― 天道虫 ―
秋空は高く、鰯雲が強い風に千切れ、流されてゆく。
茜色の蜻蛉の群は、刈入を終えた田圃の上を悠々と舞い、その下で青鷺が、長い首をのべては、しきりと何かを啄ばんでいる。
「ちょっとお、ずるいわよっ」
そんな長閑な風景を、東西に割る街道に、一際賑やかな声が、
「だって、足が痛いんだもん」
する。
大きな荷車を引いた往来を急ぐ商人、父に手を引かれ家路へ急ぐ旅の親子、籠に揺られた遊山帰りのどこぞの素封家までも、視線は一様に、その一団へ。
確かに、その一団はこの街道に在って、浮いていた。
「、、、、、」
寡黙を決めこむのは、重たげな漆黒の狩衣を纏った若者。
長く垂らしただけの黒髪から、無機質な、透けるように白い肌が、覗いている。
陽射しに薄く開かれた眸は、不気味なくらいに黒く澄んで、さながら幽鬼の如き様相だ。
その若者の左隣、若者の腕をむんずと掴んで放さないのが、
「だいたい、あんた、そんなんなら、留守番してれば良かったじゃない」
鈴の音をさせる、細身の娘であった。
笠などは被らず、旅装束でもない。
若者とは対照的に、降り注ぐ陽光を歓迎するかのような、鮮やかな緋橙の旗袍≪チーパオ≫に、薄絹の領布≪ひれ≫を絡ませ、そのまま大陸の踊子が一座を抜け出して来たような、風情だ。
蟲惑的な、ぽってりとした唇を尖らせ、琥珀色の眸で見つめるその先で、
「タオフィこそ、どうして来たの?歩きは嫌だって、散々喚いていたじゃない」
負けじと言い返すのは、若者に背負われた真新しい水干を纏った、男童。
黒髪は十分に梳≪くしけず≫られ、きっちりと首の後ろで結われている。
毀れ落ちそうな大きな黒瞳の童は、身形のそれだけで、良家の出であると分かる。
「あ、あたしはっ、伯にもしもの事があったら大変だから、来てあげてるの」
快活を絵に描いたような娘、タオフィは、胸にしっかと抱いた若者、伯の腕を強く抱き直した。
上目遣いで睨め上げた先で、
≪ ほぅ、、、 ≫
白い溜息がひとつ、寒々と大気に流れた。
― だいたい蟲姫のため、つーのが気に喰わないっ ―
けして人目には付かぬが、もう一人。
妖艶な幽鬼、蟲姫が、昼下がりの陽射しの中で、うすぼんやりと浮かんでいる。
― あんたなんか、いなきゃ、、、 ―
すぐ傍らでぎりぎりと歯を軋ませ、鼻息荒いタオフィと、耳の後ろで黙る事を知らぬ蓉亜のやりとり。
たまりかねた伯が、
「うるせぇ、、、」
唸るように、本日何度目かの台詞を、低く吐き出した。
「はぁい。黙りまぁす」
素直に口を引き結んで、蓉亜は、伯の背中で眼を閉じる。
「ずっるーいっ」
タオフィに何と言われようが、この背を降りるものか。
この時ばかりは蓉亜、聞き分け良い子を、演じることにしたらしい。
まだ、花開かぬ蔓薔薇≪つるそうび≫に似た、甘さの無い、それでいて瑞々しい香りに包まれれば、どこに隠れていたのか、睡魔がやってくる。
早朝に都を出て、既に二刻余り。
ずっと歩き通しでは、さすがに子供の足では少々、堪えるのかもしれない。
「、、、、、」
やがて聞こえてきた小さな寝息を聞きながら、伯はつい先月、この街道を一人歩いた時の事を、ぼんやりと思い出していた。
今はすぐ傍らに在る、蟲姫。
他でもない。
今回は、その姿を探し、分け入ったあの森へ、向かっている、、、
話は、数日前に遡る。
「こうも雨が続くと、珍しい事も、あるものだな」
氷雨の中、古ぼけた門扉を叩き訪れたのは、
「、、、、、」
「こんにちは、狐の神さま」
馴染みの幼神と、その背から顔を覗かせた、
「ああ、よく来た。少し見ぬ間に、また背が伸びたな、蓉亜」
蓉亜。
長椅子に寝そべったままで二人を迎えたのは、屋敷の女主人こと、天狐遙絃。
その屋敷は、外界を皮肉るだけあって、色とりどりの蝶が舞い、小鳥がさえずる、まさに小春日和だ。
染みの如き雲、その一筋も見当たらぬ青々とした空が、眩しい芽生えの新緑が、ここには在る。
滅多な事では、そのしどけない体勢を正さぬ遙絃であるが、
「お、そなた、、、」
伯の懐の辺りから、陽炎の如く揺らめき立ち昇り、現れた主を見て、座り直した。
≪ お屋敷に、死霊の穢れを持ち込んだ事、まずお詫び致します、地仙 ≫
その揺らめく靄は、人の姿となると、深々と頭を下げた。
≪ おはつにおめもじ、つかまつります。蟲姫と、申します、、、 ≫
「うん。タオフィから聞いておる。顔をお上げ、、、」
その言葉に促され蝋たけた貌が、紅玉のそれよりも赤き眸が、可憐な血の色に染められた唇が、色を纏った。
≪ あっ、、、 ≫
その唇が、戦慄き、
≪ あなた、は、、、 ≫
秀麗な遙絃の貌に、震えた。
「ほ、、、私を、覚えていてくれたのかぇ?」
艶やかなその眼差しに、
≪ 忘れよう筈が、ありません、、、 ≫
たまらず蟲姫、子供のように頭を振った。
「そうか。嬉しい事だ、、、」
穏やかに微笑みながら、蟲姫を見つめる、遙絃。
その眼差しを受けてか、白い頬に、僅かだか朱が差した、
≪ あ、、、 ≫
蟲姫。
遙絃の眼差しから逃れるように、思わず、俯いた。
その様子を、少しながら憮然とした面持ちで眺めるのは、
「、、、、、」
伯だ。
その視線に気付いて、
「ああ、弟々《テイテイ》。あいにくと、付き合いは私の方が長くてな。そんな顔をするでないよ」
くつくつと喉を鳴らす遙絃に、蓉亜までもが伯を見上げた。
「していない、、、」
今度は、ありありと憤懣を湛える貌を、蓉亜が小首を傾げて見つめている。
