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― 姚翡 ―

「伯、なにしてるの?」

「、、、、、」

 嵐が去り、三日ぶりに覗いた晴れ間。

 まだ風は残っているが、空は高く、薄雲が早い。

 大池の淵に立っていた伯を見つけて、蓉亜ようあが声を掛けた時、 

 ピシャ・・・ンン・・・

 その姿は細かい粒子となって霧散。

「あっ、、、」

 水面へ、雨でもないのに刻まれた、波紋が一つ。

― いっちゃった、、、 ―

 水脈を渡るのを見るのは初めてでは無いのだが、何も言わなかった事が、どうやら気に障ったらしい。

≪蓉亜様、、、≫

 さすがに離れで過ごしていたのか、陽光の中で頼りなげに浮かぶその人は、渡殿の方から現れた。 

「む、蟲姫。お、脅かさないでよっ」

≪、、、、、≫

 当人は脅かすつもりは毛頭無いらしく、逆に戸惑ってしまった様子。

 蟲姫が来て幾日も過ぎているのだが、足音も無いため、突然声を掛けられるとこの通り。まだ、慣れるには少し時間が掛かりそうだ。

 細い顎に手を当てて、考え込んでしまったその美しい幽鬼に、

「あっ、僕、別に怒ってないよ。まだ慣れなくて、ちょっと、びっくりしちゃうだけだから、、、」

≪左様ですか、、≫

 儚い安堵の笑みが毀れた。

 気を使っているのが幼い自分であることに、少しげんなりしつつも、物怖じしない所が蓉亜の良さで、

「昨日の嵐、凄かったね。屋根が飛ばされちゃうかと思ったよ」

 話題を変えてみた。

≪ええ。紅子べにこの事を、思い出しました、、、≫

「紅子、、、?」

≪以前、わたしがまだ小浦のお屋敷に在った頃、近くの川が氾濫いたしまして、牛の紅子が流されてしまったのです、、、≫

「あ、牛、、、」

 次の瞬間、蓉亜は、自分の口を慌てて塞ぐことになる。

 柘榴の深紅を思わす双眸に、涙が滲んでいた。

≪夜更けの事でしたので、男衆の手も回らず、、、翌昼、下流付近の田圃に、、、≫

「あ、、、ごめん。」

≪とてもおとなしくて、かわいいこだったのに、、、≫

 はらはらと、零れ落ちる、涙。

 それは、顎先から滴り落ちると、雪となり、陽光の中で掻き消えてしまう。

「ごめん、ごめんってばっ!!泣かないでよっ」

 慌てて、衣の裾を掴めば、蜘蛛巣を掴んでいるような感触だった。

 袖に涙を吸わせると、蟲姫は長い睫毛に涙の球を結んだまま、穏やかに言った。

≪だからとても、怖かった。また、離れ離れになってしまうかと、、、≫

「離れ離れって、、、」

― 牛? ―

 幼い蓉亜には、その考えしか浮かばなかったが、実際は、そんなはずもなく、、、

≪主様と、、、≫

「そっか、そうだよね、、、」

 浅はかな己が考えに、項垂れた。

≪ほぅ、、、≫

 頭の上で、溜息が洩れた。

 いつもは寒々とするものだが、今日のその溜息は、少し違って、

≪主様、、、≫

 紅潮しているその頬は?

