― 花鳥 ―
防風の役目で植えられた、松原。
その向こうに、白い波飛沫を刻むのは、朝陽に煌めく、紺碧の大海原。
やや煙って見える青き空の彼方には、遠く遠く、大陸の影が水平線に滲んで見えた。
「、、、、、」
久々に聞く、海鳴り、波の音。
どこまでも心地良く、体内深くに響いてくる。
海が奏でる潮騒が、今は、こんなにも心地良い ―――、これを、人は郷愁と呼ぶのだろうか?
強い風に千切れた雲が行き交う、空の下、
「蒼い、目か、、、」
屋敷へと続く、街道に大柄な男が二人、佇んでいた。
「ああ。もう、あとりの目に陽の光は差し込まぬ。夢路に囚われた者の末路、だそうだ、、、」
「だそうだ、って、、、」
「実は、あれから時折、都守が尋ねてきてくれた、、、」
「奏伯が?」
「ああ」
「そうか、あいつが、、、」
感慨深げな笑みが、毀れた。
傍らに立つ、朱金のばさら髪の偉丈夫を見つめて、
「二人にとっては、未だに、【都守】か。成程、義理堅い」
おどけた様子で肩を竦めてみせたのは、濃紺の狩衣を纏った、燕倪。
そんな友に、頷き返しつつも、
「夢路との繋ぎ目を断ち切る香を、調香してくれてな。夢路で迷う事無く、目覚めるようにはなったが、それでも時折、意識が夢路に彷徨ってしまうのだ、、、」
銀仁の表情から、憂いは隠せない。
久々の再会であった。
「都守は、夢路には干渉出来ぬらしい」
「相変わらずだな。何かと理屈をつける、厄介な性格、、、」
― いや、あいつのことだ。未だ、己を戒めているのか、、、 ―
思い出すのは、けして晴れる事の無い鬱々とした、あの貌だ。
燕倪は、ため息をつくと、
「、、、そういうこと、だそうだ。聞いてたか、伯?」
腰に手をやって、頭上を見上げた。
銀仁も顔を上げれば、古びた櫓が聳えていた。
さらにその屋根の上で、黒衣の袖が翻った。
潮風に、大海原を見つめていた伯の群青の髪が靡く。
「、、、ああ」
うっそりと応じると、そのまま一足先に、屋敷の内へと舞い降りた。
敷き詰められた砂利を踏みしめ、颯爽と歩み行く、その背中に、
「珍しく、乗る気だな」
にかっ、と笑う、燕倪。
傍らの偉丈夫の肩を叩くと、
「あとりの前でまで、その辛気臭い顔はやめろよな、銀仁」
「燕倪、、、」
燕倪は、伯の後を追って、まるで子供のように駆け出したのだった。
帝都、耶紫呂邸。
隣り合わせの牛舎と厩舎の前に、牛一頭、三頭の馬が引き出されていた。
飼葉を食べさせている間に、丹念に体を拭いているのは、琲瑠。
「はぁ、、、なかなか、今日は暑いですねぇ」
額の汗を拭いつつ、鋼雨を終え、今は、浮葉に取り掛かっている、最中だ。
一方、
「可愛い、、、」
黒毛の牛の世話を買って出たのが、蟲姫。
もぐもぐとしている口許を見つめ、うっとりしている。
一番端では、
「うふふっ、、、ちょっ、くすぐったいよ」
長い鬣を梳きながら、時折、甘えられて水干を甘噛みされている、蓉亜。
一番小柄な馬だが、蓉亜にはまだ大きく、台に乗っての作業である。
「すっかり、若様に馴れましたねぇ」
「えへへ」
ぎゅっ、と首を抱きしめると、若馬は、孔雀藍と呼ばれる美しい眸を、ぱちくりとさせる。
世にも珍しい、白と黒の斑模様 ―――、斑馬。
先日、桜散る中を、燕倪が蓉亜にと、連れてきたのだった。
「明後日は、清親様が、馬場で手解きくださるのでしたね」
「うん。清親お姉ちゃんに会えるのは、嬉しいけどさ。本当は、燕おじだったんだよ?急に、伯と出かけることになったから、お休み返上だって、、、」
