最終話 七矢 前編
深い森の奥には、天狗の住処があると言う。深く、日の光が入りにくい、空気に神の吐息が混じるようなそんな場所には、必ず天狗が住んでいると、言われている。
天狗――それは、山の護り主達。風と戯れ、狗の顔を持ち、鳥の如く大きな翼を持ち、鼻が高く山伏のような格好をしているという。
山で異音がさも当然のように起これば、それは天狗の仕業と言われた。山で突如食べ物が失われ、おかしな目に遭ったら、それは天狗が側にいたのだという。
突風は天狗の起こした風、子供が攫われればそれは天狗にされてしまった神隠しの一種。
様々な伝説を残す天狗。彼らは妖怪と分類されるにも関わらず、神として奉られたりしている。種類も多く、その名を残す者もいる。
しかし、ここの天狗は一味違うかもしれない。大いなる翼を持って、山に潜んだその者は天狗と名乗った。
だが、彼らは決してその存在を他に漏らさない。そもそも彼らの住処に山本来の生き物とは別の他の生き物が入ってくることはない。
彼らは特殊な結界なるものを立ち上げ、山に他の生き物の侵入を拒むからだ。そこは一種の異郷。彼らが居る山はある山神によって治められていた。その山神は道主と呼ばれていた。
この道主が治める山々を八つに区切り、八つの山とした。この山を宮と呼び道主はその山の一つ一つを力ある天狗に任せた。この任された天狗をまた宮と呼んだ。
宮は天狗の集団を管理し、山を隠匿する結界を立ち上げ、代々山を護って来た。清浄な気で山を包み、決して穢れた者が入ってこれないように。
一宮、最初に道主に分け与えられた天狗の宮。冬宮とも呼ばれ静寂で冬の様に枯れた山であった。
二宮、二番目に与えられた宮。この宮は天狗の中でも人間の生まれ変わりである白天狗が集った宮である。故に人に近く、人を恐れない。
三宮、別名春宮。春が美しい宮で人の住処に近く、絶えず人の脅威にさらされている。
四宮、別名夏宮。夏が活発な元気な山。
五宮、尼天狗と呼ばれる天狗の雌を統括する女だけの宮。
六宮、木の葉天狗をまとめる狗の性を残した異種天狗の集まり。
七宮、烏天狗という鳥の強さと攻撃に特化された夜の眷族である異種天狗の集まり。
そして、最後が八宮、別名秋宮。締め付けられるほど哀しくも美しい秋が特徴の山。この山も人に近く、人の脅威に曝されていた。
今まで何代もの宮が移り変わり、その命を散らし、その命を山に還してきた。人の脅威に曝されて穢れに耐えきれず山が弱った宮も多くある。
大きな変換点は、やはり一宮。一宮で永きに渡って宮を務めた老齢な天狗――一支が突如命を消し、宮の代替わりが行われず、一宮は滅んだ。
正確に言うと滅んではいない。山は変わらずあった。しかし、その山はもう山神が宿る山ではない。道主が宿る事はなく、神を失くした山はいずれ力を失うだろう。
――残り、七つ。
山の森は深い。それは様々な意味で深くなる。木々が成長し、生い茂れば地上に光が届きにくくなり、自然と景色は暗くなる。そして空気が木々の呼吸を通してのみ、変わりゆき自然と森の空気は澄んでいく。
普通の地とは違い、気温が少し低く、気圧が低く、冷たくそれでいて荘厳とした気を纏う山は久しく人の侵入を拒んできた。天狗が宿る山はそれと一味違う。人だけではなく、獣も木々も何もかも全てが山神許しなくば生きる事はかなわない。
全ての穢れを許されない清浄すぎる山。痛いほどに澄んだ山は、天狗に寄る絶対的な結界によって外界と隔絶される。しかし、山神の恩恵もありそこに住まう命は他の山とは比べ物にならないほどに命を綻ばせ、繁栄する。豊かで清浄な山。
「宮さま」
命が咲き誇る山の一角、少しひらけた土地には、日の光が似合わない漆黒とぬばたまの影。
「なんじゃ」
応える姿は色鮮やか。紅の衣という烏天狗とはかけ離れた格好をしている。
――七宮の上・七矢さま。この七宮という道主によって与えられた山を守護する烏天狗の群れを支配する天狗である。
