― 姚翡 ―
「伯、なにしてるの?」
「、、、、、」
嵐が去り、三日ぶりに覗いた晴れ間。
まだ風は残っているが、空は高く、薄雲が早い。
大池の淵に立っていた伯を見つけて、蓉亜が声を掛けた時、
ピシャ・・・ンン・・・
その姿は細かい粒子となって霧散。
「あっ、、、」
水面へ、雨でもないのに刻まれた、波紋が一つ。
― いっちゃった、、、 ―
水脈を渡るのを見るのは初めてでは無いのだが、何も言わなかった事が、どうやら気に障ったらしい。
≪蓉亜様、、、≫
さすがに離れで過ごしていたのか、陽光の中で頼りなげに浮かぶその人は、渡殿の方から現れた。
「む、蟲姫。お、脅かさないでよっ」
≪、、、、、≫
当人は脅かすつもりは毛頭無いらしく、逆に戸惑ってしまった様子。
蟲姫が来て幾日も過ぎているのだが、足音も無いため、突然声を掛けられるとこの通り。まだ、慣れるには少し時間が掛かりそうだ。
細い顎に手を当てて、考え込んでしまったその美しい幽鬼に、
「あっ、僕、別に怒ってないよ。まだ慣れなくて、ちょっと、びっくりしちゃうだけだから、、、」
≪左様ですか、、≫
儚い安堵の笑みが毀れた。
気を使っているのが幼い自分であることに、少しげんなりしつつも、物怖じしない所が蓉亜の良さで、
「昨日の嵐、凄かったね。屋根が飛ばされちゃうかと思ったよ」
話題を変えてみた。
≪ええ。紅子の事を、思い出しました、、、≫
「紅子、、、?」
≪以前、わたしがまだ小浦のお屋敷に在った頃、近くの川が氾濫いたしまして、牛の紅子が流されてしまったのです、、、≫
「あ、牛、、、」
次の瞬間、蓉亜は、自分の口を慌てて塞ぐことになる。
柘榴の深紅を思わす双眸に、涙が滲んでいた。
≪夜更けの事でしたので、男衆の手も回らず、、、翌昼、下流付近の田圃に、、、≫
「あ、、、ごめん。」
≪とてもおとなしくて、かわいいこだったのに、、、≫
はらはらと、零れ落ちる、涙。
それは、顎先から滴り落ちると、雪となり、陽光の中で掻き消えてしまう。
「ごめん、ごめんってばっ!!泣かないでよっ」
慌てて、衣の裾を掴めば、蜘蛛巣を掴んでいるような感触だった。
袖に涙を吸わせると、蟲姫は長い睫毛に涙の球を結んだまま、穏やかに言った。
≪だからとても、怖かった。また、離れ離れになってしまうかと、、、≫
「離れ離れって、、、」
― 牛? ―
幼い蓉亜には、その考えしか浮かばなかったが、実際は、そんなはずもなく、、、
≪主様と、、、≫
「そっか、そうだよね、、、」
浅はかな己が考えに、項垂れた。
≪ほぅ、、、≫
頭の上で、溜息が洩れた。
いつもは寒々とするものだが、今日のその溜息は、少し違って、
≪主様、、、≫
紅潮しているその頬は?
「どうしたの?」
≪あ、いえ、、、少し思い出して、、、≫
恥ずかしげに身をくねらせると、芥子香が香った。
「えぇ?!気になるよっ」
今度は、駄々をこねて蟲姫に縋る、蓉亜。
その艶やかな黒髪を撫でながら、
≪雷に怯えるわたしを、主様が褥に入れて下さって、、、≫
ぽつりとこぼした。
「えっ伯が?!蟲姫、いいなぁッ」
蓉亜が、こっそり潜り込む事はあっても、そんな事してくれた試しが無い。
いいなぁ、を連発するその耳に、
リィリリ・・・ン・・・
「!!」
鈴の音。
はっとした蓉亜が見つめた先。
楓の枝の影から現れたのは、握り締めた拳をぶるぶるさせる、タオフィの姿。
「なんで、、、なんでこの女なのよッ」
「あ、タオフィ、い、いつからそこに?」
明らかに蟲姫を敵視している眼差しで、平橋を渡って歩み寄ってくるのを、
「蟲姫、に、逃げた方が、、、」
勝ち誇ったように艶然と微笑む蟲姫が、迎え撃つ気か、顎を反らして腕組みだ。
「だいだいね、あんた気に食わないのよ。幽鬼の癖にっ」
≪なってご覧なさい。それでも誰かを愛せるのなら、、、≫
今日こそは、とんでもない事が起きる。
はらはらしながらも、蓉亜が二人の間に割って入った時だった。
ザザッ・・・バシャアァァ・・・
「ひっ」
タオフィと蓉亜が、同じ悲鳴をあげて抱き合った。
≪あ、、、≫
蟲姫は、両手を口に当てて、眼を眇めた。
「、、、、、」
辺りに立ち込める、酷い臭気。
木の葉や枝、泥の塊が、池に立っているのだ。
重そうに泥の塊が前進すると、少しずつ剥がれていって、
「あれ、、、角」
蓉亜は、泥の塊の頭上に翡翠色の突起を見て、指差した。
「もしかして、、、」
タオフィと蓉亜が顔を見合わせて、
「伯?!」
「、、、、、」
うんともすんとも言わずに、池から上がると、母屋の方からは派手な足音を響かせて琲瑠が駆けてきた。
「若君ッ!!嗚呼、こちらからお回り下さいまし」
そこでようやく手を払うと、五指が覗いた。
泥の塊にしか見えぬのに、苛立たしげに湯殿へと消えるその背を、一行は見送る事しかできなくて、、、
平素、檜の良い香りがするその湯殿も、今日は異臭が立ち込めていた。
格子戸から差し込む朝日、贅を凝らした広い湯船も、濁った水の色と汚れた浴室の床を見れば、台無しだ。
ぼりぼりと髪の間に入った泥を掻き出しながら、
「酷い有様ですね、若君」
「まったくだ、、、」
うんざりといった様子で、湯船の縁に置かれた杯を干した。
湯船へと流れ出る澄んだ湯を桶に溜めては、髪や肩に掛ける手を休めないのは、琲瑠。
「ねぇ、伯?お湯加減はどう?」
格子の向こうでは、薪をくべているタオフィと、
「入れすぎじゃないの、これ、、、」
蓉亜の声。
しばらく黙っていたのだが、
「、、、熱い」
さすがに、耐えかねたらしい。
「えっ、嘘ッ、どうしようっ」
「あっ、水掛けたら、消えちゃっ、、、消えちゃった、、、」
水浸しの竈を前に、しょんぼりする二人の姿が眼に見えて、
「やはり、私が代わりましょう。お手伝い、ありがとうございます」