「何より、銀仁様のお手紙だったようですからね。何事もないと、いいのですが、、、」
― 何事もなければ、急に御発ちになるようなことには、ならないでしょうが、、、 ―
切ない、琲瑠のため息だ。
「僕が、よく知らない人ばっかりだ、、、」
蓉亜が、ぷっ、と頬を膨らませる。
伯の事は、なんでも知っておきたい年頃なのかもしれない。
「お屋敷には、何度か来てらっしゃいますが、若様はまだ、小さくて覚えてないのですね。あとり姫など、若様を、よく抱っこしてましたよ」
「ええっ‼」
「銀仁様など、大虎に化身して、背中に乗せてくれましたしねぇ」
「わっ、、、覚えてないよっ」
「ふふふ、、、」
琲瑠は、浮葉のさらさらと癖の無い長い鬣を、編み込み始める。
明後日の馬場には、浮葉を伴い、伯が蓉亜に、同行することになっているのだった。
「若君にとって、とても大切な方達は、若様にとっても、、、」
「うん。とっても大切」
蓉亜は、こちらを見つめる、つぶらな眸を覗き込んだ。
頬の辺りを撫で乍ら、
「早く二人に会いたいな。ね、瑠璃?」
ブルル…ルル…
【瑠璃】と名付けた斑馬に、微笑んだのだった。
冬季、吹き込む強風に長年晒された松は、どれもうねるように地に腕を伸ばしているが、互いに風除けとなって、幹は隆々と力強く、空へと向かって張り出している。
その木々に守られるようにして、鎮座するのが、打ち寄せられた黒石だけを敷き詰めた、天羽の別邸。
その後方、肥沃な平野部に広がるのは、田畑や田園。
広大な荘園を管理するため、また、避暑地を兼ねて、設えられたものだった。
北の海原に臨む、壮麗な門構えだけを見れば、二人で住むには、いささか広すぎるような感もあった。
時折、水平線に姿を見せるのは、蜃気楼。
そして、よくよく空気が澄んだ日に眼を凝らせば、今日のように彼方の大陸の一端が、伺い見える。
踏みしめれば、玉が擦れ、触れ合う音がする、庭。
大海原を渡り、研磨された黒石に触れ、踏みしだく度に鳴るその音が、訪れた者を祓い清めるとされるが、
「、、、、、」
その来客には、無縁のはからいであったらしい。
居間の縁側で、斑の猫を膝に入れ、暖かな春の陽気に、うとうとしていた時であった。
『眠気を覚えたのなら、褥で横になることだ。魂が、夢路と現世とを通う不安定な状態が、最も危い事を、頭に入れておくといい、、、』
ぼんやりと、低い声音が脳裏を過ぎった気がしたが、
― 構うものか、、、こんなにも、心地良い、、、 ―
重い瞼を、そのまま閉じた。
肌に甘く纏わりつくのは、やわらかな陽射し。
松葉を揺らす風も、建物の中に在っては、肩の辺りで切り放った黒髪を、優しく弄う、そよ風だ。
掛け合う海鳥の声と潮騒が、遠くに聞こえ、意識はそのまま、眼前に広がっている深い闇へと呑まれはじめて、
「花鳥、、、」
朱華に染めた小袖の肩を、掴まれた。
「ん、、、」
ふるりと、長い睫毛が揺れた。
指先に在ったはずの、猫の柔毛の感触が、いつの間にか無くなっていた。
元々、野良猫だ。
きっと、いきなり肩を掴んだ不届き者に、怯えたのだろう。
朱鷺色の薄い唇が、未だ夢路への入口で彷徨う女の耳元に、近づいた。
「手の鳴る方へ、、、」
象牙色の、華奢な体のわりに大きな手が、拍手を一つ、打った。
「ッ」
びくりと身を震わせ、背筋を伸ばした女は、藍玉の眸をこぼれんばかりに大きく見開くと、
「あ、、、」
縋った先の相手の、丁度、胸のあたりだろうか?