≪ 主様。先の豪雨の時、私がした紅子の話しを、覚えておいでですか? ≫
「ああ、、、確か、牛の、、、」
≪ はい。その日、嵐が来るから高台にある別邸へ、と、ご忠告下さった旅の琵琶弾きこそ、紛れも無い。この御方でございます、、、 ≫
一夜の慰めにと、その生涯を未だ出逢わぬ音への探究に費やし、己が感性のままにこの大地を渡り歩く事を生業とする、流れの楽師。
纏う髪や眸の色こそ違うが、蟲姫は、その秀麗な貌を、鮮明に覚えていたらしい。
― ひと目どころか、得意の御節介まで焼いていたか、、、 ―
伯の胸中を他所に、
≪ そのご忠告が無ければ、皆、紅子と共に水に呑まれていたかもしれませぬ ≫
ふんわりと微笑み、頭を下げるのを、
「大昔の事。ほんの気紛れさ、、、」
遙絃は手で制した。
「え、何々?狐の神様と、蟲姫は、知り合いだったの?」
皆の顔を交互に眺めるのを、
「ああ、そうだよ、蓉亜。私は昔、人の姫に懸想して、あわよくばこの屋敷に、、、むむっ」
その口を、塞いだ者が、ある。
「地仙。それ以上は、若様には少々、刺激が強すぎるかと、、、」
「むぐぐ、、、」
それまで黙って茶器を操っていた、胡露である。
「え、どうして?みんな、わかるんでしょ?ずるいや」
蓉亜が皆を見回すのを、
「もう少し、、、そうさなぁ、胡露の背を抜いた頃にでも、話してやろうに、、、」
自由になった口で、遙絃が応じた。
不満げな蓉亜を他所に、向かいの長椅子に腰を下ろせば、
「つまらん、そう貌に書いてあるぞ、伯」
「、、、、、」
遙絃に図星され、菫色の鳳眼が、無言で睨んできた。
「氷箕飛鷺姫≪ひみのひさぎひめ≫に、もう一度見≪まみ≫えるとは、、、世の中、何があるともしれんな、、、」
胡露によって差し出された、蓋碗。
繊細な筆先でもって描かれた緋色の鳳と、凰が、立ち昇る薫風に、今にも舞踊りそうだ。
領布を細腕に絡ませた侍女らが、手に手に持ち寄ったのは、菓子の乗った盆。
花弁に糖衣を纏わせたものや、翡翠色も鮮やかな氷菓子、しろくぽってりとしてまろやかな蒸し菓子らが、覗いている。
早速、手を伸ばす蓉亜を、紺碧の双眸を眇めて眺めながら、
「わざわざ蟲姫を連れて来たのだ。単なるお前の気紛れではあるまい、弟々?」
煙管の吸い口に、丹唇を寄せた。
「、、、、、」
だんまりの伯に、
「今更、揺れるな。ここまで来たんだ。話せよ、伯、、、」
紫煙を細く吐き出しながら、促す。
朱鷺色の唇を蓋碗の淵につけ、舌を湿らせると、
「、、、どうにも、俺はあいつが苦手らしい」
伯はようやくぽつりと、呟いた。
その【あいつ】が、誰なのか?
どうやら、目尻を下げ、唇の端を引き上げた遙絃には、すぐに検討がついたらしい。
顔を見合わせる蓉亜と、蟲姫を他所に、
「蒼奘に、謀られた、、、」
右頬に手を当てたまま、憮然とそう胸中を、小さく吐露したのだった。
数日続いた、時雨。
天狐の屋敷を訪れる日より、四日程前。
空にはまだ雨の気配無く、からりと晴れ渡った秋空は高く、橙に黄色の淵が鮮やかな凧が、連なって風をはらんでいる。
「燕おじっ、ど、どうすればいいの?!これ!!」
甲高い蓉亜の声に、
「しっかり持っていろ、蓉亜。離すなよ」
腰に手をやって、自作の凧を満足気に眺めるのが、燕倪。
≪ もうあんなに、高くまで、、、 ≫
燦燦と降り注ぐ陽光の中、茫洋と揺れる陽炎の如き幽鬼は、蟲姫。
蓉亜の傍らで、幼子のような眸でもって、空を見上げている。
「糸はちゃんと張れよ。風を知れ」
「そ、んなこと言われたってっ」
「弛ませるな。往来に落っこっちまうぞ?」
「うぅうっ」
初めて凧糸を預かる蓉亜のうろたえぶりなど、なんのその。
相変わらずの、男である。
「、、、、、」
釣殿で、しゃれこうべを枕に寝そべっていた伯は、
「たまには、君も混ざってきたら?」
傍らで、空になった杯に瓶子を傾ける男を、一瞥。
「冗談、、、」
そのまま、孔雀石から彫りだした杯に満たされた酒を、一息に干した。
細い喉が動くのを、闇色の切れ長の双眸で眺めながら、今日は珍しく屋敷の内に在る蒼奘が、伯の酒の相手を務めている。
蒼奘が御所に出仕していないのを聞きつけてか、非番の燕倪が訪ねて来たのが、昼過ぎ。
庭で、蓉亜と燕倪が暢気に凧揚げなどを楽しむ様を肴に、伯も、楓の梢から降りてきたところであった。
微かに草木の香りを含んだ大池を渡る風が、長く頬に掛かる群青の髪を揺らし、肌をくすぐる。
犬歯を覗かせ、大きくあくびをしながら寝そべれば、腕の下に在ったはずのしゃれこうべが、飴色に磨かれた床の上で滑って、転がった。
「、、、、、」
その黒く空ろな眼窩が、鼻先にある。
小作りな、頭蓋骨。
庭先へやった菫色鳳眼の眼差しの先に、無邪気に空へと手を伸ばす、蟲姫の姿。
「ぁふ」
もうひとつ、小さくあくびが、出た。
睡魔が、じわりじわりと、意識を侵蝕し始めている。
心地よい、鬩ぎ合い。
伯の瞼が、幾度が瞬きし、
「ねぇ、伯?」
鼻先にあったはずのしゃれこうべが、消えていた。
「、、、、、」
眠りを邪魔され、忌々しげに見上げた先、
「陽光の元に在っても、臆しない。まったく、不自然なまでに丈夫なものだと、思ったこと、ないかい?」
膝に、しゃれこうべを置いた、蒼奘の姿。
「、、、、、」
それでも、構わず瞼を閉じようものなら、
「地仙を欠いた大地が、どのような顛末を迎えるか、、、君は、知っている?」
「、、、、、」
うつ伏せになって、腕に頬を預ける。