たまらず琲瑠が、声を掛けた。
「でも、、、」
「いいから、あっちいってろ、、、」
ぶっきらぼうな、伯の声音。
これ以上纏わりつくといつもの事で、姿を消してしまいそうな勢い。
「いこ、タオフィ、、、」
心得たもので、その手を引くのが、蓉亜。
タオフィは、細い眉を八の字にして、格子を眺めた。
「ねぇ、伯。一つだけ、、、」
「、、、、、」
首の鈴を握りしめながら、
「あの蟲姫を、褥に入れたの、ホント?」
問うた。
「、、、、、」
伯の泥で汚れた肩や腕を絹布で擦っていた琲瑠も、思わず手を止めた。
しばしあって、
「、、、んだよ。あまりにうるせぇから、枕にしただけだ」
牙が、覗いた。
「そ、そうだよねっ」
小さな安堵の溜息と共に、鈴の音が遠ざかっていった。
湯船に沈み、首を齎せて仰け反る伯の貌を、
「なんだよ、お前まで、、、」
困ったような表情で、琲瑠が見つめている。
「いえ、別に、、、」
火を熾さねばと立ち上がるその手首を、伯は逃さなかった。
「若君、、、?」
「はっきり言えよ、、、」
菫色鳳眼の絶対君主。
琲瑠は、再び膝をつくと、その腕に絹布を当てて再び擦り始めた。
「、、、そういえば、もう長くこの地にいるのだと、思いましてね」
「、、、、、」
水を弾く肌理細やかな、象牙色の肌。
伸びやかな筋肉のついた腕はしかし、人型に封じられている仮の姿。
「若君に、お心砕く方が出来るのは、我らとしても喜ばしい事」
「何が言いたい?」
「それで、名乗りを上げられぬとなりますと、少しだけ、困るので、、、」
琲瑠は、苦笑した。
「馬鹿馬鹿しい、、、」
いつまでもこの姿で暮らす事は、出来ない。
それは、化身してゆく伯自身が一番分かっているのだ。
「湯を沸かせ。寒い、、、」
短く命じると、
「はい、若君、、、」
琲瑠が出て行った。
一人、湯船に浸かったまま、ぼんやりと琲瑠の言葉を思い出す。
『若君に、お心砕く方が出来るのは、我らとしても喜ばしい事』
脳裏に浮かんだのは、誰であったのか、、、?
「、、、、、」
手酌で注いだ杯を干し、
「馬鹿馬鹿しい、、、」
自分に言い聞かせるように、もう一度呟いたのだった。
風も治まった、翌朝。
「、、、、、」
「ちょっとぉ、せっかく二人きりなのにぃっ」
鴉羽色の狩衣。
腕に年のころ同じくらいの娘をしがみつかせ、案内の者を待たずに門を潜った。
「やぁよおっ」
ずんずんと屋敷を右手に庭を行き、その奥の間へ。
「ん?」
妻が吹く篠笛に耳を傾け、庭にて枝が折れぬようにと結えていた縄を切っているのが、屋敷の主。
腕に絡む娘をそのまま、
「燕倪」
日に日に冷えゆくその大気の中、凛と澄んだ声音の来客。
「おお、伯。それに、タオフィ」
鋏を布に包みながら、足場から降りると、二人の姿に破顔した。
「相変わらず、仲睦まじいな、おまえら」
その声音に、
「誰が、、、」
「はいっ」
引き離そうとする伯と、ここぞとばかりに絡めた腕に渾身の力を込めてしなだれる、タオフィ。
「いつまでも、くっついてくるなっ、、、」
さすがに牙を剥くが、
「ずっと、あの幽鬼に独占させてやったんだから、これくらいいいじゃないっ!!大体、あたしが一番最初に、伯に眼をつけたんだからねっ」
「な、、、」
負けじと犬歯を剥いた、タオフィ。
邪険にすればするほど、性質が悪いタオフィの性格を知ってか、
「、、、俺の気持ちは二の次という輩が、多すぎる」
項垂れた、伯。
「うふっ」
ご機嫌で頬を摺り寄せるのは、タオフィ。
「なんか、昨今の若者は、気苦労が多いやね、、、」
毎度の事に苦笑しつつ、燕倪。
「で、どうしたんだ、今日は?」
「、、、澱んでぃる」
小さな、その呟き。
「あ?」
「松の手入れをするよりも、、、」
「うん、、、?」
「池を手入れしろと言いに来た」
「池?」
「酷い目食ったんだ、、、」
鬱々と言う伯に代わって、
「そうそう。伯ったら、いつもみたいに横着して水脈を渡ったのね。そしたら、こないだの嵐で帝都中に張り巡らせた水路が詰まっちゃってて、酷いものだったのよ。もう、くっさくって、、、」
ここぞとばかりに話し始めた。
思い出し笑いのタオフィだったが、最後はしっかり、
「ああ、でもあたしはそんなところも大好きよ、伯」
と締めくくった。
「いいから、お前はちょっとあっち行ってろ、、、」
伯は、うんざりとした様子で、タオフィの背を押した。
「あぁんっ」
伯に押しのけられ、しぶしぶといった様子で、釣殿から此方を眺めている羽琶の元へ駆けていった。
それを見送って、
「ここは天狐の縄張りだから、俺が勝手していい場所は知れている。緊急時にと、あんたのこの池と、蒼奘、陰陽頭、青梅池は渡れるようにしておいたんだが、、、」
そう言われて見れば、いつもは澄んでいる池の水が、今日はどこか濁っている。
嵐に池の底が巻き上げられたと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「目詰まりしているのか?」
「ああ、掃除しろ」
一呼吸置いて、
「、、、今か?」
「今だ」
「困るのか、、、?」
食い下がった。
この寒空の下、真顔で水に入れと言っているのだ。
「大事があっても、俺が駆けつけられんだけだが、、、」
「わ、分かったよ」
妻と、この若者には滅法弱い燕倪が、
「おーい、籐那っ」
屋敷の若衆を呼んだ。
裏で、渋柿を採っていた当人は、主のその声に手を手にしていた竹を置き、駆けつけた。
「ああ、伯殿。おいでなさいませ。珍しいですね、今日は奥方様も、、、」
良く陽に焼けて、小柄な若者が、会釈。
「その呼び名は、やめろ、、、」
うんざりした顔に、怪訝な様子で、
「あれ?先日、道でお会いした時に、タオフィさんが晴れて夫婦になりました、って、、、」
