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― 蟲姫 ―

 肌を、何かが這う感触がする。

 ぞろ…リ・ゾぞ…

 ぬめぬめとした何かが、脹脛の辺りから太腿までを、圧迫し、腰を押して這い上がる。

「、、、、、」

 声を上げようにも、喉が開かない。

 ぞ…ロろ…

 舌を動かそうにも、喉の奥に丸まっている。

 全身から噴出す冷たい汗と、生臭くも荒い、息遣い。

 胸の辺りに、肌を吸いつけ伸びた重みに、

「かっ」

 ようやく夢から、現実へと引戻される。

 丹田に意識を集中させ、見開いた鳳眼。

「ぎぃ!?」

 歯を食いしばって、硬直したその頬を、

≪嗚呼、、、≫

 青白い女の手が、辿った。

≪ぁア、、、ま、、、≫

 纏いつく、芥子香の香り。

 蛇の如く首に絡みついた、黒髪。

「が、、、」

 払いのけようとした腕は、その女の髪に巻かれ、びくともしない。

 赤い涙で、白い衣を染めた女。

 濡れ光る深紅しんくの眸。

 その顔が、近づいてくる。

≪、、、さ、し、、、た、、、≫

 塞がれる、唇。

 腹腔深くに、とろりと冷たいものが下って行くのを、遠退く意識の中、確かに感じていた。




「、、、、、」

 深い黒瞳が、天井を映した。 

 首の辺りを摩りながら、体を起こすと、白く長い髪が背に流れた。

 羽二重はぶたえの寝着をまとった蒼奘そうじょう、その人。

 いつの間にか夜具に潜りこんでいた、蓉亜ようあ

「ふ、、、」

 思わず毀れた笑みは、掛け布に絡まり、苦しそうなその寝顔を見て、だ。

 そっと身体の下に敷きこんでいる掛け布を外してやると、起こさぬように寝所から抜け出した。

 辺りは暁刻には程遠く、今だ夜のとばりは、降りたまま。

 しっとりと冷たい夜気が、大気に滲んでいる。

 縁側に出ると、伸びをしたまま、庭を見渡した。

「、、、、、」

 いつもは忙しなく餌をねだる緋鯉達も、岩陰や浮き草の下で、ひっそりとしている。

 何処からとも知れぬ虫達の、涼しげな羽音がりんりんと秋の哀愁を誘い、日に日に冷え込む大気は、頬をなぶる。

 薄墨色に沈んだ、大池のあるその庭。

 いつもと変わらぬはずなのに、何かが違う。

 それを感じ取ったのか、肌蹴たままの着物をそのまま、素足で庭へ下りた。

 職務に追われ、屋敷を空ける事、数日。

 彩り添える花々や木々に、そう変わりは無い。

 腕を掻きながら、目を閉じると、

 くん…

 鼻を鳴らした。

 漂うこの香りは、、、?

 闇色の眼差しの先に、門前へと続く小道の在る木立。

「伯、、、」

 その姿を探すべく、木立へ分け入り、

「!?」

 だらりと楓の梢に引っかかるようにして仰け反り、意識を失っているその姿を見たのだった。




「我が君?!」

 母屋に響く、尋常でない足音。

 庭より現れた蒼奘の腕に抱かれた伯の姿を見て、琲瑠が青ざめた。

「芥子香に中てられている。琲瑠、湯船に海水を」

「はい、ただいま」

 浴室へと走る琲瑠に続き、

「都守」

 唐衣を纏った、汪果が現れた。

「屋敷の内にはもういないと思うけれど、念のため、屋敷に残っている瘴気を焼き祓っておくれ」

「かしこまりました」

 艶然と微笑むと、そのまま外へ出ていった。

 そっと手の甲を、伯の頬に当てると、ひどく冷たい。

 細い吐息の音が、せめてもの救い。

「やれやれ。これを迂闊と言うのかな、、、」

 伯が置かれている状況とは裏腹に、どこかおっとりとして穏やかな眼差しが、腕の中でぐったりしている異形の若者を、見つめている。




 水の音がする。

 肌に温かく纏わりつく、海衣うみごろも

 深藍に滲むその海原に、白く差し込むのは陽の光か?

