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天狗  作者: 無依
13/14

最終話 七矢 中編

「まずは、挨拶をせねばならぬな」

 父はそう言って、二宮の中心へと向かった。父の話では母を匿い、己を育ててくれる場所を提供してくれた宮こそが、この二宮の宮さまなのだそうだ。知らない間に己の山で好き勝手しても文句一つ言わず、逆に七矢を育てる環境を提供してくれたのだから、感謝すべきだろう。

 二宮に降りる前に父は烏天狗独特の仮面を付ける。烏天狗の仮面は正式のもの。他人の前で付けるのは礼儀と父親から習ったことを思い出し、七矢も己の仮面を付ける。二宮の薄い壁、結界を通り抜け時間をおかずに天狗が数匹二匹を囲んだ。

「七宮様、どのようなご用件か……」

「二宮様にご挨拶に伺った次第。お目通りを願いたい」

「承知いたしました」

 初めて会った両親以外の天狗に七矢は驚いた。実際に両親の持つ翼より小さい。それに彼らの翼はそこまで美しくなかった。烏天狗が飛翔に優れた天狗の種類というのが実感できた。

 父は勝手知った様子で、とある場所まで降り立つ。すると天狗が何匹かいたが、父の姿を見て黙って頭を下げる。

「ようこそ、二宮へ」

 建物の奥から白い、と言えるような天狗が出て来た。初老の雄の天狗だが、格好が他の天狗と違って白い。

「お暇のご挨拶に参りました、二宮の宮さま。おかげでここまでおおきゅうなりました。七矢、ご挨拶を。そなたを育ててくれた場所を提供して下さった、私やかか様、そしてそなたの恩人にあたるお方だ」

 軽く背を押され、前に押し出される。七矢は目の前の天狗を見上げた。

「あ、あの……」

 何を言ったら、と父を見上げるが父は何も言ってくれない。

「大きくなりましたね。初めまして。この二宮の宮を務めます、二刃と申します」

「七矢です。あ、あの、いろいろありがとうございました」

 ぺこり、とお礼をすると、正解と言わんばかりに父が頭を撫でてくれた。

「……お決めになられたのですね」

「はい。長らくご迷惑をお掛けしました」

「いえ」

 父と二刃は何かを七矢の知らない事を話しているようだ。

「では、きっとあなたとお会いするのはこれで最後になりましょう」

「本当に、ありがとう存じます」

 父が静かに頭を下げる。挨拶と言うよりかは、別れの挨拶をしているように思えたが、母としか別れた事がない七矢は父と二刃が何をしようとしているのか、何を想っているのか、わからなかった。

「では」

 最後の言葉は短く、それだけ言うと七矢の手を引いて父は飛翔を始める。七矢は二刃を振り返った。にこにこと微笑む一つの天狗たちの長を見た最後となった。後に知れたが、二刃はこの直後、宮を代替わりした。

「見たかや。あれが群れる天狗というものじゃ」

 飛びながら父が言う。七矢は何を父が言おうとしているか分からず、ただ視線を向けるにとどめた。

「天狗の中でも人間が生まれ変わった者、白天狗という種類が、二刃さまであり、二宮の天狗達じゃ。彼らは浄化の力に優れるが、飛ぶ翼は小さい。博識で、知識や見聞を広めることに生涯を費やす者もおる。人間の住まう場所に近く、人間に慣れておる。ゆえに、生き残った宮なのじゃ」

「ほうなの。てて様のような天狗の仲間でありながら違う種なのかや」

「ほうや。正確にいえば、私も天狗の仲間じゃ。私らは烏天狗と申す。鳥が天狗に変わった存在で、夜を司り優れた翼を持つのが特徴じゃ」

 翼が美しく、力強いのは烏天狗だからだという。

「覚えておきや。二宮の様を。これが天狗が守護する山じゃ。天狗が異境として秘匿し続けた山の有様、山神が宿る山と言うものがどうものか。山神が居る山と居らぬ山、生きとし生けるもの、木々の様、山の持つ気質。それらの違いを見よう。では、次は山神が居らぬ山へ行こう。目指すは西、かつて一宮があった場所じゃ」

 父の翼が一回羽ばたく。そして身体ごと方向を西へ向けた。一宮といえば、ここらの山を治めている山神・道主さまが一番目に分け与えた山のこと。かつてあった……とは。それは飛んで行くうちになんとなくわかってきた。

「あっちの方向にあるのかや」

 七矢が指差した場所に父が頷きを返す。

「そう、かつて一宮のあった場所。今から行くはかつて偉大な天狗が居り、異境として護られておった山じゃ。しかし、今はない」

「なぜなくなったのかや」

 そう会話を続けるうちに一宮があったという場所の上空へたどり着いた。降りてみよう、と父が言う。

 二匹で滑空し、地上が近づいても、二宮のように警戒してくる生き物はいなかった。結界もない。ぽかぽかと日差しが降り注ぐ山は温かで穏やかで命が息づいているのはわかるが、何かが違う。二宮とは違う。

