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天狗  作者: 無依
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最終話 七矢 後編

 それは今まで見て来たどの宮より山深く、ひっそりとし、そして厳粛な雰囲気の漂う山であることが遠目でもわかった。そして山が結界と呼ばれる天狗達の張る術で見事に仕切られ、異境と化している。

 七矢も父と一緒でなければ気付けぬほどに強固でありながら隠匿に特化されたものだった。他の宮が滅んだ理由はその立地にもあっただろうが、きっと七宮ほどの結界を張る事が出来なかったのも一因かもしれない。

 七宮の上空をしばらく飛びまわり、様子を一瞥すると、父は山の中央の上空で翼を閉じ、まるでゆっくり落ちるかのように七宮へと降り立った。

 二匹が七宮に入った瞬間、二宮のように黒い影が二匹を囲んだ。と思うと二宮のように警戒の声ではなく、挨拶の声がした。

「宮さま」

 父は答えず、地上を目指す。降りる間にも漆黒の影が増えていく。七矢は驚いた。格好は一様にぬばたまの黒。夜闇を切り取ったように―漆黒。そして表情を消す鳥をかたどった仮面。大きい翼。

 七矢と同じ格好をした天狗達――烏天狗が父と七矢をとり囲む。そして、ゆっくりと父は七宮の地に降り立った。

「宮さま」

「宮さま、おかえりなさいませ」

 父は居り立って静かに周囲を見渡した。父の視線に応えるように周囲の漆黒の影がうごめく。その数はそう多くない。しかし木々のどこかにひっそりと気配を感じ、この七宮のどこにでもいそうな気配でもある。

「七矢、仮面を」

 父が静かに言った。七矢は慌てて己の仮面を装着する。

「留守中、大義であった。皆の者」

 父が言い放つ。周囲の影がそれに応えて、跪いた。深い暗い山の中でひどく目立つ紅色―。

「宮さま……その雛は」

 黒い影がそう言って敵意の混じった視線で七矢を見、七矢はそれに驚き、少し恐怖を覚えた。烏天狗は今までみたどの存在よりも、表情が、存在が薄い。影のように。闇の様に。気付かぬうちに潜んでいる。

「応。我らが仲間じゃ。他の場所に産み落とされた故、迎えに行っただけのことよ」

 そう父が言うと、敵意が去り、急に視線が穏やかなものになる。

「夜鳩は居るか」

「は。ここに、宮さま」

 答える声がどこにあった、と思った瞬間、目の前に黒い影がある。七矢は少し驚いた。

「七矢と云う。他の山で育ったが故に、天狗のいろはを知らぬ。そなたが全てを教えてやれ」

「御意」

「では、散」

 父が声を掛けた瞬間、黒い影がさっと飛び去る。あれだけ闇を集めたようだったのに、今の瞬間にはもういない。七矢はその速さに目を白黒させているうちに、父が背を向けた。

 七矢は思わず父に向けて手を伸ばすが、今度は父が振り返らない。優しく眼差しを向けてくれた父のその紅の背が今は振り返る事はない。父はそのまま七矢を見ることもなく、どこかに飛び立った。

「てて様」

 叫んで呼んでも父は戻ってこなかった。

「七矢、云うたな。吾は夜鳩じゃ。よろしゅう」

 七矢の目の前には一匹の黒い天狗しかいなかった。青い髪には白髪が混じり、歳をとっていることがわかる。泣きそうな七矢に向かってその天狗は仮面を外して、わざわざ笑顔をみせてくれた。

 七矢はそれから夜鳩と共に過ごす事になった。七矢が最初に夜鳩に注意されたことは、父のことは宮さまと呼ぶように、ということだった。父は分けられた山を管理する天狗達の主――宮だったのだ。

 七宮は烏天狗が治める山。数は多くないものの、強大な力を持つ者が多い烏天狗は完全に山を異境にしていた。うっすら昼でも暗く、そして夜にその真価を発揮する。

 七矢は七宮に来て空駆けの楽しさを知り、上下関係を知り、天狗の暮らし方を学んだ。

 父はこの山を治める宮で一番強大で偉大な天狗。故に格好が一匹だけ色鮮やかなのだ。そして髪が短く、永きに渡って宮を務めているにも関わらず、その力故に若い。その強さ、偉大さから恐れ多いと側近の天狗以外は側に寄る事すらためらう。

 七矢にとって父は父でしかなかったからそんなことは全く思わなかったが、他の天狗にすれば父は宮である以上、神格化されているようだった。

 それを異常とは思わないのが天狗の暮らし方であり、在り方でもあった。これはこれで在りだと思わせる。それは七矢が数年七宮で過ごして感じたことだった。

「宮さまは空駆けもあまりしぃひんのですね」

 七矢は父の住まう場所を眺めながらぽつりと言った。数年七宮で過ごして、七矢が父の姿を見る事は滅多になかったからだ。烏天狗は皆空を飛ぶことが好きだ。父は他の烏天狗に比べても立派で美しい羽を持っていたのに、飛ぶことは滅多にない。己の住処から出てこないのだろうか。