 それに手を伸ばそうとして、

― !? ―

 足首に絡みつく漆黒の糸に、引きずり込まれる。

 深い闇の中へ。

 それから逃れようと、彼方に遠ざかる光へと手を伸ばし、

「ッ」

 目が、覚めた。

「ぁっ、、、はぁっ」 

 浴室の格子戸から差し込むのは、眩しいくらいの朝の光。

 寝着のまま、浴槽に浸かっている。

「海、、、琲瑠か、、、」

 安堵の溜息とともに、肩まで水に浸かったところで、

「まったく、心労をかけてくれるよ」 

「!?」

 身を捩って、浴槽の向こう側へと逃げた。

「そんなに驚かなくても、、、」

 勢いで水が撥ねたらしく、狩衣の袖で貌を拭うのが、

「蒼奘、、、」

 その人。

 手桶を椅子代わりにして、あれから側に付いていたらしい。

「ねぇ、伯。いったい、何があったの?」

 肩に流した、銀糸の髪。

 透ける様に白い、肌。

 幾分皺の増えた面差しは、かつてのままなのに、対照的なその物腰。

 変わらぬ闇色の眸の中に、

「、、、、、」

 その人を探してしまう己が、居る。

「うん?」

 にこりとして首まで傾げられてしまうと、そんな淡い期待など、

「、、、、、」

 すぐに打ち砕かれた。

 ぶんぶんと頭を振り、

「伯?」

「何って、、、」

 記憶を辿り、思い出すのは…

「ッ」

 腕でもって口を押さえ、そのまま頭から水の中。

― 腹が立つッ ―

 そのままごしごしと口を擦り、泡肌を立てた全身を摩る。

「あ〜ぁ」

 子供染みた声を上げながら見つめた先には、ごぼごぼと止まない、気泡。

「水の中じゃ、何を言っても分からないんだけどなぁ、、、」 

 肘を膝について、頬に手を当てたまま、蒼奘はいっこうに水の中から出てこない伯を見つめて、溜息だ。




「ご気分はいかがです?」

 扇で風を送りながら、琲瑠の心配そうな声音。

 普段は使わぬ離れの西陽差し込む、その一室。

 御簾を一枚降ろし、肘枕で横になっている。

 布団を敷く事を拒み、そのまま冷たい板の間の上。

 心配して出仕を拒む蒼奘を、力ずくで牛車に押し込み送り出すと、離れに人を寄せ付けぬよう汪果に命じた。

「ひどい気分だ、、、」

 胸がむかむかして、こめかみの辺りはひくひくとする。

 そのくせ、ひどく体が重く、冷たい。

「何か、お持ち致しましょうか?」 

「いらん」

 琲瑠はと言うと気が気で無いのか、蒼奘を宮まで送るとすぐに屋敷に戻り、伯の側から片時も離れようとはしない。

 海の水氣すいけに触れ、幾分気分は治まったと言うのに、今またぶり返し、何もかもが苛立たしく感じてならない。

― とんだ失態だッ ―

 それもよりによって、蒼奘に抱えられて湯船まで運ばれていたとは、、、

 自尊心の高い伯にとって、それだけでもかなりの恥辱らしい。

 鼻息荒い伯が休むそこへ、忙しない足音と鈴の音。

「伯っ」

「大丈夫?」

 騒ぎを聞きつけたタオフィが、蓉亜をけしかけ共に現れたものだから、たまったものじゃない。

「タオフィっ、若様っ」

 二人を追いかける汪果の静止の声空しく、

「どっか痛いの?ねぇ?!」

 タオフィの手が、伯の頬を包み込む。

 ギリギリと歯を鳴らして、跳ね起きると、

「ううぅッ」

 懐から翡翠輪を取り出し首へ掛け、そのまま屋敷を飛び出してしまった。

「嗚呼、、、」

 琲瑠の悲痛な声と、

「ちょっとぉ、どこ行くの?!」

「伯ッ」

 タオフィと蓉亜の重なる声に、塀の向こうへと消えた伯が耳を傾けるはずもなく、、、




 轟々と腹腔深くに響く、滝の音。

 闇夜に白々と飛沫を飛ばし、滝壺になだれ込む。

 鬱蒼とした杉の古木が居並び、苔生した岩々が乱立するその一画。

 小さな祠が、一つ。

「それは、蟲姫むしひめだ」

 凛と澄んだ女の声。