「一宮は道主さまが生んだ純粋なる天狗が集まった宮。今の様な温かな山ではなく、厳粛な雰囲気を持った、そう冬山の様な厳しさを湛えた山だった。生き物が暮らすには、少し厳しすぎたやもしれぬ。それでも山神が宿る山には力があり、天狗が守護した山は今ここにはない確かな未来―別の言い方をすれば変わらぬ日々が在ったのじゃ。山の生き物にとってどちらがよかったかは分からぬが、な」

 七矢は一宮があった場所を歩く。七矢の存在に気付くこともなく跳ねる兎。さえずる小鳥。虫を追う虫。その虫を食らおうとする鼠などの小動物。温かな、しかし確かな命の循環を感じる山。父は寂しそうな様子でそれを見ていた。七矢にとっては二宮の清浄な気を持つ山と確かに違うということは肌で感じて分かるが、良さはわからなかった。どちらがいいかはわからない。

「一宮の宮さまはどんな方だったの」

「ほうやなぁ……厳しい方やったと、思う。しかし今となってはわからんな」

 父が遠くを見る。七矢として、宮として他の宮と交流を持った時にはすでに一支は老齢な天狗だった。優しく、しかし厳しい天狗だった。天狗の鏡の様な在りようだった。だのに、突然消え、残された天狗たちの姿は無残だった。山を支える事も、一宮を離れることも出来ず、おそらく天寿を全うできた天狗はいなかっただろう。

 確かにいつ息を引き取ってもおかしくない年齢とは言え、新宮の継承をせず、亡くなったのかは謎のまま。そして宮が天狗が守護をしなくても山は生きるが、徹底的に山を変えるという事実と、天狗の永遠とも思える営みとて、宮が消えるだけで簡単に消えさるという事実だけを残した。

 確かに山にとっては枯れた木々や冬のような生き様は苦しかっただろう。だが、山神が、天狗が消えて一宮であった山は力を確かに失った。易々と蹂躙を許し、いずれ山は時の流れに逆らえず、山そのものが失われる時も来るだろう。



「では、次は天狗は居らぬが、天狗の力が未だなお根付く山へ行こう」

 しばらくかつて一宮であった場所で過ごした二匹だったが、父がそう言ったので移動する事になった。

「どこに」

 七矢は父が次はどんな場所を見せてくれるのかと楽しみに尋ねた。

「巨木と運命を共にした山――六宮へ」

 上空を飛び、移動をするうちに、遠目からでもわかるほどに巨大な樹が見えて来た。巨木とはおそらくあれのことだろう。そしてうっすらと青緑色の結界が見える。確かに天狗の異境が成り立っている山の様だ。しかし、一宮と同様に侵入を果たしても、何も咎める事はない。だというのに、なぜかこの山にいると侵入者のような気分になり排除されているような、拒まれている気がする。

「お久しゅうございますれば、六宮の。七宮にございますれば、しばしの滞在をお許し願いたい」

 父が声を張り上げた。すると刺々しいまでの気がおさまっていく。

「先程の一宮との違いがわかろうや。この山に天狗の姿は確かに無い。しかし、天狗は根付いて居る」

「この山の天狗は、六宮はどうなったの」

 父は黙って巨木の根元まで七矢を誘った。手を幹に静かに当てる。そして目を閉じた。七矢は父が何も云わないので父の様を真似、同じ動作をする。

“なんね、おんし。そこの餓鬼は何やねん”

 目を閉じて驚いた。鮮やかな青い衣。緑髪の鋭い目つきの天狗がそこにはいたからだ。驚いて目を開くと、その姿は消え、そして声も存在も感知できなくなる。何度か瞬きをして、再びゆっくり目を閉じる。すると目の前に天狗が立っているのだった。それだけではない。姿は見えずとも何匹もの天狗の存在を感じた。

“よくない癖ですよ。雛が怯えてしまうでしょう”

 穏やかな声と共にもう一匹の天狗が姿を現した。中性的な外見で、やわらかい印象の天狗。

“お久しゅうございますね。七宮さま”

「こちら、六宮の宮を務めて居られる――六仁様、並びに側近の蓬様だ。挨拶を、七矢」

「は、初めまして。七矢と申します」

 じろりと六仁に見られると、緊張して声が少し上がった。六仁はふん、と鼻を鳴らすだけだったが、蓬が微笑む。

“初めまして。ようこそ、六宮へ”

“まぁ、わしらはここに居るだけの者。山を汚さぬならば、好きなだけおったらええわ”

 六仁がぶっきらぼうに応え、すっと姿が消える。父と蓬が目を合わせてくすっと笑った。

「そう言えば四葉殿は、いずこにおりますや」

“最近はよう寝るようになりましてな。お会いできれば喜びましたものを”

「いえ、無理は申しませぬ。こちらとて急でしたから」

“そう言って頂けると助かります”