「これは吾がもう亡くなった側近の方から聞いたことやけどな、宮さまは独りで過ごすことが多いそうや」

「……独り」

「せや。宮さまには鶯っちゅう同期のそら仲のいい天狗がおったんやて。しかし、なんの運命か、その天狗と宮の座を争うことになってしもうた。宮さまが宮に指名されたそうなんやけど、宮になってから宮さまは鶯をこの七宮から追放しはった。当時の天狗達は宮さまと鶯の仲を知っとったさかい、宮さまの行動が信じられず、宮さまは宮でありながら相当辛い目に合ってたらしい」

 今でこそ配下から忠実なほどに敬愛を抱かれている父だが、当時はつまはじきにされていたようだ。それを聞いて七矢は心の中で憤る。この閉鎖的な生活の場でそんなことをされたら。

 それだけ鶯という天狗は好かれていたのか。それとも父と仲が良かったのか。

「宮さまはそれについて何も仰らなかったそうだ。そうして時が過ぎ、今の様な様相に代わっても、宮さまは側近を選びはしても共を連れて行動することはなかった。宮さまは必要時以外常に独りでおられることを心掛けておられるようだ。でも独りで空を駆けたり、宮の中を見まわったりはしておられる。皆が気付かぬだけよ」

 夜鳩は本来、父の側近を務めている。側近の彼を七矢のために寄こしたことも父の愛情の一つだろうと七矢は最近になってようやく感じられるようになった。

 七宮に来たばかりの頃は父に見捨てられたのだろうと、泣いてばかりいた。しかし夜鳩はそんな七矢に嫌気を差すことも無く、根気強く共にいてくれたのだ。

 次第にこの老天狗に心を開くようになり、七矢の生活は良いものになった。七宮の天狗は誰も信じていないし、知らないが、七矢の父は宮さまだ。父はおそらく七宮に戻れば七矢に気を回すことが出来ないと知っていた。だから別れを切り出すような事を言ったのだろう。

 父親としての面と七宮の宮としての面。双方を知る七矢でも父という内面はうかがい知ることができない。

 父は母との想い出を語ってはいたが、宮としての己を七矢に語ったことはなかった。というか、薄々七矢が気付いてはいても父は己を宮だと言ったこともなかった。

「だから冷たいと思われがちじゃが、吾は知っておるのよ。宮さまはほんにお優しい方じゃ」

 夜鳩はそう言って、己の妻の話をしてくれた。元人間の妻は白天狗として夜鳩と共にいたが、先に死んだ。穢れを生む存在である人を愛した夜鳩とその人間の女を天狗道に落とすという厳罰を課したという。

 しかし、裏を返せば、その罰を乗り越えれば愛した人は白天狗として生まれ変われる。一緒に添い遂げることができる身になる。そうして夜鳩は妻と共に在る事が出来たという。

「一見、冷たいようじゃけれど、深くその者の事を考えて下さっておる」

 だからか、他の宮が在った頃、他の宮たちはよく七矢を訪ねてきていた。

「七矢。宮さまはお優しいよ」

「うん。知りゆう」

 誇らしく想いながら、なぜ父が独りでいるのかを今度は考えた。夜鳩は宮さまの次に高齢の天狗で昔の話をたくさん知っていた。そして、烏天狗の役目の話になった際、過去に起きた襲撃の事を語ってくれた。宮の座を追われた鶯という天狗が宮を求めて、父と激突した時の話を。

「その時宮さまはいつものお姿ではなく、烏天狗の本来の姿で戦われ、鶯を下した。鶯も敵ながら幸せそうに散った。宮さまは鶯色の髪を散らしながら死にゆく鶯を見つめておった」

「……宮さまにとっては大切な方やったんな」

 しんみり呟くと夜鳩がはっとして言った。

「そういえば、そちの髪色は鶯とよう似ておるなぁ」

「……え」

 烏天狗の髪の色はほぼ黒色といっていい。七矢が特殊なのであって、少しの個性と言えるような黒に他の色が混じった色をしている。父でさえ濃紺に近い色だ。

「鶯色の髪の天狗を、夜鳩さまは鶯のほかに見た事ありますかや」

「ないな。他の天狗でもない。六宮は緑っぽい髪の天狗が仰山おったが……ここまで見事な鶯色にお目にかかったことはないなぁ……」

 夜鳩は記憶をたどって、そして七矢が目を見開いている様子を見て、同じ答えに思い至った。

「まさか、いや、そないな」

 夜鳩が七矢の肩を掴んで否定する。

「七宮や他の宮で鶯を討伐したのは、もう数百年も前のことぞ。そなたの母であったとて、そなたはまだ雛じゃろうが。月日が合わぬよ」

「でも、て……いや、宮さまはてて様なんじゃ。わしのてて様なんじゃ。宮さまが他の誰との間に雛を設ける」

 宮になった時から独りでいたという父。共を連れぬその孤高の姿。己の容姿。父が唯一心を許した相手。父は、漆黒の髪と明るい黄色い目を本来持っている。母は見事な鶯色髪に赤い目。己の姿は鶯色の髪に、明るい黄色い目。父は七宮を統べる烏天狗の長。母は、過去こう言わなかったか。罪を犯して追放されたと。鶯は父が宮になった時に追放された。そして母は七矢の前から姿を消し、戻ってはこなかった。

 ――母は鶯。父によって裏切られ、父によって殺された相手なのだ。

「し、しかし……。七矢、いいか。決してこのことを他の天狗に言ってはならぬ。これは憶測に過ぎぬのじゃから。そなたが宮さまの雛である確証もなければ、母が鶯である可能性はもっと低い」

