第十話 一支 後編
十和と雛を探す九威の姿は日増しに哀しげなものとなっていった。見つからない。しかし己の意思を変えることも出来ない、そんな姿。誰の言葉ももう耳に入らない。九威のその姿は恐ろしいものへと変わろうとしていた。
二菜と五女はそれを危惧し、道主さまに姿だけでもみせてやってはどうかと掛け合うくらいだった。優しい八重はその姿に心を痛め、誰もが心配し始める。しかし、誰も道主さまに意見はしても、反対はしない。一支はどうなってしまうのかをただ待つかのようにずっと眺めていた。
「七夜」
一支の隣に夜、七夜が訪れる。彼は夜を司る唯一の天狗。休む道主さまを護る夜の彼は闇夜に溶け込み、気配が希薄になる。もともと天狗は昼夜関係ない生活を送っているが、夜に強いのは夜を混ぜた七夜だけだった。
「九威と十和。交わると思うか」
「……道主さまがそう望まれるなら、儂らがそうあれば……」
「違う」
七夜は一支の言葉を強い口調で切った。
「そなたに聞いておる。一支。そなたは我らとちごうて我らのことを知っておる。だから我らの代表として、そなたに聞いて、確認したいのだ」
七夜は一支が初めて作られたが故に、刷り込みが完璧でないことを知っている。
「……無理やろな」
「ほうか。では次じゃ。九威と十和を山から逃がすんは道主さまの為になる思うか」
今度は道主さまと最も近く、最も長くいる一支に聞いている。
「……ならぬやろうな」
「では、どうするのが一番と、思う」
その答えは何度も考えた。一緒にいることは無理で、かといって手放すこともできない。道主さまのものでありながらも別れる道は……。
「覚えておいて欲しいのは、おれは十和の父親なんや。こいでも、な」
――二匹を雛と共に殺す。そこで彼らの存在を消してしまう。そうすれば二匹の思い出は共有でき、手放すというよりかは諦めがつく。それが唯一の解決策だと、密かに考えている一支の心を読むように七夜は言った。
「八重も悲しむ。きっと二菜と五女は後悔するのじゃろう」
「ほうやな」
変わることを恐れていた。でも、もう変わってしまっている。
「不変なぞ、ないゆうことやろうな」
七夜はそう言って笑うと闇夜に飛び立った。
「だけど、儂だけは道主さまに不変を約束してみせるえ」
さみしいかの神のためだけに共あり続けるためならば……。一支の決意は固くとも、道主さまが在り様を示すまでは一支は待っている。九威も十和も、できればすべてが丸く収まる道を探している。それが無理だとわかっていても。
「道主さま……」
軽く呟く。すると隣に気配があった。
「何ぞ呼びしか」
「いえ。申し訳ありませぬ」
「ほうか」
眠ることもできないしかし休む必要のある神の為に七夜は創られた。そうか、彼はもしかすれば二番目に道主さまと一緒にいるのかもしれない。
「十和と子供。如何なさいます」
「ほやな……九威が哀れではある。しかし手放せぬのよな。あれらはわしが創ったのと違うんに」
数が増えるその変化は道主さまにとっては新しい木々の目が出るようなことだったのだろう。しかし喪失の痛みを知りたくない。だからもがいている。
「手放しても、また創ればええのですよ。ほしたらきっと時間が痛みを消してくれますさかい」
「ほうかな」
「ほうですとも。儂があなたの隣でずっとそうやって支えていきますゆえ」
九威が言ったように創られた存在である我らは一時の身代わりのようになるかもしれない。一支が消えても道主さまはまた一支をつくるかもしれない。でも、今このとき、自分がある限り一支であれるなら、それでも構わない。
「それに時々帰ってきてもろたらええですやん」
「帰ってきてはくれぬじゃろう」
「でも、想うことはできますえ。今度は皆で一緒ですやん」
もうあなたは一人ではないと強調する。そう、殺すだけがやり方ではないだろう。変わっていってもかまわない。ずっと一緒にあれるなら。二度とこの寂しい神を孤独にしないで済むのならば。
「ほうかなぁ」
「ほうですとも」
後一押し、そのとき、山が揺れた。
「なんや」
一気に覚醒を促された。山に一気に悪い気が流れ込む。うっと一支がしゃがみこむ。このような悪い気が大量に山に降り注ぐことは初めてだった。おそらく覚醒したほかの天狗も同様になっているだろう。