 燐光を纏い、胡坐を掻いて浮遊しているのは、髪を肩で切り放った紅の眸の女童。

 勝間の地仙ちせん檎葉ごよう

 そのすぐ上の杉の枝から、黒い衣の袖が垂れている。

「蟲姫、、、」

 どこか不機嫌そうな、その声音。

 無花果いちじくを口にしながら、寝そべっている若者が、一人。

「ああ。蒼奘めに、憑いてきたんだろうよ。昔からのあれの体質でな」

 小さな、舌打ちが洩れた。

 忌々しげに『あの厄介者め』と、口の中で噛み潰す。

 そんな不機嫌この上無い若者の鼻先に、檎葉が腰を下ろした。

 腹の上で転がっている無花果の皮を剥きながら、

「先日、小浦に地鎮祭に行っただろう?」

「確か、そんな事言っていたような、、」

「都守の式と名乗っている割に、何も知らぬのだな」

 意地の悪い笑みと眼差し。

「成り行きでそうなっているが、俺は誰にも使役はされん」

 若者、伯は、鼻息荒く言い放った。

「そうであったか、、、?」

「何が言いたい?」

「先の蒼奘は、特別であったようだな?」

「俺のオヤジのようなものだ。不思議はあるまい」

「ふふ、、、まあ、いいわ」

 甘い香りを漂わせるその身を、伯の鼻先へ。

 大振りの実にがぶりとくらいつく異形の若者を、檎葉は、しみじみと見つめた。

 人型の方も、随分と成長したものだが、檎葉にとっては待望の勝間の宮司が一人娘、琴葉と都守である蒼奘の子、蓉亜と同等らしい。

「蟲姫はな、元々は小浦を取り仕切る豪族に連なる姫だ。可憐で、たおやかな、、、ほれ、ちょうどそこの鷺草のような姫だったらしいな」

 指を指した杉の倒木の脇に、鷺の形をした花が、揺れている。

 本来ならば群れて咲くものだろうが、花の季節過ぎ去ったのか、白鷺はたった一羽だけ。

「、、、、、」

 伯は、しばしそれを見つめ、

つやめかしく、どちらかと言うと淫靡いんびな女だったが、、、」

「ほ、、、女も知らぬ若造が、知った口を、、、」

「なっ、、、」

 唖然とした伯が、すぐにぎりと牙を剥き、

「冗談よ。本気にするな。まったく、今の蒼奘と言い、お前といい、わらわを愉しませてくれるわ」

「ばばあの戯言に付き合う気はねぇよ」

 腕を組んで背を向けた。

「待て待て。そう慌てるな、伯よ」

「こちとら、さっさと片をつけたいんだ」

「分かった分かった。その姫にはな、武沙奈むしゃなと言う許婚がいたのだ」

 武沙奈は、豪族に仕える一兵卒。

 心を通わせたところで、当然結ばれるはずも無かった。

 程なくして武沙奈は、北岸に防人として送られる事となり、年頃を迎えた姫にも輿入れの話が持ち上がった。

「北岸、、、」

「当時はな、大陸より大船団が押し寄せておってな。倭の国中から若者を防人に送るようにとの詔があったのだ。そうさな、調度今居の浜の辺りから西が比較的波も穏やかで浅瀬が広がり、船はそこに着けようと押し寄せてきたそうだ」

「、、、、、」

 姫への想いを封じ、北岸の守となるべく旅立った武沙奈。

 その数日後には姫の輿が、山向こうの領主の元へと発ったが、

「輿が領主の屋敷の門を潜る事は無かった」

 淡々とした檎葉の声が、告げた。

「どう言うことだ?」 

「途中、野盗やとうにでも襲われたのか、供人を含む十数名。森の奥にて無惨な屍となって見つかったそうだ」

「姫は、、、?」

「見つかってはおらん。都にまで噂が届く程、美しい姫だ。骨までしゃぶり尽くされたか、あるいは、、、」

「、、、、、」

「ごく稀にな、谷津戸へ向かう山道で花嫁の乗った輿を担いだ一行と、すれ違う事があるらしい。花嫁が乗った輿からは、決まって哀しげな啜り泣きが聞こえる。どうしたのかと声を掛けようものなら、その一行。無数の虫に姿を変え、けたたましい鳴き声だけを残して、消えてしまうのだ。故に、蟲姫と呼ばれている」