― 相変わらず、歯にものが挟まった物言いを、しやがる、、、 ―
伯が知る、この蒼奘。
終始、穏やかな物腰なのだが、時折、どうにも捻くれた一面が覘くのを、否めない。
当人曰く、悪びれる事無く、『そのまま僕は、ずるい人間なんだよ』、と言う。
濡れたような輝きを宿す菫色の眸が、飴色の床に映りこむ雲の姿を、眺めながら、
― 何かを、俺は見落としているのか、、、? ―
それでも自身に問いかけたのは、その人柄を今では、よく知っているため。
「、、、、、」
そのまま、まんじりともしない伯を、蒼奘の闇色の眸が、いつもの穏やかな眼差しで見つめる。
≪ あ、、、 ≫
小さな蟲姫の悲鳴に続き、
「あぁあッ」
蓉亜の叫び声。
「む、、、凧糸が、堪えきれんかったか?!」
鈍色の眼を凝らして、燕倪が空を睨んだ。
風に揉まれながら遠ざかる、連凧。
どうも突風に、凧糸が切れてしまったらしい。
踵を返すその大きな背中に、
≪ 燕倪様、わたくしも、お手伝いを、、、 ≫
蟲姫の赤光放つ眸が、子供のように輝いた。
「おうっ、蟲姫、助かる」
連なり、風に流されつつも舞い落ちてゆく凧を追って、燕倪が駆け出して行った。
続いて、ふよふよと舞い上がる蟲姫を眺めつつ、
― 燕倪のやつ、屋敷の外に出ちまったら、蟲姫の姿を捉えられやしないだろう、、、 ―
伯は、陽炎のように揺らめき遠ざかる様を、ぼんやりと見送った。
一人取り残され、
「もう、、、」
頬を膨らませ、ぱたぱたと忙しない足音をさせて駆けてくるのは、蓉亜。
草履を脱ぐのももどかしく、蒼奘の膝に入れば、
「蓉亜、燕倪と一緒に探しに行かないの?」
大きな手が、我が子の癖の無い黒髪を、愛おしげに撫でた。
こぼれんばかりの大きな眸で、その人を見上げると、
「うん。ああなると、燕おじ、僕を待ってくれないもの」
これには、容易に想像できてしまったのか、蒼奘が小さく笑った。
【笑い事にしないで】、とばかりに口を尖らせたところで、
「旦那様、陰陽寮より、稀水殿がいらっしゃいましたが、、、」
琲瑠の声が、掛かった。
「ああ。来たかい」
しゃれこうべを蓉亜に預けると、
「ごめんね、吾子?父は、行かなきゃ、、、」
蒼奘はゆっくりと立ち上がった。
「せっかくお休みなのに、、、お仕事?」
皆、いなくなってしまって、不満げな蓉亜の顔。
「蓉亜」
闇色の眼差しが、我が子を見つめて、
「青梅池の結界を、検めに行くつまらないお仕事だけど、父と、一緒に行くかい?」
「えっ」
思わず眉を上げ、黒瞳を輝かせる様に、眼を眇めた。
次に、父子の眼差しが交錯し、
『伯』
その声が、重なった。
傍らで寝そべったまま、瓶子に手を伸ばす、伯。
「いかん」
白磁のそれには、まだ酒が半分以上も、残っていた。
酒が床に毀れえるのにも構わず、横着をして杯に注ぐ様を眺め、
「吾子、伯は行かないようだけれど、おまえはどうしたい?」
懐紙を取り出し、濡れた床を拭えば、酒特有の芳香が甘く、辺りに、漂った。
蓉亜は、伯の背中を睨み、
「じゃ、僕も行かない」
ふてくされたように、父に言った。
「分かったよ。それじゃあ、、、」
大きな手が、いつものように頭に置かれた。
「いい子にして、父の帰りを、待ってておくれ」
この子の親であるという、喜び。
蒼奘のその仕草には、いつだってそれが、溢れている。
琲瑠と共に、釣殿を後にするその背を見送って、
「、、、、、」
蓉亜は、傍らで背を向けたまま杯を離さない伯を、見つめた。
長く、鋭く伸ばされた桃色の爪。
その爪先が抓むのは、プラムパープルの顆粒の連なり。
勝間より届けられた、山葡萄だ
朱鷺色の薄い唇に吸い込まれると、そのまま器用に房だけが引き出された。
どこで覚えてきたのか、粗野なその食べ方を、蓉亜も寝そべって両手に頬を預けた姿勢でもって見守った。
種を噛み砕く音が、する。
杯に残った酒で飲み下して、
「、、、なんだ?」
もの言いたげにこちらを見つめる蓉亜を菫色鳳眼が、一瞥。
「つまんない」
「言ってろ、、、」
毎度毎度、相手にできるか、と瓶子に手を伸ばして、
「つまんなぁいっ」
「むっ、、、」
腕を掴まれた。
瓶子が傾き、
「あっ」
「、、、ったく」
舌打ちに続いて、倒れる寸でのところで腕に抱き寄せた伯の呟き。
事なきをえた瓶子を、抱いて立ち上がると、
「じきに、あいつらが帰ってくるだろう」
「じきって、あとどれくらい?」
「、、、天狐の屋敷にタオフィを訪ねろ。どうせ暇してやがる」
「伯だっておんなじじゃない。お酒飲んで、寝てるだけじゃないか」
「俺は客神だ」
鴉羽色の狩衣の袖が、翻った。
歩み去ろうとするその背に、
「そんなのおかしいや。そーゆーぐうたらしてるのは、いそうろうって、言うんだからっ」
なんだか口惜しい蓉亜が叫べば、
「ふ、、、」
鼻で一笑されてしまった。
渡殿の欄干を飛び越え、大池の向こう。
どこぞの水鳥が忘れた浮き羽を足がかりに、波紋一つを水面に刻み、ふわりと木立の中へと舞い消えた。
見物も肴も尽きて、いつもの古巣に、戻る事にしたのだろう。
「も~っ」
蓉亜は、仰向けに寝転んだ。
腹の上には苛立ちと、蟲姫のしゃれこうべ。
もの言わぬ黒い眼窩が、こちらを見つめている。
手に滑らかなその青白いしゃれこうべを、蓉亜は放り上げた。
もっとも、人の頭蓋骨などと言われても、こうしていざ手の中にあると、今ひとつぴんと来ないのだけれども、、、
放り投げては、受け取り、また、放り投げる。
蟲姫が見たら、なんと言うか?
