①呪われた赤い屋根の館
1899年12月24日、午後7時。
不穏な月が煌々と雲を突き抜ける、吹雪の夜。
冷たいネス湖のほとりに聳え立つ、赤い屋根の館。
かつては貴族に所有されていた由緒ある館だ。しかしその貴族もやはり、悪知恵の働く人狼に騙されて没落してしまった。
上流階級の間ではそのゴシップで持ちきりだった。
以来、人気はめっきり無くなり、呪われた館として忌み嫌われていた。
そんな折、人狼を崇拝する哀れな男が、この館を破格の値段で買い取った。そして巷のオカルトの流行に乗り、人狼博物館として再生させようと目論んだ。
彼はその景気付けに、人狼とゆかりのある数名の変人を館に招待した。
この物語はそこから始まる。
馬車から降りた赤いコートの女が、吹雪の中を、館へ向かってよろめきながら歩いて行く。固い扉をかじかむ手でノックした。
古い木製の扉がゆっくりと重々しく開いた。シャンデリアの灯が女の顔を照らした。
うやうやしく女を出迎えたのは、銀髪の上品な老執事。いや、立ち居振る舞いこそ上品だが、睨め付ける様な目つきと口許の歪んだ笑みには、隠しきれない下品さが漂っていた。
赤いコートの女「あの、有名な奴隷商人のビルが主催する、怪談の集いの会場はこちらでよろしくて?」
執事「秘密の合言葉をどうぞ、マダム。」
赤いコートの女「人狼、万歳。」
執事「間違いありませんよ。お名前をお願いできますかな?」
赤いコートの女「マリアンヌ。ブルターニュの踊り子よ。」
執事「マリアンヌ嬢、よくぞいらっしゃいました。お館様は、マリアンヌ嬢がブルターニュで魔女裁判にかけられたお話について、興味津々でございますぞ。ささ、どうぞこちらへ。」
長旅で疲労困憊していたマリアンヌは、ブランデーを受け取ると暖炉のそばの長椅子に倒れこんだ。そして抜け目なく広間の家具や絵画を観察した。
(・・・ビルはまるで、この館を貴族の血筋も一緒に買い取ったのようね・・・あたしとは趣味が合わないわ。最下級の貴族の地位欲しさに寄付金を積み上げてご満悦だけれども、ふん、浅ましくも、御法度になった奴隷貿易で稼いだ金から、ほんのちょっぴり出しているだけで、偉そうに。それにここは、なんだか、気味の悪い館だわ・・・。)
マリアンヌは、ビルからの手紙を握り締め、悪趣味な金持ち連中と渡り合う心算をした。マリアンヌは魔女裁判の一件でパトロンと仲間を失い、心神喪失状態だった。そんなマリアンヌのもとへ届いたビルからの手紙にはこう書かれてあった。
―鬱屈した日々を過ごすジェントルマン・クラブの連中を、ほんの気まぐれで我が館に招待した。フランスの魔女よ、彼らを楽しませに来るがよい。君の不幸な身の上話が聞ける日を心から楽しみにしている。 呪われた館の主 ビル―
一介の踊り子であるマリアンヌには、上流階級の新しいパトロンを見つける以外に、生きていく道は無かった。衰弱した心身を奮い立たせ、ビルが同封した乗船券を片手に、フランスの凍てつく港町から、スコットランドの湖畔の吹雪吹き荒れる館へと向かった。
虚空を睨むマリアの横顔が、暖炉の灯に美しく照らされている時、誰かが規則正しく玄関の扉をノックする音が聞こえた。執事が扉を開けると、赤い羽根付帽子を被ったひょろ長い男性が、帽子のつばに手を当てて挨拶した。
フランク「こんばんは。この館の主人に雇われた小説家のフランクです。今夜の一部始終を、ひとつ残さず書き留めろと言われました。」
執事「秘密の合言葉をお願いします。」
フランク「人狼、万歳。・・・人狼の言葉の研究に熱心な、ビルらしい合言葉だ。」