もう何百年も頂点に君臨し続け、幾年もの四季の移り変わりを護って来た天狗だが、その姿はまだまだ若い。彼の外見を通り越す配下の方が多い。あまりの力の強さゆえに身体が歳を重ねることをやめてしまったのだ。
「珍しいお客様が……」
振り返った七矢の顔に、配下が付けているような面はない。
「誰ぞ」
「二宮様が……お見えです」
「ほうか」
足を外に向け、配下の方を振り返ったその顔には、烏を模した面が、配下と同じように付けられている。
「いずこに居られる」
「ご案内しようと思うたのですが、秋の野にてお待ちしていますと、だけ」
面の下で七矢の眉が動く。だが、その表情の変化を感じ取れた者は幸い面のおかげでいなかった。
「宮さま。共は……」
翼を広げた七矢に向かって焦る配下の声が聞こえる。
「要らぬ」
強い拒絶を残して七矢が飛び立つ。配下はそれを見上げ、ただ見送るしかなかった。そう、もう覚えていないかもしれない。七矢が唯一愛した天狗と初めて出会ったその場所こそが、秋の野であったと――。
秋の野は七宮では珍しく木々が生えていない、一面草原の場所だ。秋の野というだけあって、そこに生えている草は少し枯れ気味である。色がくすんだ緑や黄色をしており、寂しげな風景である。
背の高い草ゆえに、空から飛んでは見つからない。しかし、今回は相手が宮だ。己の感覚を広げれば、宮程の強大な力の主の居場所などすぐに知れる。
七矢は秋の野に唯一立つ天狗の元に降り立った。
「お久しぶりですね。急な来訪をお許しいただけますか」
「二刃様。ようこそ七宮へ。して、何故このような場所に……。事前にご連絡いただければ、それなりのおもてなしを……」
七矢の前に立つ天狗はこちらも天狗にしては真っ白い衣、普通の天狗とは違う。それもそのはずで宮となった天狗の主達は配下の天狗達とは格好が異なる。狩衣の色が色鮮やかになるのだ。八色の色がそれぞれの宮の色となっている。七宮は紅、二宮は白。
「いえいえ、結構です。こちらが急にお邪魔したのですから。それに用が済めばすぐに帰ります故」
「ほうですか……」
少し残念そうに七矢は肩を竦めた。二刃はそれを見てくすり、と笑う。
「思えば宮も私と貴方だけになってしまいましたね」
七矢が宮になった時、八天狗だった天狗は目の前の二刃しかいない。他の天狗は皆代替わりを果たした。
それだけでなく、宮そのもの……つまり山そのものが失せた。山はその場所にまだ確かにある。しかし道主の山ではない。初めてそれを経験した際は愕然としたのを覚えている。衝撃だった。
「はい。まずは一宮……」
ある時を境に突然消えた一宮。老齢の一支という雄の天狗が治める山は静かでいて厳粛な雰囲気をもつ簡素な山だった。しかし、一宮は新宮に宮を継承する事無く、命を失い、同時に天狗の絶対結界も失われただの山と化した。もう、山の神がいない山へ。
「そして三宮が……」
一宮を皮切りにという表現が正しく思えるほど、以前からその立地を危ぶんでいた三宮も消滅の道をたどる。若草色の狩衣をまとった少女が三宮と呼ばれた山を護っていたのはもうずっと昔のことだ。
人と隣り合わせの場所を護っていた雌の雛のような姿の天狗は、日々人の侵入を拒んでいたが、力及ばず徐々にその支配を失っていき、山の面積を少なくしていった。
まるで紅葉や花の開花のように、山の麓からじんわりと円形に力を失い、そして頂上近くなってその力を手放した。
「次に八宮が……」
七矢が宮となってしばらくして代替わりした当時の宮を八嶋と言った。若い雌の天狗が頂点に居り、年月を無事に過ごして新宮に代替わりしたのが記憶に新しい。若い雄の天狗が宮を継いだが、何度目かの人の戦場が近かった。ゆえに穢れに耐えられず、若い雄の宮は突如命を散らし、八宮は急速に消え失せた。
あの場所は人の手も随分入り、山と言う様相では今はなくなっている。
「そして四宮」
隣り合わせの山が人の手によって堕ち、周囲に清浄な山が消えたことで人の住処に露出した形となった四宮が続いて消えた。今も山の多くの部分が当時の名残を残し、力強い命を咲かせるが、そこはもう以前の様な夏の活気がない。