そんなこと、これっぽっちも考えず、蓉亜の手の中で、蟲姫のしゃれこうべは上へ、下へ。
もの言いたげな眼窩も、規則正しく居並ぶ歯円も、頚骨があったところにぽっかりと空く穴も、くるくると緩やかな回転をかけて、蓉亜の手の中へ戻ってくる。
― 誰か早く来ないと、天井に当てちゃうんだから、、、 ―
一度目よりも、二度目は高く。
苛立ち紛れの、八つ当たり。
あと少しで、こちらを睨む鳳凰の描かれた天井に当たると言う時だった。
「ん?」
小さな輝きが、眼窩の向こうに見えた気が、した。
ポスッ…
手の中におさまったしゃれこうべを、蓉亜はまじまじと眺めた。
覘き込んだ、二つあいた穴の向こう。
「暗くて、よく見えないや」
今度は、
「ううんッ」
顎の辺りに触れ、力を込める。
しかし、
「む、無理っ」
容易に開くと思った口は、頑として動いてはくれなかった。
小さく開いた鼻のあった場所は端から諦めて、しゃれこうべを回らせれば、
「お」
顎の下、頚骨があったところに、乳色の日差しが降り注いだ。
「んんー、、、」
均一に優美な曲線を描く、しゃれこうべの内側。
二つの眼窩の先には、飴色の床が見えて、蓉亜は眼を凝らし、
「あっ、、、」
小さく声を上げた。
一度顔を離すと、手を入れて、
「?」
爪が、硬いものに触れる音が、カリカリとした。
引き出した手を見つめ、もう一度、頭蓋骨の中を覗き、
「は、、、伯っ!!」
蓉亜は、弾かれたように、立ち上がっていた。
そして、しゃれこうべを小脇に、異形の守役の姿を探して、駆け出したのだった。
それは、しゃれこうべにぽっかりと空いた穴から、こちらをつぶらな瞳で見つめていた。
「、、、、、」
否、黒瞳に、小さく歪んだ己の姿を映しているが、実際こちらを見つめているのかまでは、分からない。
それ程までに【そいつ】の黒瞳は小さく、その視線を判別するのは、難しかった。
「、、、、、」
持ち上げて、覗き込めば、
「ねぇ、これ、なんなの?」
傍らで、蓉亜が袖を引く。
「少し、黙ってろ」
「むぅっ」
頬を膨らまし、背中を合わせる、楓の梢の上。
寒気に、緋、橙に染まりつつある木々の葉の向こうに、風を刻み、陽射しを反射させる大池の輝きが、眩しい。
茜色の蜻蛉が、その水面を悠々と横切って、高い空へと昇っていった。
足をぶらぶらとさせ、手持ち無沙汰。
せっかくお手柄かもしれないのに、この仕打ち。
肩を落とせば、小さな溜息が込み上げて、
「、、、ん、、、なんとか」
「?」
伯の呟きに振り向いた。
その肩越しに覗き込めば、こもれびを眼窩に捉え、しゃれこうべを覗き込んで呟く、伯の姿。
「なんとかぁ?」
蓉亜が伯の貌に顔を寄せ、見つめた先に、眼窩から差し込む灯りに照らし出された、小さな小指の爪ほどの橙の輝きが、確かに見える。
【橙に黒の見慣れた斑点を持つもの】が、埋め込まれているかのように、頭蓋にめり込んでいるのだ。
「なんとか、、、むし、、、」
ぶつぶつと呟く伯に、痺れを切らして、
「てんとうむし、だよ?!そんなのも、知らないの?」
伯の耳に大きな声で、言い放った。
一方、
「てんとうむし、、、」
当人はまったく動じないどころか、ぽつりとその名を呟くと、しゃれこうべを懐に、大地へ舞い降りた。
そのまま、木立の中を往来に面する門の方へと向かおうとして、
「ねぇ、伯っ、僕ひとりじゃ、降りられないよぉおっ」
「、、、、、」
喚いたところで、その歩みが止まる事は無い。
「誰が見つけたと思ってるの?!僕も連れていってたらっ」
顔を口にして叫べば、
「ちっ、、、」
小さな舌打ちに続いて、渋々戻って来た。
蓉亜が腕を伸ばすのを、抱き止めれば、
「おい、、、」
「いや。このまま、伯が行くところまで、降りない」
「、、、、、」
首に噛り付いたまま、強情を張る。
「、、、好きにしろ」
呆れたような溜息を吐き出して、伯が折れた。
蓉亜の腰を抱いて、木立を抜ければ、
≪ 主さま、、、 ≫
「蟲姫、、、」
白い吐息を吐く幽鬼が、儚げに空より舞い寄るところであった。
≪ 凧も、燕倪様も、見失ってしまって、、、 ≫
細い月型の眉を寄せ、そのまま靄となって伯の胸元に吸い込まれると、しゃれこべは、かたかたと、微かな音を立てた。
「、、、、、」
「、、、、、」
無言で顔を見合わせた伯と蓉亜であったが、
「蟲姫」
静かに伯が、その名を呼んだ。
≪ あい、、、 ≫
ふわりと舞い上がった靄が、すぐにまた幽鬼の姿を取るのを見計らい、懐からしゃれこうべを取り出した。
「一つ、尋ねたいことがある、、、」
≪ なんなりと、、、 ≫
どこか嬉しそうに微笑んだその蟲姫に、伯はしゃれこうべを持ち上げて、
「お前のしゃれこうべに埋め込まれている、この虫。いったいなんなんだ?」
一息に、問うた。
しかしながら、
≪ む、し、、、? ≫
困惑した様子で小首を傾げる蟲姫。
蓉亜が自由な両手でもってしゃれこうべを受け取ると、
「ほら、よく見て?ここに、小さい天道虫がいるんだけど、埋まっちゃってるみたいなんだ」
指をさす。
蝋たけた貌を寄せ、目を凝らす、蟲姫。
赤光放つ瞳が眇められ、
≪ あ、、、 ≫
小さく上がった、その声音。
己がしゃれこうべをまじまじと眺めて、
≪ これは、どういうことでしょう、、、? ≫
「、、、、、」
「え、、、?」
伯と蓉亜がもう一度、思わず顔を見合わせてしまった一言を、放ったのだった。
詳しく話を聞こうにも、蟲姫は本当に何も知らないようだった。
そのうちに、燕倪が髪に木の葉をつけて戻ってきて、凧を直しながら、いつものように酒宴となった。
陽が暮れて、蒼奘が生ぬるい雨の匂いをさせる風と共に戻ると、晴れていたのが嘘のように、帝都は雨の帳に抱かれる事となり、見事、伯の足止めを果たしたのだった。
「これは、地仙だよ」
しゃれこうべに埋まったものを見て、天狐遙絃は、こともなげにそう言い切った。
「、、、、、」
その言葉を受けても、伯の能面の如き貌に、何の感情の変化も見られない。
だが、
「ふ、、、」
遙絃には、筒抜けらしい。
ふっくらとした唇の端を緩め、
「さすがに、検討はついていたか、弟々《テイテイ》?」
「確証が、欲しかった、、、」
伯が淡々と応じる様を、見守った。
「実際、今の俺には分からぬ事の方が、多い、、、」
どこか忌々しげに言うその額に、
「伯」
遙絃の白く長い指が、伸びた。
その手指が、額に浮かぶ吉祥紋を擦り、そっと覆えば、
「、、、、、」
伯は無言で、眼差しだけを、寄越してきた。