「男は、どうなった?」

「さてな。話を聞いて自害したとも聞くし、その土地の女と暮らしたとも、森を彷徨っているとも聞く。いずれにせよ、あの辺りはここしばらく地仙が絶えて久しくてな。詳細は知らん」

「ふん。檎葉にも、知らぬものがあるのだな?」

「わらわはこれで、幽鬼の類とは反りがあわなくてな。天狐の方にでも聞いてみるがいい。あれは悪食あくじきの権現。節操がないからな、何にでも触手が動く」

 どこか侮蔑を含んだ物言いに、

「俺にとっても夫婦揃って、不快な存在に変わりはない」

 珍しく伯が浅く、頷いた。

 礼を言ってきびすを返した、その背中。

 ひっそりとした夜の闇に沈む、杉の木立へと消える伯に、

「幽鬼の闇は深い。くれぐれも、呑まれるでないぞ」

 どこか心配気な、檎葉の声。

「ん、、、」

 それに手を振って応じ、伯は大きな欠伸を繰り返しながら、急な斜面をふわりふわりと下っていったのだった。




 深更。

 夜の帳にとっぷりと抱かれた、帝都。

 静まり返った恵堂橋の欄干に腰を降ろしていた若者は、流れる水の音に耳を傾けていた。

 片膝の上に足首を乗せ、肘をつき、頬杖だ。

 鬱々と沈むその視線の端に、燐光放つ小鬼や、身を捩らせながら宙を渡る疫病の類、地を這う闇色の怨鬼おんきの生りそこないらを映しながら、

「、、、、、」

 ぼんやりとしている。

 心、ここにあらず。

 足を伝って登る、目の無い怨鬼の欠片。

 人が持つ陰を探し、うぞうぞとするそれを手に伝わせながら、

「、、、、、」

 どこか遠くで鳴く、犬の声を聞いた。

 そっと怨鬼を橋桁の上へ

 キキキ…

 芋虫のような上体を擡げて鳴く、怨鬼をそのまま、意を決したように立ち上がると、その先の辻を折れ、古びた屋敷の門を叩く。




 瑠璃宮の迎賓室。

 涼しげな琉金が、辺りを悠々と泳いでいる。

 薄いガラスの水鉢には、止まり木で羽を休める金翅鳥カナリア

 大小様々な水泡のようなものが、大気に漂い、虹色の輝きを宿して、たゆとっている。

「お前が訪れるなど、珍しい事もあるものだ。門扉に閂は、掛けぬものだな、、、」

 その玉を手の中で弄びつつ、螺鈿の鳳凰見事な卓子に肘をついているのが、羽衣を纏った遙絃、その人。

「聞きたい事がある」

「ああ、構わんよ、弟々《ていてい》」

「蟲姫、、、」

「おや、懐かしい名だ」

「勿体ぶるなよ。北岸を長々と訪ねる手間を考えればと、しぶしぶ門を叩いたのだ」

「まぁ、急くな。こちらへおいで。甘い菓子をやろうに、、、」

 膝を叩いて見せるが、当人はそっぽ向いた。

 そんな年ではないと、言いたげだ。

「可愛気の無いコだこと、、、」

 口調とは裏腹に、湛えられた笑み。

 煙管の吸い口に、唇を寄せながら、

「蟲姫。真名まな飛鷺姫ひさぎひめと言う。小浦の辺りを取仕切っていた豪族の氷箕ひみ氏の一の姫でな。その肌は梔子の香りを放ち、その色は蝋の如く透き通っていたと言う」

 どこか懐かしそうな、その眼差しが遠い。

「知っているのか?」

「ああ。その謂れに違わぬ、それは美しい姫だったさ」

 その噂は、風の知らせに乗って、都にまで届いていた。

 人のなりにて、如何いかほどか?