当時の宮であった四練は、宮が消えてしまった山の天狗を引き取り、己の領分以上の山を百余年守り続けた。それが祟ってしまったのだろう。
最後は配下も納得し、宮の位を道主に返上し、山を最後まで生かす形で消えたという。
「……消えた六宮」
次に失せたのは六宮。巨木に支えられ、巨木を護った木の葉天狗の集団だった六番目の山。次々と宮が消えた事によって巨木が人の目に止まってしまい、必死で巨木を護ろうと、天狗全員が山と溶け合うことで巨木もろとも山を護る形で失せた宮。
六宮は力及ぶ限り人が立ち入ることは出来ない。しかし、山を護る天狗が山に溶け込んで消えたことで、結界はなく、人や穢れ以外の生き物は自由な繁殖を始めた。
巨木である老木は自然と言う様々な危険や淘汰に立ち向かわなければならない。雷一つ落ちただけで、ただでは済まない。そして木々を失せさせるのはそれだけではない。蔦や菌、他の動物など様々な危険がある。温床の様にぬくぬくと育って守ってもらった状況が今はない。守る天狗がいないのだから。
故に巨木が滅んだ時、六宮も同時に滅ぶ。六宮が滅ぶ時、巨木も滅ぶ。まさに巨木と運命を共にした山。
「……逃げた五宮」
頻繁に配下の天狗を人間の里に下ろし、交わっていた風習がある変わった宮だったが、宮が次々と消える現実を見て、決心したのかそれとも機会をうかがっていたのか。人里に散らばる稲荷を通じて一匹、また一匹と人と交じらわせ、長い時を掛けて配下全員を山から遠ざけた、五生と呼ばれた妖艶な宮は、己の生涯と責任を全うする事無く、溜息を一つ着く間もなく消えた。
五生が最後まで山に居り、宮として居座ったのは知っているが、五生がその後配下と同様に人と交わったのか、それとも山で命を散らしたのかは誰も知らない。
しかし、結果的に五宮は天狗が全員逃げ出すという形で幕を下ろした。
「そして残るは私達だけ」
もはや苦笑しかない。お互い周囲の宮が消えて、それすら慣れてよくここまで長い間天狗を続けたものだ。七宮は立地的にも深い山でなかなか人が立ち入れない。それが幸いしたのもあって、未だ絶対の結界を気付いている。
逆に二宮は人里と寺と言う関わりを持つ事で、人里とうまく溶け合って永らえた。
「でもね、七矢さま。私ももうお別れを……この人生に幕を下ろす、お暇する時がきたようなのです」
微笑んで告げられたその言葉に愕然として七矢は息を止めた。思えば二刃は自分と違ってかなり年老いている。宮を務めてもう数百年、天狗としての寿命が来たのだろう。
「……ほう、ですか……」
さすがに七矢にも堪えた。まさか自分が最後になるとは……。あれだけ宮を嫌がり、憎んでさえいるこの地位に己が一番長く馴染むとは。
「……新宮は」
短く問う。ここで四練なら泣きそうになりながら在位を強請っただろう。六仁ならぶっきらぼうにも別れの言葉を告げたかもしれない。五生なら、苦笑しながら労いの言葉を。八嶋なら……。
今はもういない自分を時には支えてくれた宮たち。彼らのように言葉を掛けることすら出来ない。
「もちろん、居ります。私以上にのほほんとしていますから、七矢さまのお気をわずらわせないとよいのですが」
「そないなこと、ありますまい」
七矢は俯く。自分はいつでも置いて行かれる側で、手を伸ばしても届くことはなくて。
――でも、それがふさわしい罰なのだろう。鶯を求めた己の、宮と言う罰。
「七矢さまは、徐々にですが変わられましたな。いいえ、時がこれだけ経っておるのですから、変わるのが当たり前でしょう。仮面をしていてもあなたの感情が伝わってきます」
七矢ははっとして二刃を見た。
「此度、ここに参ったのは、新宮に継承する前にどうしてもあなたにお伝えすることがあります。私の命が続く限りでしか守れない秘密を、携えております」
「……秘密、ですかや」
はい、とにっこり笑う二刃はいたずらっ子のように七矢に頷いた。