紺碧の眸が、その眼差しを、
「真名を唱え、名乗りを上げれば、万物がお前に語りかけよう。だが、、、」
精彩を放ちながら、ひた、と受け止めた。
「それが真実とは、常に限らん。真理への近道、ともな、、、」
伯は、その強い輝きから眼を背ける様に、長い睫毛を伏せた。
「名乗りを上げたところで、きっと俺はそう変わらん、、、」
額に在る温もりをどこか懐かしく、そして心地良く感じながら、
「変われんのだ、、、」
弱い胸中を、この時ばかりは素直に吐き出した。
貌にはあまりださないが、この世に在る様々な葛藤が、いつもその身深くに燻っているのかもしれない。
「小弟、、、」
遙絃は、どこか満足げに微笑みながら、
「その方が、お前らしいよ」
「天狐」
そっと、その手を引いた。
名乗りを上げれば、【啓く】、吉祥紋。
今は、まだ固く、閉じられたままだ。
「むぅ、、、」
その【人外なる者達】のやりとりを、一人面白くなさそうに眺めている者が、いる。
黒瞳深い、その眼差しに気づいて、
「どうした、蓉亜?」
顎を、肘を付いた左手の甲に預け、遙絃が目尻を下げる。
くるくるとよく動く眸が、伯と遙絃を交互に見つめ、
「なんだか、つまんない、、、」
今度はあからさまに、唇を突き出した。
「そうだった。今回は、お前の手柄であったなぁ」
遙絃が、膝を叩く。
心得たもので、蓉亜がおとなしく膝に入る。
「、、、、、」
艶やかな黒髪を梳かれれば、この時ばかりは蓉亜、母を恋しく思ってしまったらしい。
その人の手の温もりを感じながら、潤んだ眸。
伯は、その俯く顔から、視線を外せずにいた。
蓉亜の微細な心境の変化を知ってか知らぬか、遙絃は、伯に投げかける。
「蟲姫の、その想念。幽鬼にしては、少々強すぎる。それは何故か、、、?」
「何故、、、」
常人にすぎなかった者が、いくら強い想いを残して死したとしても、鬼と成り果て、自我を保ちつつも、この世に居座る事は、難しい。
それを、この蟲姫は、やってのけた。
無残にその身を蹂躙され、惨殺された程度で鬼と成るのなら、この世は幽鬼で溢れかえっている事だろう。
見てくれこそ評判になったとはいえ、その魂魄までもが常人を凌駕するほどの精彩を放っていたとは、伯はどうしても思えなかった。
事実、生前の飛鷺姫は、心根穏やかで、夢見がちな深窓の令嬢然として在ったのだから。
― 蟲姫と成る、外部要因、、、 ―
沈黙を決め込む伯を他所に、遙絃は、胡露が袖から取り出した櫛でもって、蓉亜の黒髪を手ずから梳る。
粗暴で知られる、天狐遙絃。
存外、この女主人、蓉亜に心を砕いているのかもしれない。
手の中で、束ねながらの、
「これは、そうさな。あれら一帯に還元されるべき、、、」
助け舟。
伯の眸が、僅かに大きくなった。
「そうか。やはり、霊紫、、、」
霊紫。
万物の源にして、祖。
「ああ。蟲姫に、この地仙は、取り込まれたのだろう」
「、、、、、」
≪ ?! ≫
すぐ背後で、身を震わせた気配に、菫色の鳳眼が、無言で蟲姫を見据えた。
≪ あ、、、 ≫
伯の眼差しを受け、
≪ わ、、、わたくし、そのようなこと、、、 ≫
怯えた様子で蟲姫が、袂で口元を覆った。
今にも零れ落ちんばかりの、赤光放つ眸に、
「言い方が、悪かったな」
遙絃が肩を竦めて、詫びた。
「あの辺りの山々は、地仙が絶えて長いと野狐どもから聞いたことがある。残念ながら、名を名乗る力は、もう残っておらんようだが、長らく消息不明であった地仙に間違いはないだろう」
≪ あ、、、嗚呼、、、それでは、わたくし、、、 ≫
主と定めた者の同胞を、その身に取り込んでしまった罪悪の念に堪えきれず、頬を伝い、顎先から霜となって白く霧散する、幽鬼の泪。
「ああっ、伯!!蟲姫泣かしたっ」
それまで、遙絃の膝に入って大人しくしていたと思えば、すかさず身を乗り出す、蓉亜の声。
「俺じゃねえ、、、」
そっぽ向いた伯を他所に、
「蟲姫。そう、嘆くでないよ。お前のせいではない」
遙絃は、告げた。
「この地仙が、自ら望んで、お前に力を与えたのだろう」
≪ 自ら、、、? ≫
「ああ。地仙は、次の地仙を選ぶ権限を持つものだ。どのような経緯があったかは、今となっては、分からん。分からんが、、、」
紺碧の双眸が、まっすぐに、伯を見据える。
自然、蓉亜も、蟲姫も、胡露も、その方を見やった。
丹色の魅惑的な唇が、
「後生だと、哀れむのなら、地仙を山へ還してやれ。お前達の手で、、、」
「何故、俺を見る、、、?」
笑みに、吊り上がる。
「ほ、、、あのとぼけた都守にして、まんまとやられた癖に、、、」
「なんだと、、、?」
憮然としたところで、相手は己が幼い頃より知っている相手。
「そうであろう?都守は、小浦に行って、すぐに気づいたはずだ。地仙が絶えた地であると、、、」
「、、、、、」
こうなれば、伯の方が、部が悪い。
「真の地鎮というものはな、駒を配置するように、地仙を配置することでもある。歪みを矯正し、氣脈を国の隅々にまで行き渡らせ、清らかな大氣でもって清浄さを保つことも、都守の職務の内だからな」
「く、、、」
「蟲姫が放つ陰氣は、強すぎる。だから、わざと連れて来たのだよ。屋敷に、蟲姫を、、、」
― はなから俺に、その氣を相殺させるつもりだったか、、、 ―
胡露が差し出した蓋碗に唇を寄せ、舌を湿すと、
「狐の神さま、僕、よく分かんないんだけど、父上がみんなを騙したって言うの?」
顎の下辺りから、蓉亜が見上げている。
「ふ、、、」
遙絃は、
「今回は、お前の親父が一枚、上手だった。ただ、それだけよ。皆、文句なら蒼奘に言ってやるんだな、、、」
「ふやっ」
蓉亜の鼻先を抓みながら、意地の悪い笑みを浮かべたのだった。
「、、、、、」
しばし、空を眺めていた伯は、蓉亜を背に、街道を逸れた。
鼻先に押し寄せる、大地の香り、草木の匂い。
湿気を多く含んだ大気が、木漏れ日と混ざり合い、纏わりつく。
ヤマカガシがいそいそと横切り、芽を噛んでいた鹿の群れが、一行を迎え、素通りを赦せば、その先に川のせせらぎが聞こえてくる。
「ねぇ、伯。この調子じゃあ、着くのは日暮れになっちゃわない?」
ただでさえ、三日掛かるのだ。
険しいながらも、最短の獣道を行くとしても、この歩みでは確かに先が長すぎる。
「分かっている、、、」
伯やタオフィの足ならば、まともに地を駆けて半日と掛からぬだろうが、さすがに蓉亜がいれば、そういう訳にも行かない。
そもそも、自分も同行すると言って泣き喚き、蒼奘の言うことも聞かなかった蓉亜だ。