「どうしたの?」

≪あ、いえ、、、少し思い出して、、、≫

 恥ずかしげに身をくねらせると、芥子香が香った。

「えぇ?!気になるよっ」

 今度は、駄々をこねて蟲姫に縋る、蓉亜。

 その艶やかな黒髪を撫でながら、

≪雷に怯えるわたしを、主様が褥に入れて下さって、、、≫

 ぽつりとこぼした。

「えっ伯が?!蟲姫、いいなぁッ」

 蓉亜が、こっそり潜り込む事はあっても、そんな事してくれた試しが無い。

 いいなぁ、を連発するその耳に、

 リィリリ・・・ン・・・

「!!」

 鈴の音。

 はっとした蓉亜が見つめた先。

 楓の枝の影から現れたのは、握り締めた拳をぶるぶるさせる、タオフィの姿。

「なんで、、、なんでこの女なのよッ」

「あ、タオフィ、い、いつからそこに?」

 明らかに蟲姫を敵視している眼差しで、平橋を渡って歩み寄ってくるのを、

「蟲姫、に、逃げた方が、、、」

 勝ち誇ったように艶然と微笑む蟲姫が、迎え撃つ気か、顎を反らして腕組みだ。

「だいだいね、あんた気に食わないのよ。幽鬼の癖にっ」

≪なってご覧なさい。それでも誰かを愛せるのなら、、、≫

 今日こそは、とんでもない事が起きる。

 はらはらしながらも、蓉亜が二人の間に割って入った時だった。

 ザザッ・・・バシャアァァ・・・

「ひっ」

 タオフィと蓉亜が、同じ悲鳴をあげて抱き合った。

≪あ、、、≫

 蟲姫は、両手を口に当てて、眼を眇めた。

「、、、、、」

 辺りに立ち込める、酷い臭気。

 木の葉や枝、泥の塊が、池に立っているのだ。

 重そうに泥の塊が前進すると、少しずつ剥がれていって、

「あれ、、、角」

 蓉亜は、泥の塊の頭上に翡翠色の突起を見て、指差した。

「もしかして、、、」

 タオフィと蓉亜が顔を見合わせて、

「伯?!」

「、、、、、」

 うんともすんとも言わずに、池から上がると、母屋の方からは派手な足音を響かせて琲瑠が駆けてきた。

「若君ッ!!嗚呼、こちらからお回り下さいまし」

 そこでようやく手を払うと、五指が覗いた。

 泥の塊にしか見えぬのに、苛立たしげに湯殿へと消えるその背を、一行は見送る事しかできなくて、、、




 平素、檜の良い香りがするその湯殿も、今日は異臭が立ち込めていた。

 格子戸から差し込む朝日、贅を凝らした広い湯船も、濁った水の色と汚れた浴室の床を見れば、台無しだ。

 ぼりぼりと髪の間に入った泥を掻き出しながら、

「酷い有様ですね、若君」

「まったくだ、、、」

 うんざりといった様子で、湯船の縁に置かれた杯を干した。

 湯船へと流れ出る澄んだ湯を桶に溜めては、髪や肩に掛ける手を休めないのは、琲瑠。

「ねぇ、伯?お湯加減はどう?」

 格子の向こうでは、薪をくべているタオフィと、

「入れすぎじゃないの、これ、、、」

 蓉亜の声。

 しばらく黙っていたのだが、

「、、、熱い」

 さすがに、耐えかねたらしい。

「えっ、嘘ッ、どうしようっ」

「あっ、水掛けたら、消えちゃっ、、、消えちゃった、、、」

 水浸しの竈を前に、しょんぼりする二人の姿が眼に見えて、

「やはり、私が代わりましょう。お手伝い、ありがとうございます」

 たまらず琲瑠が、声を掛けた。

「でも、、、」

「いいから、あっちいってろ、、、」

 ぶっきらぼうな、伯の声音。

 これ以上纏わりつくといつもの事で、姿を消してしまいそうな勢い。

「いこ、タオフィ、、、」

 心得たもので、その手を引くのが、蓉亜。

 タオフィは、細い眉を八の字にして、格子を眺めた。

「ねぇ、伯。一つだけ、、、」

「、、、、、」

 首の鈴を握りしめながら、

「あの蟲姫を、褥に入れたの、ホント?」

 問うた。

「、、、、、」

 伯の泥で汚れた肩や腕を絹布で擦っていた琲瑠も、思わず手を止めた。

 しばしあって、

「、、、んだよ。あまりにうるせぇから、枕にしただけだ」

 牙が、覗いた。 

「そ、そうだよねっ」

 小さな安堵の溜息と共に、鈴の音が遠ざかっていった。

 湯船に沈み、首を齎せて仰け反る伯の貌を、

「なんだよ、お前まで、、、」

 困ったような表情で、琲瑠が見つめている。

「いえ、別に、、、」

 火を熾さねばと立ち上がるその手首を、伯は逃さなかった。

「若君、、、?」

「はっきり言えよ、、、」

 菫色鳳眼の絶対君主。

 琲瑠は、再び膝をつくと、その腕に絹布を当てて再び擦り始めた。

「、、、そういえば、もう長くこの地にいるのだと、思いましてね」

「、、、、、」

 水を弾く肌理細やかな、象牙色の肌。

 伸びやかな筋肉のついた腕はしかし、人型に封じられている仮の姿。

「若君に、お心砕く方が出来るのは、我らとしても喜ばしい事」

「何が言いたい?」

「それで、名乗りを上げられぬとなりますと、少しだけ、困るので、、、」

 琲瑠は、苦笑した。

「馬鹿馬鹿しい、、、」

 いつまでもこの姿で暮らす事は、出来ない。

 それは、化身してゆく伯自身が一番分かっているのだ。

「湯を沸かせ。寒い、、、」

 短く命じると、

「はい、若君、、、」

 琲瑠が出て行った。

 一人、湯船に浸かったまま、ぼんやりと琲瑠の言葉を思い出す。

『若君に、お心砕く方が出来るのは、我らとしても喜ばしい事』

 脳裏に浮かんだのは、誰であったのか、、、?

「、、、、、」

 手酌で注いだ杯を干し、

「馬鹿馬鹿しい、、、」

 自分に言い聞かせるように、もう一度呟いたのだった。




 風も治まった、翌朝。

「、、、、、」

「ちょっとぉ、せっかく二人きりなのにぃっ」

 鴉羽色の狩衣。

 腕に年のころ同じくらいの娘をしがみつかせ、案内の者を待たずに門を潜った。

「やぁよおっ」

 ずんずんと屋敷を右手に庭を行き、その奥の間へ。

「ん?」

 妻が吹く篠笛に耳を傾け、庭にて枝が折れぬようにと結えていた縄を切っているのが、屋敷の主。

 腕に絡む娘をそのまま、

燕倪えんげい

 日に日に冷えゆくその大気の中、凛と澄んだ声音の来客。

「おお、伯。それに、タオフィ」

 鋏を布に包みながら、足場から降りると、二人の姿に破顔した。

「相変わらず、仲睦まじいな、おまえら」

 その声音に、

「誰が、、、」

「はいっ」

 引き離そうとする伯と、ここぞとばかりに絡めた腕に渾身の力を込めてしなだれる、タオフィ。

「いつまでも、くっついてくるなっ、、、」

 さすがに牙を剥くが、

「ずっと、あの幽鬼に独占させてやったんだから、これくらいいいじゃないっ!!大体、あたしが一番最初に、伯に眼をつけたんだからねっ」

「な、、、」

 負けじと犬歯を剥いた、タオフィ。

 邪険にすればするほど、性質が悪いタオフィの性格を知ってか、

「、、、俺の気持ちは二の次という輩が、多すぎる」

 項垂れた、伯。

「うふっ」 

 ご機嫌で頬を摺り寄せるのは、タオフィ。

「なんか、昨今の若者は、気苦労が多いやね、、、」

 毎度の事に苦笑しつつ、燕倪。

「で、どうしたんだ、今日は?」

「、、、澱んでぃる」

 小さな、その呟き。

「あ?」

「松の手入れをするよりも、、、」

「うん、、、?」

「池を手入れしろと言いに来た」

「池?」

「酷い目食ったんだ、、、」

 鬱々と言う伯に代わって、

「そうそう。伯ったら、いつもみたいに横着して水脈を渡ったのね。そしたら、こないだの嵐で帝都中に張り巡らせた水路が詰まっちゃってて、酷いものだったのよ。もう、くっさくって、、、」