 興味に赴いた天狐遙絃、小浦に詳しい眷族に案内を任せ、一目見ようと忍び込んだ。

 月の無い、夜だった。

 御簾越しに、ぼんやりと浮かぶ館の内。

 息も凍える冬の夜に、頬杖をつき、大池に椿が散る様を、物憂げに眺めていたその横顔。

 あどけなさの中にも、凛とした美しさが、そこにはあった。

「人であるのが勿体ないと思ったのは、後にも先にもあの娘ただ一人。もっとも、、、朽ちてゆく故の刹那が、形づくった奇跡なのであったかもしれぬがな」

「悪食な天狐の事。それっきりではあるまい」

 菫色の鳳眼を細めた伯に、遙絃は自嘲気味な笑みを浮かべた。

 ぽってりと厚い唇から、細くたなびく薄墨色の煙に、

「それがどうだ。ただの一度きりよ」

 琉金らが逃げて行く。

「これ以上は無い。それが、最後になった」

「最後、、、」

 溜息交じりの、

「思えば、この屋敷の内の花と同様に迎え入れ、門扉を閉ざしてしまえば良かった、、、」

 それは本音であったか?

「、、、、、」

 表情を感じさせない伯の菫色の眼差しを受け、遙絃はその後を続けた。

「良質な鉱石が採れ、湯治場としても開けていた山向こうの谷津戸の豪族に、輿入れが決まったのだ。とは言っても、実際のところは態の良い人質よ」

「だが、姫は、、、」

「ああ、それはお前も知っているか。噂を聞いた賊共が、金品欲しさに待ち伏せしていたのだ。げに浅ましきかは、人なり、ってな」

 無残にも金品は強奪。

 供はことごとく殺され、姫はかどわかされた挙句、貌を剥がれたと言う。

「その貌は、どうしたと言うのだ、、、?」

 淡々と訊ねる伯に、さも愉しげな様子の遙絃。

 母が子に、昔話を言って聞かせるような、風情だ。

「さてな。朽ちたとも言うし、どこかの寺に収められたとも、大陸に渡ったとも聞く。いささか不憫ゆえ、そのままに聞き流したさ、、、」

「不憫、か。天狐にも、そんな心持があったとはな」

「どうとでも言えよ。私が飛鷺姫について知っているのは、これくらいだ、、、」

「もうひとつ、、、」

 七宝焼きの器から、色とりどりの花弁の砂糖漬けを摘み上げると、

「姫には、男がいたはずだ、、、」

 口に放り込んだ。

 舌先に甘酸っぱく、えも言えぬ香りが辺りに漂った。

「ああ、そう言えば、確かに。名を、、、」

「武沙那、、、」

どこかを眺め、何かを思い出しつつ唇に親指を当てる伯に、

「ほ、、、いったい何が起こっているのだ?」

 眼を眇め、どこか淫靡な眼差しを寄越す、天狐遙絃。

「それを調べている」

 うんざりしたような、伯の溜息だ。

「そうか。その男はな、氷箕に仕える武家の出でな。かねてより館の内で顔を合わせる仲だったようだな。年頃も近ければ、深窓の御令嬢。そのような想いを抱くのも不思議はあるまいよ」