 蓬も微笑んで姿が消える。父は目礼を返し、手を幹から離した。

「てて様、今のは一体……」

「わかったじゃろう。六宮の天狗はこの巨木を通して山と溶け合って居る。だから巨木を通せば挨拶できるっちゅうわけやな」

「なして……溶け合うようなことに……。なぜ二宮のようにこの地には居らぬ」

「山と溶け合ってまで護りたいものが居った、そういうこっちゃろう」

 二宮を見て、天狗のいない一宮を見た。天狗がいない山は確かにぽっかりどこかに何かを忘れてしまったような物悲しいような、寂しいような何かがある。だからこの六宮に訪れて、それがなかったから安心した。

 なのに、この山には気配は満ちているし、守護の力があるのに天狗の姿がない。巨木を通さないと触れ合うことさえできない天狗たち。それでもたった二匹としか出会っていなくてもわかってしまう。

 この運命を誰も後悔しておらず、むしろ進んでそうなったであろう過去が。父の一言が全ての様な気がした。

 ――護りたいもののために、己の全て懸けて、全てを失くしてしまっても構わないその覚悟。

「天狗とは、そういうものなのじゃて。己の命すら全てが霞むほどに山を護る事があるのじゃよ」

 寂しそうな、遠くを見つめて父が言った。しばらく六宮で過ごす日々の中、七矢はなぜそこまでして山を護ろうとしたのか。父がどうしてその想いを理解できるのか、自分も理解しようと努めた。しかし、いくら考えても七矢にはなんとなくわからなかった。



 六宮に暇を告げて、次に二匹が向かった先はかつての三宮が在った場所。

「三宮の別名は春宮。天狗と三宮さまがおった時は、それは春の美しい山じゃった」

 降り立った山は木々が深く生えていない、日差しの暖かな場所だった。咲き誇る花や芽吹く草木達。山だが色鮮やかな山であることは間違いないように思われた。

「これはその名残」

 父はそう言って辺りを撫でる。優しい日差しが降り注ぎ、同じ天狗が消えた山でも一宮が在った場所とは違う。一宮は自由になった命が好き勝手芽吹いて出来た山といった感触があった。

 しかしこの山は天狗の名残がある。二宮、六宮で感じた山を深く護っているその気配の名残がある。それを山が感じていて、慈しむように遺そうとしているようなそんな感じがある。

「てて様……山も生きておるのやな」

「そうじゃな。天狗は山を護る言うても、実のところは逆。山に生かされておる」

「この山は三宮が好きやったんな」

「そうやろうな。三宮は穏やかで、その宮の天狗達もそういう天狗やった。天狗が山に溶け込み、共に支え合って生きて来た。そういう宮やった。ゆえに天狗が力を失い、消え去る事になっても山はその想いを抱いておる」

「それって、天狗とか関係なく……素敵なことやな」

 父はそう言われ、はっとした後に、七矢に向かって美しく微笑んだ。

「ほやな」

 その時七矢はふと思った。父は自分に全てを見せる為に、天狗としての有様を教えようと各地を案内してくれている。だけど、もしかしたら父も一緒に旅をする事で何かを見つけようとしているのかもしれない、と。



 天狗がいなくなった山を二つ、天狗がいる宮を二つ見た。次に父が案内してくれた宮も天狗が消えた宮だったが、身体を何かがざわりと撫でるような、吐き気がするような嫌な感じのする場所だった。

 天狗の気配も名残もそれどころか生き物の気配さえないような。死肉を貪るような気配だけがする。

「てて様……」

 あまりの嫌悪と感じた事のない不安に思わず父の真紅の裾を握った。父は安心させるようにその腕の中に七矢を抱いた。すると父から出る清浄な気に包まれてやっとまともな思考が持てた。

「覚えておきや。これが『穢れ』。天狗が忌むもので、山を殺す『気』じゃ」

 確かに長く触れていれば生きる気力を失わせるような気だった。

「天狗の役目は山にこういう悪しきものを入れない事。そしてそれを祓い、清浄な気を満たすこと。己の気で穢れを打ち消し、山にとって良い環境を護ることじゃ」

 父に触れているだけで安心できるのは、父が気を打ち消しているからだ。

「これを『祓う』という。そなたに教えていなかったことじゃ。天狗ならこれが出来ねばならぬ。七矢、そなたはこの地で穢れを取り除く練習をしや」

「……相わかった。しかし、てて様。この穢れとはどうやって生まれるのや」

 今まで七矢が生きて来た環境にこのようなものはなかった。物理的に命の危険があるわけではない。しかし、本能が告げる忌むべきもの。全ての生き物の生きる力を奪うもの。

「生き物の営みを理由なしに奪う、その恨みがこのような形となって残る場合が多い。多くは人が生み出せしものよ」

父はそう言って厳しい顔した。

「……人」

「ほや。人とは我ら天狗と姿が似る。そして私が生きていた時だけでもすさまじい速度で繁殖し、数を増やした種族でもある。人は我らを感知出来ぬ。それは我らが人から逃れ、深く山に潜り、異境としていたせいもある。しかし人は己の数を増やすことに専念し、我らと違い、手に余るものを望む。ゆえに争い、無駄に命を散らす。それにより土地が痩せてゆき、神が消え、穢れだけが残る。この地もそう」