おかしいなぁ、と籐那。
返す言葉も無く、項垂れる伯を気にしてか、
「ああ、この二人に関しては真に受けるな。やきもきするぞ」
「はぁ」
助け舟のつもりか、自分の事は棚に上げた。
「で、あの、旦那様、御用は、、、」
「ああ、熊手と草を入れる籠を出してくれないか?」
「今朝、庭のお掃除は、、、」
「いや、湧泉に詰まりがあるらしくてな」
「そういう事でしたら、僕が、、、」
「俺かやるよ。こいつの好意だしな」
「つっ、、、」
強か背中を叩かれ、伯が燕倪を睨んだ。
それに構う事無くわしわしと頭を撫でながら、にこりとする主に、
「?」
首を傾げる、籐那であった。
「無理、音なんてでないもん」
羽琶の膝に、漆が塗られた篠笛を放り投げ、当人は、床に仰向けに転がった。
「ふふ、、、むきになって息を吹き込むからよ」
夜空の星座が描かれた天井を映す視界に、銀糸の髪の主が居る。
細く絹糸のような、その髪。
やや癖のあるタオフィにとっては、羨むものだ。
「羽琶様は、いいなぁ、、、」
「え、、、?」
膝に顎を預け、指でその髪を絡めながら言った。
「こんなまっすぐで、綺麗な髪。あたしなんて、平凡なこの色だし、癖があるし、太いし、さ」
いいな、いいなと子供のように繰り返す、タオフィに、
「わたしは、この髪のせいで、、、」
ふと、そのたおやかな容貌に翳が過ぎった。
目敏く、感づいて、
「どうして?とっても素敵じゃないっ」
「あ、、、」
膝に手をついたタオフィの琥珀色の大きな眸が、不思議そうに見上げてくる。
「わたしは、ここに来る前に、遠野にいたの。この髪のせいで、、、」
「だから、どうして?」
「タオフィ、、、」
澄んだその眸は、まだ幼い蓉亜のものと同じ。
純粋な好奇心に、溢れている。
「人は、自分と違うものを、恐れるものだから、かしら、、、」
家族を、恨むつもりもない。
遠野に冷遇されても、親兄弟の文や来訪が、絶える事はなかった。
何不自由無い暮らしの中、ふと気づく寂しさも孤独も、自分がここにいる事で一族の安寧があるのなら他愛無いもの、そう思えば乗り越えられた。
「でも、羽琶様も燕倪様も、蓉亜だって、あたし達の事、怖がらないわ」
それはおかしいと、タオフィ。
羽琶は、
「そうね。少しずつ、そんな人達が増えていってくれれば、いいわね」
「そうよ。そうなるべきなのよ。あたしなんて、どの狐も持つこんな平凡な髪の色なのよ?我が君は蜂蜜色、伯だって青いし、蓉亜の黒髪もすごくキレイ。みんな、違うって、ステキじゃない」
自分の事のようにむきになる狐精に、羽琶は微笑んだ。
「あなたも、とても素敵よ。タオフィ」
「えっ、、、あっ、そりゃ、まぁっ」
途端に照れる、タオフィ。
「ねぇ、羽琶様は、どう思う?」
「うん、、、?」
「あたし、と、そのね、伯、、、」
もじもじとするタオフィに、
「あら、大胆な事、みんなに言ってる癖に、、」
「だってっ、そうでもしなきゃ、他にっ、、、」
思い出した顔は、屋敷の蟲姫。
少しでも恋の好敵手は減らすための戦法であったらしい。
「、、、でも、やっぱり、向き合ってくれないよなぁ」
はふ、切ない溜息に、
「でもきっと、嫌いなら、言わせたりはしないわ」
「ホント?!」
「きっと、、、ね」
羽琶は、傍らの和紙の包みを解いた。
小さな角を幾つも持つ、色とりどりの金平糖。
「甘いものは、元気になるから」
「わわっ、あたしこれ大好きっ」
一粒抓んで、口に放り込む。
舌に転がる感触を愉しみながら、庭を眺め、
「あれ?!」
噂の当人の姿ばかりか、屋敷の主の姿も無い事に、ようやく気付いたのであった。
屋敷の裏手にある湧泉口。
白い大きな石で回りを固め、細い水路が屋敷の下を通って表の池へと流れ込んでいる。
生活用水は井戸から取っているため、ついつい忘れがちになっていたが、覗き込めば風に舞ってきたのか、枯葉こんもりとして沈んでいる。
「うっ、、、」
― 冷てぇッ!! ―
裾をたくしあげ、素足のまま泉に入ると、
「この奥だ。泥が詰まっている、、、」
石の上に車座になって、伯が指示。
それを熊手で掻き出し、箕で受ける。
さすがに見かねた籐那が、籠へ上げていくと、四半刻足らずで、籠二杯にもなった。
― あぁ、もー足感覚ねぇ、、、 ―
ようやく、水か細やかな砂を巻き上げながら湧き出すのが見えたところで、片足を石に掛けた。
その鼻先に、
「まだだ、、、」
「え?」
突き出されたのは、柿の木に立てかけてあった竹の棒。
それを渡すと、
「その奥が詰まってるんだ。どこかで泥が流れ込んだんだろう」
「人使い荒いねぇ、、、」
渋々足を戻し、竹の棒を湧泉口に差し込んだ。
燕倪の背丈を裕に越す長さの竹を、あっという間に呑み込んでしまう。
それを出し入れする事しばらく、
「ん?」
籐那は、伯が袖で顔を覆ったのを見た。
「伯殿、、、?」
次の瞬間、
ゴボッ・・・ボ・・・ゴボボ・・・
「うッ」
澄んでいた水は濁り、臭気と共に汚泥が溢れ出してきた。
「ひ、酷い臭いですねっ」
鼻を抓む籐那の傍らでは、袖で顔を覆ったままの伯。
「籐那、念のため、井戸も調べてくれないか?」
「そうですね、、、」
ここぞとばかりに駆け出して行った、籐那。
「おい、伯。もういいぞ、、、」
「、、、、、」
水も澄み、臭いが無くなったところで、燕倪は足を洗いながら水から上がった。
手拭いで足を拭きつつ見やれば、
「これでいいか?」
「ああ、、、」
その背はもう遠くにあった。
そのまま塀の向こうへと舞い上がると、
「おい、タオフィを置いていくつもりか?!」
「ガキでも一人で帰れるんだ。帰れぬとは、言わせん、、、」
「こらっ、伯ッ」
そのままふわりと鴉羽色の狩衣、大気をはらんで翻ると、その姿は消え去った。