確かめるように、その顔へと伸ばした。
遠慮がちに首の辺りまで、来た手を取ると、
「、、、、、」
相手が、そっと己が頬へ、もって行く。
失った視覚を、指先の感覚で補うように、女の手は頬から目尻、鼻筋、眉、額、そして、顎先へと触れ、
「伯、、、?」
唇の端に触れて、その来客の名を呼んだのだった。
僅かに唇の端を吊り上げるような微笑が、照れ隠しだと女 ―――、あとりは知っている。
「もう、俺の声を忘れたか?」
どこかからかうような、そんな声音に、
「忘れるものかっ」
弾かれたように、あとりが、声を荒げてみせた。
「まったく、そなたは、、、来るなら来ると知らせてくれればいいのにっ」
「同感だ、あとり。その文句、【あいつ】に言うといい」
「え、、、」
玉石を踏みしだく賑やかな足音が、近づいてくる。
「ああ、あとりだっ、あとりッ!はははッ、元気にしていたか?!」
鼓膜に心地よい、その明るい声の主は、
「燕倪‼?」
あとりは、眼を細めた。
薄闇の中で確かに、その大きな波動が向かってくるのを、感じていた。
「中々、まともな休みが、取れなくてな」
「お、、、」
たまらず立ち上がり、燕倪の声の方へ向かおうとする、あとりの危なげな足取り。
燕倪が駆け寄るより先に、
「無理をするな、あとり」
駆け出した銀仁に、抱きとめられていた。
「む、、、勝手知ったる屋敷の内くらい、好きにさせよ。銀仁」
あとりが、その腕の中で頬を膨らませる。
銀仁の手を取って、庭に立ったあとりは、手足がすらりと伸びて、女童であった頃よりも、思い切って、肩の辺りで切り放った黒髪のせいか、ぐっと大人びて見えた。
伯と向かい合っていると、それは絵になる、娘ぶり。
「銀仁から、中将の大役賜ったと聞いていた。祝いの文も出さぬ、不精を詫びよう。忙しい中、遥々こんな遠方の地へ、よう来てくれた、、、」
燕倪は、あとりの差し出した手を、武骨な大きな手で包み込みながら、片目をつぶってみせた。
「何、こいつがその気になれば、ここまでほんの一時、寒さを堪えればいい」
「文句があるのなら、帰りは歩いて帰れ。燕倪、、、」
こいつ呼ばわりされ憮然とした伯が、縁側に腰を下ろしながら言った。
「むくれるなよ。俺は、いつも感謝してるんだぞ、お前にはさ」
「ふん、、、」
そっぽ向く、伯。
気難しいと言うより、照れ隠しか。
懐かしいやりとり。
懐かしい、声。
あとりは、幼かったあの時に戻ってしまっているような錯覚すら、覚えた。
その二人が今、ここにいる ―――、自分のために。
「まったく、何たる体たらく。我ながら、情けないな、、、」
燕倪の手に、ぽたりと弱い雫が、零れ落ちた。
「あとり、、、」
見下ろした、その先。
長い睫毛に結ばれた、透明な珠。
それが頬を伝い、嗚咽を堪え震える可憐な唇の端から、顎先へ。
「す、まない、、、」
手を引き、袖で顔を覆う、あとり。
震えるその肩を、
「あとり、、、」
銀仁の力強い腕が、抱いていた。
数年前、自ら望んで帝都を出た、あとり。
表向きは、肺の具合が思わしくなくて、再び静養するためとしていたが、実際は、帝都に在るほどに共振する夢障に、悩まされたためだった。
生来の負けん気、正義感が災いし、あとりの【夢渡】としての能力は年々研ぎ澄まされ、それに耐え切れずの苦渋の決断となった。
皆、彼の地で、心穏やかに暮らしていると思っていたのだが、その実、誰の手も煩わせてたくないと、銀仁と共に、夢路への道を閉じるためでもあったらしい。
結果として、それは叶わず、あとりは光を失ったのだった。
半ば自暴自棄になりつつあるとの銀仁からの便りに、二人は帝都より駆けつけた次第である。
袖で、まるで幼子のように涙を拭うあとりの頭に、
「よし」
燕倪の大きな手が、置かれた。
「お前達も足掻いたんだ。俺達も、出来るだけの事はやらせてもらうぞ」
豆だらけで、かさつくその手が、あとりの頬を包み込めば、
「燕倪、、、」
不思議と涙が止まってしまった。
責めることもしないそれは、無条件で、
「なぁ、伯?」
「そのために来たんだろ、、、」
力強い言葉であった。
つべこべ言うなとばかりに、ため息を吐くその横顔が、燕倪の視線の先で、
「ッ、、、」
「ん?」
強張った。
「あ?」