マリアンヌ「あら!人狼が人間の言葉を使うんじゃあなくって、人間が人狼の言葉を使うの!?ビルがそこまで変わり者だったなんて、あたし知らなかったわ!」
マリアンヌはすっとんきょうな叫び声をあげて立ち上がった。ひらひらと舞うスカートのすそに、フランクとともに舞い込んできた雪が落ちた。フランクはマリアンヌの柔らかく揺れるブルネットと、少し上気した顔を捉えた。
フランク「おや、これは麗しい女性がいらっしゃる。しかもとびきりの美人だ。僕は小説家のフランク。お目にかかれて光栄です。」
マリアンヌ「マリアと呼んで、フランク。あなた、とても感じの良い方ね。」
マリアはにっこりとフランクに微笑みかけた。フランクは眩しそうに目を細めたが、うやうやしく右手を左胸に置いて、丁寧な口調で話しかけた。
フランク「美しいマリア、あなたの麗しい、フランス的な心地よいアクセントが、芸術家だった僕の母を思い出させます。どうかあなたに、親しみと懐かしさを感じてしまうことをお許しください。」
マリア「あら、そのすばらしい審美眼はフランス人のお母さま譲りなのね。それならその洞察力はどこで得たのかしら。」
フランク「父は厳格なイギリスの軍人でした・・・しかし僕は、ビルに雇われたしがない小説家に過ぎません。どうか、哀れに思ってこの吹雪の夜をともに過ごさせてください。万一あなたが恐ろしい目に合うなら、あなたを命がけで守りましょう。あなたはまるで美しい幻、吹雪の夜に咲く花のようだ、マリア。」
マリア「小説家って、心の内を正直に伝えるのがとっても上手なのね。」
マリアも屈託のない笑顔をフランクに向け、二人の笑い声が大広間に響いた。大広間の奥から、こきたない老人が、ウイスキーのボトルを片手によろよろと近づいてきた。
モブ爺「こりゃあ若い客人がた、ようこそいらっしゃった。ワシはここの主人のビルの狩仲間でね、なにかあるたびに、ただ酒を飲ませてもらっておる。」
さっきからずっと剥製の様に部屋の片隅に立っていた執事が、声を発した。
執事「お館様は今、先にいらっしゃったお客様の対応をなさっております。もうすぐ参りますので皆様、ブランデーを飲んでお待ちになってください。何かありましたら私どもにお申し付けください…。これ、サンドラ、お館様に、皆様お揃いだと伝えて来なさい。」
サンドラ「はい、かしこまりました。」
サンドラと呼ばれたメイドの少女は、静かに会釈すると幽霊のように足音も立てずに消え去った。サンドラは美しいブロンドの持ち主だが、何かに怯えるような生気の無い目をしていて、貧弱だった。
ビルの狩仲間だという赤ら顔の老人は、よろよろと大げさな身振り手振りで狩の自慢話を始めたが、マリアは退屈していた。フランクは狩の経験を聞かれても謙遜しながら老人を立てて、愛想よく相槌を打っていた。
やがてこの館の主人のビルが、二階の書斎から降りて来て客人に挨拶をした。
ビル「これは親愛なる友人たちよ、吹雪の中、こんなあばらやへようこそおいでになった。夕食を楽しみながら、互いの罪と呪いを語り合おうではないか。フランスの魔女マリアンヌ、まずはお前さんからじゃ。」
夕食の準備が整うと、家主ビル、招待客の踊り子マリアンヌ、小説家フランク、それからマリアンヌ達より先に来ていた、心霊研究家ニック、ニックの助手フレディ、投資家ショーン、冒険家クリスはめいめいの席に座った。ビルの狩仲間のモブ爺は、暖炉のそばで無作法に酒を飲んでいる。
執事とメイドのサンドラは、相変わらず陰気な顔でワインを注いでまわっていた。