「……人によって滅んだ山」

 父は頷くと悲しそうな顔をした。馳せる想いは過去の栄華だろうか。

「ここは八宮。かつて心優しい天狗の住んだ山。人に荒らされて消えた山じゃ」

 七矢は目を見開いた。

「ここが、天狗の居った宮、とな」

「ほうや。荒らす人でさえをも弔おうとするような心優しい宮が代々この山を護っておった。しかし常に増える人の気配と穢れに耐えられなくなり、山は一気に穢された。この場所は人の手によって人の戦場になった」

「そんな……」

 七矢が絶句する。人とはそういう生き物なのだろうか。多くを望み、そして全てを失くすのか。

「天狗が消えた宮と居る宮。なぜそういう運命があると思う。かつて道主さまが天狗たちに分け与えた山は八つ。そのうち天狗がそのまま異境を維持している宮はたった二つじゃ。なぜ残りの六つは天狗が消えたと思う。直接の原因は異なれど、ほぼ人のせいと言ってよい。八宮は人の手によって滅んだ。人の考えは分からぬが、この場所が人にとって争うに丁度良い場所であったのであろう。歴代の八宮は何度も何度も穢れを祓っておった。しかし、年が変わり、時を重ねる度に人は戦を重ね、土地を枯らした」

「ほうして、八宮は滅んだ」

「ほうや」

「じゃあ、三宮は、一宮は……人のせいで」

「三宮は人の数と気配に耐えられず、丁度不幸も重なってな、滅んだ。一宮はわからぬが」

 七矢は今の八宮、かつて天狗が護った山をここまでされて怒りを覚えた。木々は荒らされ、草さえも枯れている。

 生き物は生き延びる力のある者だけがひっそりと隠れ暮らし、日は差すのに熱がこもらず、風が吹き抜けるだけの、山ではなくただの木々が生えている空き地のようになってしまった山。変わり果てた山。天狗として許しがたい暴挙だ。

 七矢は怒りを孕みながら八宮の穢れを祓う日々をしばらく続けた。己と父が過ごす場所位は清浄な気で包まれる位には祓えた。

 どの生き物も己の領分を勝手に奪われ、蹂躙されれば怒る。なぜ人はそれくらいの事をわかろうとしないのか。天狗がいようがいなかろうが、そこには山本来の多くの生き物たちの生きる場所が生活が在った。なのに、それさえも消し去ってしまったのだから。

「ほうやって怒るのはそなたが天狗じゃからかな」

 父はそう言って微笑んだ。

「では、次は人を見に行こうか」

「え、本気かや」

「そうとも。人がなぜここまで山を荒らしても何も思わないか、確かめに行こうかの」

父がなぜそう言うのか七矢にはわからなかった。しかし、人だけが悪いという、そういう問題ではないということを実感させようとしていたのだろうと、後に七矢は知る事ができたのだった。



 父からしばらく人に化ける術を教わり、父が少年、七矢が幼子に化ける事が出来るようになった時、八宮を歩いて下り、戦場を抜けて人里へと降り立った。

 人里に下りて感じたことは、うるさいということ。生きる意志が強い。誰もそんなことは言わないが、全身全霊、その気が叫んでいるような印象を受ける。精一杯生きて、己がこうありたいというのが強い種族だというのがわかった。

 彼らには悪気と言うものはない。山をあれだけ荒らし、穢す。それは罪とは思っていない。それよりもそういう行為がそういう結果になるということさえ気付くことができない種族なのだ。そして後に気付いた時にはもう遅いのだろう。

 坂道を転がる石のように終わりまで転がらなければ止まる事ができない種族なのだろう。

 ――人は人なりに、その生を精一杯生き抜いているだけなのだ。

 人の世に紛れて人として父と生きて次第にそう感じる事が出来た。それに人の世には興味を惹くものが多くあることも事実だった。人とはなぜここまで様々なものを生み出すことに長けているのだろうか。子供に混じった時は子供が行う遊びでさえ多種多様だった。

 食べ物も、着るものでさえも全てが数多く、それを様々な楽しみ方ができる種族であった。

「人って複雑だね」

「そうやな」

 父も人の身に化けるとただの少年のように見える。誰も自分達を親子とは思わないだろう。兄弟と思っていたはずだ。

 人の世に紛れて生活することは楽しかった。しかし自分の中で何か重い物が募っていくのも事実。それが見境ない、他の生き物を感じ取れない人だけの欲が生み出す穢れが己に溜まっていく感触だと気付いた。