そのまま、一点を見つめる、伯。
視線の先を辿れば、
「そっ、、、」
銀糸の髪が、煌いた。
風に揺らめく木陰が揺らめき、立ち昇る陽炎の中から、
「久しいな、燕倪、、、」
ゆらりと抜け出した主は、珍しく雪色の直衣を纏っていた。
薄手の甕覗色に染めた長絹は翻り、一行の元へと歩みよるその双眸は―――、金色。
「おいおい、随分と若作りじゃないか、【蒼奘】?」
からかうような、その声音に、
「お前は年相応に、老けたな、、、」
かつてのまま青い唇を吊り上げ、歪めてみせた。
その眼差しが、伯を捉えると、
「伯」
穏やかな眼差しが、注がれた。
「、、、、、」
しかし、次の瞬間。
「お、おいっ、伯ッ」
野猫の俊敏さで、その身は屋根の高みへ、跳躍。
その姿を、眩ましてしまう。
「前触れもなく、脅かすからだぞ、奏伯」
もう少し、伯の身になってみろと睨む燕倪に、
「そこにいるさ、ちゃんとな。それに、先日、別件で逢ったばかりだ、、、」
「あいつめ、肝心なことは何も言わんからなぁ、、、」
どうも、ふたりの声が聞こえる屋根の上にはいるらしい。
「我も、持場を長い時間空けるわけにもいかぬ故、手短に説明するが、、、」
銀仁が、あとりを縁側に座らせるのを待って、蒼奘の姿をした奏伯が口を開いた。
「さっそく、夢路に渡ってもらう」
夢路。
異界でもあるのだが、同時に現世でもある万物の意識の集合体のための、約束された地。
「そこで、あとりの目を、探してもらう」
「目、、、」
「ああ。今、あとりの目は夢路に在る。夢路に囚われたのだ。お前達には、その目を探し出してほしい」
「簡単に言うが、あてはあるんだろうな?」
「ない、、、」
「あそ、、、」
そもそも聞いた方が、間違っていた。
「だが、どこかに在るはずだ」
静かに告げる【友】に、
「どこに在るか分からぬそれを、探しに行けってか?」
燕倪の鈍色の眸が、どこか穏やかに見つめ返す。
「ああ、、、」
「相変わらず、さらっと、言ってくれるなぁ」
言葉とは裏腹に、燕倪が笑って頷いた。
奏伯は、眸を伏せる。
― 都守、、、? ―
その顔が、どこか寂しげに見えたのは、銀仁だけだったろうか?
共に行けぬ、それは【もどかしさ】であろうか?
しかし、次にその金色の眸が覗いた時、
「先に言っておく。銀仁には、雑鬼からあとりを守る大役があるでな、、、」
その白い指先が、大きく弧を描く。
ぽっかりと覗いた闇への、入口。
辺りに滲む、紫紺の靄こそ、その異界を形成する祖であるのか?
「分かっている」
燕倪が、業丸の柄に手をやって、頷いた。
「って、事だそうだ。行くぞ、伯」
振り向きもせず、その靄の中へと消えて行こうとする背に、
「ああ、、、」
鴉色の袖を翻し、どこからとも無く舞い降りて来た伯が、続く。
傍らに立っている奏伯の顔を一瞥して、群青の髪が長く、闇の中へと消えていった。
緩々と閉じてゆく、その向こうへと消える二人の背を見送って、
「夢路に、呑まれるなよ、、、」
呟いた。
その傍らへ、あとりが歩み寄ろうとする。
「あ、、、」
心配顔の銀仁の視線の先、案の定、玉石の窪みに足を取られれば、
「【都守】、、、」
差し出されたその腕に、受け止められていた。
「それはちゃんと、二人に伝えてあげればいいのに、、、」
奏伯を見上げ、その蒼く染まってしまった眸で、あとりは言った。
背を押し、吹き込み始めたからっ風から屋敷の内へと、あとりを導きながら、
「、、、そうだな」
青い唇が、珍しく応えたのだった。
― まるで、水中にいるみたいだ ―
燕倪は、薄暗がりの中に、立っていた。
寒くも無く、暑くも無い。
ゆっくりと、それはゆっくりと、沈んでいくような感覚だけが、あった。
すぐ傍らで、烏色の狩衣の袖が翻った。
頭上から舞い降りた伯が、膝をついたところだった。
見回した、薄闇の中。
あちらこちらに漂う輝きが、ある。
煌いてもいれば、くすんで闇に紛れてしまうものもある。
何かが耳元を通り過ぎれば、子供の笑い声が、聞こえた気がした。
その声の方へと手を伸ばそうとして、
「やめておけよ」
傍らの伯が、菫色の一瞥。
そのまま、燕倪の袖を、伯の手が掴んだ。
足元から、ふわりと浮かび上がる、奇妙な浮遊感に、身を委ねんながら、