「ふん、、、」

「大方、輿入れ前に何かあっては一大事と乳母辺りが言い出しのだろう。その一声で、男は北岸の防人に送られ、一生をそこで暮らしたと聞き及ぶ」

 微かに、陶器が触れ合う音が、聞こえてきた。

 席を立とうとした伯の手首を、

「まぁ、良いではないか、、、」

 遙絃の手が掴んでいた。 

「、、、、、」

 仕方なく、椅子に座りなおした伯の、

「北岸か、、、」

 どこかぶっきらぼうな声音と、衝立の向こうに現れた気配が、同時。

 天狐遙絃、ようやく茶器を手に現れたその姿に、

「ちょうど、今居の浜の辺り。お前があの男に抱き上げられた、彼の海よ、、、」

 愉しげに目を細めたのだった。




「久闊でございますな、若君。息災で、何より、、、」 

胡露うろう、、、」

 長かった砂色の髪は首の後ろで切られ、銀恢ぎんかいの怜悧な眼差しそのままの、隻眼の若者。

 深藍の長袍に、紫紺の袖なし長衣を合わせている。 

 辰砂の深い入れ物から、取り出されたのは、純度が高く透明無垢の氷砂糖。

 それを箸で摘みあげ、

「若君は、お砂糖は八つで?」

「七つ、、、」

「これは失礼を。至りませんで、、、」

「、、、、、」

 深々と頭を垂れると、白磁の蓋碗に氷砂糖が積み上げられて行く。

 湯を注ぐと、ゆっくりと華開く、八宝茶。

 氷砂糖のせいで盛り毀れんばかりだが、何とか蓋をし、しばらく、

「今日は、温かいままでお召しになられますか?」

「俺は今も昔も、猫舌だ、、、」

「左様で、、、」

「、、、、、」

 二人のやり取りを、頬杖をついた遙絃が、にやつきながら見つめている。

 重厚感のある、黒麒麟の装飾。

 真鍮の縁取りも冴え冴えとした、古めかしい青銅のゴブレット。

 底に、翠玉が輝いている。

 熱い茶を注ぎ込むと、湯気は冷気へと変わってしまった。

 朱鷺色の唇をつけて、

「ぅ、、、」

 僅かに顰められた、その貌。

「お砂糖を、、、」

 覗きこんだ胡露に、

「調度良い」

 鬱陶しいとばかりに手を振った。

「胡露、、、」

 遙絃の眼差しを受け、

「それでは、ごゆっくり、、、」

 慣れた様子で、嫌な顔一つせず、席を外した。

 その足音が遠ざかった後、

「そう邪険にするもんではないよ」

「忘れもしない。この身が痛みを知ったのは、あの男のせいだ」

「そうであったか、、、」

「とぼけるなよ」

「だが今、私の機嫌を損ねるのはどうかと思うが、、、」

遙絃の蟲惑的な眼差しに、伯は降参しかたのように片手を上げ、

「、、、聞かせろよ」

 椅子にふんぞり返った。

「男も女も、最初の奴ってのは特別さ、、、」 

 煙管を取替え、しみじみと眺めながら、呟いた。

「あの頃は、大陸の皇帝も若く血気盛んであったな。せっせと、船団をこの倭に向かわせた。だがな、たとえ皇帝と言えど、分をわきまえねば手酷くやられる、、、」

 香ばしい香りが真紅の煙となって立ち昇る。

 麒麟が睥睨する天井に、くゆる様を眺めるその耳に、

「ある日な、その所業が海皇の逆鱗に触れた」

「、、、、、」

− 海皇 −

 嘆きの大海原であり、伯の仕えるべき主君であり、そのすべてとなるもの。

 祖。

「度重なる大時化で、来る度来る度、船団は海の藻屑と化したわ、、、」

 船団として送り込まれる者のほとんどは、領地を取り上げられた者達だ。

 新たな土地を切り取ることにより大陸統一を成し得た皇帝にとって、それは至極当然の事でもあった。

「稀に、波により海辺に運ばれた者もいただろうが、、、」

 嵐に揉まれ、運良く岸に辿りついたとて、そこには防人が弓槍構えて待ち構えている。

 生き残る術は、無い。

「その中には、女もいた」

「、、、、、」

「長い航海だ。商売女もいたかもしれぬが、その大半は地方より狩り出された娘らだ、、、」

 立ち昇っていた煙が途切れ、蟠り、やがて流れて消えてしまった。

「あの辺りの野狐に伝え聞いただけで、実際のところは知らんが、、、」

 天井には、こちらを睥睨する麒麟の金色こんじきの眸。

「、、、、、」

 ぼんやりとして、その眼差しを受け止めていた伯の耳に、

「武沙那は、流れ着いた女を一人匿い、妻としたようだ」

 かた・り…