「まったく、、、」
いつもの事で、どうしようもない。
やれやれと頭を掻いたところで、ふと、
「そういや、あいつ、誰が好きなんだ、、、?」
羽琶の顔を思い浮かべて、首を振る。
どうにも、タオフィでもないらしい。
「後は、、、」
などと思い描いたところで、当ても無く、脳裏に浮かんだのは、あの男。
「まさかな」
この後、タオフィの怒りの矛先が向けられるとも知らぬ、暢気な独り言であった。
「へへ、、、」
懐に捻じ込んだ胴巻き。
確かな重みににんまりし、裾を払ったところで、
「おい、、、」
「つっ、、、な、お前っ」
細く人気の無い路地。
船宿が集まるその二階部分の庇に、黒い衣の若者がしゃがみ込んでいた。
息を整えるつもりが、驚かされ、おかしなことになった。
しゃっくりが、止まらなくなったのだ。
「いっ、、、くッ、、、ひッ」
「逃げ込む先は、古巣と決まっているのさ、、、」
どうして、と言えぬ相手に代わり応えると、鴉羽色の袖を翻し舞い降りた。
流石に訝しげな眼差しの男の背を、その手が強く押した。
「痛ッ」
弾かれたように跳ねるその傍らで、
「止まったはずだ、、、」
「あ、、、」
男、まゆもは頷いたのだった。
「ちょっとぉ、梁鬼、こんな時間からお酒?いい身分ねぇ」
船宿の裏手にある酒屋。
営業にはまだ早いが戸を叩けば、三十路を幾らが過ぎた女将が瓶子を二つばかり出してきた。
「連れがいるんでな」
「なぁに?いい人かい?あんたも隅におけないねぇ」
流し目だ。
「まぁな、、、」
そそくさと暖簾を潜り、階段を上がる。
薄暗く、静かなその奥の襖を開けると、若者がひとり。
煙管を咥え、外を眺めている。
「ハク。お前、こんな時間にほっつき歩いてていいのか?」
「ああ、、、」
コン・・・
細い煙を吐き出しながら、吸い口から灰を落とすと、手馴れた様子で新しい刻み煙草を火皿に入れた。
「鬼を狩っているんじゃないのかよ?」
胡散臭げに眺めつつ、素焼きの杯二つに、濁った酒を注いだ。
骨ばった長い指が、それを掬い上げ、
「昼間に出る鬼は大概、人と言う、、、」
薄い唇が触れた。
象牙色の喉を晒して干すのを、眺めながら、
「何言ってやがる。人も鬼も、似たようなもんだろ」
まゆもは、伯の手にある煙管を取り上げた。
「人も迷えば鬼になるじゃねぇか」
「ふ、、、」
二人の間を、煙管が行き来する。
肴がまるで、苦い煙のようだった。
「俺達は、その申し子さ」
まゆもが、一息に杯を煽った。
「鬼の子は、人か?いや、人も鬼も、そんなには変わんねぇのよ」
口減らしにと捨てられて、ルウシャに拾われ、紡がれた命であった。
細く、天井へと煙を吐き出すまゆもへ、
「今だ、兄弟は増えているのか、、、?」
瓶子を引きつけて、伯が問うた。
「ああ」
山に捨てられる幾らかは、黒鈷に拾われ、他の者と共に山を渡りながら暮らしていると言う。
「えるむは、東の山向こうの集落で落ち着いて、それなりに食い扶持を得ているらしい。薬草に詳しいから、あいつ」
「えるむが、、、」
「誰かが繋いでくれりゃ、人の世に戻り易いだろう?黒鈷がそう言ってな」
程なくして、まゆもも山を降りたのだった。
「上手く出来ているもんで、えるむのような奴がちゃんと育つんだ。だから、俺も心配はしていないのさ」
「成る程な、、、」
「いずれ俺も、堅気の仕事に就くつもりだ。いつまでも、人からくすねた銭でちび共に差し入れできないしな」
ごろりと横になると、
「で、お前、今日はどうしたんだ?」
女将が包んでくれた味噌を舐めながら、酒をちびりちびり。
「、、、日が暮れるまで、屋敷には戻りたくなくてな」
「なんでまた、、、?」
「屋敷に居ると、なんとも煩わしくてな、、、」
ぽつりと、本音がもれてしまった。
「たまには、誰も来ぬところに隠れたくもなる、、、」
「そうだよなぁ。ま、ここはいつも俺が借りてるから、好きに使ってくれて構わんぜ」
人好きのする笑顔で、まゆもは言った。
「そこの窓から長竿でも垂らしてみろよ。鮒や鯰くらいは釣れるし、梅の古木が、見えるだろ?」
改めて窓の外を眺めれば、
「ああ、、、」
水路に迫り出すように、葉を落とした枝が伸びている。
「時々な、尾長も来るんだ。向こうの茂みには、狸の親子が棲んでいるしな」
取り残され、広がる藪の向こうに、民家や蔵。
そして、彼方には、北から西へと延びる山稜が、青々と見える。
「、、、、、」
まゆもが、この船宿を塒にしている理由を垣間見た気がして、伯は、瓶子を傾けた。
「ん、なんだ?」
酒を注いでやりながら、
「なんでもないさ、、、」
薄い笑みを、口元に刷いている。
陽が落ちるのも早くなり、明るい内にと船宿を出たが、屋敷に着いた時には、辺りはとっぷりと暮れていた。
篝火が煌々と明るい門前には、調度牛車がついていた。
「蒼奘、、、」
肩を揉みながら降り出したのは、銀糸の髪を背でゆったりと結った浄衣の主。
伯を見つけて、
「ああ、伯。君も、今戻ったの?遅かったね」
にこりとした。
「おかえりなさいませ都守、若君。夕餉の支度が出来ております」
出迎えた汪果と共に、蒼奘と肩を並べて母屋に向かいながら、
「ああ、そうだ。伯」
「なんだ、、、?」
「燕倪が、帰りしなに籐那を寄越してね。僕が帰ったら、恵堂橋に来て欲しいと伝えてくれと頼まれてたんだっけ」
「今日?」
「うん。物忌みって言いながら、屋敷の修繕していたはずなんだけれどね、何かあったのかな?」
「今朝、例の水路の詰まりを掃除させに行ったが、、、」
にしても恵堂橋とはおかしいがとにかく行ってくる、と、再び門を潜って行った。
その背を見送りながら、
「こんな早くに屋敷に戻ったのは久々なのだけれどね、燕倪」
酒の相手を失った者の恨めしい呟きだ。
恵堂橋の袂。