「あれらは、なんだ?」
燕倪が、問うた。
薄闇に煌めき、あるは漂う、無数の星灯りにも蛍にも似た、【もの】。
「夢だ」
「夢ねぇ、、、」
案の定、ぶっきらぼうな伯の答えに、腕を組み、しきりと首を傾げる、燕倪。
自分なりに考えてはいるが、まったく、理解できない様子に、
「夢渡は、今の俺達のような立場だ。もっとも、肉体のままではないが、、、人は眠ると、夢を見るだろう?」
「おお」
「夢は、意識だ。【意識】は、【肉体を持たない魂】のようなものだ。人は、眠っている間、【夢と言う異界】に、魂ごと旅立っている、、、それが、ここだ」
「、、、、、」
どこか縋るような、鈍色の眸が、伯を無言で見つめている。
小さなため息が、唇を、突く。
伯は、足場を捉えながら、燕倪の袖を掴み、跳躍。
さらに、暗闇の方へと、ゆっくりと降りてゆく。
「人の魂魄は、死を迎えると、肉体は土に帰るが、現世とは異界である冥府に旅立つ。それに似ている、、、」
「眠っている者の魂が、現世からこの夢路に、集まっているってことか、、、」
「そうだ、、、」
伯が、眼下に、目を凝らす。
辺りは暗く、昏く、深さを増してゆく。
「ここに意識が、魂が長く留まりには、それなりの弊害があってな。昔、浮城が現れた時、ヨルは、先帝の魂を金匣にしまっていた事があった。あんたも見ただろう?」
「ああ」
「深く深く、夢路に彷徨うと、魂は、この異界の深みに落ち込んでしまうらしい。そうなると、、、見えるか?」
「ん?」
伯の、象牙色の手が、眼下を指し示す。
眼を凝らす、燕倪。
「どこだ?暗くて、何も、、、」
「、、、、、」
燕倪の袖を掴んでいた伯の手が、業丸へ。
柄に手を掛けていた燕倪の手に、伯の手が重ねると、
カタ…カタタタ…
業丸が、俄かに鞘鳴りを始めた。
「お前、何をした?」
「業丸に、頼んでやったぞ、、、」
伯を見つめる燕倪の、鈍色の眸。
その眸が、青鈍へと澄んでゆく。
「んー」
もう一度、顎で指示してやれば、
「だから、何だっ、て⁈」
濃い眉が、顰められた。
遥か眼下に、小さな黒いものが、いくつも犇めき蠢いてみえた。
「夢魔と言う。夢での想いが蟠り、或は喰われた夢、深みに落ちた夢、、、鬼のようなものだ、、、」
「おいおいおいっ、兎に角、あれは、斬れるんだろうな!?」
「余計な刺激はするな。肉体を保持したまま、夢魔と対峙するのは、俺も初めてだ、、、」
「、、、、、」
「あとりの眼が、この夢路のどこかに、、、」
伯の体が、中空で停止した。
群青の髪が、うねりながら、ゆらりゆらめき、靡いている。
「、、、、、」
辺りに目を凝らす中、
「しかし、あとりは、【ここで】、何をしていたんだろうな?」
傍らの燕倪は、胡坐をかいた。
「人の夢を渡るよりも、自分の夢に遊んでいた方がいいだろ?」
「、、、そうだった。あとりの性格を考えていなかった」
「うん?」
伯は、大きく頷きながら、
「この地でも、あとりの事だ。悪夢に、干渉していたんだろう、、、」
類い稀な【夢渡】の力。
例え夢とは言え、助けを求める声を聞いてしまえば、飛び込んで行ってしまう ―――、あとりは、そういう性格であった。
「じゃ、その悪夢の中に落としたとして、過去の悪夢たちはどこにいっちまうんだ?消えてるとか?」
「、、、、、」
燕倪の疑問に、伯は、無言で視線を眼下へ。
無数に蠢き、一つの生命体と化しているかのような黒い小鬼、【夢魔】の群れ。
大海原のように犇めきあう様に、
「悪夢の淵を、散策か、、、」
燕倪が、観念したかのように、頭を掻いたのだった。
伯が、手を伸ばす。
ゆらゆらと煌めく、光の帯。
それを掴み、手繰ると、
「悪夢は、夢路に取り残され、想念となって、沈んでいく。その想念を分解するために喰らう役割も、夢魔にはあるらしい、、、」
ふっ、と吐息を吹きかけた。
「わっ、、、」
燕倪の鼻先で、手のひら大の球体となると、そこには、悪夢の断片が映し出された。
幼い童女が、父親と思しき者に打ち据えられている。
雪の中を、見知らぬ男に連れられ、飢えと寒さと寂しさの中で、それでも歩く映像が続く
「実体験を、回想する悪夢もあれば、、、」
続いて、伯が燕倪に見せたものは、また別のものであった。
