次はお前たちです
その船に、意味を与えたのはリオナでした。
橙がただノアと呼んでいたものを、戦艦ノアとして世間へ通したのは、あの子です。
物の名前を決めるのは、だいたい人間の仕事です。
そして人間の言葉で通った名前は、やがて人間の国を動かします。
なら、名前を先に奪っておけばいい。
あの子は、そういうところをよくわかっていました。
お母様は、おそらくもっと早かったのでしょう。
あの船が、私を取り戻すためにあるのではなく。
私が見捨てると決めた国から、それでも連れ出すべき者たちを運ぶためのものだと。
きっと、とっくに見抜いていたのです。
だから、離れていても大丈夫でした。
私は石を投げられた。
私は聖女の札を捨てた。
私は魔王で構わないと決めた。
その全部を、別々の場所にいるあの人たちが、それぞれのやり方で拾ってくれる。
そんな気がしていました。
以心伝心、などというと、少し気持ちが悪いでしょうか。
でも、実際そうなのです。
だって、私たちはもう、同じものを見ていましたから。
人間の国に、救う価値はない。
けれど、その国の中で踏みにじられてきた者たちには、まだ救う価値がある。
その一点で、みんな綺麗に揃っていたのです。
◆
最初に困ったのは、王国でした。
それまで当たり前のように、そこにいたものが、急にいなくなる。
しかも、犬や猫のように目立つところから消えるのではありません。
もっと厄介です。
荷を運んでいた者がいなくなる。
水路の脇で重いものを支えていた者がいなくなる。
外壁の内側へ惹かれながら、それでも人間の暮らしの中に押し込められていた者がいなくなる。
名簿にも誇りにも残らず、ただ便利だから使われてきた者たちが、まとめていなくなる。
すると、途端に世界は軋みます。
ああ、あれは誰かがやっていたのだと。
あれは黙って耐えてくれていただけなのだと。
失ってから初めて、気付くのです。
遅いのですけれど。
戦艦ノアの甲板に立ち、私は海風を受けながら、岸の方を眺めていました。
遠く、霞んだ岸辺。
見張りの旗。
右往左往する影。
追いかけて来たいのでしょう。
けれど追いつけない。
あの船がどういうものか、こちらほどにはわかっていないからです。
お母様の指揮が遺憾なく発揮され、その辺の有象無象からも救い上げました。
お母様はとってもすごいのです。
リオナが帳面を閉じました。
ラヴィは手すりに腰掛けて、耳を揺らしていました。
ハピィは上から戻って来て、翼をたたみます。
「王国側、すごい顔してるよ。」
「でしょうね。」
「今さら返してって言っても、無理なのにね。」
「ええ。無理よ。」
返して。
その一言に、全部詰まっています。
返してほしいのは、罪悪感の軽い世界です。
黙って働いてくれるイシュの民です。
聖女という便利な札です。
悪法のせいにしておけば済む、簡単な物語です。
でも、もう返しません。
イシュの民は、物ではありません。
都合のよい沈黙でもありません。
まして、あなたたちの国を支えるために配置された部品でもありません。
ノアには、王国中から集めたイシュの民たちがいました。
誰一人として、降ろしてくれとは言いませんでした。
それが答えです。
帰る場所は、ある。
少なくとも、ここではない。
そのことだけは、みんなわかっていたのでしょう。
国家樹立宣言。
国交樹立式典。
あとから付く名前は、きっとそんなところです。
もっと立派な文言になって、もっと綺麗な式次第が組まれて、もっと歴史らしく語り直されるのでしょう。
そしてその旗の一番上に立つのは、クローバーの悲願です。
それで構いません。
むしろ、その方がいい。
あの人は、女王である前に、ずっと待っていたのでしょうから。
イシュの民が、人間に抱え込まれたままではなく、自分たちの名で立てる日を。
私は、そこへ勝手に便乗するだけです。
お母様が流れを作る。
リオナが名を通す。
クローバーが旗を立てる。
ならば私は、その全部を勝手に自分の勝ち筋として使います。
魔王らしいでしょう。
◆
でも、これで終わりではありませんでした。
王国の中から連れ出せば、それで全部片づくほど、この世界は狭くないからです。
公国にもいる。
教国にもいる。
帝国にもいる。
名前の違う支配の下で、同じように働かされ、同じように沈黙を強いられ、同じように怒れないまま使い潰されているイシュの民が、まだまだいる。
だったら、次はお前たちです。
そう思ったとき、ようやく胸の奥が静かになりました。
王国を切るだけでは足りなかったのです。
私は、この世界がどれほど広くイシュの民を抱え込み、どれほど雑に使っているかを、もう知ってしまった。
知ってしまった以上、王国だけで手を止める理由がありません。
リオナが、静かに地図を広げました。
お母様は、その横で腕を組んでいます。
クローバーの名が、遠い旗のように立っている。
そして私は、その全部を見ながら、指先で世界をなぞりました。
「針路を変えましょう。」
「どちらへ。」
問うたのはリオナです。
でも、たぶん、その場の全員が同じことを思っていました。
王国は終わり。
次はどこか。
「世界。」
私は答えました。
ハピィが翼を半ばまで広げました。
ラヴィは耳をぴんと立てました。
カールは二本の尻尾を揺らします。
いい顔です。
誰かを待つ顔ではない。
次に何をどうするべきかを、すでに考え尽くしていた顔。
私は、その顔が好きでした。
「次はお前たちです。」
ただ、それだけです。
そうして、私たちの最初の一手は終わりました。
次の一手は、もう始まっていました。
――と。
そこまで言ってから、私たちは少しだけ可笑しくなりました。
まるで、魔王みたい、と。
そんなふうに、すぐ隣で笑った気配がして、一緒に大笑い。
誰にも見えない場所で、私と同じところを見ている。
そんな相棒と、今度はどんな物語を紡ごうかしら。




