でもないのにこんな真似するイキモノがこの山にいるとは思えない。では誰が。天狗が。ありえない。穢れを祓う役を担う天狗が自ら穢れを作るなど。ではアヤカシか。宮さまの結界が作用しているのに。

 ウサギを浄化してこのことを報告すべく宮さまの元に向かう。宮さまの気配はいつも宮の中では簡単にわかるのにこのときは希薄で感じるのが難しかった。ようやく宮さまを見つけたとき、宮さまは眠っているようだった。起こさないように、と思ったがふっとすごい集中しないとわからないような穢れの気配を確かに宮さまから感じて、紅葉ははっとした。

 宮さまはよくみれば襟元の肌が黒くなっている。眠っておられるから普段と着物の位置がずれて見えたのだろう。黄金色の髪も所々黒くなっている。まだ数本で気づかないだけだ。

「宮さま……もしかしてご病気なの」

 天狗が病気になるなんて聞いた事はない。でも、と紅葉が焦った気配を感じたのか宮さまが起きた。

「宮さま」

「紅葉」

 ひどく疲れたご様子の宮さまはふらりと立ち上がった。

「すまんな、疲れたさかい、このまま休む。明日になったらまた新しいこと教えちゃるさかい」

「は、はい」

 そう言って去りゆく宮さまの着物の袖の先が赤く染まっていた。穢れを感じたことを思い出して、はっと紅葉は息を呑む。

「まさか、あのウサギ、宮さまが……」

 そして思い切り頭を振る。

「そないなこと、あるはずない」

 だが、その想いを裏切るようにして、山に住む動物が次々と変死していく。それを報告しても半ば呆けた返事しか宮さまはしなかった。それがひどく紅葉を疑わせる。

 大好きな宮さまを疑いたくはないのに。でも、宮さまの様子が日に日におかしくなっていくのを紅葉だけではなく、老臣も感じていた。こんなにも八宮は清浄な気に包まれているのに。どうして穢れが生じるのか。

