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聖女の次は、魔王ですか

 石を投げた人たちは、たぶん、自分たちが何を壊したのか、よくわかっていませんでした。


 私の頬を裂いたのが、ただの皮膚ではなく、聖女という看板だったことも。

 その看板が、誰のために掛けられていたのかも。

 そして、その看板を壊したあとに、自分たちがどれほど困るのかも。


 聖女。


 誰が言い始めたのでしょう。

 たぶん、最初は祈りの格好が珍しかったから。

 両手を合わせて、いただきます、ご馳走様と唱えるだけで、あの街の人たちは勝手にありがたいものを見たような顔をしました。


 可愛いものです。


 日本じゃ、食前の挨拶なんて、もっとずっと雑でした。

 いただきますと言いながらテレビを見て、箸を伸ばし、好き嫌いで怒られて。

 ご馳走様だって、口の中にまだご飯粒が残っていたりしました。


 でもこの国では違いました。

 知らない仕草は、ありがたいものに見える。

 ありがたいものは、上に置かれる。

 上に置かれたものは、便利な札になる。


 それだけのことだったのです。


 私はただ、犬猫を殺すのをやめさせたかっただけでした。

 ただ、見つけた子どもたちに、少しはまともな寝床を与えたかっただけでした。

 ただ、むやみに生き物を虐げることを禁ず。

 その一文を通したかっただけでした。


 なのに、人は勝手に意味を足していきます。


 法を作ったのは、聖女。

 孤児院を作ったのも、聖女。

 動物を守るのも、獣人を囲うのも、全部、聖女。


 おかげで私の名前は、本人より先に歩き出しました。

 外壁の内側では、ありがたい札。

 外壁の外側では、怖ろしい札。

 どちらでも、本当の私がどう考えたかなんて、誰も見ていませんでした。


 そういうものなのでしょう。


 怒りも、恥も、怖さも。

 全部まとめて、誰かの物語の飾りにされていく。


 そのやり方を、一番上手にやっていたのが、人間の国でした。


 獣人たちを都合よく使っておいて、見たくないものは見なかったことにする。

 怒れないことを穏やかさと呼び、穏やかさを従順さと呼び、従順さを当然のように使う。

 そうして暮らしが少し傾いたら、今度は悪法だと泣き出す。


 悪法。


 これもまた、ずいぶん勝手な名前です。

 法に守られていた者が、それでもなお足りないと喚くとき、だいたいこういう語が出てきます。


 聖女の悪法。


 いい響きでしょう。

 持ち上げる時にも、突き落とす時にも、同じ札が使えるのですから。

 本当に便利です。


 だから私は、あの石が頬をかすめた瞬間、ようやく腑に落ちました。


 聖女なんて、都合のいい札でした。


 それ以上でも、それ以下でもなかったのです。


 門の外。

 少し離れたところにいた、耳と尾を持つ人たち。

 誰も石を持たず、誰も怒鳴らず、ただ怯えたように様子をうかがっていた人たち。

 あの人たちは、私を聖女だと思って見ていたのでしょうか。


 違いますね。


 あの人たちは、そんな立派な札を見ていたのではありません。

 ただ、怒らずにいられなかった誰かを見ていた。

 それだけです。


 そこが、人間たちと決定的に違いました。


 私が何と呼ばれるかではなく、私が何をしたかを見ていた。

 石を投げられて、それでもそちらを見たこと。

 自分たちではなく、自分たちを踏んできた側を切ると決めたこと。


 それを見ていた。


 だから私は、あの場で腹が決まったのです。


 聖女は、あちらにくれてやります。

 あの人たちが好きなのは、どうせ中身ではなく札なのですから。

 お好きなだけ、空っぽの看板を拝めばいい。


 その代わり、私は次の名前を貰います。


 ええ、貰うのではなく、使うと言った方が正しいでしょうか。

 どうせまた、誰かが貼ってくるのです。

 なら、その札が一番よく働く位置へ、こちらから立ってやればいい。


 ◆


 聖女の次は、魔王ですか。


 結構。


 獣人たちを連れて消える女。

 王国の都合を切り捨てる女。

 怒りを持ち得る者たちを、もう一度まとめてしまう女。

 そういうものを、人はたいてい魔王と呼びたがります。


 なら、魔王で構いません。


 その方が、話が早い。

 聖女のままでは、求められるのは赦しだけです。

 許して、助けて、面倒を見て、今まで通りこちらを支えて。

 そんなもの、もう飽きました。


 魔王なら違う。


 怯えてくれる。

 警戒してくれる。

 勝手に線を引いてくれる。

 こちらが二度と、あちらの都合のよい顔へ戻らなくて済む。


 ひどい言い方でしょうか。

 でも、人間の国とは、そういう距離の取り方しか知らない相手でした。


 セバスが、私の少し後ろで静かに息を吐きました。


「お嬢様。」

「なに。」

「お顔が、少し楽しそうです。」

「そうかしら。」

「ええ。とても。」


 私は少しだけ考えて、それから認めることにしました。


「そうね。少し、すっきりしたかもしれない。」


 聖女でいるあいだは、何をしても、あちらの秩序の中へ回収されました。

 犬猫を守っても、飾り。

 子どもを拾っても、飾り。

 法を通しても、札。

 苦しんでも、祈っても、全部まとめて誰かの物語の中に閉じ込められる。


 でも、魔王なら違います。

 回収されない。

 最初から、あちらの外側に置かれる。


 それは、きっと悪いことばかりではありません。


 悪い名前を引き受けることでしか、守れないものもあるのです。


 私は頬の傷をなぞりました。

 乾いた血が、指先にざらりと引っかかります。


 聖女の札は、ここで終わり。


 なら次は、魔王の番です。


「マイヤー。」

「はい。」

「人間たちは、きっとこれから私を怖がるわ。」

「はい。」

「いいことね。」


 マイヤーは少しだけ微笑んで、それから、まるで何かの儀式に付き従うみたいに、一歩だけ私の斜め後ろへ下がりました。


「ええ。とても。」


 あちらの内側では、ざわめきがまだ続いていました。

 誰が悪い、どちらが本物、どちらが偽物、そうやって都合よく札を貼り替える声。


 好きになさい。

 もう、その遊びに付き合う気はありません。


 聖女の次は、魔王ですか。


 なら、まずは手始めに。

 あなたたちの国から、獣人を一人残らず持っていきましょう。

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本編 転生、水の都の悪役令嬢——私、悪くないもん!—— 最初から読む
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