名を刻まれた一抱えはある石に背を預け、ぼんやりとしていると、
「おーい、伯」
どこからか、燕倪の声音。
辺りを見回すが、道行く人々の中にそれらしい姿が見当たらない。
訝しげに剣眉を跳ね上げたところで、
「ここだここっ!!おーいっ」
再び、名を呼ばれた。
「、、、、、」
振り向いた先、
「待たせたなっ」
竹竿を片手に、舟の上。
大きく手を振るのは紛れも無い、頬かむりをした燕倪であった。
空には、冴え冴えとした半月の月灯り。
星々もその輝きに身を潜める湖面の上、小船が一艘。
「俺が、好きな相手、、、?」
葦の茂る池には、水辺で羽を休める鴛鴦。
細竿を片手に、杯を離さぬ、若者。
夜半に呼び出された、伯である。
竹竿を器用に操っていた燕倪は、
「ここなら、さすがに聞いている奴もいないだろうし、、、」
「万全だな。そこまでして、知りたいのかよ、、、」
「そりゃ、なぁ、、、」
船を停めると、持ち込んだ瓶子の蓋を開けた。
伯の杯を満たしながら脳裏に浮かんだのは、二人の顔。
『じゃあ、燕倪様はどう思うの?!』
日頃つれない腹いせか、置いていかれた事に怒りおさまらぬタオフィに、
『こうなればもう、はっきりと当人の口から聞くしかないのでは、、、?』
羽琶に諭され、乗る気では無いのだが、渋々その大役を仰せつかった次第である。
「ふぅん、、、」
さも、つまらなそうな返事に、
「な、なんだよ」
さては見透かしているのかと、少し慌てたが、そうではないらしい。
伯は竿を手に、水面を見つめている。
竿を微妙に動かすのは、水面下で魚が針に掛からぬため。
餌を追いかける魚の動きを探り、遊んでいるようだ。
しかし、その遊びにも飽きたのか竿を上げると、朱鷺色の唇に青磁の杯をあて、意味深な流し目。
「そんな目で見るなよ。俺は、別に、、、」
「いいさ。教えてやる、、、」
「おっ、、、そ、そうか?で、誰なんだ?」
しばし黙って、
「ん、、、」
指を差された。
一呼吸あって、
「か、からかうなよ」
むっとした燕倪。
その反応に、伯は少し肩を落とした。
「おいおい、、、真面目に言ってんのか?」
「覚えてないのか、、、」
逆に問われ、呻いたのは燕倪。
「覚えて?!あ、、、ああっ」
先日、嫌いかと問うた日の事が、まざまざと思い出された。
『あんたは好きだよ、エンゲ』
愕然とした燕倪の耳元に、朱鷺色の唇が寄せられ、
「最初から、ずっと、、、」
「ひぃいっ」
耳を押さえて仰け反った燕倪に、珍しくからからとした伯の笑い声。
「からかうなっ」
「からかってなどないさ。嘘は嫌いだ、、、」
「だって、お前はあいつの事を、、、」
「皆、勝手にそう思っているようだな、、、」
その人を思い出し、少し寂しいような表情を浮かべた、伯。
「第一、誰かを、寄せ付けようともしないじゃないか、、、」
「伯、、、」
「まぁ、それとは別に、誤解の無いように言っておくが、俺が、オレと言い出したのは、あんたに憧れてだしな、、、」
「は、、、?」
なんだ、ハイルのヤツ、言ってなかったのか、とぶつぶつ。
呆気にとられた燕倪に、伯は続けた。
「あんたといる時だけは、張詰めていた空気も穏やかになる。俺を甘やかすだけのあの人が、あんたには心を許していた証拠だ。それが、ハクには、、、、たまらなく眩しかった、、、」
「そう、だったのか、、、。俺は、てっきりお前が居るからだと、、、」
「あんただよ、エンゲ、、、」
菫色の眸が、まっすぐに見つめてくる。
黒瞳が大きく、澄み切ったあの童の眸。
「あんたは、不思議な人だ、、、」
いつも、肩や背に纏わりついて、気がつけば膝に居る時も多かった。
あまりに自然になりすぎて、そんな気持ちなど気づこうともしなかった。
この童の事を、これっぽっちも分かろうとしなかったのは、他でもない、自分だと痛感した時、
「あんたを、困らせるつもりはないんだ。ハクは、羽琶も、あとりも、銀仁も好きだから、、、」
「あん?」
くすくすと笑う伯の言いたい事がようやく分かって、燕倪は呆然とした。
「待てよ、、つまり、あんたは好きって、、、」
「残念だが、ハクには二通りしかない。好きか、嫌いか、、、ただそれには生憎と、色恋のような欲が無くてな、、、」
そこはソウに似たのだろうか、と笑った。
「つまりは、子供の、、、そ、、そうか、、、」
子供の好きか嫌いか、らしい。
ようやく合点がいった燕倪も、つられて笑った。
燕倪の杯に、酒を注ぎながら、
「俺は俺だ。あんたにはなれない。それでいいのだと、あんた達から学んだ、、、」
伯は、杯が干されるのを、見つめている。
「ふは、、、なんと言うか、すっきりしたな」
返杯を受ける、伯。
湖面で、魚が跳ねた。
ゆらゆらとする湖面の月を眺め、
「しかし、そうとなれば、どうするつもりだ?タオフィの気持ちにも、気づいているのだろう?」
再び声を潜めた、燕倪。
「、、、、、」
項垂れた、伯。
思い出したのは、しつこいその相手。
「その想いには、応えられぬ、、、」
「態度だけじゃ、人は分からんぞ」
「、、、蟲姫が、言うていた」
「蟲姫?」
「ああ、あんたは知らなかったか、、、。蒼奘に憑いて来た幽鬼でな、屋敷で子守をしているのだが、女は強か故、気にするなと、、、」
「強か、か」
羽琶には、当てはまりそうにない例えではあった。
「口に出すその想いは、知れているのだそうだ、、、」
「そうなのか?」
「俺の想いは、俺だけが知っていれば、それでいい」
― その想いだけで、生きていける、、、 ―
その点、蟲姫と己は似ているのかもしれない。
「だが、それでは寂しいなぁ、、、」
「、、、、、」
「タオフィは、お前がそんなんだから、伝えようとしてるんじゃないのか?」
「、、、、、」
伯と喋りたくて、修行の果てに化身の術を習得した、野狐。