「実は……数百年前、七宮を抜けた鶯殿を預かっていたのは我が宮なのです」
「え」
七矢は驚いて、二刃を見る。そんなことをすれば、道主さまになんと言われたか。
「事情があったのです。その事情をあなたが見る覚悟があるならば、二宮北宮、卯の花という場所に、独りでお越しになるとよい。鶯殿が遺したものが見られます」
二刃はそう言って軽く七矢の額に触れた。その時に二宮の指定された場所の光景が見える。場所を教えてくれたのだ。七矢は当惑して二刃を見る。
「ああ、そうだ。事前の連絡は不要です。私が宮であるうちはあなたが望むなら何度でも足をお運び頂いて構いません。誰もあなたが来たからと言って咎めもしなければ、挨拶にも来ないでしょう。私もそのつもりです。だから、勝手に来て、帰って下さって構いませんからね」
二刃は笑って言うと、翼を羽ばたかせた。来た時とは別にあっさり空に飛び上がり、二宮の方角へ飛び去った。後には訳のわからない七矢だけが残される。
七矢は七宮を配下に任せて、二宮に向けて飛翔を始めた。わざわざ二刃が宮を降りる決意を言い、退位の前に鶯が暮らしたという場所に来てみろという。
道主、天狗達に挑み、そして七矢自身が討ち取った天狗・鶯。七矢が唯一心の底から欲し、信じ、愛し、そして、殺した天狗。
紅の影が飛ぶ間に思うのはその事ばかりだ。愛していたのに、なぜ殺したのか。愛していたのになぜ追放したのか。もっといい術があったのではないか。そう考えたことは何度もあり、しかし、別の選択を出来るだろうかとも思う。
「この辺りのはず」
もう二宮の領分に入っている。しかし、二刃が言いつけたのか、そういう風習の宮なのか誰も出て来はしない。七矢ほどの者が入れば、異変を感じそうなものだが。
七矢はそのまま二刃が教えてくれた場所を目指す。すると、そこには結界が張られているのがわかった。全ての侵入を拒むような結界。七矢は穢れに染まった鶯が滞在した場所を二刃が封じているのかと考えた。それなら自分に穢れを払えと言ってくれるのは二刃なりの優しさだろう。
七矢は結界を壊さないよう、かといって結界に己の力を送り込み、するりと強固な結界の中に入り込んだ。
「……穢れてはおらぬようだ」
深い森の中には清浄な空気に満ちている。川のせせらぎの音が聞こえた。二宮の森は七宮と違って暗くはない。他の宮がそうなのかもしれない。木々がみずみずしい印象を受けた。
七矢は一人なのを思い出し、仮面を取った。彼女の残滓に会うならば、彼女の前だけでそうしたように仮面を外し、素顔を晒しておくのがいい気がしたのだ。想い出の中だけでもそうすれば彼女が笑う気がしたから。ふっと微笑んで、七矢は一人、想い出を持ちながら森を散策する。
すると、せせらぎの音が近づくと同時に、天狗の気配を感じた。
「……」
七矢の目が見開かれる。視界に入ったものの姿を認めて。
「……もしかして」
雛独特の高い声。鶯色の髪は短く項で結ばれた量も少ない。大きな明るい黄色い瞳。黒い衣に、小さな漆黒の翼。
「てて様かや」
七矢はどう見ても天狗、それも烏天狗の雛としか思えない小さな姿を認めた。己と同じ色の瞳、鶯と同じ髪色。その答えは一つしかない。
――いいの、証が残せれば。
鶯と交わした言葉がよみがえる。そして二刃の言葉も。
――事情があったのです。
鶯は七矢との間に子を成したのだ。そして二刃に協力してもらい、それを今まで隠し育てた。それが、目の前にいる雛。正真正銘の二人の証。
「……そなた、名は」
七矢は歩み寄って、雛の前に膝をついた。優しく雛の頬を撫でる。
「ない。かか様はてて様に頂けと言った。だから訊く。てて様かや」
七矢は無言で雛を抱きしめた。目頭が熱い。雛は最初驚いたようだが、ぎこちなく、七矢の背に手をまわした。
より一層愛しさが募って、七矢はしばらく雛の頭を優しく撫でた。
「――そなたの名を、七矢としよう」
七矢は優しく、やわらかく、雛に向けて己の名を告げた。