「でも、てて様は父として共に居てくれたのじゃ」

「はぐれ雛を突き放すようなお方ではない。父と呼んでも構わぬと思うたのかもしれぬ」

 では何故すぐに七宮に連れてこなかった。なぜ共に居てくれた。なぜ母との想い出話しをし、父として愛してくれたのだ。抱きしめ、慈しんで、その多くを語る目で七矢を見つめてくれたのだ。

「そないな、そないなこと……」

 感情的に叫ぼうとして、はっと夜鳩の目を見て察してしまった。夜鳩は七矢を想って押し留めてくれている。父が宮であることも、その父が己の母を殺したことも七矢にとってはつらい。

 なにせ、天狗間で子を儲けることは禁忌なのだから。できないと思われているその常識を覆したことになるのだから。

 天狗が生まれるのは修験道、天狗道を通ったものだけ。天狗同士で子は成せない。

「誰にも言うてはならぬ」

「はい」

 知れ渡れば、七矢は居場所を失う。父もまた、罪を問われてしまう。

 ――もし、己が生まれたことで、母は追放されたのだとしたら。もし、己が生まれたことで父が取った決断が、不幸な過去をもたらしたのだとしたら。……自分は罪の証だ。

 父の目に入るだけで父を傷つけるだけの存在だ。でも母を殺した父を許せない思いもある。母はあんなに父を愛していたのだから。

 もし、本当に愛してくれていたならば、二匹で手を取り合って逃げてくれればよかったのに。そうして天狗の社会も何も関係のない場所で七矢を産み落としてくれたなら。親子で静かに暮らせたなら、七矢にとってそれは最大の幸福になっただろうに。

「なぜ、なぜ……」

 苦鳴が響く。夜鳩は何も云わずに側にだけいてくれた。



 あれから、また数年の月日が経過した。七矢は十分に七宮に慣れた。父と話す機会は全く訪れないまま、ただ日々を過ごした。未だに父の考える事が分からない。でも日々を共に過ごしてわかっていたことはある。

 母は父を深く愛していて、七矢のことも愛してくれた。しかし、七宮に戦いを挑んで死んだ。

 父も深く母を愛していて、七矢のこともまた、愛していた。しかし、母を殺し、七矢に今はもう姿も見せない。

「そろそろのぅ、吾も宮さまの元へ戻ろうかと思うのだが」

 夜鳩がそう告げた。七矢ははっとして老齢の天狗を見る。夜鳩は元々宮さまの側近の天狗。七矢が七宮に慣れるまで、七宮で天狗としての過ごし方を知るまでということだった。

 七矢はもう七宮で生きて行ける。ならば、夜鳩は宮さまの側近に戻ることが妥当だろう。

「そう……ですか」

「そないに、寂しゅう顔をするでない。吾は七矢に会いに来るさかい」

「あ、あの」

 前から考えていたことを、夜鳩に告げよう。彼なら怒る事はないだろうから。

「わしを宮さまの側近に加えていただけないでしょうや」

「……そなたを、かや」

「はい」

「しかし、それを決めるのは吾ではない……」

「そう、ですよな」

 しゅんとして七矢は言う。わからないから、宮としての父を傍で見たかったのだ。そうしたら、答えが出る気がして。――天狗とはどうあるべきか、父の答えを知れる気がした。

「いや。そなたの力は十分に育っておる。ついて来や。反対されたら戻ればよかろう」

「ありがとう存じます」

 七矢は夜鳩に頭を下げた。朗らかに笑って、頭を撫でてくれた。夜鳩にとっても七矢の事を息子の様に想っていてくれるのだろう。七矢は夜鳩の背を追って宮さまの住処へ翼を広げた。

「宮さま。夜鳩ただ今戻りまして候」

「……大義であったな。して、後ろに何かが付いてきよるが」

 久々に見た父は相変わらずで、しかし言動は冷たかった。七矢はぐっと拳に力を込め、下を向く。

「七矢を教育し、気付いたことがありますれば」

「なんね」

「こやつはあまりにも力が大きゅうございます。側近に上げるだけの才能もありますれば、吾の次代として宮さまの側に置いたら如何でしょうや、と思うた次第」

 父は軽く鼻を鳴らした。そして七矢を一瞥し、一言。

「好きにしや」

「有難う存じます」

「有難うございますれば」

 夜鳩が頭を下げたのと同時に七矢も頭を下げる。しかしそれ以上の言葉が父から掛けられることはなかった。それを寂しく想いながら、自分に優しかった父としての父は嘘か真か、とさえ考えてしまった。

「もう、下がりゃ。独りにしてたもれ」

「は」

 紅の背が語ることは何もない。表情さえ伺うことは出来ない。でも、七宮に戻って変わってしまったのだけは事実だ。宮という仮面をかぶったように。

「宮さま」

 思わず口から言葉が出た。久々に父に掛けた声だった。

「何ね」

「宮さまはなぜに仮面をつけてはいらっしゃらぬのです」

 鮮やかな色の衣をまとうのは宮だから。しかし、他の山に行った時、仮面をつけていた。ならなぜ烏天狗の集うこの七宮で彼だけが仮面をつけない。

「……宮だからよ」

 父の返答はそっけなかった。しかしその流麗な顔が少し、ほんの少しだけ歪んだ。伏せられた瞳から感情を読み取ることができない。父は七矢の前ではまっすぐに正面から見つめていた。宮として天狗の前に立つ宮としての父は、遠くを見ていたり、目を伏せていたりすることが多い。その瞳に誰も映さないように。

