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石を投げたのは、昨日まで犬を蹴っていた手でした

 石は二つ飛んできました。


 一つは頬をかすめ、もう一つは足元で砕けました。

 砕けた白い欠片が、私の靴のつま先を汚します。


 聖女様の悪法のせいで暮らしが立ち行かない。

 そう叫んだ男は、ついこのあいだまで犬を蹴り、猫の尻尾を踏み、道端に転がる血を見て笑っていた男でした。


 なるほど、と思いました。


 この国は、救う価値がないのかもしれません。


 けれど、つい先ほどまでの私は、そんなふうには考えていませんでした。

 少し前までの私は、まだ、この国をどうにかできると信じていたのです。


 たまに、あの噴水の音を思い出します。

 私の世界がひっくり返った、あの日のことを。


 真っ白な部屋も、神様らしい存在もありませんでした。

 気付いたら私は、水の都の噴水の縁に腰掛けていました。

 見たことのない街。

 白い石畳。

 赤い屋根。

 頭の上を横切る水道橋。

 内側にすり鉢のように傾いた巨大な外壁。


 異世界転生。


 そんな言葉が頭を過りました。

 笑ってしまうほど、軽い言葉でした。

 けれど、笑って済ませられる景色ではありませんでした。


 私は水をたどりました。

 きらきら光る水路を。

 活気ある通りを。

 ずんぐりとしたトカゲみたいな馬に引かれる馬車の群れを。

 外壁の内側に広がる、黄金の穀倉地を。


 そして、見てしまったのです。


 外壁の中、空中に浮かぶ巨大な青い結晶。

 そこから滝のように流れ落ちる水。

 街を生かすすべての水が、空から生まれていました。


 日本じゃない。


 帰れない。


 その確信が胸に落ちた瞬間、私は泣きました。

 お母さん、と。

 おばあちゃん、と。

 それから、謝れないまま置いてきた友達の名を呼んで。



 泣き腫らした顔で外壁を出た私に、リオナは言いました。


 お嬢様、そろそろご帰宅のお時間でございます。


 お嬢様。

 そう呼ばれて差し出したのは、胸元の二枚合わせの硬貨のような首飾り。

 それがこの世界の私の証でした。


 屋敷に連れて帰られ、私は辺境伯の娘だと知らされました。

 リル。

 それがこの世界での私の名前でした。


 では、怒る権利もあるのでしょう。

 それが、次の日にわかりました。


 翌日、リオナに連れられて外壁の外へ出ました。

 門のすぐ外には宿場町があり、その向こうには畑と家畜のいる集落が広がっていました。

 私はそこで初めて獣人を見ました。

 耳や尾のある人たち。

 日本では作りものの記号でしかなかったものが、そこでは息をしていました。


 そのときの私は、まだ呑気でした。

 ずいぶん可愛い耳だな、などと思っていたのです。


 だから、視界の端に転がるものに気付いたとき、最初は理解できませんでした。


 犬。

 猫。

 死骸でした。


 捨てたみたいに転がされていました。

 お腹には、刃物で裂かれたような傷がありました。

 事故ではありませんでした。

 誰かが、そうすると決めて、殺したのです。


 熱いものが、一気に胸まで込み上げてきました。


 許せない。


 それは転生の感動でも、異世界への戸惑いでもありませんでした。

 ただ、目の前の理不尽に対する、あまりに単純な怒りでした。


 私は屋敷へ走り戻り、領主の執務室に怒鳴り込みました。

 馴染みのない父、エレガン辺境伯。

 翌日になって母と知った、筋骨隆々の女、ドーラ。

 役人のネロとオクパトス。


 全員の顔なんてよく覚えていません。

 ただ、自分が何を言ったかだけは覚えています。


 やめさせて。

 犬も猫も、あんなふうに殺していいわけがないでしょう。


 子どもの癇癪で終わるはずだったのだと思います。

 けれど大人たちは笑いませんでした。

 むしろ、動いたのです。


 そうして生まれたのが、鳥獣憐みの令でした。


 むやみに生き物を虐げることを禁ず。


 たったそれだけのはずでした。

 なのに法は広がりました。

 犬猫期、害獣期、家畜期、獣人期。

 私が見たくなかった傷を塞ぐたび、別の場所にひびが入りました。


 私の名を冠した孤児院が建てられました。

 冷ややかな目を浴びながら、私は行き場のない子を見つけては連れて行きました。

 奴隷制度の闇に呑まれていた子も、獣人の血を引いて居場所をなくした子も、そこでなら少しは眠れました。


 私は正しいことをしているつもりでした。


「私、悪くないもん!」


 けれどそんな私の叫びが、むなしく響き渡ったのです。

 人は簡単に忘れます。


 犬を蹴った人間が、法に縛られる側へ回る。

 猫を切り裂いた人間が、暮らしが苦しいと泣く。

 そして、法を作った私に石を投げる。


 聖女の悪法。


 誰かがそう呼び始めました。

 両手を合わせて食前に祈るだけで、聖女と持ち上げた同じ口でした。


 私は砕けた石の欠片を見下ろし、それから、石を投げた男の向こうを見ました。


 門の外。


 少し離れたところに、耳と尾を持つ人たち。

 誰も石を持っていませんでした。

 誰も怒鳴っていませんでした。

 ただ、怯えたように、様子をうかがっていました。


 ああ、そうか、と私は思いました。


 最初から、守りたかったのはこっちでした。


 犬や猫に手をかける人間ではない。

 この街の豊かさを支えながら、怒ることすら許されず、黙って搾られている側です。


 私は頬の血を指で拭いました。

 赤い。

 たったこれだけで、腹の底がすっきりしました。


 もういい。


 この国は、ここで切ります。


 リオナ、と私は呼びました。


 背の高い侍女は、少しだけ目を見開き、それから、昔からそうすると決まっていたみたいに一礼しました。


「はい。お嬢様。」


「私、もう人間の国のためには動かない。」


 遠くで、風が鳴っていました。

 外壁の向こう、水の都が光っていました。

 それでもそのときの私には、あの街が、少しも美しく見えませんでした。


「見なさい。我が新たな国の国民となる者たちが、一斉に押し寄せて来たわ。」


 石を投げた男が、ようやく青ざめた顔をしました。

 遅いのです。


 私が本気で怒ったのは、これが二度目です。

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