ここまで首を突っ込んで、いざ自分だけ蚊帳の外と言うのは、やはり嫌らしい。
蓉亜の小浦同行に、さすがに蒼奘が渋るであろうと高を括っていた伯であったが、
『これも勉強だ。行っておいで』
諭す事もせず、早々に折れて、赦してしまった。
そして出発当日、どこからか嗅ぎつけたタオフィが加わり、今に至る。
「、、、、、」
眼下に細く流れる、清流。
その飛沫が大気に漂い、腐葉土であった柔らかな大地は、いつの間にか露を結んだ苔で覆われていた。
行く手を覆い隠さんと茂るシダに、胸元まで埋まりながら、苔や蔦に覆われ、切立った岩肌の前まで来た。
伯の草履が、音も無く大地を蹴った。
人一人を背負っているとは思えぬ、その跳躍。
重さを感じさせず、鴉羽色の狩衣の袖に風をはらみ、わずかに突き出した岩肌の取っ掛かりや、しがみつくようにして枝を伸ばす細い木々を足場に、悠々と舞い上がる。
「ちょ、、、待ってよぉッ」
置いてきぼりを食ったのは、タオフィ。
腕に掛けていた領布を、纏い直すと、
「風伯様、ちょっとだけ、力を借りしてよね」
大気に請い願い、爪先を蹴った。
軽やかな、鈴の音。
速度は幾分落ちるが、その領布は風に撓み、その細身を舞い上がらせた。
背の高い針葉樹の天辺を抜けると、とたんに開けた、視界。
近づく、白い太陽。
緑の大地は、遥か眼下。
彼方の山稜が、ずいぶんと近く見えた。
「もう、、、ちょっとくらい、優しくしてくれても、いいじゃない」
一際力強く大地を蹴れば、鉛色の大地が迎えてくれた。
縦横無尽に張り巡らされた水路が、黄金色の大地に白銀に大小さまざまな不恰好な桝目を、浮かび上がらせている。
転々と蹲るようにして見えるのは、集落だろう。
さらに眼を凝らせば、赤茶けた街道を、米粒にも満たない人々が、行き交う様が見えた。
山腹から山頂にかけ、雨風に侵蝕され白昼に晒された、鉛色の岩々。
今し方まで歩んできた緑豊かで、動植物達を育んでいる姿は、どこにも無い。
荒涼とした岩場が続く、その山頂一帯。
雲とも霧とも似つかぬものが、岩肌を這い上がって来ては、視界を遮った。
その薄靄に掻き消される、先を行く伯の背中に、
「ま、待ってよぉッ」
思わず、駆け出した。
簪や、帯止めに結ばれた鈴が、
リィ・リリン…
と鳴いた。
辺りが俄かに薄暗くなった。
見回せば、四方を、靄が包んでいた。
下がる、気温。
足が止まり、膝が、震える。
風の音すら、遠くに聞こえれば、たまらず心細くなってしまう。
「あ、、、」
タ…オ…
声が、聞こえた。
鼻腔深くに囁く、低く、しゃがれた、声音。
これは、幻影。
もう過去の事なのだと、頭では分かっていても、
「あぁ、、、」
焦点は、幻影を結んでしまう。
靄の中、茫洋と手招きする、黒き影を。
「お父、さん、、、」
心、揺さぶられ、今と交錯する、過去。
瞠かれた、琥珀色の眸。
その定まらぬ網膜に結ばれたのは、けしてその口から語られる事は無かった、過去の虚像。
タオ…
呼ばれている。
白い霧は煙となり、塗り込めるようにタオフィを押しつぶす。
息苦しさに、
「ぃ、や、、、」
肩を抱き、首を振る。
嫌…嫌嫌…嫌…嫌………
膝から、その場に崩れ落ちそうになって、
「タオフィ、、、?」
靄を掃い退け、甲高い声の主と共に、翠深い巨躯が、現れる。
「は、、、伯ぅうっ」
そのまま、腰が抜けたタオフィの唇から、
「ぅ、、、っく、、、ひっくっ、、、」
嗚咽が、漏れた。
「ひぃあぁぁああんっ」
「、、、、、」
何が何だが分からぬ伯が、困惑故の沈黙を守れば、
「ねぇ、伯。今度は何したの?」
母に甘える夢に遊んでいたところを叩き起こされ、眠気眼そのままで背に乗った、蓉亜の問い。
「、、、知らん」
月並みながら、そう答えて見やれば、
「ぃっ、、、っくっ、、、」
依然、子供のようにしゃくりあげる、タオフィの姿。
さすがに堪り兼ねた伯が、
「蓉亜」
促した。
「なっ、、、」
『なんで僕?!』などと言った所で、伯が気の聞いた言葉を掛けられるとも思わなかった。
その点を踏まえれば、伯なりに気を使っているのかもしれない。
― なんだが、、、変な優しさ、、、 ―
釈然としないまま、蓉亜は大地へ伸ばされた胸鰭を伝って、タオフィの元へ。
「タオフィ?大丈夫?」
その背中を擦ってやりながら覗きこめば、
「ぅ、、、う、ん、、、っ」
かろうじて、頷く。
「どうしちゃったの?タオフィらしくないよぉ?」
「ご、、、ごめ、、、っ」
喉をひくつかせながら、もう一度、頷いた。
「どっか、痛い?転んだの?」
首を傾げ、心配そうな蓉亜の顔。
「蓉、、、亜、、、」
タオフィは、滲んだ涙を袖で拭い、
「な、、、なんでも無いの。もう、大丈夫、、だ、から、、、」
膝に力を入れて、立ち上がった。
その拍子に、
「ひゃっ」
不安定な岩場に足を取られ、よろめく。
近づく、大地。
ごつごつと突き出した、岩。
「タオフィっ」
支えようと伸びた蓉亜の手が、腕に伸びて、
― いけないっ ―
そう、口に出そうとしたが、舌が言うことを聞いてくれない。
蓉亜もろとも、岩場に叩きつけられる。
それだけは、、、
タオフィが腕を引き、突き出した岩場に構わず手をつこうとして、
「、、、、、」
「つっ、、、」
それは、よくなめした皮のような質感だった。
冷やりと冷たいものが、腹の下にある。
縋った先に、翠の巨躯。
黎明を宿す双眸が、腕の間から、
「、、、、、」
静かに見上げている。
「伯、、、」
とっさに首を、体の下に寄せてくれたらしい。
「、、、さっさと乗れ」
どこか不機嫌な声音でもって、鰭を差し出す。
「ほら、タオフィ」
蓉亜が、小さな騎士然として、先に登って手を差し伸べた。
その手を取って、伯の背に上れば、
「ぼやっとするからだ、、、」
低い声音が、吐き出された。
「ご、ごめん、、、」
「、、、、、」
素直に、謝ればそれっきり何も言わず、伯は鎌首を擡げた。
その視線の先。
空に、いつの間にか灰色の雲が、湧いていた。
小さな稲光が、幾つも伺える。
「ようやく、鳴神に話がついた。俄か雨に紛れて雲に入り、小浦の森へ降りる、、、」
それだけ言うと、その身は舞い上がる。
灰色の紗幕が、前方彼方に、広く掛かっている。
あの辺りでは、霧雨が降っていることだろう。
大きく鰭を広げ、伯は薄霧を渡り、上空の濃い雲の中へ。
「蓉亜。眼を焼かれたくなければ、しっかり閉じていろ、、、」
「ええっ?!やだ、痛いの、やだよっ」
「、、、だから、閉じろと言っている」
「う、うん」