「一支」
道主さまの言葉で我に返り、揺れる身体に鞭を打ってその場所へ向かう。
「十和を、子らを返せぇええ」
それは、穢れに染まった九威の姿だった。恨みを抱いて、狂ってしまった哀れな天狗の……。大勢悪いものと穢れを引き連れて山を荒し、十和の姿をさらしている。天狗としてどうにかしなければと思うものの、身体が重い。道主ははっとする。
「九威」
「返せぇえええ」
「九威、止めえ」
二菜と五女が叫ぶ。他の天狗も叫んだ。道主さまは顔を青くして九威を見ていた。その九威に向かって飛翔する影がある。闇夜から急に浮かび上がったような漆黒の翼。
「止め、九威」
七夜だった。大きな翼が風を起こし、九威の穢れを吹き払うようにその身体を押し返す。
「七夜」
「山を汚すことは許されん。それくらいはわかっていよう」
「では、十和を返すのじゃ、十和を」
九威はそう言って七夜に踊りかかる。七夜はしばらく九威と打ち合っていたが、やがて悟ったようだった。九威の意思が固く、変わらないことを。
「二菜、五女」
七夜が呼ばう。二匹ははっとして顔を上げた。
「済まぬ」
七夜がそう言って、九威の身体を貫いた。七夜は夜を司る天狗。夜のうちでは最強の天狗。一瞬で九威の心の臓を引きちぎって、その命を散らせる。べしゃり、と真っ赤な血が七矢を染め上げる。七夜は死んだ九威に目を向けず、九威が引き連れたほかの穢れを蹴散らしていく。
誰もが穢れとこれからを思って動けなかった。しかし七夜だけは現実を、今を見て、動いている。まるで何も感じていないかのように。そんなことはあり得ないのに。
「……九威」
道主さまが呟く。九威が山を襲ったことも。それを見て七夜が仲間を、同胞を殺したことも信じられないといったように。そして道主さまの術が解けたのだろう、どこからともなく十和と、雛が転がり出た。
「いやぁああ。九威、九威ぃいい」
十和の絶叫が響き渡る。転がるように十和が九威の亡骸に駆け寄って、絶命している九威を絶望して見つめる。ふっと顔を上げ、血に染まった七矢を見る。
「父上が、九威を……」
「せや」
「どうしてです。わたしらはそないにいけぬことを望みましたかや、ただ二匹で、一緒に過ごすことがそないに悪いことでしょうや」
あらかた侵入者を退治した七夜は娘の前で表情を変えることはなかった。
「悪い」
七夜の答えは短く一言。次の瞬間には十和が同じように貫かれていた。振り向きざまに十和と九威の血で濡れたその手で二匹の雛を殺す。べしゃりと血が降り注ぎ、その場に殺されたうらみがよどんでいく。
七夜は真っ赤な己の姿を一回眺め、静かに涙を流す八重に向かって微笑んだ。八重の目が見開かれる。
「だめ」
迷うことなく己の胸を貫こうとした七夜の手を八重が止めた。
「触れるな。そなたに穢れが移る。我は障害とあらばためらいなく殺す。この闇が、夜がある限りは、我に勝てるものは存在せぬ。我の時間。我の罪の時間。そんなもの……必要ない」
七夜の腕を抱きしめて八重が叫んだ。
「なら私はそんなあなたを照らす朝日になるわ。あなたが闇の中で戦うならそれを止める黎明になる。私があなたを止める導、夜を明かす光になるわ」
「……八重」
「じゃ、あたしは原因を作ったものとしてあんたを夜に引きずりこむ夕闇を引き連れよう。だから、あんただけの罪じゃない。あんたの罪をあたしも負うよ」
五女が七夜にそう言って彼のもう片方の手を取った。
「ならおれはお前を照らす光になろう。お前が昼日中は心休まるよう、お前を天空から見下ろす日の光になろう。お前が罪を犯すならそれを許す光になろう」
二菜がそう言う。夜だから七夜が殺したのではない。九威が戻れないと思ったから殺したのだ。おそらく、一支も同じ思いと知って、決心したに違いない。
「済みませぬ、道主さま」
七夜が頭を垂れる。自分で物事を考えられるようになっていたのは一支だけではない。八匹それぞれがそれぞれの思いを持って今、在る。
「叶えよう、そなたらの思い」
道主さまが言った。泣けない孤独なさみしいかみさま。独りを嫌う寂しい我らだけの。道主さまの手によってこの場が七矢が清められる。
「道主さま」