伯にしたらはた迷惑な話なのだが、事あるごとにそれを口実にされる。
「まぁ、お前の勝手だが、、、」
手酌で酒をやりながら、筵を敷いた船底に横になる。
「折れてみる事も、必要なのかもしれんぞ。足るを知るってな」
「うぅ、、、」
その傍らに、伯も寝そべった。
筵にうつ伏せになりながら、
「エンゲとソウに挟まれれば、折れるのは大概、ハクの役目だった、、、」
小さい呟き。
「頼りになるからな、お前は、、、」
「そんな位置づけが、嫌だった」
燕倪の大きな手が、その頭を撫でても、伯は、筵に顔を埋めたままだった。
風が、出てきた。
薄雲が時折、月を覆っては、たなびいてゆく。
細波が立つ湖面、風を受けて葦がさわさわと、揺れる。
月を映しては酒をあおりながら、燕倪は手の下でおとなしくしているその人の気が済むまで、傍らから離れようとはしなかった。
沈黙は時として優しさだと、この二人は知っているのかもしれない。
「これは、若君。いらせられませ」
珍しい来客に、門を開けた隻眼の優男は、微笑んだ。
翌朝。
古びた門を叩いたのは、鴉羽色の狩衣を纏った伯であった。
「胡露、姚翡はいるか?」
「はい。どうぞ、こちらへ」
そっと招き入れると、その扉は蝶番が軋む音を立てながら、閉じられたのだった。
渡殿で結ばれた離宮の一つ。
大池の中に建てられた、こぢんまりとした、二層楼閣。
たまには天候が悪化するのを見てみたいとも思う、陽気。
いつもなら、とっくに身支度を済ましているのだが、今日はまだあてがわれたその離宮にいた。
時折、瑠璃宮が垣間見える、その蓮池。
縁側で、その水鏡にて髪を梳いていたタオフィは、溜息だ。
傍らに用意した、花簪。
藤に、芙蓉、薔薇、百合、芍薬、露草、撫子。
どれも、髪に挿す気がしない。
榛色の髪が、豊かに背に流れた。
纏めようとしてけれど決まらず、何度も解いたらしく、櫛には長いその髪が、無数に絡まっている。
もうひとつの溜息が、喉を通ろうとして、
「俺だ。入るぞ」
「?!」
その声音に、止まった。
慌てて居間に入れば、入り口に置いた紅梅の衝立の向こうから、異形の若者が姿を現した。
腰まである群青色の髪に、翡翠色した枝珊瑚の如き角。
額の吉祥紋。
菫色鳳眼の涼しげな双眸。
いつも不機嫌そうな朱鷺色の薄い唇からは、小さな牙が覗いている。
「は、、、」
突然のその来訪に、硬直したタオフィを一目見るなり、
「、、、すごい格好」
「えっ、、、あッ」
胸元から下を、光沢のある雪色の繻子が、覆っている。
腰をゆったりとした薄紅色の帯が絞り、裾は長く、足首まで。
領布も巻かぬ、今だ寝巻き姿。
紅潮した頬を隠すように、その身は衣だけを残して、野狐の姿へ。
ツルウメモドキが生けられた大きな花瓶の向こうに、身を隠してしまう。
一方伯は、先ほどまでタオフィが座っていた縁側に腰を下ろし、蓮池の下を覗き込んだりしている。
いつもは、押しかけるばかりのタオフィ。
いざ、逆に来られると、掛ける言葉も見つからない。
そろそろと寝巻きを咥えると、
「なぁ、姚翡、、、」
ピィギッ・・・
背中越しに、声が掛かった。
「お前、まだ俺の、、、」
何を言うまでもなく、
「ッ、、、そ、そんな事、聞かないでよ、改めて、、、」
顔を前脚で掻くような仕草を、繰り返す。
そんなタオフィの姿など、到底見えていない伯は、
「俺は、お前に応える事ができない、、、」
淡々とした声音で、告げた。
「ちょっと、、、待ってよ、い、いきなり、、、」
「お前が言うものの定義と言うやつが、俺には無いんだ、、、」
「、、、、、」
「今日はそれを、はっきり伝えたくてな、、、」
伯の手が、簪を一つ、取った。
「いきなり来て、何言ってんの?」
「それだけだ、、、」
その背に向かって、
「それだけって、、、何よ、それ、、、」
「、、、、、」
「あ、あたしがずっと、迷惑だったって事?!」
― あの、幽鬼が来たから、あたしなんて、いらないって、、、? ―
タオフィは、声が震えるのを、感じていた。
愕然とするよりも先に込み上げた来たものは、
「ばっかじゃないの?!自惚れてんじゃ、ないわよっ」
怒り。
野狐は、腕を突っ張って、声の限り叫んでいた。
「う、嘘に決まってんじゃない。そんなのっ」
― やだっ、なんでこんな事言っちゃうの、あたしっ ―
そう頭で思う反面、口はもう止まらなかった。
報われる事など無いと分かっていたはずなのに、溢れ出て、しまう。
「嘘、、、」
「そうよっ!!手に入らないものだと知ってるから、安心して恋できるのよっ!!本気になってなんて、欲しくないの!!言っとくけど、あたし、別にあなただけじゃないんだからねっ」
「、、、、、」
何の感情も窺えない、背中。
その沈黙が怖くて、
「あ、あなただって、気分良かったんじゃないの?あたしみたいなのにでも、言い寄られてっ」
― 止まんないっ!!こんな事、言いたくないのにっ ―
タオフィは、捲くし立てた。
「大体ね、あたしとあなたじゃ、格が違い過ぎるものっ」
言い放ってなお肩を怒らせ、その小さな体は琥珀色の眸でもって、鴉羽色の狩衣の背を、睨んでいた。
かた・り・・・
静かに、簪が戻された。
立ち上がり、振り向いたその表情。
「、、、、、」
「なに、ょ、、、」
何も読み取る事が出来なかった。
「そうか、、、」
静かな声だけを残して、伯は出て行った。
いつもの伯のようにも見えたし、そのどれでもない彼のような気もした。
いっそ清清したと、吐き捨ててくれたらどれだけ心安いか。
一人、取り残された野狐は、
「だって、そうじゃない。本当に、、、」
俯き、黒曜石の床を、睨んでいる、、、
「若君、もうお帰りですか?」
程なくして、門前に姿を現した伯に、白い牡丹を切っていた胡露が声を掛けた。