 ここぞとばかりに話し始めた。

 思い出し笑いのタオフィだったが、最後はしっかり、

「ああ、でもあたしはそんなところも大好きよ、伯」

 と締めくくった。

「いいから、お前はちょっとあっち行ってろ、、、」

 伯は、うんざりとした様子で、タオフィの背を押した。

「あぁんっ」

 伯に押しのけられ、しぶしぶといった様子で、釣殿から此方を眺めている羽琶の元へ駆けていった。

 それを見送って、

「ここは天狐の縄張りだから、俺が勝手していい場所は知れている。緊急時にと、あんたのこの池と、蒼奘、陰陽頭、青梅池は渡れるようにしておいたんだが、、、」

 そう言われて見れば、いつもは澄んでいる池の水が、今日はどこか濁っている。

 嵐に池の底が巻き上げられたと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

「目詰まりしているのか?」

「ああ、掃除しろ」

 一呼吸置いて、

「、、、今か?」

「今だ」

「困るのか、、、?」

 食い下がった。

 この寒空の下、真顔で水に入れと言っているのだ。

「大事があっても、俺が駆けつけられんだけだが、、、」

「わ、分かったよ」

 妻と、この若者には滅法弱い燕倪が、

「おーい、籐那っ」

屋敷の若衆を呼んだ。

 裏で、渋柿を採っていた当人は、主のその声に手を手にしていた竹を置き、駆けつけた。

「ああ、伯殿。おいでなさいませ。珍しいですね、今日は奥方様も、、、」

 良く陽に焼けて、小柄な若者が、会釈。

「その呼び名は、やめろ、、、」

 うんざりした顔に、怪訝な様子で、

「あれ?先日、道でお会いした時に、タオフィさんが晴れて夫婦になりました、って、、、」

 おかしいなぁ、と籐那。

 返す言葉も無く、項垂れる伯を気にしてか、

「ああ、この二人に関しては真に受けるな。やきもきするぞ」

「はぁ」

 助け舟のつもりか、自分の事は棚に上げた。

「で、あの、旦那様、御用は、、、」

「ああ、熊手と草を入れる籠を出してくれないか?」

「今朝、庭のお掃除は、、、」

「いや、湧泉に詰まりがあるらしくてな」

「そういう事でしたら、僕が、、、」

「俺かやるよ。こいつの好意だしな」

「つっ、、、」

 強か背中を叩かれ、伯が燕倪を睨んだ。

 それに構う事無くわしわしと頭を撫でながら、にこりとする主に、

「?」

 首を傾げる、籐那であった。




「無理、音なんてでないもん」

 羽琶の膝に、漆が塗られた篠笛を放り投げ、当人は、床に仰向けに転がった。

「ふふ、、、むきになって息を吹き込むからよ」

 夜空の星座が描かれた天井を映す視界に、銀糸の髪の主が居る。

 細く絹糸のような、その髪。

 やや癖のあるタオフィにとっては、羨むものだ。

「羽琶様は、いいなぁ、、、」

「え、、、?」

 膝に顎を預け、指でその髪を絡めながら言った。

「こんなまっすぐで、綺麗な髪。あたしなんて、平凡なこの色だし、癖があるし、太いし、さ」

 いいな、いいなと子供のように繰り返す、タオフィに、

「わたしは、この髪のせいで、、、」

 ふと、そのたおやかな容貌に翳が過ぎった。

 目敏く、感づいて、

「どうして?とっても素敵じゃないっ」

「あ、、、」

 膝に手をついたタオフィの琥珀色の大きな眸が、不思議そうに見上げてくる。

「わたしは、ここに来る前に、遠野にいたの。この髪のせいで、、、」

「だから、どうして?」

「タオフィ、、、」

 澄んだその眸は、まだ幼い蓉亜のものと同じ。

 純粋な好奇心に、溢れている。

「人は、自分と違うものを、恐れるものだから、かしら、、、」

 家族を、恨むつもりもない。

 遠野に冷遇されても、親兄弟の文や来訪が、絶える事はなかった。

 何不自由無い暮らしの中、ふと気づく寂しさも孤独も、自分がここにいる事で一族の安寧があるのなら他愛無いもの、そう思えば乗り越えられた。

「でも、羽琶様も燕倪様も、蓉亜だって、あたし達の事、怖がらないわ」

 それはおかしいと、タオフィ。

 羽琶は、

「そうね。少しずつ、そんな人達が増えていってくれれば、いいわね」

「そうよ。そうなるべきなのよ。あたしなんて、どの狐も持つこんな平凡な髪の色なのよ?我が君は蜂蜜色、伯だって青いし、蓉亜の黒髪もすごくキレイ。みんな、違うって、ステキじゃない」