一支が声をかけた。
「我が間違っていたのじゃろう。我の寂しさゆえにそなたらを生み出し、そしてそなたらを思い通りに動かして箱庭を作った我が、此度のことのすべての原因じゃ。すまなんだ、七夜。すまなんだ、八重。二菜。五女」
「そないなこと、ありませぬ」
二菜が呟いた。皆が頷く。たとえ間違っていたとしても我らにはあなただけがすべてです。
「変えよう。ここから。始めるのじゃ、今から。われらの在り様を。……変わらぬものなぞ、ないのじゃ」
道主さまがそう言った。
「我の山を八つに分けよう。その一つ一つをそなたらに任す。そなたらの山として、育み、在り様を示して見せよ。そなたらをそこでの主とし、そなたらが護り、次代へと引き継ぐのじゃ」
「我々を引き離すのですか、道主さま」
四嬉が不安げに言った。道主さまが頷く。
「ずっと一緒におったらええのだと思うておった。外を無くし、内輪の中で暮らせればよいと。でもそれでも変わっていくのが常。そなたらが変わっていくのに、我がそれを留めてしまう。それではそなたらが苦しかろう。九威や十和のように、苦しく耐えられぬようになろう」
先が見えない未来。在り様を示せない過去。変わらぬ現在。それではいつか崩壊が来る。
「でも、それでは道主さまは如何なさいます」
三伽が心配そうに言った。
「我も我自身を八つに分ける」
「道主さま……」
「ほいで、そなたらと共にあることにする」
「そいは……どないですか、道主さま」
「我は山。山と共にあり、山そのもの。せやから山を分ければ我自身も別れる。そなたらの名と身体の一部を我と繋いで我はそなたらと共に、この山のうつりゆきを眺めよう。そなたらと共に居れるなら、きっと怖くない。きっと寂しゅうない」
道主さまが微笑む。一支は何も言わない。あなたがそう決めたなら、言うことなど―なにもない。
「わけても同じようにおれるのですかや」
「無理やろう。おそらくまずこの姿は取れまい。会話は……条件付けがあれば出来ぬこともないか」
「そんなの、やです」
六実が泣くような小声で言う。
「道主さまとお会いできなくなるの、いやです」
「いいや。我はそなたらと共にあるのじゃ。言うなればずっと一緒じゃ」
道主さまは六見を撫でて、一同を見渡す。
「ほしたらいつか、そなたらが消えるとき、我も一緒に消えることができるじゃろう」
死ぬことが出来ない神の身で、死ぬことができる可能性として道主は言う。
「そなたらと共にありたい。そなたらがいない変化なら、我は受け入れることなぞできぬから」
ならばいっそ、一緒にこの身を消してしまおう。
「決意は固いのですな」
一支が初めて口を開く。
「応」
「では、何も申しますまい」
一支がそう言ったことによって、誰もがそれに頷いた。
「皆、我に髪を寄越せ。それを依り代とする。そして名を……そなたらの頭文字で我を縛ろう」
道主さまはそう言って微笑み、まず、山を八つにわけた。その境に神気が通る力のある道を作り出す。
「これを『天狗道』とする。この道を通ったものは何であれ我らのような『天狗もどき』を作り出す。力がたまり、そこから生まれたものも同義じゃ。そなたらは似たものを仲間として招きいれ、そなたらだけの山を作るがよい。我はそれをそなたらと共に見守ろう」
ふっと自嘲するように道主さまが続ける。
「別にしばらく隔絶した世界を維持するだけのこと。天狗と名乗っても構わなかろう。しかし本家本元に会うと混乱するやもしれぬな。そなたら以降に生まれた天狗は基本的に己の山から出さぬ方がよいかもしれぬ。それと天狗道を通ったものは我の刷り込みが入るが、それ以外はできぬゆえ、雌雄間での子を作ることは禁じよう。我のわがままに付き合ってくりゃるかえ」
今度は道主さまが寂しさを紛らわす為の永遠の箱庭としての山ではない。道主さまが消えるまで共にあるための山々になるのだ。己の本分を山を護ることとする天狗として。道主さまの力が続く限り。
「構いませぬ。儂らを作ったあなたのため、今度はあなたが消えるまでご一緒するだけにございます」
一支が言った。