肌寒さに身を寄せ合って、その鬣を持つ蓉亜とタオフィ。
揃って目を閉じれば、風が耳元で轟々と、鳴いた。
頬に当たる風が強くなり、
「わうッ!!」
瞼を通して稲光が瞬く。
鼓膜を震わせ、脳天を揺らす爆音と吹き荒ぶ風に、
「耳が、割れちゃうよぉッ」
蓉亜の悲鳴など、ゆうに掻き消されてしまうのだった。
≪ ほわ、、、 ≫
紫電煌き、白光は瞬き、金色の触手が雲を掴んでは、霧散する。
巨躯の傍ら。
陽炎の如き幽鬼の体内を擦り抜ける、稲妻。
かつては輝きに怯え、轟音に震えたそれとは対照的に、灰恢色の世界を彩り、劈くこれらから、
≪ なんとも、愉しげな、、、 ≫
そんな雰囲気が伝わってきて、恐怖など吹き飛んでしまったらしい。
久々の再会に御しきれぬ、心模様。
巨躯の周囲を付かず離れず、雷光らが奔り、雲を渡る。
渦巻きながら、一行の為に道を拓く、白雲。
そして、無数の輝ける鳴神を従えた、主の姿。
― 嗚呼、、、 ―
傅く喜びに、満たされる蟲姫を、
「蟲姫」
戒めるかのように、名を呼ばれた。
≪ あい、、、 ≫
赤光湛えた双眸が、巨躯を見つめれば、
「そろそろ出る。戻ってろ、、、」
突き出した吻に亀裂が生じ、青白い牙の羅列が覘いた。
≪ 仰せのままに、、、 ≫
吸い込まれるようにして、その口腔に入ると、口が閉じた。
キキキュキュ…
耳元で、聞き覚えのある鳴き声。
かつで、地上で出会った、幼き鳴神。
先行する一際巨大な金色の柱。
その中を、成長した斑毛の鼬の如き巨躯が、駆け抜けた。
雲が、切れる。
その下へ。
虹色に輝ける霧雨の中。
秋色に染まる頃だというのに、緑が深く暗い森へ、巨躯が降下。
「うわぁぁああッ」
「どうなってんのよぉっ」
急な角度で落ちて行く感覚に、より一層鬣を握る手に力を込める、蓉亜とタオフィ。
キッキ…キュィイイッ…
しっかりと眼を瞑ったままの二人を他所に、
「ああ、また会おう、、、」
伯はそう呟くと、そのまま霧雨と共に森へと降りていったのだった。
「んんーーーッ」
手に朱色の墨を含んだ筆を持ち、山を行く男が、一人。
途切れた緑の天蓋の下、大きく伸びをした。
青々とした空から、白い太陽の陽射しが降り注ぐ。
「やれやれ。もう昼か、、、」
眩しそうに、中天に掛かった太陽を眺めると、男は近くの切り株に腰を下ろした。
切り口は真新しく、ところどころ剥げかかっているが、朱色の墨が残った切り株であった。
周りをよく見れば、枝を落とされ、切り倒された材木が、積み上げられている。
かつての鬱蒼として、人を寄せ付けぬ雰囲気は、今は無い。
適度に、生い茂る木々を伐採された森には、燦々と陽の光が差し込み、薄闇は穏やかな緑の紗幕を歓迎している。
それまで抑制されていた草木は勢いを取り戻し、ただ腐敗するだけだった枯葉は、舞い戻って来た虫達によって分解され、新たな息吹を育んで、陽だまりの中で母なる大地と生る。
「上々上々、、、」
糸のように細い眼が、さらに細くなって、頬が緩む。
男が来てからというもの、痩せ細っていたこの森は、息を吹き返しているのだ。
山と共に在ることを生業とする者にとって、今、その姿を目の当たりにするこの瞬間こそ、至福の時なのかもしれない。
腰に下げられたひょうたんが、
たぷんたぷん…
と、鳴った。
甘い猿酒を、喉に流し込むと、男は再び、森を眺めた。
細い脛には脚絆は付いているが、足は泥だらけの素足。
森の中を、どうやら裸足で歩いているらしい。
― 直に向こうの山へ陽が落ちる。今日はこの辺りで、戻るか、、、―
筆を薄汚れた包みに仕舞いながら、細い眼をさらに眇め、西の山を眺めた時だった。
「お、、、」
思わず、声が漏れた。
山稜を重ねるその山の上。
長く伸びた、灰恢色の入道雲。
白々とした薄靄が立ちこめて見えるのは、雨が降っているからだろう。
異質なのは、雲の一箇所だけが、乳のように垂れ、今にも地上に衝かんとしている事だ。
― なんだ、ありゃ。師匠の見聞録にも、あのような雲、、、 ―
更には、二重に出た、虹の妖しさ。
男の足は、自然、何かに引き寄せられるかのように、その方角へ、、、
薄闇の中、しなやかな象牙色の裸躯が、手早く鴉羽色の狩衣を纏うと、足元に転がっているしゃれこうべを懐に仕舞った。
異形の姿も、翡翠の連珠を掛ければ、黒髪の若者の姿へ。
― 時々、どちらが本来の姿か、分からなくなる、、、 ―
肩を揉みながら振り向けば、
「あぁあ、虹、消えちゃったぁ」
鳴神が降らせた霧雨に反射した日光が、二重三重の虹を描いたが、それもみるみる薄くなっていった。
蓉亜の残念そうな溜息に続き、
「ねぇ、伯。もっとちゃんと食べた方が良いと思うの」
真面目な顔をしたタオフィの戯言だ。
≪ ふ、、、 ≫
白い溜息が、二人の頭上で毀れた。
蟲姫の、どこか侮蔑を含んだ眼差しが、タオフィを冷ややかに見下ろしていた。
「なんなのよ、その眼」
≪ いいえ、何も、、、 ≫
その眼差しに、眼を吊り上げるタオフィはしかし、すぐに勝ち誇った笑みを湛え、
「まぁ、、、温かい血も通わないあんたなんか、伯のそうゆうところにも、気づけないでしょうけど」
≪ 主様は、大地に囚われぬ宿星のお生まれ。そのような気遣いこそ、おこがましい、、、 ≫
蟲姫は、柳腰に手を当て、艶然と迎え撃つ。
― なんだかよく分かんないんだけど、、、 ―
いつものことで、二人の間に挟まれてしまった、蓉亜。
― どうしていつも、こうなっちゃうんだろ? ―
二人して、伯を大切に想っている事が、ちゃんと蓉亜に伝わっているのに、事あるごとに反発し合う。
― 仲良くすれば、いいのに、、、 ―
なんだか、自分だけが蚊帳の外。
正直、少しばかり複雑で、焼餅なのか、胸の辺りがざわざわしている蓉亜である。
「おこがましい?あんたみたいな死霊が、伯に纏わりついてるってのが、よっぽどおこがましいのよ」
≪ わたくし、これでも眷族の端に加えて頂いておりますの、、、 ≫
「ふん、眷族ですって?死霊の眷族だなんて、聞いた事ないわ」
≪ 貴方こそ、地に足つけておいでなら、現実を見なさいな ≫
「こっちの台詞よ」
収まるどころか、頭上でいつものようにぎゃんぎゃんやりだす、二人。
さすがの蓉亜が、当の本人に助けを求めようとして、
「あっ」
その背は、前方の森の暗がりへと紛れてしまうところだった。
「待ってよっ」
蓉亜が駆け出せば、我に返った二人も、
「あっ」
≪ お待ちを、、、 ≫
慌てて茂みを掻き分け、傾斜を下るその人の下へ。
ようやくの思いで伯の袖を掴んだ、蓉亜。