 誰もこの矛盾を解決できない。宮さまは絶対何か知っているのにお話にはならない。それどころか宮さまの疲労は日に日に増すばかりのようだ。



「宮さま」

「紅葉、今日はこの前教えたことをまず、やってみや」

「宮さま、お疲れなら……今日はもう……」

「いい。おれに構うな」

 宮さまの発言には否と唱えがたいものがあった。宮さまは何か焦っている。

「宮さまっ」

 そのとき老臣の切迫した叫びに紅葉は振り返る。

「なした」

「東宮にて金屋が……殺されました」

「そんなっ」

 金屋とは老臣天狗のうちの一匹だった。宮さまをたいそう愛しておられたというのに、叫び返した紅葉とは正反対に宮さまはただ、そうか。と呟いた。

「誰かやれ。穢れを祓っておきや。紅葉、お前はここに残ってさっきの続きを」

「お待ちください、宮さま。亡骸を見ても下さらぬと」

 思わず反論した老臣に宮さまは怒鳴った。

「おれに従え。それがお前たちやろうが」

「……宮さま」

 老臣は信じられない、と言った様子を隠しきれぬまま、その場を後退していった。

「宮さま」

「紅葉。さあ、やってみや」

「なしてですか、宮さま。金屋さまは宮さまの親鳥と同義だったではありませぬか。亡骸を拝み、穢れを祓うには宮さまが行かれるのがよろしいのではないのですかや」

「黙りゃ」

 宮さまが怒鳴る。思わずびくっとした紅葉に宮さまは興奮をむりやり抑えていった。

「もう、いい。……早く育て、紅葉。お前に授けることがまだまだ……ある」

「宮さま」

 宮さまはその場で崩れ落ちる。あわてて駆け寄った紅葉に宮さまは触れるなと怒鳴った。

「宮さま、何を隠しておられます。宮さま」

 紅葉の背後から先ほど逃げ出したと思われた老臣が叫ぶ。宮さまの様子をおかしく思って様子を見ていたのだろう。

「宮さまはなぜそないにお疲れなのです。宮さま、宮さま何を考えておいでです」

 叫ぶ老臣を宮さまが疲れた様子で眺める。

「うるさい。構うな」

「いいえ。構います。宮さま、なぜわれらを頼って下さらぬのです」

「おれに従え。八宮の宮はおれだろう」

「宮さま」

 こんな言い方をする宮さまを紅葉は初めて見る。そんな人間のような、力で従わせるようなまねをすることを。

「宮さま、わしらでは宮さまの力にはなれないのですか。宮さまはここしばらくおかしいです。それにひどく疲れておいでだ。なぜです」

「うるさい、おれに構うなと言ったろう」

「いいえ、宮さまがお話くださるまで、引き下がれませぬ」

「放れろ」

「いいえ」

 興奮しだした二人を紅葉を止めるべきか悩んでいた瞬間、事態は急変した。

「みや、さ……ま」

「小森さま……小森さまぁああ」

 紅葉は信じられないまま、絶叫した。

「宮さま、なしてです」

 小森という同じく宮さまにとって大事な存在だった老臣をたった今、宮さまがその手にかけたのだ。殺された小森はその瞬間から膨大な穢れを噴出す。宮さまはその今や遺体となった体を投げ捨てた。

「ちょうどええな。紅葉、穢れ祓ってみ」

「……そんな、宮さま」

 紅葉は信じられない様子で宮さまを眺める。

「そんな……」

「やってみや」

 橙色の狩衣が真っ赤に染まっている。その小森の血液からも穢れが噴出すが、宮さまはそれをちらっとだけ一瞥すると、その穢れをすっと手をかざすだけで消して見せた。そしていつもと変わらないような、何もしていないようにして穢れを祓えと紅葉に強要する。

「なしてですか、宮さま。小森さまは……宮さまの……」

「お前もおれの言うことがきけへんのか」

 橙色の狩衣が翻る。そして紅葉の額に宮さまの手がかざされた。

「宮さま」

 紅葉の目が恐怖に彩られたのを見て、宮さまは我に返ったかのように手を引っ込め、紅葉から距離をとった。そして小森の姿に気づいてその顔をはげしく歪ませた。

「すまん、小森」

 呟いて、穢れを一瞬で祓うと丁寧に小森の遺体を消し去る。

「紅葉……」

 紅葉の姿も見て、何も言わず宮さまは飛び上がった。こんなときでも翼を出さない宮さまをおかしく思いつつもさきほどまでに起こった事態を信じられずにいた。何も残っていない場所では宮さまが何を思って行動していたのか、まったくわからなかった。宮さまの姿はすでにない。



「ご無事か」

 意識が朦朧として墜落するところを誰かに救われた。

「……道主さま」

 紅葉から逃げようと飛び上がって翼がなくて飛べなくて、そのときに一瞬で道主さまの空間に引きずりこまれた。目の前に見えたのは鳥の仮面。

「七矢さま、か」

「七矢」

「はい。道主さま」

 七矢の仮面が外されて初めて見たその顔にふっと微笑みをもらす。目が力強く金色に輝いていた。

「無茶をなさる」

 七矢は微笑み返して、八耶の中の穢れを祓っていく。久日ぶりにまともに思考が働いた。

「一時的なものです。八耶さまが封じ込められていた穢れは質が悪いようですから、私だけでは全てを祓えません。申し訳ない」

「いえ。もう時間がないのです。紅葉に教えるのはあと三つだけ。それさえ終われば……もう、おれには穢れを祓うだけの力がありません。二匹も配下を殺してしもうた……宮として絶対にしてはならぬことなのに……」