「ありがとう。そいから今度からは我の力が及ばぬゆえ、そなたらが結界を立ち上げて外界と山とを遮断するのだぞ。もう我は力を使わぬ。ゆえに、そなたらも永遠の命ではもう、なくなるじゃろう。そうなったら次代を選び、我と引き合わせ、我を引き継がせよ」
「御意」
全員がそう言って頭を垂れた。
「ほや、道主さま。我らそうなれば我らと他の天狗との区別が欲しいとこですわ。なんせ道主さまと共に在るお役目ですさかい、呼びわけては如何か」
四嬉がそう言って提案する。確かに山を護る主となるのだから、区別があってもいいだろう。
「『宮』にしたらええんと違います。人らは主の住まう場所をそう言いますね」
五女が言った。二菜も頷く。
「では一つ目の山『一宮』を授ける。一支、髪を」
茶色い一支の髪をぶつりと項で切って道主さまに渡す。するとその髪を道主さまが身の内に入れ、笑う。
「『一』この名を持って我を縛る。『一支』、一宮を統べ、そなたがかの山を慈しみ、育て、見届けよ」
「御意」
一支がそう言った瞬間に、大いなる力が見のうちに入り込む。己の狩衣の色が深い紫色に染まった。
「そなたにわしの好きな色を送ろう。共に在れ、一支」
「はい」
道主さまは次に二菜の方を向いた。
「九威は悪いことをした。『二』の名で我を縛れ。『二宮』を任すぞ、『二菜』。天の太陽の如く、昼日中でも明るく世を照らし、世を知ることに長けよ。そなたには人から生まれた天狗を任す」
「御意」
二菜がそう言うと、彼の狩衣は真っ白に染まる。
「次に三伽。『三』の名で我を縛れ。『三宮』をそなたに、『三伽』。木々から生まれたそなたには春を一番に送ろう。そなたを中心に芽吹かせて、そなたの護る山を緑で豊かにせよ」
「承りました」
三伽の狩衣は若草色。三伽の様子を見て、四嬉が前に進み出た。くすりと笑って髪を受け取った道主さまは四嬉に声を掛ける。
「『四』の名でわしを縛れ。『四宮』をそなたに、『四嬉』。明るく活発なそなたらしい、夏のような元気な宮を作れ」
「はい」
元気いっぱいに答える彼の狩衣の色は山吹のような明るい黄色。
「五女。次はそなただ。『五』の名でわしを縛ってくれるか」
「はい、よろこんで、道主さま」
九威を殺すこととなってしまった彼女に道主さまはそう声をかけ、彼女もまた応える。
「では『五宮』をそなたに、『五女』。そなたが望むよう、夕闇を引き連れ、穏やかな夜を願う夕闇をそなたに任せる。すべての雌はそなたに、そなただけの、雌だけの宮を作ることを許す」
「はい」
彼女の狩衣は藍色に染まる。まるで夜と夕方の境目のようなどこまでも続く藍色だった。
「六実」
呼ばれて小さな天狗が駆け寄る。その天狗に向かって手を翳し、彼を成長させた道主さまは微笑む。
「いままでよく頑張ったな。木の葉天狗として堂々たれ。『六』の名でわしを縛ることを許す。そしてこの山で一番の樹をそなたと共にあれるよう任そう。木々を生い茂らせ、山を育み、そしてすべてを洗い流す雨となれ。『六宮』を頼むぞ、『六実』」
「はいっ」
青い狩衣を堂々と翻す六実を満足そうに道主さまは見た。そして赤く染まった狩衣のままの天狗に声を掛ける。
「七夜」
「はい」
「一番辛い目に合わせたな、すまぬ」
「いえ、これが我の役目でありますれば」
夜の危機を排除するのが烏天狗である七夜の役目だと、七夜自身がそう思って生きてきた。
「『七』の名で我を縛れ。『七宮』を任す、『七夜』。夜を司る烏天狗の宮をそなたに。穢れを恐れず、我らを護る剣たれ。そなたには戦いを厭わぬその勇気を他者から恐れを抱かせぬように……仮面をやろう。夜はそなたの時間。夜はそなただけのもの。夜がある限り、そなたは最強であろう」
七夜の狩衣は血の赤ではなく紅色に染まり、その顔に鳥を模した仮面がはまる。
「承知しました」
「最後に、『八重』。そなたに『八宮』を任す。『八』の名で我を縛り、七夜の夜を終わらせる灯火たらんことを願って、永久に七宮の隣で七夜を支えてやってほしい。明るき夜明けの光たれ。そなたにはこの色を送ろう」
そうして八重の狩衣が鮮やかに橙色に染まった。八重は頷いて七夜のそばに立った。七夜もそれに寄り添う。八匹の髪を受け入れ、八匹に己を分け与えた道主さまの身体は透けるようになり、残りの夜闇を取り入れる如く黒くなっていく。