「ほうですか」

 だから、それが答えな気がした。――全ての。だからもう、月日をあまり必要とはしなかった。宮として過ごす父を見て、独りを好むというのが事実であることは再確認出来た。

 そして宮として在る父の姿を遠目に見るだけで、なんとなく父が天狗をどう考えているのか、父が宮としてどうあろうとしているのか、わかるようだった。

 決して独りになりたいのではないのだ。独りでいることを己に課しているのだということがわかる。だから、独りの空間を邪魔されても邪険にしたりはしない。冷たい、ぶっきらぼうな口の悪さでも父がわざとそうしているのであろうことはなんとなくわかった。

 母が語る想い出の父と七矢と共に過ごした父は重なる。しかし宮として君臨する父の姿は明らかに違う。父はどちらかの姿を偽っているのだ。そして、禁忌を侵してまで、己と云う子供を儲けるほど父は母を愛していたのなら。母も父を愛していたのなら。母の語る父が嘘なわけがない。

 父は宮を演じている。そして、自由に羽を伸ばせないことが天狗として父を縛る。

 ――そして決めや。全てを見、全てを知り、全てにそなたなりの答えが出たら、そうしたら私の前に来や。

 父は別れる前に、七宮に来る前に七矢にこう言った。天狗がどう在るべきか、父が何を秘めているか。最終的な答えを出すためにはまだ足りない。でも、父に対する七矢なりの答えは、出たのだ。

「てて様」

 だから、結界を張って、気付いているであろう父と二人きりの空間を作った。そして、宮さまとは呼ばない。七矢と父だけの、かつての日々のような。

「なした」

 背を向けたままの父が問う。そういえば父だけは宮さまと呼べとは言わなかった。禁忌の子でありながら、父であることを否定すらしなかった。いつも七矢に対しては誠実で在り続けた。

「答えが出たんや。せやから来た」

 配下と宮の関係ではない。今は父と子を求めて。父は振り返る。

 月光を浴びた父は出会った時と変わらず美しかった。七矢は側に寄る。父は慈愛の眼差しで七矢をやはり正面から見つめてくれた。

「ほうか」

「てて様。わしのかか様の名は鶯で間違いないかや」

「せや」

「じゃ、てて様の名は」

「……黒雛」

 この時初めて両親の名前を知った。皆が呼ぶ、宮さまではない答え。おそらく母が愛を込めて呼んだ名。

「てて様がかか様を殺した」

「そうじゃ」

「なぜ」

 穏やかに父は短く答えを返す。その目には寂しさが滲んでいる。

「なぜじゃろうなぁ」

「てて様とかか様は数百年前に別れたのよな。なぜわしはその分歳を取っておらぬのじゃろう」

 父は七矢に向かって手を伸ばす。そして母の形見と言える黒い耳環に触れた。

「かか様、鶯は優れた天狗やった。力は私と同等。鶯はそなたのために一つの術をあの山に施して去った。自分が去ったら山ごと時を止める封印の術を。それが解けるのは私だけ。そう術を込めた、これに」

 全ての謎が解けた。母は父に会わせる為に、山ごと仕掛けを施した。七矢にとって母が去って数日も経たないうちに父が現れたのは、そういうことだったのだ。

「鶯はそなたを形作った。その役目が終えたと知り、私を取り戻そうと七宮へ敵として舞い戻った。私は宮。山に害を成す存在を討つのが役目。鶯を殺したのは私だ。そなたから何もかもを奪ったのは、私」

 父が語る。すでに過去でも父の中では過去ではないのだろう。隠そうとした表情から苦しさが染み出ている。

「ずっと考えておった」

 七矢は静かに父の言葉を待つ。

「私はそなたに何を遺すべきか」

 父は苦笑する。その笑みは自嘲気味で。見ているだけで寂しくなった。

「私はつまらぬものじゃ。しかしこの手では支えきれぬものを持つに至った。これは私の逃げかもしれない。私の解放を願う、ただの逃げ。そう考えれば、そなたに残してやれるものなど、何一つとして……ない」

 紅の袖からのぞく白い手は何かを捧げ持とうとして、途中で崩壊する。

「そなたに遺していいものなど、何もない」

「いらないよ。父親としてじゃない、宮としてでもない。わしはてて様がくれたかけがえのないものをすでに持っているよ。かか様だって、形のあるものをわしに遺してくれたわけじゃない」

 崩れた手を包み込むように両手で握って七矢は告げる。父は少し驚いた顔をしたが、すぐに破顔した。

「ほうか。強い子に育ったの」

「ふふ。そないなこと、ないよ」

 父は微笑む。透明な笑み。消えてしまいそうな儚い笑み。綺麗で触れられない笑み。手に入れたのは母だけ。

「鶯の強さを引き継いだ子に育ったものじゃ。私のつまらぬ所がそなたに引き継がれておらねばよいのじゃが」

 隣にかか様がいたら、自分のどこが父と似ていると言うだろうか。父の優しさと言ってくれたらいい。

「私はいつでも私の尊き者の前では弱いままじゃ。でも、鶯はそれでも笑って許してくれるじゃろう。きっと微笑んで私を受け入れてくれるじゃろう」

「わしだってそうだよ。かか様だけじゃない、てて様の全てを好きだよ」

「ほうか」

 父は別れた時のように、七矢を抱きしめてくれた。視界が真紅に染まる。父のにおいを久々に嗅いだ。安心できる優しい気、優しくて美しくて。儚くて寂しげで。そんな父が大好きだ。