「ああ。用事は済んだ、、、」
うっそりと応じると、懐から翡翠の連珠を取り出し、首に掛けた。
「左様で。地仙がお目覚めならば、お茶のご用意もできたのですが、なんのお構いもできず」
「構うなよ、、、」
胡露が、その人のために門を押した。
古びた屋敷に出入りする者など、誰一人として気に掛けるでもない、朝の時分。
「またのお越しを、若君」
声だけ聞こえ、扉はひとりでに、閉じた。
風が強く、長い髪が頬を打つ。
寒気に混じって砂が舞い、木枯らしがくるくると木の葉を巻き上げては、消えてゆく。
ぐっ、と伸びをしたところで、屋敷の前で打ち水をする琲瑠と蓉亜の姿。
「あっ、伯っ」
こちらの姿を見つけると、手に柄杓を持って駆けてくる。
「ねぇ、夕べはどこ行ってたの?」
腰の辺りで見上げる、大きな眸。
「、、、、、」
伯の手が、
「わわっ、、、」
蓉亜の脇を掴んで抱き上げる。
「いきなり何すんの?!やだっ、下ろしてよっ」
そのまま腕に座らせた。
身を捩るその鼻先を抓みながら、
「月見だ」
うっすらと笑みを刷いた唇。
「嘘だっ」
蓉亜が詰め寄った。
「嘘なものか。燕倪に聞いてみろ、、、」
「半月なのに、月見?」
「月はいつ見てもいいものだ。月が無ければ、星を見ればいい」
漆黒の眸が、見つめてくる。
すかさず、
「星が無ければ?」
矢継ぎ早に尋ねてみれば、
「雲を見ればいい。風を捉え、雨の音を聞けばいい、、、」
「よく、分かんないや」
結局あっけらかんと言えば、伯がいつもの呆れた顔をした。
門前では、蓉亜を腕に現れた主君を出迎えて、
「お帰りなさいませ、若君。朝餉の仕度が整っています」
にこりと、琲瑠。
「さ、若様も。恐れながら若君、若様も召し上がらすに待っていらっしゃったのですから、これからは、もう少し、、、」
母屋に向かいながら琲瑠が言えば、
「ああ、なるべく早く戻るようにする、、、」
珍しい答えが返ってきた。
「本当?」
「ああ、、、」
その人の腕に座ったままの蓉亜が、眼を輝かせた。
と、そこへ、
≪主様≫
ふよふよと頼りなげに舞い寄る幽鬼、蟲姫。
「今帰った、蟲姫、、、」
≪ご無事で何より、、、≫
たおやかに微笑む。
「ご機嫌ついでに、若君。朝餉を召しましたら、若様の読み書きを見てください」
「俺は、寝るぞ、、、」
「琲瑠も汪果も、忙しいんだから、暇してる伯が教え、、、」
≪あの、、、≫
一同の視線が、一人に集まる。
≪差し支えなければ、わたくしが、、、、≫
顔を見合わせる蓉亜、と伯。
「蟲姫が?」
二人の声が、同時。
≪はぃ。わたくしでよければ、よろこんで、、、≫
頷く、蟲姫。
琲瑠も、新しい使用人を、頼もしげに見つめている。
「タオフィ、、、」
一声掛けて今に姿を現したのは、胡露。
衝立の向こう。
今の椅子は倒れ、花瓶は割れ、ツルウメモドキの赤い実が、床に散らばっている。
寝巻き姿の小さい後ろ姿が、部屋の片隅で壁を向いたまま、蹲っていた。
「手酷く、噛みついたようですね、、、」
穏やかな口調そのまま、胡露は欠けた花瓶の欠片を拾い集める。
一つ所に積み上げながら、無残にも散った長いツルウメモドキの枝をひとまず卓子の上へ。
それから黙って箒で床を掃除し、新しい花瓶に生けなおした。
「おや、、、」
池に面した縁側に、小さな櫛。
細いその指が掬い上げると、絡まった髪を抜き取った。
「いつまでも、そんな格好でいるつもりですか?」
「、、、、、」
「こちらへ、おいでなさい」
胡露に言われるままとぼとぼと歩いてくると、その手に導かれるまま、縁側に座り込んだ。
「まったく、、、」
溜息を一つこぼすと、手にした小さな櫛で、タオフィの髪を一房一房、梳いてゆく。
胡露の手の中で、櫛に絡まる事など無いかのように素直に流れて落ちてゆく、その榛色の艶やかな髪。
おそらく、苛立ちまぎれに梳き抜いてしまったのだろう。
やがて、
「胡露様の言うとおりだった、、、」
ぽつりと、タオフィが呟いた。
「ううん。分かってたつもりだったのに、、、」
「、、、、、」
胡露は、無言でその髪を手に取り、編み始める。
彼のその沈黙が、タオフィに言葉を紡がせた。
「分かってて、それでもと思って、、、振り向いて、欲しくて、、、」
たとえどうであれ、その人が好きな自分の気持ちに嘘はつけない。
その、好でいる自分のために、あれこれとしてきたつもりだった。
履き違えるつもりなど、これっぽっちも無かったはずなのに。
「なのに、あたし、、、伯にひどいこと、、、っ」
ぽろりと、弱い涙が頬を伝い顎先から床へ、まあるい染みを、作った。
拭ってくれる手も無く、染みはひとつ、またひとつと、増えていく。
それが、今の自分に相応しいとさえ、思えた。
「、、、、、」
肩を揺らすタオフィの髪を、胡露は無言で細やかな編み込みを施し、玉環を通しては結い上げてゆく。
いつの間にか、その口に咥えられた、色とりどりの細い綾紐。
銀色の細い簪が、幾本も挿し込まれてゆく。
「ばかは、あたしだ。何にも、伯の事、考えてなかったっ、、、」
本当は、訪ねて来てくれて嬉しかったはずなのに。
売り言葉に、買い言葉。
結局、心にも無いことを言ってしまった。
情けなさと、どうしようもない悔しさ。
「、、、、、」
嗚咽を堪えるタオフィ。
その髪を、それまで黙って結っていた胡露の手が、止まった。
整然と簪が並べられていた、脚付きの盆。
胡露はタオフィの前に、盆をそのまま差し出した。
「何、よ、、、」
苛立ちと焦燥のこもった眼差しに、
「この屋敷は、年中季節を問わず花々が競い咲き、花番の私でも、時々分からなくなるのですよ、、、」
見れば一つだけ、他の簪に重なるようにして、横向きに置かれているものがある。
淡い桃色の、可憐な花。