ビルは恰幅の良い、渋みのある老紳士だ。白髪頭で上等のスーツを着ており、高圧的な雰囲気を醸し出していた。灰色の鋭い眼光で、客人の品定めをしている。上流階級の間では「人狼の言葉を囁く狂人」と噂されている悪評高い男だ。
ビル「さて、ここにお集まりの皆さんは、ずいぶん悪趣味な御仁ばかりのようじゃ。なんせ、19世紀最後の聖なる夜に呪われた館に集まって、ご自身の忌まわしい秘密を語り合おうとしておるのじゃから。」
冒険家のクリスがすかさず声を上げた。クリスは20代後半の、黒い豊かな巻き毛と、らんらんと輝く深緑色の眼を持つ、あごのがっしりとした金採掘者だ。少しルーズに着こなされた黒いスーツから、異国の煙草の匂いがする。不敵なまなざしを持ち、ミステリアスな雰囲気をまとっていた。
クリス「俺はアラスカで黄金探しをしている。世界各国の奇天烈な話なんざいくらでも話してやるさ。俺はここに、俺に金を出すやつを探しに来た。来年こそ一山当ててやる。俺は金が目当てだ。」
投資家のショーンが口を開いた。ショーンは40手前の、ぴっちりと分けた黒髪と、黒く静かな瞳を持つ男だ。表情は暗く、ぴりぴりとしていて厭世的だ。細部に至るまできちんとした身なりだが、その整然さが冷血な印象を与えた。
ショーン「まったく、僕も金の為にここまで来たが、まったくの期待外れだったねえ。ビル、こんな辺鄙な場所に人狼博物館を作ったって、有閑人の道楽にしかならんと見たよ!僕ぁ、金儲けしか趣味の無いつまらない人間だから、もうこんなところには興味がないねぇ。僕ぁ、ビル、君のように、人狼の言葉も話せやしないからねえ。」
心霊研究家のニックは、妙な薄ら笑いを浮かべながら話を聞いていた。ニックは30代半ばの、茶色く伸ばした髪の毛とひげを持つ男だ。黄金色の目は鋭く光り、先ほどからビルのおしゃべりに飽き飽きしている。顔立ちは男らしく整っているが、嘲笑的な嘘吐きの目をしていた。
ニック「しかし、心霊研究家として言わせてもらえば、さっき見せてもらったビルの書斎は、人狼の資料館としてはたいしたものだ。ジプシーの怪しげな伝記から、東洋の擦り切れた巻物に至るまで。
しかし、それでもまったく、僕もがっかりだよ。結局のところ、人狼については何にも分からなかったのだから。せっかくこうして、わざわざ狼憑きの男を連れてきたというのに。」
狼憑きと呼ばれた20代半ばの顔色の悪い男は、黒く長く乱れた前髪の隙間から、蛇のような暗い紫色の目と舌を出した。典型的なモルヒネ中毒の顔付きだ。上品さと邪悪さの漂う、端正で青白くこけた頬に、不気味な笑みを浮かべていた。美しい装飾のされたカフスボタンがきらりと光った。
フレディ「ククク・・・。俺は20年の間、毎晩、狼になって逃げる悪夢を見続けている。朝起きたら冷や汗をびっしょりかいて、ぐったりと疲れて、何もできやしない。薬漬けになってなんとか生きながらえる日々・・・そろそろ、悪夢と現実の区別がつかなくなりそうだァ・・・。」
マリアはフレディを哀れに思い、そっと十字を切った。
どうか、彼に神のご加護を!
小説家フランクは、手入れされたヘーゼル色の髪の毛を揺らして、にこやかに全体に話しかけた。
フランク「僕は、話下手な小説家ですが、個性豊かな皆さんにお会いできて嬉しいですよ。今夜は楽しくなりそうだ。もし、皆さんのお話を小説にして僕のメシのタネにしても、どうかこの吹雪の夜を共に生き延びたよしみに免じて、大目に見てくださいね。」
フランクはそう言うと、美しい所作でワインを飲み干し、茶目っ気たっぷりに笑った。