雛の記憶に残る風景はこの山と、そしてかか様と過ごした日々だ。かか様は自分と同じ髪色をしていて、時に優しく、時に厳しく、己が一人で生きていくために必要な事、天狗と言う種族として必要な技を教えてくれた。
母子二匹の日々は他の天狗の侵入を阻み、永遠に雛は母親との日々を過ごすのだと思っていた。夜、母は雛の目を覗き込み、微笑む。
「お前の目は父と同じで綺麗だ」
何度もそう言われ、そう言われた時に、未だ在ったこともない父の話を聞いた。父は母と同じ時に生まれた天狗で、互いに仲もよく互いに認め合う仲だったと。お互いに愛し合い、そしてお前が生まれたのだと告げる母の顔はとても幸せそうだった。
雛は二匹で育ったから、子には両親がいて当たり前だと言う生き物概念も、天狗は子を成さないという概念もなかったし、母もそれを教えなかった。
ただ、母はお前には父がいること、二人が愛し合って己が生まれたことを聞いた。
「てて様はいずこにおるの、かか様」
在る日、雛は母親に尋ねた。すると母親は寂しそうな顔をして言う。
「てて様はお前を見捨てたわけではない。てて様はどうしても離れられない場所にいるの。かか様がてて様と離れなければなくなったのは、かか様が罪を犯したから」
「罪……」
母は詳しくは教えてくれなかったが、天狗は母子だけのような生活ではなく、本来群れて生活している。
群れならば、それなりに規律が生まれ、母は侵してはならないことをした。故に、母は父と別れ、故郷を離れたのだと語った。
「てて様はかか様を愛していたのに、一緒にきてはくれなかったのかや」
純粋にそう感じた。ここにまだ見ぬ父がいたら時折見せる寂しそうな顔を母は見せないのにと思いながら。生きているなら会いに来てくれてもいいのに。
「てて様はかか様のために泣いてくれたの。だからいいのよ」
かか様が言う。天狗は本来泣かないもの。だから涙を流してくれた父を今でも想うのだと言う。
「てて様の全てが愛おしかった。お前と同じ位かか様はてて様を愛しているの」
いつもそう言って父を想っていた。どれだけ父が綺麗だったか、どれだけ父が強かったか、どれだけ父が優しかったか。そんなのろけのような話でも訊いていて嬉しく、雛は父の姿をいつも思い描いていた。
他の天狗に会ったことがない雛は比較のしようがなかったが、いつも父の姿をいつか現れたりしないか待っていた。
在る日。
「お前はもう十分一人前に成長した。だからこれからは一人で生きておゆき」
母がそう告げた。何を言われているか理解できずにいたが、言葉がじんわり胸に染みる頃には叫んでいた。
母が用事と言って数日いないだけでも寂しいのに、そんなことはできないと。
「いいえ。今度はてて様がお前の傍に来てくれる。だから安心おし」
「てて様が。せやったらかか様もおればええじゃない。かか様とてて様で過ごせば……」
「ううん。かか様はどうしてもしなければならないことがある。だけど、お前が心配で今までできなかった。お前はもう一人で生きていける。だから、お願い。かか様の望みを果たさせて」
目の前に座りこんで、雛と目線を合わせ、真剣に言う姿に雛は涙が滲んだ。これが泣くということなのだ。父は母との別れで流した涙なのだ。父も母が別れる時に、去って行ってほしくなかったのだ。寂しく、悲しかったのだ。
「お前が次に会う者がお前のてて様。てて様に会って、そして……てて様に名を貰いなさい。お前だけの、お前を呼ぶ度に、お前の魂が自由に在れるように。名を頂きなさい」
「なまえ」
「そう。お前を表す言葉だ。お前の魂を縛る、お前だけの言葉」
母はそう言って雛を抱きしめた。背中を優しく撫でられる。
「どうしてかか様がくれないの」
「僕がお前を生んだ。身体を、産み落とした。だから、てて様にお前の心を生んでもらいなさい」
身を離して母が微笑む。その微笑みがとても儚く、美しかった。
「これを、あげる」
母はそう言って片方の耳についていた黒い耳環を外し、雛の方耳に付けた。
「てて様に昔、かか様が貰ったかか様の宝物」