自分の事のようにむきになる狐精に、羽琶は微笑んだ。

「あなたも、とても素敵よ。タオフィ」

「えっ、、、あっ、そりゃ、まぁっ」

 途端に照れる、タオフィ。

「ねぇ、羽琶様は、どう思う?」

「うん、、、?」

「あたし、と、そのね、伯、、、」

 もじもじとするタオフィに、

「あら、大胆な事、みんなに言ってる癖に、、」

「だってっ、そうでもしなきゃ、他にっ、、、」

 思い出した顔は、屋敷の蟲姫。

 少しでも恋の好敵手は減らすための戦法であったらしい。

「、、、でも、やっぱり、向き合ってくれないよなぁ」

 はふ、切ない溜息に、

「でもきっと、嫌いなら、言わせたりはしないわ」

「ホント?!」

「きっと、、、ね」

 羽琶は、傍らの和紙の包みを解いた。

 小さな角を幾つも持つ、色とりどりの金平糖。

「甘いものは、元気になるから」

「わわっ、あたしこれ大好きっ」

 一粒抓んで、口に放り込む。

 舌に転がる感触を愉しみながら、庭を眺め、

「あれ?!」

 噂の当人の姿ばかりか、屋敷の主の姿も無い事に、ようやく気付いたのであった。




 屋敷の裏手にある湧泉口。

 白い大きな石で回りを固め、細い水路が屋敷の下を通って表の池へと流れ込んでいる。

 生活用水は井戸から取っているため、ついつい忘れがちになっていたが、覗き込めば風に舞ってきたのか、枯葉こんもりとして沈んでいる。

「うっ、、、」

― 冷てぇッ!! ―

 裾をたくしあげ、素足のまま泉に入ると、

「この奥だ。泥が詰まっている、、、」

 石の上に車座になって、伯が指示。

 それを熊手で掻き出し、で受ける。

 さすがに見かねた籐那が、籠へ上げていくと、四半刻足らずで、籠二杯にもなった。

― あぁ、もー足感覚ねぇ、、、 ―

 ようやく、水か細やかな砂を巻き上げながら湧き出すのが見えたところで、片足を石に掛けた。

 その鼻先に、

「まだだ、、、」

「え?」

 突き出されたのは、柿の木に立てかけてあった竹の棒。

 それを渡すと、

「その奥が詰まってるんだ。どこかで泥が流れ込んだんだろう」

「人使い荒いねぇ、、、」

 渋々足を戻し、竹の棒を湧泉口に差し込んだ。

 燕倪の背丈を裕に越す長さの竹を、あっという間に呑み込んでしまう。

 それを出し入れする事しばらく、

「ん?」

 籐那は、伯が袖で顔を覆ったのを見た。

「伯殿、、、?」

 次の瞬間、

 ゴボッ・・・ボ・・・ゴボボ・・・

「うッ」

 澄んでいた水は濁り、臭気と共に汚泥が溢れ出してきた。

「ひ、酷い臭いですねっ」

 鼻を抓む籐那の傍らでは、袖で顔を覆ったままの伯。

「籐那、念のため、井戸も調べてくれないか?」

「そうですね、、、」

 ここぞとばかりに駆け出して行った、籐那。

「おい、伯。もういいぞ、、、」

「、、、、、」

 水も澄み、臭いが無くなったところで、燕倪は足を洗いながら水から上がった。

 手拭いで足を拭きつつ見やれば、

「これでいいか?」

「ああ、、、」

 その背はもう遠くにあった。

 そのまま塀の向こうへと舞い上がると、

「おい、タオフィを置いていくつもりか?!」

「ガキでも一人で帰れるんだ。帰れぬとは、言わせん、、、」

「こらっ、伯ッ」

 そのままふわりと鴉羽色の狩衣、大気をはらんで翻ると、その姿は消え去った。

「まったく、、、」

 いつもの事で、どうしようもない。

 やれやれと頭を掻いたところで、ふと、

「そういや、あいつ、誰が好きなんだ、、、?」

 羽琶の顔を思い浮かべて、首を振る。

 どうにも、タオフィでもないらしい。

「後は、、、」

 などと思い描いたところで、当ても無く、脳裏に浮かんだのは、あの男。

「まさかな」

 この後、タオフィの怒りの矛先が向けられるとも知らぬ、暢気な独り言であった。




「へへ、、、」

 懐に捻じ込んだ胴巻き。

 確かな重みににんまりし、裾を払ったところで、

「おい、、、」

「つっ、、、な、お前っ」

 細く人気の無い路地。

 船宿が集まるその二階部分の庇に、黒い衣の若者がしゃがみ込んでいた。

 息を整えるつもりが、驚かされ、おかしなことになった。

 しゃっくりが、止まらなくなったのだ。

「いっ、、、くッ、、、ひッ」

「逃げ込む先は、古巣と決まっているのさ、、、」

 どうして、と言えぬ相手に代わり応えると、鴉羽色の袖を翻し舞い降りた。

 流石に訝しげな眼差しの男の背を、その手が強く押した。

「痛ッ」

 弾かれたように跳ねるその傍らで、

「止まったはずだ、、、」

「あ、、、」

 男、まゆもは頷いたのだった。




「ちょっとぉ、梁鬼りょうき、こんな時間からお酒?いい身分ねぇ」

 船宿の裏手にある酒屋。

 営業にはまだ早いが戸を叩けば、三十路を幾らが過ぎた女将が瓶子を二つばかり出してきた。

「連れがいるんでな」

「なぁに?いい人かい?あんたも隅におけないねぇ」

 流し目だ。

「まぁな、、、」

 そそくさと暖簾を潜り、階段を上がる。

 薄暗く、静かなその奥の襖を開けると、若者がひとり。

 煙管を咥え、外を眺めている。 

「ハク。お前、こんな時間にほっつき歩いてていいのか?」

「ああ、、、」

 コン・・・

 細い煙を吐き出しながら、吸い口から灰を落とすと、手馴れた様子で新しい刻み煙草を火皿に入れた。

「鬼を狩っているんじゃないのかよ?」

 胡散臭げに眺めつつ、素焼きの杯二つに、濁った酒を注いだ。

 骨ばった長い指が、それを掬い上げ、

「昼間に出る鬼は大概、人と言う、、、」

 薄い唇が触れた。

 象牙色の喉を晒して干すのを、眺めながら、

「何言ってやがる。人も鬼も、似たようなもんだろ」

 まゆもは、伯の手にある煙管を取り上げた。

「人も迷えば鬼になるじゃねぇか」

「ふ、、、」

 二人の間を、煙管が行き来する。

 肴がまるで、苦い煙のようだった。

「俺達は、その申し子さ」

 まゆもが、一息に杯を煽った。

「鬼の子は、人か?いや、人も鬼も、そんなには変わんねぇのよ」

 口減らしにと捨てられて、ルウシャに拾われ、紡がれた命であった。

 細く、天井へと煙を吐き出すまゆもへ、

「今だ、兄弟は増えているのか、、、?」

 瓶子を引きつけて、伯が問うた。

「ああ」

 山に捨てられる幾らかは、黒鈷こっこに拾われ、他の者と共に山を渡りながら暮らしていると言う。 