 人の世は確かに興味を引くものが多く、そして居て楽しい。でも天狗である己の身には長くいるとそれはまるで毒だ。父は絶えずその穢れを祓っていたようだから大丈夫なようだが。

「人の世は楽しかろう」

「うん」

「せやけど、天狗の我らには居るべき場所ではなかろう。それもわかるかや」

「うん」

 父がなぜ穢れを祓うよう言ってくれなかったのか。楽しむ七矢をそのままにしていたか。

 人の世を深く教える為だったのだ。天狗の住処を、山を殺す真似ができる人を。

「では、行こうか」

 七矢が十分に人の世を知ったと見て父が言う。

「え、次はどこへ」

「ついてきや」

 父はそう言うと街外れに脚を向けた。人に化けた姿を解かず、翼も現さないということはまだ山には帰らないということだろうか。七矢は不思議に思いながらも父の後を追った。

 父が辿り着いたのは、朱が目に眩しいほどの鳥居の群れ。先に見えるは小さな祠。両側に居座るのは狐の石像――。

「……稲荷」

「ほや」

 父が数々の鳥居をくぐり、祠の前に立った。その瞬間に羽ばたきの音が聞こえ、真紅の狩衣が翻る。父が天狗に戻った瞬間だった。荘厳なまでに、神々しい姿を見せつける。一瞬で稲荷の敷地が祓われ、清浄な気で満たされる。

「お久しゅうございますな。姿を現して頂けますかや」

 無機質な目を向けるだけの狐の石像と祠に祀られている狐たち。赤い目が七矢と父を見ているようで見ていないような、思わず父の裾を握る。

「お久しゅうございますな」

 そう返事が聞こえた、そう感じた時、そこはもう人の町の隅にある稲荷ではなかった。異境に連れ込まれたのだと感覚が告げる。その時七矢は警戒で己の身を天狗に戻していた。

「五生さまはどうなさいましたのや」

「宮さまは山に残られたのです。五生さまが宮を手放してからの二代目の宮です。五生様の後、夜花様が継ぎ、その後私が現在の五宮の宮を務めております。雪羅せつらと申します」

「……ほうですか」

七矢は目の前に立つ、恐ろしいほどに美しい女性に対しても淡々と受け答える。

「七矢。こちら雪羅さま。……人の世に溶け込んだ宮――今の五宮の宮さまじゃ」

「……宮」

 唖然として七矢が言う。まさか、人の世に、山を離れて天狗が生活しているとは思わなかった。着ている服も人のものと変わらない。かすかに天狗の気を感じるが、それも今や変質している気がする。目の前のものは本当に天狗の仲間なのか。

「なして……人の世に。なして山を離れていられるのです」

 自然と目の前の女性に訊いてしまう。人に消された山を見た。天狗が離れた山を見た。そして山と溶け合った山を見、天狗と共に在る山を見た。だからこそ、人の世に溶け込んだ天狗たちは違和感がぬぐえない。

「五宮はもともと尼天狗の集う宮でした。雌の天狗のみが集う宮です。尼天狗は稲荷に通じるものがあります。ゆえに人の世にある稲荷と溶け合う事で、山を離れ人の世に在る事が出来ました。我らの今の姿は確かに『天狗』とは言えません。もう、私たちは『稲荷』です。それも山を知らぬわけではないし、山を思わぬこともないのです」

「尼天狗に会ったことがないからわからんのですが、そう簡単に山を離れることができるのですかや」

 七矢はそう言って雪羅を見る。雪羅はあくまで静かに七矢を見つめ返す。

「尼天狗は人の女が、いえ、あらゆる生き物の中でも『女』の部分が強い生き物が天狗になったもの。『稲荷』の問題は別にして、『女』の本能が残っているものです。『女』の本能、わかりますかや」

 七矢は首を横に振った。

「『子』を望むことです。そのために『男と交わる』ことです」

 七矢は少し驚いて、雪羅を見返す。とてもそういう風には見えないのに。

「五宮はそういう本能を持った天狗が集まった宮でした。歴代の宮は配下のその本能をあらゆる方法で逸らせてきたのです。なぜかわかりますか。本能に従うということは他の宮の天狗を誑かし、山の守護を第一とする天狗の社会を崩壊させる危険があったからです」

 父を思わず見つめる。父は逸らす事なく七矢を見つめ返す。それでこの女性が言う言葉が真実と知る。

「天狗であった時代も度々五宮の天狗は人里に降りて人の間に子を設けています。五生さまが決断されたことは真の意味で五宮の天狗を救ったとも言えるのです。五宮の天狗は誰しもあの時の五生さまの決断に異を唱えません。五宮の天狗が人里と交わり、結果的に稲荷になったこと、山を捨てたことがわれらにとっては最善だったのです」