「秋の野に入り、これを見つけると、不思議と心が穏やかになる。だから、かえって見つからぬ日は、寂しくもなる、、、」
「、、、、、」
「その名は成る程、貴方に相応しいのかもしれません」
その花の名が、
「ぅ、、、ひっ、、、」
タオフィへの想いを現しているのなら、、、
「ひぁぁああッ」
大きな口を開けて泣き出したその髪に、横向きの花簪を挿してやると、胡露はそのまま離宮を後にした。
渡殿を歩き、母屋へ入ってすぐ、侍女らが忙しなく行き交うのとすれ違った。
朱塗りの太い柱が居並ぶ廊下を、中庭へ抜けると、
「野狐を、泣かせるでないよ」
浅葱色、巴模様の透かしの入った紗幕の向こうに、爪を磨かせ、髪を結わせる女主人の姿。
「地仙、お目覚めでしたか、、、」
「もう少し、惰眠を貪りたいところだが、あれでは眠れと言う方が無理だ、、、」
あくびをすると、その拍子に爪を塗っていた侍女が、小さい悲鳴を上げた。
動いたために、刷毛の先がずれたようだ。
「それは、申し訳ございませぬ、、、」
紗幕を潜ると、長椅子に腰を下ろした遙絃が、その手を差し出した。
心得たもので、爪を塗っていた侍女を下がらせると、
「地仙がお休みの間に、若君がいらっしゃいましたよ」
鶸色の染料を溶き、薄紅色の下地に重ねていった。
「だろうな。でなくば、あのじゃじゃ馬が、ああまで声を上げぬだろうよ」
嗚呼、面白いものを見逃した、と呟くのを、
「若君もお人が、お悪い、、、」
胡露の溜息。
「もったいぶらすな、胡露。教えろよ、、、」
「可憐な秋の草花を、ただその姿に喩えたのか、それとも心を砕く事は出来ぬがと、慰めたつもりか、、、」
遙絃の指先。
薄紅色に塗られた爪先に、
「成る程な、、、」
鶸色に染まった筆先が、踊る。
やがて、
「そうか、、、」
浮き彫りになったその花を見て、遙絃は、くつくつと喉を鳴らした。
「“撫でし子”。確かに、愛しい子には相違ない」
「ええ。若君にしては、なんとまぁ随分と、お可愛らしい、、、」
手際良く、長いその爪を染め上げたところで、
「だが、どうだろう。花の名なんぞ、あの坊やが逐一覚えていると思うか、、、?」
ふと、遙絃、気がついた。
どこからともなく香る、金木犀。
差し込む、柔らかな陽射し。
螺鈿細工が細やかに施された卓子の上。
染料の入った瓶を仕舞っていた胡露の手が止まり、
「あ、、、」
“やはり”と言った意味合いの強い小さな声が、洩れたのだった。
昼下がり。
阿四屋の下では、蟲姫を傍らに、蓉亜が筆を走らせている。
たっぷりと摺った墨を細筆に含ませ、
≪お手本を、まずはよく見る事、、、≫
「ええっ、早く終わらせたいよ」
顔を口にして言う蓉亜に、深紅の眸が、赤光を放った。
≪余所見は厳禁でございます、若様、、、≫
「う、、、」
慌てて、写本に向き合う蓉亜を蟲姫に任せ、屋根の上では、毛氈を敷き、肩肘枕の伯。
長い睫毛が目元に陰を落として、ほどなくの事であった。
「、、、、、」
ィィイン・・・ィイッ・・・
微かな、その音。
― なんか、気合入ってるなぁ、、、 ―
駆け込んでくるその人を見つめ、そんな事を蓉亜は思ったが、いつもの事。
今日は、筆に集中してしまう。
傍らの蟲姫の、苛立たしげな白い溜息が頭上で聞こえたが、蓉亜にとってはこの写本を終えなければ 遊ぶ時間も無いため、それに構うどころではないようだ。
一方、阿四屋の屋根。
「、、、、、」
うっそりと、どこか濡れた紫玉が覗いた。
リィイン・・・リリ・ィイン・・・
おおよそ、人とは思えぬ跳躍でもって跳ね上がった者が、
「ああっ、この匂いっ」
その背にしがみ付いた。
「、、、姚翡」
うっとおしさを前面に押し出した貌で、見つめられても、
「あたしがいないと、やっぱり寂しいんでしょ?!」
「うっ」
構わずその貌を胸に抱いた。
綾紐が編み込まれた、玉環揺れる榛色の髪。
薄紅の領布を纏い、鶯色の旗袍と紅の裳。
妖艶と言うよりは、瑞々しい若さが弾ける可愛らしさ。
左の額に掛かるように垂れるのは、撫子の花簪であった。
もがきながら、何とか身を捩ったところで、
「安心して。そのっ、、、さっきの全部、、、じょ、冗談だからっ」
「、、、、、」
「た、たまには、あんなあたしも、い、いいでしょ?」
苦し紛れに身をくねらすタオフィの仕草。
「、、、、、」
伯は呆れ、そして項垂れた。
≪我が君、、、≫
美貌の幽鬼、蟲姫が心配して顔を覗かせると、伯が無言で『構うな』と制した。
「ねぇ蟲姫っ、これ、なんて読むの?!」
渋々、蓉亜に呼ばれて戻って行くと、
「伝えたぞ、、、」
伯は念を押し、背を向けるようにして横になった。
その傍らに腰を下ろしたタオフィが、少し寂しそうな顔をして、けれど、
「うん、、、」
小さく頷いた。
伯は、まどろむようにゆっくりと、眼を閉じた。
傍らで鳴る、小さな鈴の音。
蓉亜の甲高い喚き声に、蟲姫のいつもの溜息。
忙しない使用人達の足音に交じって、どこかで猫が喧嘩する声が聞こえてくる。
そして、野辺で風に揺れる、撫子の花。
そのどれも欠ければ寂しい、秋深まる帝都が空の下、、、
その花の名は知らずとも、似合うだろうと選んでみたは、今は昔、撫でし子でした。。。
可愛らしい花なのに、ついつい摘んでしまえる花ではなくて、摘んでいい花でもなくて、ただ、そこに咲いていてほしくて、変わらずそばに咲いていてほしくて、ここにいてほしくて。。。
だから、なのかもしれません。。。
その名前を知った時、無慈悲な風を呼びました。。。
その風の正体を、未だに僕は、僕自身の中で否定しているのだけれど、きっといつか、気づいてしまうんだと思うと既に憂鬱なので、せめて筆の先だけは、殻を外部からぶち壊してもらうという、唯一の攻略法ハッピーエンドって、ことで^^;