「この耳飾りはもともと鶯のものだったのじゃ」

「え」

 父の耳には赤い耳環がはまっている。

「お互い交換したのじゃよ。黒い髪に黒い耳環では目立たぬと言ってな」

くすくすと懐かしがりながら父が片方を外し、そっと七矢の開いている方の耳に付けた。

「受け取ってくれるかや」

「うん、うん。ありがとう」

 母のものを貰った時同様、つけた瞬間に力を奪い取られる気がした。力封じの耳環だったのだ。

「なぁ、七矢」

「なぁに、てて様」

「私がずっと願ってきたことがあるんや。叶えるには、七矢が不幸になるかもしれぬ。七矢からかか様を奪った私が、今度は七矢の未来を奪うかもしれない。だから、決断は七矢に任せる。全てをそなたの思うようにしや。そなたの思うことが、そなたの意志が全てを決める。そなたにはそれだけの力が在るじゃろう。ゆえに、私のこれから起こす行動をどうか、笑って受け流してくりゃるかえ」

 何を言われるのか、己の未来を不幸にするとまで言われても、その儚い笑みに見つめられたら頷くしかなくて。きっと母もこうやって父に頼まれたら苦笑して頷いただろう。そういうところが愛しいと。

「ええよ」

 そういえば、母も己を独りにするとわかっていたのに、父を求めて死んでしまった。子の幸せを願い、愛しているのは一緒だが、子供を不幸にする両親だ。似たもの夫婦らしい。

「ありがとう、七矢。では最期じゃ。行こうかの」

「え」

 呆然とする七矢の前で父がその立派で美しい漆黒の翼を広げた。

「どこに」

「我らが主、漆黒の間。すなわち道主さまの元へ」



 現すならそれは、ぬばたまの闇。均しく永遠の闇。父の赤い姿でさえ失せる、全てを塗りつくし、全てを消す黒。

「道主さま、七矢、参りました」

「え」

 仮面を付けた父はその場で跪く。七矢もそれに倣うが、父の言葉に驚いた。それは、自分の名では。

「久しいの、七矢」

 どこからともなく声がした。と思うと父を抱き寄せる黒い影が在る。黒い中で一際黒い、 何か。

「して、何用じゃ。そこの雛はなんじゃ」

 父は抱かれたまま、静かに言う。

「私と鶯との間の雛です。ここまで大きゅうなりました」

「なんと、そなた」

 影が驚いている風がある。父はあくまで冷静だ。己の罪を告白したというのに。

「私も老いました。そして道主さま、あなたも老いた。いえ、神であるあなたが老いることはありますまい。相次ぐ宮の消失が、あなたの力を弱めておいでです」

「だから、何ぞ」

 びりびりと来るような気が押し寄せる。しかし、ばっと父が裾を払ったことで、七矢にその気が来ることはなくなった。父が道主と呼んだからには、おそらくここらの山一帯を支配する山神の元に七矢を連れて来たのだ。

「それはある意味であなたも老いたと言えましょうや」

 道主は父が今まさに裏切りを宣言しているように思えたのだろう。威圧感をもって、七矢の前に立ちふさがる。そして、七矢の胸に影で出来たその腕を突き刺した。

「っ」

 吐息を漏らしたのは、父ではなく七矢だった。胸を貫かれても尚、父は穏やかな目をしていた。

「道主さま」

 優しく呼びかける。たじろいだのは神と呼ばれた存在。

「私にも黎明がやってきたのです。ですから幕引きをお願したく参った次第」

「っ。……そなた、どこまで知っておる」

 道主の心を理解した天狗は皆死んだ。それは初代の全てを始めた宮たち。最後の一支が、道主の願いを叶えて死んだ。それ以降、どれほど近くにいても、道主を理解した天狗達はいない。そういう風に刷り込んだのだから。

 なのに、この天狗は。最もひどい仕打ちをした。最も恨んでいるであろう天狗が、時を越えたとでもいうのか。最も優しく透明な笑みを浮かべて、初代の宮と同じ事を言う。

 ――七宮の罪を許すのは、黎明。夜を支配する烏天狗の時間を終わらせ、休息を導く光――。

 初代の七宮にとっての黎明が初代の八宮だったように。

「そなたの黎明が、そやつじゃと」

「はい。七矢と云いますね」

 父が七矢の背を押して暗い何かの前に示す。

「そなたの罪を許し、そなたの暗闇を終わらせると……。それで済む思うてか。そなたの罰が終わると。罪の証を目の前にして、よくもいけしゃぁしゃあと」

「……罪」

 七矢には何の事かわからないが、天狗同士で子を儲けることが罪ならば、父が犯した罪は、母を愛し、母を孕ませたことだろうか。自分の存在が罪ということか。では、罰とは。

「いいえ、終わりですね。宮とは力持つ天狗が成るのが常。よくご覧なされよ、七矢を」

「何」

 父は七矢を見て微笑んだ。

「宮でもないのに、あなたと会える。そして、私と鶯の合いの子ですえ。子が親を越えるのは当然ですわ」

 道主が息を飲む。七矢とて驚いて目を見開いて父を見つめ返した。父はこう言ったのだ。

 七矢は、自分より力を持つ天狗だから、七宮を七矢に譲ると言ったのだ。

「そないなことない。てて様はわしより強かやろ」

「私は老いるばかり。そなたの生は始まったばかりじゃ。私が無駄に生を伸ばしてきたのは、すべてそなたに会うためだったのじゃろう。そなたに会えて、そなたに触れあえて仕合せすぎての……」