「えるむは、東の山向こうの集落で落ち着いて、それなりに食い扶持を得ているらしい。薬草に詳しいから、あいつ」

「えるむが、、、」

「誰かが繋いでくれりゃ、人の世に戻り易いだろう?黒鈷がそう言ってな」

 程なくして、まゆもも山を降りたのだった。

「上手く出来ているもんで、えるむのような奴がちゃんと育つんだ。だから、俺も心配はしていないのさ」

「成る程な、、、」

「いずれ俺も、堅気の仕事に就くつもりだ。いつまでも、人からくすねた銭でちび共に差し入れできないしな」

 ごろりと横になると、

「で、お前、今日はどうしたんだ?」

 女将が包んでくれた味噌を舐めながら、酒をちびりちびり。

「、、、日が暮れるまで、屋敷には戻りたくなくてな」

「なんでまた、、、?」

「屋敷に居ると、なんとも煩わしくてな、、、」

 ぽつりと、本音がもれてしまった。

「たまには、誰も来ぬところに隠れたくもなる、、、」

「そうだよなぁ。ま、ここはいつも俺が借りてるから、好きに使ってくれて構わんぜ」

 人好きのする笑顔で、まゆもは言った。

「そこの窓から長竿でも垂らしてみろよ。鮒や鯰くらいは釣れるし、梅の古木が、見えるだろ?」

 改めて窓の外を眺めれば、

「ああ、、、」

 水路に迫り出すように、葉を落とした枝が伸びている。

「時々な、尾長おながも来るんだ。向こうの茂みには、狸の親子が棲んでいるしな」 

 取り残され、広がる藪の向こうに、民家や蔵。

 そして、彼方には、北から西へと延びる山稜が、青々と見える。

「、、、、、」

 まゆもが、この船宿を塒にしている理由を垣間見た気がして、伯は、瓶子を傾けた。

「ん、なんだ?」

 酒を注いでやりながら、

「なんでもないさ、、、」

 薄い笑みを、口元に刷いている。




 陽が落ちるのも早くなり、明るい内にと船宿を出たが、屋敷に着いた時には、辺りはとっぷりと暮れていた。

 篝火が煌々と明るい門前には、調度牛車がついていた。

「蒼奘、、、」

 肩を揉みながら降り出したのは、銀糸の髪を背でゆったりと結った浄衣の主。

 伯を見つけて、

「ああ、伯。君も、今戻ったの?遅かったね」

 にこりとした。

「おかえりなさいませ都守、若君。夕餉の支度が出来ております」

 出迎えた汪果と共に、蒼奘と肩を並べて母屋に向かいながら、

「ああ、そうだ。伯」

「なんだ、、、?」

「燕倪が、帰りしなに籐那を寄越してね。僕が帰ったら、恵堂橋に来て欲しいと伝えてくれと頼まれてたんだっけ」

「今日?」

「うん。物忌みって言いながら、屋敷の修繕していたはずなんだけれどね、何かあったのかな?」

「今朝、例の水路の詰まりを掃除させに行ったが、、、」

 にしても恵堂橋とはおかしいがとにかく行ってくる、と、再び門を潜って行った。

 その背を見送りながら、

「こんな早くに屋敷に戻ったのは久々なのだけれどね、燕倪」

 酒の相手を失った者の恨めしい呟きだ。




 恵堂橋の袂。

 名を刻まれた一抱えはある石に背を預け、ぼんやりとしていると、

「おーい、伯」

 どこからか、燕倪の声音。

 辺りを見回すが、道行く人々の中にそれらしい姿が見当たらない。

 訝しげに剣眉を跳ね上げたところで、

「ここだここっ!!おーいっ」

 再び、名を呼ばれた。

「、、、、、」

 振り向いた先、

「待たせたなっ」

 竹竿を片手に、舟の上。

 大きく手を振るのは紛れも無い、頬かむりをした燕倪であった。




 空には、冴え冴えとした半月の月灯り。

 星々もその輝きに身を潜める湖面の上、小船が一艘。

「俺が、好きな相手、、、?」

 葦の茂る池には、水辺で羽を休める鴛鴦。

 細竿を片手に、杯を離さぬ、若者。

 夜半に呼び出された、伯である。

 竹竿を器用に操っていた燕倪は、

「ここなら、さすがに聞いている奴もいないだろうし、、、」

「万全だな。そこまでして、知りたいのかよ、、、」

「そりゃ、なぁ、、、」

 船を停めると、持ち込んだ瓶子の蓋を開けた。

 伯の杯を満たしながら脳裏に浮かんだのは、二人の顔。

『じゃあ、燕倪様はどう思うの?!』

 日頃つれない腹いせか、置いていかれた事に怒りおさまらぬタオフィに、

『こうなればもう、はっきりと当人の口から聞くしかないのでは、、、?』

 羽琶に諭され、乗る気では無いのだが、渋々その大役を仰せつかった次第である。

「ふぅん、、、」

 さも、つまらなそうな返事に、

「な、なんだよ」

 さては見透かしているのかと、少し慌てたが、そうではないらしい。

 伯は竿を手に、水面を見つめている。

 竿を微妙に動かすのは、水面下で魚が針に掛からぬため。

 餌を追いかける魚の動きを探り、遊んでいるようだ。

 しかし、その遊びにも飽きたのか竿を上げると、朱鷺色の唇に青磁の杯をあて、意味深な流し目。

「そんな目で見るなよ。俺は、別に、、、」

「いいさ。教えてやる、、、」

「おっ、、、そ、そうか?で、誰なんだ?」

 しばし黙って、

「ん、、、」

 指を差された。

 一呼吸あって、

「か、からかうなよ」

 むっとした燕倪。

 その反応に、伯は少し肩を落とした。

「おいおい、、、真面目に言ってんのか?」

「覚えてないのか、、、」

 逆に問われ、呻いたのは燕倪。

「覚えて?!あ、、、ああっ」

 先日、嫌いかと問うた日の事が、まざまざと思い出された。

『あんたは好きだよ、エンゲ』

 愕然とした燕倪の耳元に、朱鷺色の唇が寄せられ、

「最初から、ずっと、、、」

「ひぃいっ」

 耳を押さえて仰け反った燕倪に、珍しくからからとした伯の笑い声。

「からかうなっ」

「からかってなどないさ。嘘は嫌いだ、、、」

「だって、お前はあいつの事を、、、」

「皆、勝手にそう思っているようだな、、、」

 その人を思い出し、少し寂しいような表情を浮かべた、伯。

「第一、誰かを、寄せ付けようともしないじゃないか、、、」

「伯、、、」

「まぁ、それとは別に、誤解の無いように言っておくが、俺が、オレと言い出したのは、あんたに憧れてだしな、、、」

「は、、、?」

 なんだ、ハイルのヤツ、言ってなかったのか、とぶつぶつ。

 呆気にとられた燕倪に、伯は続けた。

「あんたといる時だけは、張詰めていた空気も穏やかになる。俺を甘やかすだけのあの人が、あんたには心を許していた証拠だ。それが、ハクには、、、、たまらなく眩しかった、、、」