異国との戦場で切り刻まれるものや、突然大地が消えてしまったり、魑魅魍魎に追いかけられる、映像。
「その者にとって、恐ろしい悪夢もある。夢魔に巣食われ、悪夢に囚われ、蝕まれ、目覚めぬような類いのものもあれば、、、」
かと思えば、薄絹を纏った美しい娘らに囲まれる若い男の姿もあった。
「現実よりも夢路に甘んじて、甘美な夢の世で、心を閉ざす者もいる。実に、様々だ、、、」
「先帝は、、、」
燕倪が、ぐるりと辺りを見回して、
「【ここ】に、居たのか?」
そう、問うた。
伯は、ぼんやりと、あの頃の記憶を思い返していた ―――、ヨルが守っていた【金の匣】を。
「生前、先帝の昏睡状態は、長かったと聞く。夢路との繋がりが、濃くなるのは無理も無い。冥府ではなく、夢路を、魂魄が終の棲家と定めてしまったのだろう。そのまま夢魔となってもおかしくない程、深く、同化しつつあった、、、」
「業丸では、断ち斬れなかったのだろうか、、、」
「分からんが、、、」
伯は、燕倪の横顔を見つめた。
【友】の双子の兄であった、【先帝】。
立場が違えば、弟であった【友】が、夢路に落ち込んでいたのかもしれない。
いや、兄、弟の問題ではない。
まるで我が事のように、深く同情しているのだろう。
悲痛に顰められ、眇められた青鈍の双眸。
業丸の柄に置いたその手は、無意識にだろうが、力が伝わって、微かに震えていた。
燕倪の袖を掴んでいた、伯の手。
一端、離れると、
「それ以前に、先帝は、命じたのだろう。先代都守、ヨルと共に、自由に生きる日々を夢見て、な、、、」
「んがっ、、、」
燕倪の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた ―――、蓉亜にするように。
「お、いっ、、、わっ」
「今は、油売ってる場合じゃねぇだろ、、、」
「お、おう」
伯が、袖を探りながら、
「あとりの事だ。悪夢もあれば、予知夢と言う可能性もある、、、」
何かを、取り出した。
覗き込めば、
「ん?」
数本の髪が、抓まれていた。
「先ほど、少し、切ってきた、、、」
迫り出した犬歯が、唇を噛んだ。
じわりと朱鷺色の唇に滲む、紅の血潮。
微かに、霊紫のあまい香りをさせつつ、顎先から滴ると、その雫を手の中で受け止めた。
その拳が握りしめられ、伯は、唇に滲んだ血潮を、べろりと舐めとった。
顎へと伝った血潮を、無造作に袖で拭おうとしたときには、
「う、うーっ」
「袖で拭くなっ」
懐紙で、力ずくで拭われる。
羽琶が焚き染めたのだろう、梔子の香りがした。
顎先を、指先でさする、伯。
拭われたところが、ひりひりしていた。
「、、、、、」
伯の手のひらが、開かれた。
こぼれる、銀の輝き。
それは、伯の手の中で、透明な体躯を震わせ、長い手足を伸ばすところであった。
「蜘蛛?」
「ああ。式神みたいなものだ。ここしばらく、あとりが覗いていた夢を辿るぞ、、、」
手のひらから、蜘蛛が滑るように、歩き出した。
するすると宙を行く、その蜘蛛の後を追いながら、
「お前も、予知夢とか、視るんだろう?」
「頻繁に視るものじゃない、、、」
伯は、蜘蛛の姿を追いながら、ぶっきらぼうに言い放った。
「そう何度もあってたまるかよ、、、」
能面のような表情で呟いて、伯は、蜘蛛が立ち止ったのを見た。
揺らめく、光の帯。
その一端へと手を伸ばし、もう一方の手では、
「おわぁッ」
掴んでいた燕倪の袖を、力ずくで、引っ張る。
顔を上げた、燕倪。
彼が見たのは、
「ここは、、、」
蒼い空の下、はらはらと舞う薄紅色の花弁。
高い築地塀、鯉が泳ぐ堀、古めかしい石の橋。
見覚えのある風景が、広がっていた。
行き来するのは、【桜重】や【裏山吹】、【青柳】といった出衣の、雅な牛車。
春の野へと、心急ぐ姫君達。
ぽかんとしていると、
「都だな、、、」
塀に背を預けた、伯の声。
「帝都は、ここと違って、賑やかだ。桜の季節だと、懐かしんでいたのかもな、、、」
「なおさら、早く、目を見つけてやらなけりゃな」
「ああ。ここには、無いだろう。次に、行こう、、、」
「ん、おお、、、おおおっ‼?」
振り返らないうちに、袖を掴まれ、空へと引きずり上げられる。
平衡感覚を失う、奇妙な浮遊感。
「うぅっ」
― 気持ちが悪いっ、、、 ―