「ならぬ。ならぬぞ」

 闇が叫んだ。胸に沈んだ闇の手を父がゆっくり外し、そして七矢に向き直る。父は闇に見向きもせずに七矢を抱きしめる。七矢も闇を忘れて父に縋った。

「いやじゃ、てて様もわしを置いていってしまわれるのかや。やっと、やっと一緒に過ごせるのに」

「不幸にするかもしれぬっていうたじゃろう」

 くすくすと笑う。そんなこと言われたら、そんな表情で言われたら、怒る事も悲しむこともできない。ずるい。

「七矢」

 道主が怒鳴る。七矢は甘い表情を消し去って真面目に闇を見据えた。

「道主さま。もう終いにすべきです」

「そなた罰をか、ずいぶん勝手なことよの」

「いいえ。違います。……道主さま。もう考えぬのはお止めになられよ」

「何」

「あなただけの箱庭。そこに住まう我等は確かにあなたのものなのかもしれませぬ。しかし、ただ死にゆき、あなたに有様を見せるだけの存在でも、日々感じ、日々想うことはありますね。生を残す以前として、個として存在れば、それは失せないものなのです。ここで偽りの世界を演じても何も変わらぬのですよ。全ては同じ」

「だから、何ね。それで構わぬのじゃ。それこそが我の望み」

「さいですか。せばな、変化を望まずとも、あなたがいくら時を数えず歳を取らずとも、そんなことは出来ぬのです。誰もあなたと共には生きられぬ。だからなんですか。なぜ変わることを受け入れ、変わるその大切さから目を逸らすのです。なぜ己には持ち得ぬものを受け入れることが出来ぬのですか」

「そなたに、何がわかると言うのじゃ」

「わかりませぬ。わからぬからこそ、求め合う事もできるのですよ。道主さま、私だけはきっと永遠に近い時を貴方と共に過ごせます。この力故に永遠に山を封じて共に居ることはできましょう。だからこそ、私はそれを望まない」

 七矢には道主さまの顔が見えない。でも、今愕然と絶望していることだけはわかる。刷り込みも、生まれも道主が行った、完全な道主が求めた天狗が、道主のこれまでを否定する。

「あなただけが天狗を見て来たのではありませぬ。私達宮も、この身であなたと共にいた。そして私は己に絶望もしたし、生くることに飽くるほどに永きを生きた。全てを遡るほどに、私もあなたと共に居ったのです。私があなたに受けた罰も、私の罪も、昔を知れば理解できます。でも、理解出来る事と納得できることは違います。あなたがあなたの想うままに、あなたの世界を作りあげたからと云って、それを私達に強要することは断じて許せない。私は鶯の行為を愚かとも想いませぬ。共感さえできますね。しかし、あなたの深淵より深き孤独を知れば、あなただけを責め立てることもできませぬ」

 父が伝えようとしていることを七矢も理解しようと父と闇を交互に見つめる。

「何が言いたいのじゃ、七矢」

「罪、罰、そういう次元ではないのですよ、道主さま。それを論じるには、長い時間が経ちすぎたのです」

「鶯を殺させたわしを許すとな。だからそなたへの罰を取りやめよとでも」

 自嘲したような口調で闇が告げた。父は首を振る。

「言いましたやろ。それは私たちでは論じられぬと。当事者過ぎて物事を客観的に見れませぬ」

 そして七矢を暗闇の矢面に立たせる。え、と七矢が当惑した。

「だから、決断はすべてこの子に託したいのです」

 父がそう言って七矢を抱きしめる。その端から父の姿がゆっくり、ゆっくりと塵と変じていく。

「てて様」

 焦って七矢は父を抱きしめた。

「私は新宮を継承しませぬ。しかしあなたと散ることもしませぬ。全ての決断はこの子に。全ての未来をこの子の決断に委ねます。そうすることで、道主さま。全ての発端となった事象から当時の天狗が先延ばしにした決断を、全ての答えへの答えが、きっと出せます」

「……七矢。そなた……」

 最後まで父の笑みは美しかった。

「私は一支さまのように、全てをあなたに捧げることもできなければ、初代の七夜さまのように全てを犠牲にすることもできませぬ故。最後にやっと私自身の答えを出せたのです。何も譲りはしませぬ。死くらいは己の自由とします。この死でさえ、あなたには譲りませぬ。あなたを連れて黄泉へ旅立てば鶯を怒らせます」

 父はただ微笑むだけ。己の子に未来を預ける事で、始まりの事象でさえ、解決させようとしている。

 ここまで笑みが透き通っているのは、過去だけを見つめる事を止めたから。過去を乗り越えて、未来を、ようやく先を想うことができたから。

 七矢は、七矢と云う己の子供を未来と向き合うことができるようになったから。

「そなたは過去を振り返ることを止めたのかや」

 道主が問う。思えば寂しさから始まって、己の想う世界を作り、それが過ちだと気付いた。それでも過ちを正す勇気は道主にはなかった。誤ったまま、そのまま自然に消えゆくことだけを望んでいた。