「そう、だったのか、、、。俺は、てっきりお前が居るからだと、、、」

「あんただよ、エンゲ、、、」

 菫色の眸が、まっすぐに見つめてくる。

 黒瞳が大きく、澄み切ったあの童の眸。

「あんたは、不思議な人だ、、、」

 いつも、肩や背に纏わりついて、気がつけば膝に居る時も多かった。

 あまりに自然になりすぎて、そんな気持ちなど気づこうともしなかった。

 この童の事を、これっぽっちも分かろうとしなかったのは、他でもない、自分だと痛感した時、

「あんたを、困らせるつもりはないんだ。ハクは、羽琶も、あとりも、銀仁も好きだから、、、」

「あん?」

 くすくすと笑う伯の言いたい事がようやく分かって、燕倪は呆然とした。

「待てよ、、つまり、あんたは好きって、、、」

「残念だが、ハクには二通りしかない。好きか、嫌いか、、、ただそれには生憎と、色恋のような欲が無くてな、、、」

 そこはソウに似たのだろうか、と笑った。

「つまりは、子供の、、、そ、、そうか、、、」

 子供の好きか嫌いか、らしい。

 ようやく合点がいった燕倪も、つられて笑った。

 燕倪の杯に、酒を注ぎながら、

「俺は俺だ。あんたにはなれない。それでいいのだと、あんた達から学んだ、、、」

 伯は、杯が干されるのを、見つめている。

「ふは、、、なんと言うか、すっきりしたな」

 返杯を受ける、伯。

 湖面で、魚が跳ねた。

 ゆらゆらとする湖面の月を眺め、

「しかし、そうとなれば、どうするつもりだ?タオフィの気持ちにも、気づいているのだろう?」

 再び声を潜めた、燕倪。

「、、、、、」

 項垂れた、伯。

 思い出したのは、しつこいその相手。

「その想いには、応えられぬ、、、」

「態度だけじゃ、人は分からんぞ」

「、、、蟲姫が、言うていた」

「蟲姫?」

「ああ、あんたは知らなかったか、、、。蒼奘に憑いて来た幽鬼でな、屋敷で子守をしているのだが、女は強か故、気にするなと、、、」

「強か、か」 

 羽琶には、当てはまりそうにない例えではあった。

「口に出すその想いは、知れているのだそうだ、、、」

「そうなのか?」

「俺の想いは、俺だけが知っていれば、それでいい」

― その想いだけで、生きていける、、、 ―

 その点、蟲姫と己は似ているのかもしれない。

「だが、それでは寂しいなぁ、、、」

「、、、、、」

「タオフィは、お前がそんなんだから、伝えようとしてるんじゃないのか?」

「、、、、、」

 伯と喋りたくて、修行の果てに化身の術を習得した、野狐。

 伯にしたらはた迷惑な話なのだが、事あるごとにそれを口実にされる。

「まぁ、お前の勝手だが、、、」

 手酌で酒をやりながら、筵を敷いた船底に横になる。

「折れてみる事も、必要なのかもしれんぞ。足るを知るってな」

「うぅ、、、」

 その傍らに、伯も寝そべった。

 筵にうつ伏せになりながら、

「エンゲとソウに挟まれれば、折れるのは大概、ハクの役目だった、、、」

 小さい呟き。

「頼りになるからな、お前は、、、」

「そんな位置づけが、嫌だった」

 燕倪の大きな手が、その頭を撫でても、伯は、筵に顔を埋めたままだった。

 風が、出てきた。

 薄雲が時折、月を覆っては、たなびいてゆく。

 細波が立つ湖面、風を受けて葦がさわさわと、揺れる。

 月を映しては酒をあおりながら、燕倪は手の下でおとなしくしているその人の気が済むまで、傍らから離れようとはしなかった。

 沈黙は時として優しさだと、この二人は知っているのかもしれない。




「これは、若君。いらせられませ」

 珍しい来客に、門を開けた隻眼の優男は、微笑んだ。

 翌朝。

 古びた門を叩いたのは、鴉羽色の狩衣を纏った伯であった。 

「胡露、姚翡たおふぃはいるか?」

「はい。どうぞ、こちらへ」

 そっと招き入れると、その扉は蝶番が軋む音を立てながら、閉じられたのだった。




 渡殿で結ばれた離宮の一つ。

 大池の中に建てられた、こぢんまりとした、二層楼閣。

 たまには天候が悪化するのを見てみたいとも思う、陽気。

 いつもなら、とっくに身支度を済ましているのだが、今日はまだあてがわれたその離宮にいた。

 時折、瑠璃宮が垣間見える、その蓮池。

 縁側で、その水鏡にて髪を梳いていたタオフィは、溜息だ。

 傍らに用意した、花簪。

 藤に、芙蓉、薔薇、百合、芍薬、露草、撫子。 

 どれも、髪に挿す気がしない。

 榛色の髪が、豊かに背に流れた。

 纏めようとしてけれど決まらず、何度も解いたらしく、櫛には長いその髪が、無数に絡まっている。

 もうひとつの溜息が、喉を通ろうとして、

「俺だ。入るぞ」

「?!」

 その声音に、止まった。

 慌てて居間に入れば、入り口に置いた紅梅の衝立の向こうから、異形の若者が姿を現した。

 腰まである群青色の髪に、翡翠色した枝珊瑚の如き角。

 額の吉祥紋。

 菫色鳳眼の涼しげな双眸。

 いつも不機嫌そうな朱鷺色の薄い唇からは、小さな牙が覗いている。

「は、、、」

 突然のその来訪に、硬直したタオフィを一目見るなり、 

「、、、すごい格好」

「えっ、、、あッ」

 胸元から下を、光沢のある雪色の繻子が、覆っている。

 腰をゆったりとした薄紅色の帯が絞り、裾は長く、足首まで。 

 領布ひれも巻かぬ、今だ寝巻き姿。

 紅潮した頬を隠すように、その身は衣だけを残して、野狐の姿へ。

 ツルウメモドキが生けられた大きな花瓶の向こうに、身を隠してしまう。

 一方伯は、先ほどまでタオフィが座っていた縁側に腰を下ろし、蓮池の下を覗き込んだりしている。 

 いつもは、押しかけるばかりのタオフィ。

 いざ、逆に来られると、掛ける言葉も見つからない。

 そろそろと寝巻きを咥えると、

「なぁ、姚翡、、、」

 ピィギッ・・・

 背中越しに、声が掛かった。

「お前、まだ俺の、、、」

 何を言うまでもなく、

「ッ、、、そ、そんな事、聞かないでよ、改めて、、、」

 顔を前脚で掻くような仕草を、繰り返す。

 そんなタオフィの姿など、到底見えていない伯は、 

「俺は、お前に応える事ができない、、、」

 淡々とした声音で、告げた。

「ちょっと、、、待ってよ、い、いきなり、、、」

「お前が言うものの定義と言うやつが、俺には無いんだ、、、」

「、、、、、」

「今日はそれを、はっきり伝えたくてな、、、」

 伯の手が、簪を一つ、取った。

「いきなり来て、何言ってんの?」

「それだけだ、、、」

 その背に向かって、

「それだけって、、、何よ、それ、、、」

「、、、、、」

「あ、あたしがずっと、迷惑だったって事?!」

― あの、幽鬼が来たから、あたしなんて、いらないって、、、? ―

 タオフィは、声が震えるのを、感じていた。

 愕然とするよりも先に込み上げた来たものは、

「ばっかじゃないの?!自惚れてんじゃ、ないわよっ」

 怒り。

 野狐は、腕を突っ張って、声の限り叫んでいた。

「う、嘘に決まってんじゃない。そんなのっ」

― やだっ、なんでこんな事言っちゃうの、あたしっ ―

 そう頭で思う反面、口はもう止まらなかった。

 報われる事など無いと分かっていたはずなのに、溢れ出て、しまう。

「嘘、、、」

「そうよっ!!手に入らないものだと知ってるから、安心して恋できるのよっ!!本気になってなんて、欲しくないの!!言っとくけど、あたし、別にあなただけじゃないんだからねっ」