 八耶はそう言う。七矢に祓ってもらってもまだまだ苦しみは終わらない。いつまた穢れに支配されて殺戮を行うか。

「もう、紅葉の信頼を失ったおれに……できるのか」

 独り言に反応したのは七矢だった。

「八耶さまさえよければ紅葉さまに私がお教えします。あなたは穢れを押さえ込むことに専念したほうがよろしいかと存じ上げます」

「そうれがよかろう。許可する」

「ありがとう存じます、道主さま、七矢さま」



 いずこかに消えた宮さまが戻ってきたとき、紅葉は宮さまに七宮行きを命じられた。小森さまのことを何も説明してもくれず、宮さまは紅葉と口をきいてもくれない。七宮にいって学んで来い、ということですら説明してくれなかった。

 文句を言いたいことよりも、当惑していた。宮さまが何を考えているかさっぱりわからないのだ。あんなに何を考えているか手にとるようにわかると老臣にからかわれていた宮さまなのに。

「ようこそ、おいでくださった、紅葉殿」

 宮さまが言っていたこと初めてわかった。烏天狗は気味が悪い。でもそれを表情には出さずに紅葉は頭を下げた。

「七宮さまじきじきにご指導くださるのですかや」

「八耶さまたっての願いですので……。七宮では居心地わるかろうと思いますが、ごゆるりとなれさよ。七宮は……その今、揉めてますので」

 七宮の、紅葉より若いはずの天狗は苦笑まじりにそう言った。

「揉めてる、と申しますと」

「言いにくいのですが、私は代替わりしたばかりの宮ですから。配下に信用されてませんので」

「そんなことありえませんよ。宮に従うのが天狗の定めでしょうに」

 紅葉は宮に従うことが当然と思っていたのを、はっと思い出した。今の八宮も同じかもしれない。宮さまは何を考えているか明かそうとはしてくれない。

「時が解決してくれると……思いたいですね。早く新しい宮に変わってほしいですけどね」

「え」

「何でもありません。では始めましょうか」



 七宮での日々は七宮の上、七矢さま以外と触れ合うことはなかった、というか気味の悪さを知っていたのか配下を近づけないでいてくれたためのようだった。そして次第に打ち解ける事ができたから烏天狗の面は礼儀だとか、さまざまなことを知れてよかったと思う。

 学ぶことも多くて、本当に充実した日々だった。これなら宮さまもほめてくださるだろう。そう意気揚々と帰った八宮の惨状は紅葉が思わぬものだった。

「そんな……」

「どうして」

 八宮は清浄そのものなのに、天狗が一匹も見当たらない。それは……。思い起こされるのは宮さまが殺した小森の姿であり、それを消し去る宮さまの姿だった。

「そんなはず、あらへん」

 急いで八宮中を駆け回る。そして一人真っ赤な紅葉の葉が舞い落ちる、紅葉が初めて宮さまを見た場所、孵った場所に立ち尽くす宮さまとたった今、消された数匹の天狗を見た。

「宮さま」

「紅葉か。お帰り」

 微笑んだ宮さまは紅葉が知っているものだった。誰よりも美しくて、誰よりも優しくて、誰よりも八宮を愛していた宮さまそのものだったのに……その姿は穢れが滲み出ていた。それも性質の悪い黒々とした吐き気をもよおすような穢れを。

「すべて七矢さまに学べたかや」

「……これは、どないですか。宮さま」

「なして八宮が秋宮ゆうか、知りょうるか、紅葉」

「配下の天狗をどないしはりました」

 会話がかみ合っていない。それを紅葉は承知していた。それでも聞かずにいられない。

「四季。春は目覚め。全てが芽吹く一番優しい季節。それは春が美しゅうて、穏やかな三宮にふさわしい。夏は活動。全てが命を最大限に動かす季節。活発な、強い季節よ。四宮さまに会えばわかるやろな……四宮は夏宮にふさわしいんが」

「なして、そないな穢れを出しておいでです」

「一宮は冬宮。全てを休息に導く静かで、澄み切った宮。一宮の静寂さはそれがふさわしい」

「どうして、なして。こないなことをなさるのです」

「秋は一番哀しいから。かなしいんや、八宮は」

 振り返った宮さまは紅葉を手のひらに降らせて笑う。怒りより当惑が先立つ。全ての天狗を消したのは宮さまなのに、天狗にもとる行為を行っているのに、怒りよりも悲しみが先に立つ。