 煙管が置かれる音。

「遙絃、、、?」

 どこか具合でも悪いのか、額を押さえ立ち上がる、その人。

 席を立とうとする伯を手で制すと、振り払うかのように首を振った。

「それが私の知るすべてよ、、、」

 どこか憂いを帯びた、その眼差し。

 衝立の向こうに、忽然と現れた胡露が、その手を取ると遙絃は、背を向けた。

 入れ替わりに入って来たのは、酒器を手にした二人の給仕の女。

 煌びやかな唐衣も、珠のような肌も、匂い立つ色香。

 鼻に掛かった甘い声で、腕を取られようものなら、振り払った。

 尻餅をつく女に目もくれず、廊下に出たが、

「、、、、」

 その姿、すでに無し。

 浮かぬ顔をして退出した遙絃の方が、

「遙絃、、、」

 気に掛かる。




 袖を目元にあて、肩を震わせる天狐遙絃。

 歩くのもままならず、欄干にもたれるように身体を寄せた。

「遙絃、、、」

 珍しくどこか憮然とした胡露の声に、

「くくくくっ、、、」

 堪え切れず、喉が鳴った。

「これが笑わずにいられようか、、、」

「悪ふざけが過ぎます」

 今度ははっきりと窘める胡露の肩に身を寄せ、腹を押さえながら、そのふっくら濡れた桃色の唇を耳元へ。

「あのきかん坊が、嫌だ嫌だと近寄らぬ当家の門を叩いたか意味が分かるか、胡露?」

「いえ、それは、、、」

「気が回る癖に、鈍いヤツだな」

「すみません」

 恐縮する胡露の肩を抱きながら、

「今居の浜は、あの男と出逢った地だ」

「あ、、、」

 あの男。

 忘れようはずがない。

 この世の深淵を思わす、その闇色の眸のぬしを。

 伯にとって絶対無二の、存在。

「行けば、嫌でも思い出す」

 謡うような、遙絃の澄んだ声音。

「思い出せば、魂が揺れる。それは甘美な反面、酷く、痛むものだ。酷くな、、、」

 北岸の地。

 閑散荒涼としたその浜に立てば、毅然と立つその心も、揺らぐのかもしれない。

「可愛い奴」

 くつくつと喉を鳴らせる女主人を肩に、少々呆れ顔の胡露。

貴女あなたまで、若君に嫌われてしまいますよ」

「ふふ。私はな昔から、その健気なまでにいじらしいところが好きなのだよ。強情でいて素直。その危うさ。見ていて、壊したくなる。まぁ、腹黒いお前には、分からぬだろうがな」

「返す言葉もございません」

 艶然と微笑む胡露の肩に、頬を寄せたまま、桃色の唇が続けた。

「お前のその素直じゃないところに、、、」

 赤々と熟れた舌先が、唇を舐める。

「従属の二文字を、刻みつける甲斐が、あるものなぁ」

 たおやかな腕が、その痩躯を欄干に押さえつける。

 薄い唇に笑みを湛えたまま、仰け反った胡露の喉。

 歯を立てる遙絃の髪に、指を潜らせたまま、

「ええ。貴女がそれを、望むのなら、、、」

 演じる、それもまた、一興、、、




「うう」

 ほんのりと、葉の先をあけに染めつつある、楓の梢。

 リリ…リリ・ィィィ…ン…

 結ばれた鈴だけが風を捉え、聞き手の無い演奏を続けている。

 大池の水面に刻まれる細波が、朝陽にきらきらと眩しい、良く晴れた朝。

「どこいっちゃったんだろ、、、」

 平素、そこにいるはずのその人が、いない。

 帰っていないのだ。

 ままある事なのだが、今回ばかりは出仕の前に、蒼奘が琲瑠に尋ねているのを寝床で聞いていたため、気が気でない。

「僕のせいかな、、、」

 蒼奘も、

『年頃の若者には、よくある事なんだよ』 

 などと、納得いかぬ答えばかりで、埒があかない。

「年頃って、なんだよ。分かんない」

 伯と一緒にいれば、それで良かった。

 年頃同じくらいの子供達よりも、たったひとり、あの若者がいれば、それで。

 蓉亜の物心ついた時には、伯は、すでにそこにいた。

 今より少しだけ背が低かったが、追いつきたいと思えば思うほど、その背は伸びていき、

「伯、、、」

 いつの間にか姿を消して、ようやく見つけたと思ったら、ずっと先を歩いている。

― ずっと、ここにいてくれればいいのに ―

 そう願う先。

 楓の梢に結ばれた風鈴が、今日はどこかもの哀しく、いている、、、


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