「、、、、、」

 何の感情も窺えない、背中。

 その沈黙が怖くて、

「あ、あなただって、気分良かったんじゃないの?あたしみたいなのにでも、言い寄られてっ」

― 止まんないっ!!こんな事、言いたくないのにっ ―

 タオフィは、捲くし立てた。

「大体ね、あたしとあなたじゃ、格が違い過ぎるものっ」

 言い放ってなお肩を怒らせ、その小さな体は琥珀色の眸でもって、鴉羽色の狩衣の背を、睨んでいた。

 かた・り・・・

 静かに、簪が戻された。

 立ち上がり、振り向いたその表情。

「、、、、、」

「なに、ょ、、、」

 何も読み取る事が出来なかった。

「そうか、、、」

 静かな声だけを残して、伯は出て行った。

 いつもの伯のようにも見えたし、そのどれでもない彼のような気もした。

 いっそ清清したと、吐き捨ててくれたらどれだけ心安いか。

 一人、取り残された野狐は、

「だって、そうじゃない。本当に、、、」

 俯き、黒曜石の床を、睨んでいる、、、




「若君、もうお帰りですか?」

 程なくして、門前に姿を現した伯に、白い牡丹を切っていた胡露が声を掛けた。

「ああ。用事は済んだ、、、」

 うっそりと応じると、懐から翡翠の連珠を取り出し、首に掛けた。

「左様で。地仙がお目覚めならば、お茶のご用意もできたのですが、なんのお構いもできず」

「構うなよ、、、」

 胡露が、その人のために門を押した。

 古びた屋敷に出入りする者など、誰一人として気に掛けるでもない、朝の時分。

「またのお越しを、若君」

 声だけ聞こえ、扉はひとりでに、閉じた。 

 風が強く、長い髪が頬を打つ。

 寒気に混じって砂が舞い、木枯らしがくるくると木の葉を巻き上げては、消えてゆく。

 ぐっ、と伸びをしたところで、屋敷の前で打ち水をする琲瑠と蓉亜の姿。

「あっ、伯っ」

 こちらの姿を見つけると、手に柄杓を持って駆けてくる。

「ねぇ、夕べはどこ行ってたの?」

 腰の辺りで見上げる、大きな眸。

「、、、、、」

 伯の手が、

「わわっ、、、」

 蓉亜の脇を掴んで抱き上げる。

「いきなり何すんの?!やだっ、下ろしてよっ」

 そのまま腕に座らせた。

 身を捩るその鼻先を抓みながら、

「月見だ」

 うっすらと笑みを刷いた唇。

「嘘だっ」

 蓉亜が詰め寄った。

「嘘なものか。燕倪に聞いてみろ、、、」

「半月なのに、月見?」

「月はいつ見てもいいものだ。月が無ければ、星を見ればいい」

 漆黒の眸が、見つめてくる。

 すかさず、

「星が無ければ?」

 矢継ぎ早に尋ねてみれば、

「雲を見ればいい。風を捉え、雨の音を聞けばいい、、、」

「よく、分かんないや」

 結局あっけらかんと言えば、伯がいつもの呆れた顔をした。

 門前では、蓉亜を腕に現れた主君を出迎えて、

「お帰りなさいませ、若君。朝餉の仕度が整っています」

 にこりと、琲瑠。

「さ、若様も。恐れながら若君、若様も召し上がらすに待っていらっしゃったのですから、これからは、もう少し、、、」

 母屋に向かいながら琲瑠が言えば、

「ああ、なるべく早く戻るようにする、、、」

 珍しい答えが返ってきた。

「本当?」

「ああ、、、」

 その人の腕に座ったままの蓉亜が、眼を輝かせた。

 と、そこへ、

≪主様≫

 ふよふよと頼りなげに舞い寄る幽鬼、蟲姫。

「今帰った、蟲姫、、、」

≪ご無事で何より、、、≫

 たおやかに微笑む。

「ご機嫌ついでに、若君。朝餉を召しましたら、若様の読み書きを見てください」

「俺は、寝るぞ、、、」

「琲瑠も汪果も、忙しいんだから、暇してる伯が教え、、、」

≪あの、、、≫

 一同の視線が、一人に集まる。

≪差し支えなければ、わたくしが、、、、≫ 

 顔を見合わせる蓉亜、と伯。

「蟲姫が?」

 二人の声が、同時。

≪はぃ。わたくしでよければ、よろこんで、、、≫

 頷く、蟲姫。

 琲瑠も、新しい使用人を、頼もしげに見つめている。




「タオフィ、、、」

 一声掛けて今に姿を現したのは、胡露。

 衝立の向こう。

 今の椅子は倒れ、花瓶は割れ、ツルウメモドキの赤い実が、床に散らばっている。

 寝巻き姿の小さい後ろ姿が、部屋の片隅で壁を向いたまま、蹲っていた。

「手酷く、噛みついたようですね、、、」

 穏やかな口調そのまま、胡露は欠けた花瓶の欠片を拾い集める。

 一つ所に積み上げながら、無残にも散った長いツルウメモドキの枝をひとまず卓子の上へ。

 それから黙って箒で床を掃除し、新しい花瓶に生けなおした。

「おや、、、」

 池に面した縁側に、小さな櫛。

 細いその指が掬い上げると、絡まった髪を抜き取った。

「いつまでも、そんな格好でいるつもりですか?」

「、、、、、」

「こちらへ、おいでなさい」

 胡露に言われるままとぼとぼと歩いてくると、その手に導かれるまま、縁側に座り込んだ。

「まったく、、、」

 溜息を一つこぼすと、手にした小さな櫛で、タオフィの髪を一房一房、梳いてゆく。

 胡露の手の中で、櫛に絡まる事など無いかのように素直に流れて落ちてゆく、その榛色の艶やかな髪。

 おそらく、苛立ちまぎれに梳き抜いてしまったのだろう。

 やがて、

「胡露様の言うとおりだった、、、」

 ぽつりと、タオフィが呟いた。

「ううん。分かってたつもりだったのに、、、」

「、、、、、」

 胡露は、無言でその髪を手に取り、編み始める。

 彼のその沈黙が、タオフィに言葉を紡がせた。

「分かってて、それでもと思って、、、振り向いて、欲しくて、、、」

 たとえどうであれ、その人が好きな自分の気持ちに嘘はつけない。

 その、好でいる自分のために、あれこれとしてきたつもりだった。

 履き違えるつもりなど、これっぽっちも無かったはずなのに。

「なのに、あたし、、、伯にひどいこと、、、っ」

 ぽろりと、弱い涙が頬を伝い顎先から床へ、まあるい染みを、作った。

 拭ってくれる手も無く、染みはひとつ、またひとつと、増えていく。

 それが、今の自分に相応しいとさえ、思えた。

「、、、、、」

 肩を揺らすタオフィの髪を、胡露は無言で細やかな編み込みを施し、玉環を通しては結い上げてゆく。

 いつの間にか、その口に咥えられた、色とりどりの細い綾紐。

 銀色しろがねの細い簪が、幾本も挿し込まれてゆく。

「ばかは、あたしだ。何にも、伯の事、考えてなかったっ、、、」

 本当は、訪ねて来てくれて嬉しかったはずなのに。

 売り言葉に、買い言葉。

 結局、心にも無いことを言ってしまった。

 情けなさと、どうしようもない悔しさ。

「、、、、、」 