「なしてですか、宮さま」

 最後は涙と共に宮さまを糾弾する。

「かなしいな、紅葉。おれにもう少し力があれば……」

 目を幸せそうに細めた宮さまの紅葉を掲げた手が石像のようにぼろりと崩れ、灰となって血だまりのような真っ赤な紅葉の絨毯となった地の上に降り注ぐ。紅葉は目を見開いた。灰になるほど宮さまの手は黒くなっていた。

「お前にこないなこと、頼まずに済んだのになぁ」

「宮さま」

「もう、おれは飛べへんねん」

 残った手を掲げて紅葉を掬う。

 はらはらと、ただ静かに紅葉の赤い葉が宮さまに降り注ぐ。

「空駆け、好きやったんやぁー。おれ、一番はよぉ飛べてな」

 宮さまの目は既に黒く染まっている。紅葉が見えていないようだ。呟く一言を聞き漏らさないように鳴き声さえ頑張って押さえた。もう、約束の時が迫っていると紅葉はどこかで理解していたのかもしれない。

「紅葉…………殺してくりゃれ」

 あまりにも透明な笑みで。

「宮さまぁああああ」

 叫んだ。そしてぶつかる勢いで宮さまに抱きつく。宮さまは優しく片手で紅葉を抱き締める。

「おれはだめな宮やった。だけどほんにお前のこと好きやさかい、八宮好きやさかい……」

 耳元で優しい虫の音色のように風の囁きのように宮さまの声が響く。

「後の禍根は今、絶って逝くさかい」

 涙が止まらない。泣きじゃくりながら激しく叫んで、頭を撫でてくれる宮さまの感触を知覚しながら、紅葉は右腕を振り上げた。



 赤がはらはら、舞い落ちる。宮さまの身体だったもの、宮さまの命そのものが、今散っていく。

「ごめんな」

「謝らないで」

「紅葉、ごめんな」

「謝らないで、ください」

「紅葉、おれの命を喰らえ。おれの心の臓を喰らえ。おれの力を以って、新たな八宮として起て」

「……はい」

 少し薄れた宮さまの灰色と青の混じった瞳は虚空を見つめているけれど、一生懸命紅葉を見ようとしていた。

 残った一本の腕で紅葉の頬を撫でる。その手は真っ黒だった。紅葉が刺した場所から赤い血が流れ続けている。こんなにも穢れを身のうちに封じて、狂っていって、でも流す血が穢れを全て祓うほどの力と清浄さを持っている。

 胸から流れる血は置いた手さえ染め上げていく。そのまま腕をもぐりこませた。吐息でさえ宮さまは変えず、微笑んで紅葉に喰われるのを待っている。

「案ずるな。おれは元々死ぬことがわかとった。これはお前の罪やない」

 手が鼓動を刻む場所に触れた。ここで手を動かしたら死んでしまう。宮さまは死んでしまうのだ。

「紅葉、俺の真名は朽葉っていうんや。名のとおり、俺は朽ちて、そして八宮を育む温床となる。それがおれの運命。おれは八宮の、お前の為になるなら……これ以上の幸せはない」

 涙が止まらない。宮さまの額に己の額を触れあわさせる。落ち着かせるように宮さまは頭を撫で続けてくれた。

「喰らって」

 愛撫を受けるかのように低く囁かれて、紅葉は鼓動を自ら止めた。ゆるりとした時間の中で、宮さまの身体は紅葉と共に倒れていく。

「幸せや……大好きな子と一緒になれるんやもの」

 力があるアヤカシは急所を討たれてもしばらくは生きている。宮さまは紅葉に心臓を食われながらずっと幸せそうに紅葉に語りかける。動かない手はいまだ紅葉の頭の上で優しく存在を主張していた。