胸の辺りがむかむかして、
「どうした、、、?」
「な、何でもない」
強がった。
視界に、あれは、どこぞの貴族の屋敷の桜か、老いたしだれ桜が、見事な花を咲かせていたのが見えた、と、同時に、霞む視界。
二人は、薄闇の中に漂っていた。
「あれ?いないぞ」
見回しても、蜘蛛はおらず、
「こっちだ、、、」
伯が、袖を引っ張った。
一筋の細い糸が、伸びていた。
「先行させておいた。夢の数だけ、可能性はあるからな。次からは、手分けしよう、、、」
「そうだな」
「糸に触れれば、その方法に向かって勝手に進む。後は、そのまま首だけを突っ込めばいい。今みたいに入り込む必要もないし、辺りを見回せるしな。万一、中に降り立った場合、出るときは、思いっきり大地を蹴ればいいようだ。現世と地続きで来た分、夢路の理に囚われることはないからな、、、」
「分かった」
「今、追いかけている夢は、記憶の断片であり、過去のものだ。崩壊が始まっているものもあるから、くれぐれも深追いするな。夢から出たら、糸の位置を探し掴め、、、」
「これが本当の蜘蛛の糸ねぇ」
「あとりの性格上、夢路に自分が逃げ込むことはない。そうなると、何か別の者の為だろう。想いを留め置くのだから、その姿は、あとり自身の姿をしているはず。悪夢だけに絞って、見つけたら、離すな、、、」
「ああ、分かってる」
「、、、、、」
無言の視線に、
「な、、、なんだよ、伯」
「言っておくぞ、燕倪。悪夢に深追いしてみろ。お前まで【夢魔】だそ、、、」
「お、おう」
「と、忠告したところで、悪党や魑魅魍魎の類の姿をしている者が出たら、斬ってしまうのだろう、、、」
伯が、口を開いた。
ころり…
手のひらへ転がり落ちたのは、ぷっくりとした姿の ―――、半透明な蛇のようなものであった。
「なんだ、これ。お前の昔の姿に似てるな?」
「格下と、一緒にするな。失礼だな、、、」
「む、すまん」
― 可愛いと言いたかっただけなんだが、言ったら、怒り出しそうだから、やめておこう、、、 ―
つぶらな眸で燕倪を見上げると、伯の手によって、肩へ。
そのまま、くるりと肩に巻きつく。
「俺の眷族、【蛟】。式神みたいなやつだ。何かあったら、これで連絡する、、、」
「了解だ。だが、一本道だから常に、近くには居るんだろう?」
「あとりの髪の分だけ、蜘蛛を散らした、、、」
伯が、糸を弾いた。
「あ、、、」
白々と、無数に反射する、蜘蛛の糸。
それこそ、巨大な蜘蛛の巣のように、眼前に広がっている。
「こういう事だ、、、」
伯が、一本に手を掛けた。
ふわりと去りゆく、その背中を見送って、
「確かに、急がないとな」
燕倪は、背筋を伸ばしたのだった。
― 美しい夢、あまい夢、苦い夢、暗い夢、、、 ―
様々な夢らを垣間見ながら、伯は、思う。
― 俺は、海の中を漂っている夢が多い、、、昔から、こんないろんな者が出てくる事も無い、、、限られた時間を生きるから、こんなにも彩に満ちているのだろうな、、、 ―
夢路では、様々な世界が生まれ、想いが生まれ、取り残される。
無限に広がる異界は、異海のようだと。
― 人がいなければ、現世も夢路も、冥府とて、、、味気無いのかもしれんな、、、 ―
銀仁と共に、秋の野を歩いていたのだろうか?
眼下では、銀仁が、姿の無いあとりに向かって、何かを話している。
「、、、、、」
伯が、上半身を起こした。
帯状の輝きのどこにも、あとりはいなかった。
振り返ったところで、無数の糸の煌めきが、層になって連なっていた。
相当数を覗いてみたが、姿は無い。
燕倪の姿も、ここからは、見ることができない。
― 次に行くか、、、 ―
蜘蛛の糸の一端に手を掛けた時だった。
≪ 伯ッ‼聞こえているかッ‼? ≫
「つッ‼」
脳裏に、燕倪の声、わんわんと響いてきた。
顔を顰め乍ら、辺りの気配を探る。
≪ いたぞっ‼あとりだッ‼ ≫
「分かった。すぐに向かう」
大気に、燕倪の気を手繰りながら、伯は、上空へと舞上がった。
巨大な蜘蛛の巣の外周に近い、一角。
帯状に展開する夢の輝きが、一層激しく、瞬いている。
「むう、、、」
低く呻くと、燕倪は、腕に力を込めた。
覗いていた水面下から、起き上がるような感覚にも似ていた。