 七矢は言っている意味がわかっていつつも納得できずに呆然としていた。

「天狗が、山を捨てても大丈夫って……」

「尼天狗とはそういうものだったのです。人から天狗になったものはただでさえ前の記憶、強烈な想いを抱えて天狗になります。強い思いはそのものの根幹となるのです」

「でも、人は八宮や三宮を滅ぼしたんや。それと一緒になる道を選ぶって」

「天狗は滅び行く種族です。いくら強大な結界で囲っても、力が失せればそれは意味のないものです。子を成さぬ私たちが、未来を強く望む私たちが滅び行くその道を選ぶはずもありません。人は確かに八宮、三宮、天狗の住まう山を滅ぼしたでしょう。しかし人のせいだけではありません。天狗もまた、山を支える山神でさえ、力を失いつつあるのです。山を守る力があれば、滅ぶことはなかったでしょう。人の穢れを祓い、突っぱねるだけの力がないから、消えたのですよ」

 天狗ではなく、稲荷になったという五宮。彼女が語る天狗の有様はまるで他人を語るが如く冷めていて、そして客観的だ。

 それはある意味、正しい。天狗に将来はないと切り捨てることも種を残すという意味では正しい。――そう、子を望み、子孫を残す事に強い本能を持つ尼天狗ならではの。

「確かに、宮がいくつか消えたからこそ、山神の力が殺がれ、自由に慣れたのも本当です。そう言う意味では他の消えた宮には申し訳ないと思わないでもないです」

 雪羅が語る事は、天狗の根幹を、七矢が思い描く天狗像をそれこそ木っ端微塵に砕く発言だった。様々な天狗の有様を見、そして天狗であった父と母を見て七矢が思い描いていた天狗の生き方。

 山を慈しみ、護り、山と共に生きるその姿が七矢にとっての天狗。しかしそれを枷の様に感じていた天狗もいる。それが目の前の天狗であったものであり、五宮という天狗達。

「それが五宮の本意であり、今の私たちです」

「……そんな」

 天狗が山を離れるのも信じられないのに。

「それで幸せになれたのですかや。貴女は」

 黙って七矢と雪羅のやり取りを見つめていた父が雪羅に問うた。

「そうです」

 無表情で応える雪羅。それを憐れみさえ込めた目線で父が言う。

「否。口先では何と言おうと天狗が山を離れて大丈夫とは言えますまい。本心を隠すのは雌ならではの巧さですな。だから貴女は、いいえ、今の五宮には『藍』を背負うことが出来ぬのですよ」

 断罪するかのように言う父の表情は雪羅と同じように感情が乗っていないが、そう言われた方は感情を初めて露わにした。

「貴方には、貴方にはわかりますまい」

 白い手が父の細い首を掴んだ。七矢が息を飲むが、父は眉ひとつ動かさず、静かに、冷たく雪羅を見つめ返す。

「愛することを禁じられる苦しさを。前世の苦しみを。生き物の本能を」

 叫ぶ雪羅を一つ瞬きをして、見つめ返し、無言で翼を一回羽ばたかせた。その瞬間風が唸り、小さい悲鳴を上げて雪羅が祠に叩きつけられる。七矢が驚いて父を見上げた。こんな乱暴な事をするとは思わなかったからだ。

「永き天狗の生に、在り様に苦しんでいるのは貴女達五宮だけではありませぬ。滅びいった宮もそれぞれに苦しみがあったのです。貴女が宮となれないのは、貴方に覚悟がないからです。私が知る五宮の宮はそれは美しく妖艶でした。そして藍を纏うことができる偉大な方でもありました」

「……っ」

 雪羅が苦しげな呼吸を吐き出して、父を睨む。

「逃げるだけでは何も解決しない。五生さまが宮を人里に移したのには理由があります。その理由を私が量ることはできませぬ。だからといって今の在り様が正しいとは思えませぬ。五生さまが想っていたことはきっと貴女に受け継がれてはいないでしょう。五宮ではない私が偉そうに言える立場でもありませぬ。しかし……残念です」

 父はそう言って七矢の手をそっと取った。父は何のためにこの場所に来たのだろうか。かつての五宮に思いを馳せて、それを七矢に見せようとしたのだろうか。それとも父が会いたかったのだろうか、かつての五宮に。

「五宮は滅んだのですな」

 父はそう言うと雪羅を振り返る事無く、羽ばたきを始めた。手を引かれた七矢も飛翔を始めるべく羽ばたくが、七矢だけは雪羅を振り返る。そこには憤りを秘めた顔があった。

 相容れないという意味を込めても、父はこの人と決別したのだろうな、となんとなく感じた。

「……滅んだのは私達だけではない」

 苦し紛れのその言葉にさえ父は振り返らない。紅の背中が見せるのは何だろうか。

「……そういう意味ではありませぬ。では、とんだお騒がせを。失礼致します」

 父は厳しそうな顔をしているのが、仮面を通しても七矢にはわかった。親子は何も云うことはなく、上空に飛び上がって、もう人里を見ることはなかった。

 父は人里から帰ると、深い森の中に七矢を連れて来た。生き物の気配はするが、静かな山だった。父は疲れただろう七矢を気遣って、この場所に連れて来たという。しばらく休もうと。七矢はそれに従い、しばらく天狗というものについて考えた。