「『八天狗』たれ。この場所に我の意識を残しておこう。この場所でのみ、己の中の我と会話をしよう。そして我に教えて欲しい。営みとは何か、死と生を。限りある生と、かわりゆく世を」
「御意」
色鮮やかな天狗たちが頭を垂れる。それを満足げに見下ろして、一つ頷くと道主さまの姿は消えていた。八匹が再び頭を上げたとき、そこにいとしい神の姿はなく、その喪失に嘆き、そして身のうちに確かにある神の欠片を大事に抱えて八匹は己の山へと飛び立ったのだった。
長い、永い時が経った。あれから季節は何度も巡り、そして月日が流れ、一支と共に山を分け与えられた宮たちは己の配下を増やし、山を護ることを第一に、道主さまに教えるがごとく、営みを続けた。
山そのものと、そして道主さまが寂しさから創りだした『天狗』という天狗であって天狗でないなにかの営みを。ただし、それはやはり紛い物だからか、営みと呼ぶのは相応しくなかった。天狗は、雄と雌の交わりを決して許さなかったからだ。
雌は、子を欲すような性を持つ尼天狗は全て五宮に生まれるようにし、それ以外は恋心を悟ることさえできないような天狗にしむけた。それは、道主さまの刷り込みのない天狗を恐れたのではない。初代の宮たち、子を成し、そして『天狗』を気付かせてしまった者らが己に課した事である。『
天狗』なら――山を第一に考えること。山はすなわち道主さまを指す。道主さまに生み出され、道主さまを守るためにあるのだとその身にしみこませるように生まれた時から自覚するように。決して他の生き物やアヤカシのように雌雄の性を求めない。子を成し、事実に気付いて今度こそ道主さまを哀しませない。
そう一支がきっぱりと決め、己の宮にはそれをひた隠し、定めた。他の宮もそれに倣った結果、『天狗』同士は子を成せないという事実が浸透した。そして『天狗』の本分は山を護ること、という性を一番に出させることに成功した。
その頃から初代の宮は高齢になり、そして一匹、また一匹と息を引き取っていった。名前を引き継がせ、新しい『宮』に道主さまを譲り、その器となって。最後に、六宮の大樹が器を一新し、『天狗』の始まりを直接知る者は一支だけになった。
「だから、終いにしようと思います」
紫色の狩衣。翻る深い紫は冬の凍えた空の下、暮れる日と迎える夜の間、一瞬空を彩る夕闇の色。迫りくる漆黒の闇が一番似合う色だ。
「一支……」
深く思い山を表した声。だけど知っている。本当はもっと可憐な声だったことを。
「貴女の初めてはいつも儂でしたよな」
闇の中では何も姿を現すことはない。でも、瞼の裏に、その闇に在りし日の道主さまの姿がある。
「貴女が初めて儂を生んで、そして儂らが始まった」
「ほうじゃ。そちが一。そちだけが我を知る」
「儂はね、道主さま。この身に貴女の一部を頂いた時から、他に譲る気など、ありませんでしたよ」
くくっと笑う。天狗は人間で言う山伏の姿をし、その山伏は山に挑み、山に入って己を鍛える。その山伏は人の世で男と決まっている。なぜか、それは山が女だからだ。
山神は女を表す。だからこそ、山は女人禁制の修行場――修験道も同じ。山に女性が入ると営みが生じて、『天狗』は狂う。徹底的に女を排除した。それが功を期したかは知らない。だけど、雄である己が、この山神を愛していることだけが真実。
「そなたはこの長い月日を我と共に生きる、それだけのために費やした。そなたは我に山の営みなど、うつりゆく世など見せることはなく、いつもこの仔細しか変わらぬ冬のような寂しい山を治めた」
「なぜとは問われますな」
「わかっておる」
他が生き物として、移り行き、変わりゆく山を見せるなら。自分だけは神として寂しく、独りきりの哀れで愛おしい神のために、天とは違うだろうが変わらぬ世界を見せてみせる。
だから、一支は死ぬわけにはいかなかった。そのためなら山の気を吸い、発展し、育とうとする山を邪魔してまで己の生を伸ばし続けた。山を護る本分を一番悖っても。それが、一支の望みだったのだから。
――それが一宮が冬宮と呼ばれたことの答え。
「貴女の初めては必ず我であると、それが儂の幸せやった」