ふっと笑って立ち上がった母に倣おうとした雛は耳から力が吸いとられ、意識を失った。
――それから目覚めて、かか様を感じなかった。かか様は自分の前からいなくなってしまった。その哀しみが押し寄せようとする時に、雛の前に何かが来た。あまりにも大きい存在をした何か。
「てて様……かもしれん」
母は言った。次に会うのが父だと。なら、この存在は父だろう。そうっと木々の間からのぞき見る。森には目立つ赤い色。歩くたびに森の空気が震え、その存在を歓迎しているように見えた。
すると、相手がふっと自分を見た。見開かれた瞳。自分と同じ色合いをしていた。だから、直感的にわかったのかもしれない。
「もしかして」
言葉は先に飛び出ていた。
――お前のてて様は綺麗なんよ。
かか様はそれは幸せそうに何度も雛にそう言った。綺麗な夜の月を映したような明るい黄色の目。黒に近い紺色の髪。紅の衣。白い顔。
「てて様かや」
相手は当惑した様子もなかった。ただ、驚き、その後全てを納得した様子で雛に近寄った。
そして母がしてくれたように、膝を折って、正面から雛の瞳と己の瞳を合わせる。眼差しがとてもやさしい。母が愛したという父。その父が、あれだけ待ちわびて、想像した父が目の前にいる。
雛が想像したより儚く、美しく、そして優しげで。やわらかな月光のような、天狗。背にある翼はとても大きく、時折緑や紫に光って艶のある漆黒の羽だった。
「……そなた、名は」
父は優しく雛の頬を撫で、そう問いかけてくれた。だから応える。この目の前の者が父と、己のどこかが納得してしまっているから。
「ない。かか様はてて様に頂けと言った。だから訊く。てて様かや」
父は無言で雛を抱きしめた。母がよくそうしてくれたように。温かく、全てを包み込む父の腕の中は、なぜか母と同じ匂いがした。無意識に父に抱きつく。よく母にそうしたように。
すると、父は優しく雛の頭を何度も撫でくれた。父と雛はしばらく抱き合い、父はふいに雛を離し、また目を覗き込んで、やわらかく言った。
「――そなたの名を、七矢としよう」
この瞬間から雛は七矢となった。その日、父はずっと七矢の側にいた。七矢を膝の上に抱き上げて、特に会話をすることもなく、一緒にいた。
日が陰って来た頃、父は言った。
「明日、また会いに来る。待っていてくれるか」
「かか様は」
初めて母の存在を父に尋ねた。父がやっと会いに来たのだ。母も喜ぶだろう。しかし、父は静かに首を振った。
「かか様がお前に会うことはもう、ない。だから今度は私がそなたと共に在ろう」
絶望的な一言を父は言い、そして七矢に一緒にいる約束をしてくれた。その通りに、翌日日が昇ってしばらくしてから父は再び七矢の前に姿を現した。
父は母と違って話すことはあまりなかったが、ずっと七矢を抱いているか、七矢の手を握っていてくれた。そして口以上に雄弁に語る目でずっと七矢を優しく見守ってくれた。
そんな日がしばらく続き、父は七矢に母のことを教えてくれるか、と問いかけた。だから、七矢はうれしくなって母との想い出を身振り手振りを使って話す。思い出すと母と会えない寂しさが募ったが、優しく見守る父を見ていると、寂しさは薄れていって、もっと教えてあげよう。と意気込んで山の中で父をあちらこちらへと連れまわした。
しかし嫌な顔一つせず、疲れた様子もなく、父はにこにことそんな七矢を幸せそうに見守り、一緒にいてくれた。母が教えてくれたこと、母と一緒にしたこと、母の想い出は覚えている限り、父に教えてあげた。
そうするうちにぽつり、ぽつりと父も母と同様に、母の想い出話をしてくれた。母は父が優しく、美しく、恥ずかしがり屋だと言っていた。父は母の事を明るくて、元気で気高いと言った。
母が父のことを遠く離れても信じ、最後まで愛し続けたように、父も母の事を信じ、愛しているのだとわかって七矢はうれしかった。
「七矢」