 自分は烏天狗という種なのだという。夜に特化した、最速の翼を持つ、鳥の生まれ変わりである天狗。そして父も母もその烏天狗だ。

 他の烏天狗には在ったことがないが、父と母の生き方を見ればわかる。山を大事に思っていて、心のどこかに必ず山がある。両親とも山とは切っても切り離せないようだった。

 そして滅びた宮と、天狗が居る宮を見た。山を思う気持ちはどの宮でも感じた。それは両親が思う気持ちと同じように思えた。しかし人に滅ぼされた山を見、人を見て、山を捨てた天狗に会った。

 ――天狗とは、なんなのだろう。どう在ることが正しいのだろうか。

 父に訊いてみたい気がした。答えてくれるような気もしたし、答えてくれない気もした。だから訊くことができなかった。父は多くを語らない。だが、多くを想っていることはわかる。

「お前はなんだ」

 思考に陥っていた七矢に背後から声がした。父しかいないと思っていたので、七矢は驚いた。振り返ると七矢の格好とよく似た、しかし違う生き物の気配がした。黒っぽい着物に、山伏と呼ばれる格好に似ている。顔は狗に似て、猛禽の漆黒の翼を持つ何か。

「そっちこそなんね」

「ここは我ら天狗の領地。変なアヤカシ如きが何の用や」

 向こうが威圧的に言った。

「な、なんね。こっちも天狗や」

 そう言った瞬間、向こうの存在が不思議そうな顔をした後、噴きだした。

「そんな天狗見たことない。お前物まねの類のアヤカシか」

「え。え」

 七矢が言い返せない間に向こうが勝手に納得した。そして頷く。

「なら脅威でもなんでもない。我らが目ざわりに思わぬうちに消えるがよいわ」

 勝手にそう言っていつのまにかよくわからないものは消えた。しかし七矢の心に衝撃が残る。

 ――天狗、とな。

 父に問いたい気持ちがわき上がる。混乱した気持ちを父を通して落ちつけようと、七矢は父の姿を探し求めた。しかし何かしているのか、父の姿はない。山の中で目立つ赤い色をしているはずの父が。

 深呼吸をして、目を閉じ、父の気配を探る。微かな残滓を手繰って山の中をゆく。すると、多くの気配に出会った。

「あれは、さっきの……」

 先程の天狗と名乗ったものが集団で群れている。生活しているようだ。あいつらの領地と言っていたからには、自分一人では太刀打ちできなかろうと本能的に感じた七矢は己の気配を極限まで消す。そして知らないうちにその天狗と名乗った種族を、寝食忘れて観察している己がいた。そうして悟ってしまった。

 ――彼らこそが、天狗なのだと。

「てて様は彼らを見せたかったんや」

 父が休めと言って連れて来た場所こそが天狗の住処であたこと。そして父はそれを見せた。消えて七矢の前に姿を現さないのがその証拠。

 天狗とはどういうものか、どういう在り様が望ましいかを悩む七矢に、天狗を見せつける。

 その事実を知って、愕然とした。今度は父が何をしたいのかわからなくなったのだ。今度こそ、父に問い正すつもりで父の残滓を探し、父の姿を求めて、逃げるように七矢は天狗の住処から飛び立った。

「てて様」

 父は天狗の住処から遠く離れた山にいた。七矢を天狗の住処と知って置いてきたのだ。

「七矢」

 父は相変わらず穏やかな顔をして、優しそうに七矢を見つめる。

「なして、置いていったのかや。あれは何ね。天狗って名乗った……けども」

「七矢。ここが最後、かつての四宮しのみやがあった場所」

 問い詰める七矢の言葉を無視し、父が遠くを見つめて言った。

「四宮最後の宮は四練と云う。滅んだ三宮、八宮までをも護ろうとし、叶わず散った宮じゃ。優しく心持よい天狗じゃった。この山にはその四練が遺した優しさと生き様が残っておる。三宮と違うて、この山には四練が遺した配下の天狗がいまだ居る。力及ばず山を護る結界を立ち上げることは叶わぬが、宮は居らずとも宮が成り立っておる」

 感じてみろという目線に応え、七矢は山を、景色を見渡した。すると確かに自分達と似たような気を持つ生き物が山に均等に感じられる。己の起点とする場所を定め、結界によく似た構造の術を張り巡らせているようだ。

「私は彼らにあいさつに行く。そなたは彼らの助けとなるよう、ここを異界にする結界を張ってみや」

 父はそう七矢に命じるように言った。七矢は当惑しつつも頷く。二宮で一回見た、均等に力を与えた全てのアヤカシから山の存在を隠し、人里で経験したような悪しきものの侵入を許さない結界。思い描いて、己の力を把握し、均等に配分し、そして立ち上げる。