残念な事に宮として山を頂いてから死ぬことや宮の交替等は初めての経験を道主さまに与える役目は自分ではなかったが、初めての『天狗』が一支だったからこそ、譲れない初めてがあった。その為にだけにいままで生き延びて、そのためだけに山を貧相にした。
一宮の他の天狗は誰も知らない。他の宮も、初代の宮たちも誰も知らない、一支の望み、それが今やっと叶う。我々の始まりを知る者が居なくなった時に叶う、一支の願い。
「これが、我々の終焉」
貧相な冬のような枯れた山。静かで寂しい厳粛な山と宮。
「そして、儂の最後の我儘」
満足そうに微笑む一支。甘くやわらかく、愛しい山神のために―。
「貴女に『死』を差し上げる」
道主には今の一支の姿が、昔の姿に見えていた。すなわち頭は白くなく、茶色で若々しい姿。生まれたばかりの、自分の初めての『天狗』の姿を……。彼の笑顔と言葉にどれだけ救われ、支えられてきたことか。自分の望みを誰より早く理解した、まさに一番に支える『天狗』。
「一宮は新宮の継承は行いませぬ。儂が死に、儂の中の道主さまも死に、そして一宮は『天狗』の守護を外れ、もう道主さまのものではない、神の宿らぬ山となりましょう」
「初めての『死』をくれると、申すか」
「はい」
「我が長年得られず、そちらを作った理由となりし、全ての地の生き物にありし、それを我に」
「はい。終焉を初めて連れるのが儂が最後に貴女に差し上げるものとなりましょうや」
一支は微笑んで闇の中でも迷わず道主さまを想う。
「貴女の初めては全て儂のもの。それが儂の名を懸けた定めですよって」
道主は己を分け、その一つを宮となる天狗の器に宿している。それを行わずに宮が死ねば、その中の道主も一緒に消える―死ぬことになるのだろう。
だから、愛しい山神をずっと己の身に宿し続け、時を待っていた。道主さまの中で初めての経験を与えられるまで。初代の初めてを知る者がいてまた一支に倣われたら困るから、一支はずっと最後の一人になるのを待っていた。
だれも『天狗』の可能性と秘密を知る者が消えてこそ、初めて一支が死ぬ意味がある。
山が滅ぶ――それは人のせいと今ならだれもが考える。だが、事実はどうでもいい。山が滅ぶ――それは道主さまが少しずつ死ぬということ。
道主さまだけがわかってくれればいい。『死』という概念を。営みの最後にして始まりのその点を。神が決してできぬ経験を。一支が最初に与えられたら、満足なのだ。他の、今の宮たちが決して選ばないその道を。
「許してくださいますかや」
「許す。ありがとう、一支。最後まで我を……我を想い、我をよう支えてくりゃった」
「はい」
満面の笑顔で深い紫色の狩衣が紫色を保ったまま、そして一支の髪が長くなることは決してなく。足元から解けるようにして消えていく。それと同時に濃い闇の気配も薄れていく。一支が消えるのと同時に道主もまた、消えていく。
「これが、『死』か……」
「ただ、消えゆくこと。そしてそれ以上に残すことがあるもの。これが『死』です」
最後に一言、そう言って一支が散っていった。それと同時に闇が完全に晴れ、寒々しい山に日が指す。
「宮さま」
「宮さまっ」
突然消えた宮と、その結界。
――この山は山であってもう、山ではない。一宮では決してない。
それでも山は、山であって。変わらずそこにある。でも、もう何かが違う。その場所にいた神と天狗は、もういないのだ。だから、新しい『山』としての営みが始まる。
突然消えた宮。配下の天狗は混乱し、当惑しながら残る命を山で過ごすかもしれないし、山を離れるかもしれない。いずれにしても、もう宮はいないし、もうないのだ。それを自由と取るか、苦痛と取るかは、彼らに無責任に委ねられた。
だが、山の有様を指し示す導のような守護の存在が消えて、そこには新しい営みと、新しい時代が来る。
……ほらそこに、春の兆し。新芽は山神の守護が無くとも日の光で目覚めることができる。
痛いほどの静寂と、厳しい冬を乗り越えた山の本質が顔を出そうと動き出す。ほの暗い紫色の夕闇が晴れて、あたたかな春の日差しは山全体を照らし、そうして新しい命が芽吹く。
本来の姿か否かは関係ない。そこに神がいなくとも、宮が消えても山自体の営みが潰えることはないのだろう。
――だから、そこは誰もが命咲かせる山なのだ。
第十話 「一支」終.