 道主を支え、共にいる事を選び、共感した初代の宮たちは過ちこそを正しいと思うように先を示した。始まりを知らぬ後の天狗達は、それが正しいと信じて、忠実にその使命を果たした。

「いいえ、振り返ったからこその、未来です。道主さま。間違いが、過去が過ちとは私は決して想いませぬ。始まりの天狗とあなたが創ったこの世界。閉ざされた暮らしを間違いだとは申しませぬ。しかし、正しいとも言えぬと思うのです。……そう、問題は、正しい間違いという事ではありませぬ。私たち『天狗』がこの先どうあるべきか、その先を決めるのがあなただけという事こそが違うと思いますね」

 父はそう言って七矢の手を取り、もう片方を闇へと伸ばした。

「あなたはたしかに神でしょう。あなたには確かに悠久の時を過ごす定めでしょう。だから己の生を我ら天狗と共に過ごしたい、それは構わぬのです。だが、我らと相容れようとはしない。だから、あなたは寂しい。あなたは独りきりなのです。線引きを己でして、あなたは限られたものとしか触れあわず、ただ眺めるだけ。それでは、あまりにも変わりないではありませぬか」

「しかし、わしはそれで九威と十和を殺してしもうた。共に、近くに居すぎたゆえに」

 七矢は首を振った。永い時をこの神を己の身に封じて生きて来た。それでもこの神はわかっていない。なぜ天狗と天狗の間に生まれ、刷り込みを受けなかった天狗が離れたいと言ったのかを。

「違います。彼らがあなたに相容れなかったのは……」

 父が必死に伝えようとする。七矢は事実を、過去を知らないが、父が天狗達の支配者である神さえも救おうとしていることは伝わって来た。それに己の命を懸け、そして七矢の決断を必要としていることも。

「理解し合うことを怠ったからです。あなたも、そして彼らも。そしてあなたを大切に思うあまり、あなたに流された始まりの天狗達も」

 きっぱりと父が告げる。暗闇が、七矢にもその表情がわかるようになってきた。うっすらと人影だったようなものが、目の前にいるのが小さな女性のような印象を覚えていることが。

「あなたと私達天狗が違うことはあなたが一番わかっていることでしょうや。だからこそ、その違いこそを認め合い、愛しいと思わなければ」

 差しだされた手を暗闇の人影が握る。そして父に抱きついた。

「だからこその七矢です。私が判断するには、私はあなたと共に在り過ぎた。そしてあなたが判断するにも、あなたは悠久の時を過ごし、過去の傷が深すぎる。七矢なら何も知らない。全てを知っても、正しい判断ができましょうや」

「もし、また手を払われたらどないする。わしは激昂して、そやつをくびり殺すやもしれぬぞ」

「させますまい」

 暗闇が一瞬光るほど、父から強烈な気が放たれる。それは一瞬で暗闇を弾いた。それは死してなお、七矢を神をも上回る絶対の守護を父が施したということだ。

「七矢が全てを知って、そして貴方を受け入れることができなくても、それは七矢の判断。七矢の決断を尊重しなければなりませぬ。これは天狗と天狗の間に生まれ、あなたの刷り込みをされていない天狗である七矢だからこそ、その結果が大事なのですよ。その結果がどうであれ、道主さま、あなたは受け入れなければなりまぬ」

 もう一回道主は拒絶されるかもしれない。でも、今度こそその恐怖と向き合わなければならないと。七矢は道主の親にでもなったかのように、道を、未来を示す。手を取り合う事が出来なくても。それが七矢が望んだ未来の生き方なら、山神として、一―生き物として『天狗』を認めなければならない。

「まさか、過去に一番深く囚われよるそなたに、このような事をされようとは思わなんだ」

 道主がそう言う。父は苦笑した。

「天狗と云う我らに一つだけ残念な点があるとすれば、子を成す事を禁じたことですね。道主さま、ご存じありませんでしたやろう。子を想う気持ちは最強ですわ。子の為に動く親ほど強い者はおりませぬ。たとえ、夜を従えた烏天狗が束になろうと、神であるあなたを前にしようと、子を想う親は無敵ですわ」

「ほうか、それは知らなんだ」

「ほうでしょう。私独りなら、ここまで想いませぬ。七矢がいたからこそですよって」

 父はそう言って、暗闇に背を向け、七矢の目線に己を合わせ、そして七矢を真っすぐ覗き込んだ。

「すまなんだな。七矢。そなたの了承なしに、全てを決めてしもうて。親と云いながら私は最後まで自分勝手やった。だからこそ、そなたのこれからに全ての害がないよう、私の全てをそなたに預けてゆくからの。気が向いたら受け取りや」

 七矢は無言で頷いた。言いたいことはたくさんある。疑問も、感情も溢れんばかりだというのに、何も言葉が出てくることはなかった。最後は父の様に口より雄弁に語る目に全てを預けるしかなかった。その眼差しで、父が全てを納得したように、頷く。最後に父はきつく、七矢を抱きしめた。