「わぁ」

 立ち上がった瞬間に腰が抜けて倒れてしまったが、目視する限り二宮に張られていたようなものと同じ程度のものが出来ているように見える。確認の意味をこめて父を見上げる。

 父は確認するように見ていたが、しばらくして頷いた。直した方が良い所を感想と共に述べ、七矢がそれを聞いて直す。父は一つ頷いて、それを維持しているようにと七矢に告げ、飛び立った。

「しまった」

 七矢は父が飛び立った後で、先程の天狗と名乗った存在について訊くのを忘れたことに気付いた。七矢は父に話題を逸らされていることに今更気付いた。

 それにしても父は確かに母と違って様々な事を七矢に教え、見せてくれている。それはありがたい。母と過ごした山に籠ったきりなら七矢はきっとあのままただ生きるだけだっただろう。

 父が様々な世界を、他の生き物を、他の山を知る事が出来た。七矢の生きる世界が広がって深く考えることも増えた。それは時には考えたくない事もあったし、知れたからこその喜びもあった。だからこそ父には感謝している。

 それにしても父は七矢の知らない世界をよく知っている。それに知り合いも多い。確かに七矢より長く生きているのだがら、当たり前と言えばそうなのだが。天狗というものはそうなのだろうか。それとも天狗とは……。天狗とは何なのか、天狗とはどうあるべきなのか。

 父と出会って山を出てから七矢の胸にあることはこの一つだけ。父は正解を与えてはくれないし、過去の母も正解を導くような教えはくれなかった。

 きっと七矢だけ、七矢自身が辿り着かなければならない答えなのだろう。

 父は帰ってきては、七矢にいくつかの術等を教え、確認し七矢を一人にする。出会った時のように七矢の側に常にいるわけではない。七矢もだんだん父の意図がわかってきた。

 きっと父は七矢に一人の時間を持たせる事で何かを決断してほしいのだと。

「てて様」

「なんや」

「その……天狗って何か、わかってきたような気がする」

 父はその、出会ったころと変わらない美しい微笑みで、七矢に頷いた。

「ほうか」

 答えを七矢に訊かない。七矢が話したくなるまで父は問わない。だから、きっと七矢の考えていることは正しいのだ。父は七矢が出す答えを待っている。

「初めは二宮、次が一宮、六宮、三宮、八宮、五宮、そして四宮。……ここらの山には八つの天狗の宮がある、そうゆうたね、てて様」

「応」

 父は優しい顔のまま、そう言った。そして、きっと父は天狗にしては、山に在る存在にしては目立つ紅を着ている――その理由。きっと……。

「七宮は」

 父は七矢がそろそろ言いだすことをきっと分かっていた。

「行くか、最後の宮。我ら烏天狗の集う宮へ」

「うん。連れれって」

「……ほうか。では、これを覚えておきや」

 父は初めて出会った時のように七矢に目線を合わせる為に座り、そし七矢の肩に優しく手を置いた。

「七宮に連れたら最後、私はそなたの側には居れぬ。父とはお別れじゃ」

「え」

 それでもいいのか、と父は言わなかった。そういうものだといつものように淡々と告げる。

「それは、どない……」

 七矢が不安げな目をして父を見上げる。父は微笑んで、首を振った。

「言い方が悪かった。お別れとは違うかの……。こう言う言い方は良くないが私が七宮に帰るということはそういうことなのじゃ。七矢の傍には、七矢だけに、七矢と共には居れぬ」

「一緒には居れぬの。ずっと……」

「そうじゃ。七矢の父として七矢だけの傍には居れぬのじゃ」

 寂しそうな目で父が語る。なぜ、と問い質しても父が悲しげに微笑むだけで何も云わなかった。

「……それが私に課せられた役目」

 どういう役目と問うても父は答えなかった。

「では、行こう」

 父は最後に七矢を抱きしめて立ち上がる。きっと父が答えない答えが、今から向かう場所にあるのだろう。幸せな父との日々を捨ててまでそれを求め、天狗とは何かを知る必要が今更あるのだろうか。

「七矢。来やれ、我が宮へ」

 手を差しだされる。その手を握り返すべきか、七矢の胸には未だ悩みが残る。母との日々は幸せだったが、突然の終焉を迎えた。父との日々は楽しかった。しかしいつまでも続くことはないともどこかでわかっていた。

 だが、だからといって自分の手で終わらせるのには……。その逡巡でさえ包み込むように父が微笑む。その美しい笑みに魅かれるように手を伸ばす。その手を父が握った。

「それで、見、知りや。我らが眷族・烏天狗の有様を」

「……うん」

 自分で言いだした事なのに、すでにもう後悔が七矢を捕まえる。七矢が言い出すのを父は待っていたようだから。

「そして決めや。全てを見、全てを知り、全てにそなたなりの答えが出たら、そうしたら私の前に来や」

 それが、七矢に遺した言葉。七矢は頷くしかなかった。

 父の力強い羽ばたきに引きずられるように、七矢はまだ見ぬ七宮へと飛び立ったのだった。


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