「すぐに僕らを置いて行っちゃうんだから」
頬を膨らませば、
「いちいち付き合ってられるか、、、」
憮然とした、いつもの声音。
それでも、袖を振り払うような事は、ない。
それが伯と蓉亜の、、、なんとも筆舌しがたい、距離なのだ。
もしかすると、伯が、心を許している証拠なのかもしれない。
置いてかれまいと追いついたタオフィは、伯と蓉亜のすぐ後ろを歩き、蟲姫は懐のしゃれこうべの中へと吸い込まれた。
針葉樹の方が多いのか、秋深まる彩りとはほど遠い、暗緑の森。
細く、一行の足元へと差し込む陽射しは、先程まで頭上にあった薄雲が、すっかり晴れたことを意味していた。
鳴神らも、それぞれが持つ神意に応えるべく、持ち場に戻っていったのだろう。
「わっ」
不意に、蓉亜が小さな声をあげた。
伯の眼差しが、蓉亜が指差した方をうっそりと眺めれば、牙を持つ大きな猪が、土を掘り返している。
冬の訪れを前に、木の実や昆虫を、探しているのだろう。
向かってこられたら、幼い蓉亜などひとたまりも無いだろうが、一度顔を上げただけで、再び鼻面を地面に押し当てた。
「おっきいねっ」
どこか興奮した様子の蓉亜に、
「ああ、、、」
伯がぼんやりと応じた。
その眼差しが彷徨い、蓉亜の足の辺りへ。
しっかりとしたその歩みに、すぐに視線を前方へ。
川の音が、近づいていた。
谷を挟んで、その向こう。
小浦を抱くその山を目前に、一行は川辺で遅い昼餉を摂った。
汪果が持たせてくれた経木の包み。
香り高いそれを開けば、大きな握り飯が、三つ。
琲瑠が用意した竹の筒の水筒は、二つ。
ひとつは蓉亜のための茶と、伯のための酒が入っている。
「もう、蓉亜。ほっぺにご飯付いてるよ」
白々とした飛沫を上げながら、巨岩群の間を縫うようにして流れていく、川。
錦の如き連なるのは、橙、黄、紅、翠の色づいた葉。
水中をひらりひらりと、運ばれて行く。
それを追うようにして、長短の花弁も特徴的な大文字草の可憐な白き花が、くるりくるりと水面に踊れば、浮かれた虹鱒が、白い腹を見せて飛び跳ねた。
一際大きく、白くまろやかな巨岩の上。
その川面を眼下に、握り飯を頬ぼれば、傍らのタオフィに頬に付いた米粒を、指で掬われた。
「んんーっ、タオフィもだよ」
「えっ、嘘ッ」
「うん。嘘」
「蓉亜っ」
開けた青空高くには、鷹が舞い、枝垂れ、葉を落としながらも、清流を覆わんとする勢いの黄柏の梢には、じっと息を潜め、水面を睨む翡翠の姿。
遠く、野猿が仲間を呼ぶ声が、草陰で歌う姿無き虫達の羽音が、せせらぎに交じって聞こえてくる。
衣に吸われ、重く足を取る湿った大気は、程なく冷気を纏い、幼い人の子の肌を刺すだろう。
小浦に行けば、蒼奘の母方の遠縁が、居る。
気が早い事で、当人が既に文を出しているから、一行の宿の手配は整っている事だろう。
「、、、、、」
楽しげな二人の笑いあう声を聞きながら、伯は少し離れた岩の上に居た。
腕を組み、水辺に近い所に佇んでいる。
― さて、どうしたものか、、、 ―
思案顔とは、とても思えぬ、能面の如き貌。
≪ 主様、、、 ≫
それまで、大人しくしゃれこうべに収まっていた蟲姫の声音だけが、する。
≪ 私事で、大変恐縮なのですが、、、 ≫
一言、断りを入れた後、
≪ これより先、どちらへ参りますの? ≫
「、、、、、」
不安を隠せない声音が、訊ねた。
天狐遙絃に言われるまま、小浦の森へ来てみたものの、
― 正直、当てなど、ない、、、 ―
困ったものである。
地仙だと言う肝心な天道虫は、相変わらず、その生死すら判別できないでいる。
― それに、、、 ―
眼差しを送った先に、蓉亜の姿。
『何が起きても、自己責任。それだけちゃんと心得て行くと言うのなら、父は止めないよ、吾子?』
蒼奘は蓉亜にそう言ってはいたが、伯にしたら、出来れば連れて歩きたくは無い。
蓉亜をタオフィに任せ、遠縁とやらの屋敷に預けて、夜のうちに蟲姫の案内で森を探れば、あるいは、、、
そう口を開こうとして、
「、、、、、」
伯が岩を蹴るのと、翡翠が忙しなく飛び立つのが、同時。
鴉色の狩衣の袖を翻し、舞い降りた先が、
「伯?」
蓉亜とタオフィが居る巨岩の上。
首を傾げた蓉亜の目の前に立つ、その背。
「伯、、、」
何かを感じ取ったタオフィが、中腰になって蓉亜の肩に手を置く。
伯の一声があれば、蓉亜を連れ、この場から離れる構えだ。
「、、、、、」
伯の眼差しが、森の中、見え隠れする者を捉えた。
木々に手を掛け、足を掛け、猿の如く山の斜面をこちらに向かって、降りてくる。
「どうしたの?」
一人、暢気な蓉亜が、指に付いた米粒を舐めとりながら、タオフィと伯を交互に見つめる中、
「おっ、、、」
前方の岩の上へ現れた、その者。
「おかしな雲を見つけて駆けつければ、こりゃまた、おかしな再会だ」
伯の貌を見て、よく陽に焼けた顔が、破顔。
「、、、、、」
漆黒の深い、冷ややかな眼差しを受け、男は頭を掻いた。
「御仁とは、よくよく縁があるらしい」
落ち着き払ったかのような口調とは裏腹に、その表情は引きつり、心無し強張って見えた。
案の定、
― あの蟲姫と遭って、五体満足。しかも今日は、若い娘まで連れているときた。この若造、一体、何者だ?! ―
内心は、異常な程、警戒していた。
拳を握った手が、汗で不快にべとつきだしている。
一方、
「、、、、、」
どこか茫洋と、現れた男を横目で眺めているのは、伯。
腕を組み、依然として、沈黙を守ったまま。
「あ、あの時の礼がまだ、だったな。さしものわいも、その、、、あ、危ないところだった」
平静を装うにも、語尾が上がり、声が上ずってしまった。
それに対しても、無論、語りかける内容に対しても、伯はなんの反応も見せず、タオフィに至っても、瞬きひとつせず、男の一挙一動を伺っている。
「むう、、、」
すっかり困ってしまった男が、二人の眼差しに思わず後退さった、時であった。
「伯、あの人、知り合い?」
タオフィの背中から、蓉亜が顔を覗かせた。
「?!」
あどけなさを残すその声音に、思わず眉を寄せた男は、伯がゆっくりと向き直る姿を、見た。
そして、その薄い朱鷺色の唇が、どこか緩慢にゆっくりと動くのを、まんじりともせず、待つ事となる。
「ああ、、、確か名を、、、牟螺、と言う、、、」
本編よりも、遥かにぬけぬけと書いている、海藍編。。。
ホラーとまでは、行かないが、夏のせいかすこし重くなりそうな。。。
ま、個人的に陰気で淫靡な蟲姫を書くのが、好きなだけなんスけどね…