「紅葉」

 心臓を宮さまそのものを喰いつくした紅葉に宮さまが語りかける。宮という楔を抜かれ、宮さまは髪を一瞬で伸ばした。黒く染まりかけた金髪が死ぬ前の煌めきのようにきらきらと輝いた。橙からもとの漆黒の狩衣になった宮さまは胸から真紅の血液を垂らしつつも最後の力をふりしぼって立ち上がった。

 そして逆に紅葉の狩衣が橙色に染まる。宮の代替わりが行われ、紅葉は一瞬で八宮を守る結界を立ち上げた。力が溢れていた。宮さまの力も貰っているのだから。

「紅葉」

「宮さま」

「ありがとうな」

 そして最後の花火のように宮さまの全てが出しつくされて、八宮の周囲に渦巻いていた穢れが宮さまの身の内に吸収される。

 一瞬で宮さまは黒く染め上げられて、そして瞬く間に砕かれた石のように粉々になって、全てを灰にして宮さまは消えた。

 残った灰を手に掬っても、風に流されて飛んでいく。

「宮さま、宮さま、宮さま、宮さま、宮さまぁ、宮さまぁああ」

 消えてしまわれた。死んでしまった。殺してしまった。紅葉の中に渦巻く感情は、怒りでも、当惑ででも、後悔でも、苦しみでもなくて……ただ心に残るは“哀しみ”。

 秋宮にふさわしい哀しみだけ。



 後日、最後に宮さま、いや朽葉さまがなさろうとしたことが理解できたのは新たな宮として起った紅葉だけだろう。朽葉さまは八宮を取り巻く性質の悪い穢れの膨大な量を祓うべく己が身にそれら全てを封じ、そして穢れに毒された。

 それでも八宮を守ろうと最後の最後に配下を全て朽葉さまが張った結界の外に逃がし、紅葉が張りなおした時に再び舞い戻るようにした。そして八宮の周りの穢れを祓い、八宮に穢れとなる人間そのものを近づけぬように清浄さで人間を遠ざけてくれた。

 全ては八宮を護る為。でも何もわからなかった配下は八耶さまは狂ったとだけ言われた。

 紅葉は朽葉さまの弁明を配下にはしなかった。朽葉さまがそれを望んでいるとは思えなかったからだ。そして紅葉は、もう一つ言わなかったことがある。

 天狗における禁忌である共食いであり、朽葉さまの心臓を喰ったことを言わなかった。

 朽葉さまの心臓を喰い力を倍以上手に入れても道主さまは何も言わなかった。

「そなたが新たな八宮の宮となったか」

「はい」

「朽葉の最後を教えておくれ」

 何をどうしたかわからないが道主さまは確かに朽葉様の最後を紅葉を通して知ったようだ。暗闇だけの空間で何も見えなくても、確かに道主さまは朽葉さまを失って悲しんでいるように感じた。確かに泣いているように思えたのだ。



 そして。

「この島は八島と申す。天照尊が照らす、大いなる島よ。紅葉、そなたは八宮の天照尊となれるかや」

 そう仰った。光照らし、八宮を導く存在になれ、と申された。かつての朽葉様のように。

「ええ、ここには朽葉さまの御心が、八宮には朽葉さまの御身体が我らを育む温床となっておいでです。私は、朽葉さまの御心に沿うだけにございます」

「なら、そなたの新たなる名を『八嶋』とする。そなたにとっての八島、そなたは八宮の天照。かなしみに満ちた、八宮に優しき光を灯す天照となるがよい」

 かなしみに満ちた、あまりにも紅葉の心を苛む大好きな天狗の血を浴び、そしてその天狗がかの地の為に命を散らし、かの地で眠るその土地こそを、今度こそ優しくあれるように……祈りをこめて。

「御意」

 八嶋は今度は八宮のかなしみすべてを身のうちに封じて、新たな宮が起つまで天照であろうと。

 ――今日も祈る。



 第五話 「八嶋」終.



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