 嗚咽を堪えるタオフィ。

 その髪を、それまで黙って結っていた胡露の手が、止まった。

 整然と簪が並べられていた、脚付きの盆。

 胡露はタオフィの前に、盆をそのまま差し出した。

「何、よ、、、」

 苛立ちと焦燥のこもった眼差しに、

「この屋敷は、年中季節を問わず花々が競い咲き、花番の私でも、時々分からなくなるのですよ、、、」

 見れば一つだけ、他の簪に重なるようにして、横向きに置かれているものがある。

 淡い桃色の、可憐な花。

「秋の野に入り、これを見つけると、不思議と心が穏やかになる。だから、かえって見つからぬ日は、寂しくもなる、、、」

「、、、、、」

「その名は成る程、貴方に相応しいのかもしれません」

 その花の名が、

「ぅ、、、ひっ、、、」

 タオフィへの想いを現しているのなら、、、

「ひぁぁああッ」

 大きな口を開けて泣き出したその髪に、横向きの花簪を挿してやると、胡露はそのまま離宮を後にした。

 渡殿を歩き、母屋へ入ってすぐ、侍女らが忙しなく行き交うのとすれ違った。

 朱塗りの太い柱が居並ぶ廊下を、中庭へ抜けると、

「野狐を、泣かせるでないよ」

 浅葱色、巴模様の透かしの入った紗幕の向こうに、爪を磨かせ、髪を結わせる女主人の姿。

「地仙、お目覚めでしたか、、、」

「もう少し、惰眠を貪りたいところだが、あれでは眠れと言う方が無理だ、、、」

 あくびをすると、その拍子に爪を塗っていた侍女が、小さい悲鳴を上げた。

 動いたために、刷毛の先がずれたようだ。

「それは、申し訳ございませぬ、、、」

 紗幕を潜ると、長椅子に腰を下ろした遙絃が、その手を差し出した。

 心得たもので、爪を塗っていた侍女を下がらせると、

「地仙がお休みの間に、若君がいらっしゃいましたよ」

 鶸色の染料を溶き、薄紅色の下地に重ねていった。

「だろうな。でなくば、あのじゃじゃ馬が、ああまで声を上げぬだろうよ」

 嗚呼、面白いものを見逃した、と呟くのを、

「若君もお人が、お悪い、、、」

 胡露の溜息。

「もったいぶらすな、胡露。教えろよ、、、」

「可憐な秋の草花を、ただその姿に喩えたのか、それとも心を砕く事は出来ぬがと、慰めたつもりか、、、」

 遙絃の指先。

 薄紅色に塗られた爪先に、

「成る程な、、、」

 鶸色に染まった筆先が、踊る。

 やがて、

「そうか、、、」

 浮き彫りになったその花を見て、遙絃は、くつくつと喉を鳴らした。

「“でし”。確かに、愛しい子には相違ない」

「ええ。若君にしては、なんとまぁ随分と、お可愛らしい、、、」

 手際良く、長いその爪を染め上げたところで、

「だが、どうだろう。花の名なんぞ、あの坊やが逐一覚えていると思うか、、、?」

 ふと、遙絃、気がついた。

 どこからともなく香る、金木犀。

 差し込む、柔らかな陽射し。

 螺鈿細工が細やかに施された卓子の上。

 染料の入った瓶を仕舞っていた胡露の手が止まり、

「あ、、、」

 “やはり”と言った意味合いの強い小さな声が、洩れたのだった。




 昼下がり。

 阿四屋の下では、蟲姫を傍らに、蓉亜が筆を走らせている。

 たっぷりと摺った墨を細筆に含ませ、

≪お手本を、まずはよく見る事、、、≫

「ええっ、早く終わらせたいよ」

 顔を口にして言う蓉亜に、深紅の眸が、赤光を放った。

≪余所見は厳禁でございます、若様、、、≫

「う、、、」

 慌てて、写本に向き合う蓉亜を蟲姫に任せ、屋根の上では、毛氈を敷き、肩肘枕の伯。

 長い睫毛が目元に陰を落として、ほどなくの事であった。

「、、、、、」

 ィィイン・・・ィイッ・・・ 

 微かな、その音。

― なんか、気合入ってるなぁ、、、 ―

 駆け込んでくるその人を見つめ、そんな事を蓉亜は思ったが、いつもの事。

 今日は、筆に集中してしまう。

 傍らの蟲姫の、苛立たしげな白い溜息が頭上で聞こえたが、蓉亜にとってはこの写本を終えなければ 遊ぶ時間も無いため、それに構うどころではないようだ。

 一方、阿四屋の屋根。

「、、、、、」

 うっそりと、どこか濡れた紫玉が覗いた。

 リィイン・・・リリ・ィイン・・・

 おおよそ、人とは思えぬ跳躍でもって跳ね上がった者が、

「ああっ、この匂いっ」

 その背にしがみ付いた。

「、、、姚翡」

 うっとおしさを前面に押し出した貌で、見つめられても、

「あたしがいないと、やっぱり寂しいんでしょ?!」

「うっ」

 構わずその貌を胸に抱いた。

 綾紐が編み込まれた、玉環揺れる榛色の髪。

 薄紅の領布ひれを纏い、鶯色の旗袍ちーぱおと紅のちま

 妖艶と言うよりは、瑞々しい若さが弾ける可愛らしさ。

 左の額に掛かるように垂れるのは、撫子の花簪であった。

 もがきながら、何とか身を捩ったところで、

「安心して。そのっ、、、さっきの全部、、、じょ、冗談だからっ」

「、、、、、」

「た、たまには、あんなあたしも、い、いいでしょ?」

 苦し紛れに身をくねらすタオフィの仕草。

「、、、、、」

 伯は呆れ、そして項垂れた。

≪我が君、、、≫

 美貌の幽鬼、蟲姫が心配して顔を覗かせると、伯が無言で『構うな』と制した。

「ねぇ蟲姫っ、これ、なんて読むの?!」

 渋々、蓉亜に呼ばれて戻って行くと、

「伝えたぞ、、、」

 伯は念を押し、背を向けるようにして横になった。

 その傍らに腰を下ろしたタオフィが、少し寂しそうな顔をして、けれど、

「うん、、、」

 小さく頷いた。

 伯は、まどろむようにゆっくりと、眼を閉じた。

 傍らで鳴る、小さな鈴の音。

 蓉亜の甲高い喚き声に、蟲姫のいつもの溜息。

 忙しない使用人達の足音に交じって、どこかで猫が喧嘩する声が聞こえてくる。

 そして、野辺で風に揺れる、撫子の花。

 そのどれも欠ければ寂しい、秋深まる帝都が空の下、、、



 その花の名は知らずとも、似合うだろうと選んでみたは、今は昔、撫でし子でした。。。


 可愛らしい花なのに、ついつい摘んでしまえる花ではなくて、摘んでいい花でもなくて、ただ、そこに咲いていてほしくて、変わらずそばに咲いていてほしくて、ここにいてほしくて。。。


 だから、なのかもしれません。。。


 その名前を知った時、無慈悲な風を呼びました。。。


 その風の正体を、未だに僕は、僕自身の中で否定しているのだけれど、きっといつか、気づいてしまうんだと思うと既に憂鬱なので、せめて筆の先だけは、殻を外部からぶち壊してもらうという、唯一の攻略法ハッピーエンドって、ことで^^;

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