父に穏やかに名前を呼ばれるのは、母と一緒に寝たときと同じ位うれしく、安心した。母が父を優しいと言う理由はこの声と気性と雰囲気に在ると感じた。母が愛したその性質を確かに七矢も好きだと思ったのだ。
「七矢は、この山を出たことはないのか」
父はそう七矢に問いかける。七矢は母にそれを禁じられていたと言った。すると父はしばらく考え込み、もう一つ七矢に問いかけた。
「では、七矢は飛んだことはないのかや」
「うん。地からあの木の枝位までならある」
「ふむ。それは飛ぶとは言わんな。跳ぶのは翼がのうてもできる」
父はそう言って七矢を抱き上げた。
「烏天狗ならば飛べねばなるまい。空駆けは楽しいぞ。かか様は大好きやった」
「やってみたい」
母が好きだと言う、飛ぶ行為を、その前に背に在る翼をはばたかせてみたいと純粋に思ったのだ。すると父はにっこり笑いながら頷いて、七矢を胸に抱き寄せた。七矢は父に背を向けたまま抱かれる。
「では、飛ぼう」
父の立派な翼が開く。音を立てて羽ばたかれた翼が風を起こした。二三回羽ばたいたあと、ふわりと父の身体が浮く。
「えぇ」
身体が浮いた事、それを翼がもたらせている事。それに七矢は驚いた。
「驚くのははやい。これから飛翔を始めるさかいな」
父がそう言ったと思った瞬間、ぐぅーんと加速する。抱かれた父の腕にしがみついた。父の羽ばたきの音が少なくなったと思ったら、いつの間にか風を切っていた。
「七矢、目をあけてみ。見て御覧」
父にそう言われ、恐る恐る目をあけると、そこには小さい天の様な木々がはるか下に見える。
「あれがそなたが居った森や。ここは二宮。かか様は二宮の宮さまとどう取り交わしたかは知らんが、そこでずっとそなたを護り、育てた」
見知った小川や木々がはるか下に見える。
「ここは山神・道主さまが治める山。山は八つに分かれておる。それぞれの山一つを『宮』と呼ぶ。ここは二宮。道主さまが二番目に分けた山じゃ。山は天狗によって護られておる。天狗が我ら。天狗の種類によって分けられた天狗たちは集団で山を、悪しきものから護ることを定められておる」
「それは、道主さまにそう命じられておるということかや」
「否。生まれたその時からそれ以外の事を知らぬということになろう。天狗たちは皆一番に山を護る事を使命として生きておるのじゃ。私も、かか様もそうやった。あそこ、遠くに薄く色づいた壁のようなものがあるやろう」
父の示す先に、確かに薄い灰色の何かが、山全体をうっすらと覆っている。
「あれが結界。天狗達が張る、山を隠匿し、絶対守護をするための囲い。天狗達は宮の指示の元、絶えず結界を張り、山を異境とする。さっき山を宮と呼ぶと言うたな。天狗たちは集団で護るとも言った。集団で群れる天狗を指揮する長、各宮に一匹居るその天狗のこともまた、『宮』と呼ぶ。一つの宮に一匹の宮がおる。道主さまが天狗らに与えた宮は全部で八つ。今残る山は二つじゃ。今、この眼下に広がる二宮」
父はそう言って二宮の上空を飛びまわった。おかげで七矢にも二宮の全体像がわかってきた。
「八つあったんに、なぜ今は二つしかないねや」
「ほやな。なぜ失われたかは私も知らぬ。じゃから、七矢。一緒にこれから見て回ろう、私と」
父はそう言った。その時は父がどうしてそう言ったのかわからなかった。ただ、今までいた場所以外の山を、場所を見せてくれるということが嬉しくてたまらなかったのだ。
その後、父は根気よく七矢に飛び方を教えた。使わなかったせいで、小さいままだった翼は、飛翔の練習のおかげで、ぐんぐん羽が成長し、翼と呼んで良い代物となった。己の身体より大きい漆黒の翼が七矢には誇らしく、その成長と比例し、飛距離や早さも瞬く間に伸びて言った。
父と並んで空を飛ぶことが出来て嬉しかった。きっといつか父と同じような立派な翼を持てるのだと思うと今から楽しみでしかたなかった。父は二宮の上空を七矢が疲れる事無く飛べるようになって、そして父と同じ速度で連続して飛翔が可能になって初めて、全てを見る旅に出ようと言ってくれた。喜んで七矢は父の後を追ったものだ。