「ありがとう、七矢。愛している。これからのそなたの生に幸多からんことを」

 父がそう言った刹那、父の身体が光と化して消えた。最後まで美しく、父が目の前から夢のように散る。あまりの眩しさに目蓋の裏に映るその姿には、父と母が並ぶ姿が見えた。

 二人で微笑み、幸せそうに手を取り合って歩み去る姿が。やっと父と母が会えたのだと思うと、そして二人は自分を置いて去って行ってしまうのだと、もう二度と会えないのだと思うと、哀しくて哀しくて。いつしか涙が一筋垂れていた。

「受け取りや。七矢がそなたに望んだ事よ」

 闇から声がして、溢れんばかりの事象が、七矢の頭の中で再生される。天狗の始まり。生まれた天狗達と目の前の山神との暮らし。そして生まれた天狗と天狗の間の子。悲劇。始まった宮という天狗達の群れ。そしてその宮の終焉までの流れ。父と母の間にあった事実。父と母の争いと母の死。父が母を失ってから過ごした日々。宮として永い時間を独りで過ごすことを決めた父。

 すべての過去に起こったことが七矢に流れ込む。父が望んだ事。天狗と天狗の間に生まれた新しい風を、吹かせることができる七矢に求めた決断。

 ――天狗としてどうあるべきか。

 七矢がずっと疑問に感じ、七矢がどう答えを出すか決めかねたこと、その答えが全ての答え。

 過去を知った。多くを語らぬ父がどう生きて来たか、宮と云うもの、天狗と云うもの、道主さまを。どう感じ、どう想って日々生きて来たか。母が父を想い、下した決断とその結果。初代の宮が遺した天狗の在り方。そして原因は別にありながら滅びゆこうとしている天狗という種族と、その暮らし。消え去った宮と、残る宮。本来の天狗たち。それを踏まえての、己が決める未来――。

 七矢は目を開いた。


「宮さま」

 紅の影は今は小さい。数十匹の烏天狗を配下に従え、七番目の山を護る天狗達。七矢の事を皆が宮さまと呼ぶ。

「今日はどうしようか」

「せやなぁ」

 背後を振り返る。肩に止まっているのは黒い烏。烏天狗と烏という組み合わせも面白い。七矢の問いに応えたのはその烏だった。

「人里にでも行ってみるかや」

「夜鳩が許してくれたらやな」

 七矢は笑って古参の天狗の元へと飛んだ。きっと人里に行くとなれば叱られるだろうが、夜鳩に心配されつつ怒られるのが七矢は嫌いではない。

 七矢は父からこの七宮と宮という位をそのまま引き継いだ。しかし、宮だからといって、己の身に道主さまを封じるということはしなかった。

 宮とは、山を八つにわけた山神そのものを己の髪の毛を寄り代とし、己の存在をこの世に縛り付ける名前で同時に山神の存在をも縛ることで己に封じる役目を負っていた。だからこそ、宮には宮だけの号が必要であり、髪の毛を切る必要があった。

 七矢は号を、名をあらためず、髪も切らなかった。道主を己の身に封じず、共に一緒に過ごす身体を作りあげた。

 神の寄り代を、父が消えた光から、父の亡骸の残滓から作り出したのだ。父が永い時を掛けて力をためたその身体を一瞬で塵にしたおかげだった。あの場には父が亡き後も巨大な力が渦巻いていた。それを形と成し、道主の身体としたのだった。

 己を分けたが故に、闇の姿しか取れなくなった道主のための、命を、仮初でも宿す事のできる身体。

 山は護る。七宮はこれまで通り異境とする。結界で護り、山を第一考えることは変わらない。だが、天狗の有様を決めることはしない。有様が己で決める。それを、七矢は道主にも課した。

 ただ、滅びゆくためだけではなく、今度は共に生きる為に日々を苦しみ、悩みそして小さな喜びを見つけて行こうと。神だからと云って隔てることなく、同じ目線で、時には衝突して、時には一緒に笑いあって。

 天狗としてどう在るべきか、ではない。

 自分がどう在るべきか、そして天狗とは何かをいつでも見つめること。――寂しい神様の為だけではなくて。厳密に天狗ではないからといって誰に恥じることが在る。己が己をちゃんと見つめ、自覚し、理解し、そして納得できていたなら、堂々と言えばいい。――己の正体を。

 これが、七矢の決断。七矢の決めた未来。それを今度は道主も一緒に。傍で、共に。



 ここは深い山。生き物が息づき、そして闇がすぐ近くに潜む。

 それでも時代と共に、隔絶された異境も少しずつ変化の兆し。ひらけた山が待ち受ける未来が、吉か凶か。誰もわからない。でも、その決断を過ちとは思いたくない。その決断が例え間違いだったとしても、胸を張って未来を受け入れたい。そのために、確固一つの命を自覚し、己の存在を確立する事。それを他者と共有し合い、理解し合うこと。そして共に生きる。

 ――紅は流す血の色ではない。決して罪科を問うものではない。命を自覚するための、赤――。

 そこは深い闇であり、誰しもその許可なくば、入り込めぬ場所である。此処はいずこなるか、それはこの地に入れるモノしか答えることは叶わない。この地は先に示したように常闇である。奥にずっと続くようだが確かめた者は誰一人として、おらぬ。



 ――今や、確かめる必要がなくなったゆえに。

 闇は闇で在りながらも共に在れる光を見つけた。闇と共に生きる定めを負う者も、己を照らす光を見つけ、闇を照らすことができるようになったのだから。



 『天狗』 終.



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