魑魅魍魎が跋扈する暗闇の中で、劈くような若者の声が、まだ、耳に残っている。
いくつもの夢を渡った。
内容が内容だけに、十を数えた辺りから、やめることにした。
実際に、思わず、飛び出してやりたいものも、いくつもあった。
その都度、伯の貌がちらついた。
― 忠告、無視すると、怒るだろうからなぁ、、、 ―
これは夢だと己に言い聞かせ、燕倪は、蜘蛛の糸を手繰りながら、次への夢へ。
地に足つかない、浮遊感。
異形と渡り歩き、摩訶不思議な世界に飛び込んで、どれほどの年月が流れたことだろおう。
ふと、そんなことを思った。
シュルル…
肩の辺りで、半透明の蛇《蛟》が、細い舌を出した。
「お前も、苦労してるんじゃないのか?」
そんな問いを、投げかけてみた。
シュ…シュー…
蛟は、つぶらな眸で燕倪を一瞥しただけで、細い舌を出し入れするだけだった。
糸の先に、光の帯が見えた。
やわらかい、透明な帯に、無数の星の煌めき。
天の川を、そのまま帯に縫いとめたような、美しさ。
慣れたもので、燕倪は、両手でおもって、その帯を掴む。
そのまま、顔を突っ込んで、
「お、、、」
思わず、瞬き。
薄闇の世界とは、まるで、別物。
そこは、眩い、四季を集めた世界であった。
ふくよかな、紅白の梅。
それを覆うように、薄紅の山桜が咲き群れて、華桃の濃色が、あちらこちらに。
華を咥え、舞い飛ぶ、鴬。
木々の下、池の畔では、菖蒲の蒼さが際立っていた。
ちらつく、花雪。
白々とした山々の中ほどは、橙緋に紅葉し、流れる川には、落葉が錦のよう。
青々とした木々の下には、鹿の群れ。
野兎が跳ねて、山葡萄を伝わせた梢では、尾長が羽繕いをしている。
どれもこれも、実際に地上に在りながらも、季節によって隔てられ、決して相容れぬ、さながら ―――、桃源郷。
「ほ、、、こりゃ凄いな、、、、あ」
感嘆のため息に続いて、目的を思い出した、燕倪。
次の夢へと、体を起こそうとして、
「ん?」
茸を食むウリボウ達のすぐ近くで、何かが、蠢いた。
可憐な単衣の袖が、見えたような、、、?
つられるようにして、燕倪が、体を捻じ込ませ、
「うっ、、、わッ‼」
眼下の桜の大木の中へ。
枝が折れる音と共に、
「い、、、痛ててっ、、、」
咄嗟に摑んだ、枝のおかげで、なんとか、大地にぶつかることだけは免れた。
枝を伝い、下へ降りると、足がぬかるんだ。
苔でも生えているのか、やわらかい。
「蛟?」
肩にその姿が無いと、見上げた空は、高かった。
伯程に上手く、上り下りできなそうだと思っていると、
シュ…ルル…
頭上から、ひょっこり蛟が顔を覗かせた。
「なんだよ。美しい場所だからって、サボってるんじゃないからな。お前も見ただろう?」
シュー…
「いいから来いよ。来ないと、お前が、伯にどやされるぞ」
………
燕倪が伸ばした指先に、蛟が、巻きついた。
髪に、桜の花をつけたまま、燕倪が、辺りを見回す。
辺りを窺うが、人の気配は無い。
無いが、
― 妙だな。見られている、、、 ―
そんな感覚だけが、確かにあった。
業丸の柄に手を置き、燕倪は、歩き出した。
道は無いが、よく見ると、野草が生い茂る合間に、獣道のようなものが、伺えた。
右手には、海棠、木蓮の木々の奥には、燃えるように赤々と曼珠沙華が見えた。
左手には、川が流れており、その向こうは、白い樹氷群が広がり、無数の蝶が遊んでいる。
空は黎明に染まり、太陽と月の饗宴だ。
八重の虹は円を描き、池を覗き込めば、水面下に広がる世界は、松原を遠くに背負った海原であった。
不安定な、足場。
泥に、足をとられているかのような感触を確かに感じながら、燕倪は、辺りを見回した。
どこまでも明るい、その世界。
今まで見てきた夢の、どれよりも鮮明で、美しく ―――、
「ん、、、」
華の香りが、濃い。
キャハハ……
アハハ…
「‼?ッ」
それは、子供の声であった。
四方から響く子供の声に、辺りを見回すと、
ふわり…
単衣の袖が、海棠の林の奥で翻った。
咄嗟に、燕倪が走り出す。
ぬかるむ大地をもろともせず、濃厚な華の香りに包まれながら、
キャッ…キャッ…
フフフ…
華奢な背中。
黒髪から、五色の組紐が解けて、舞い寄る。
先を行く、単衣の女童。
裳裾が長く跳ね上がっては、曼珠沙華が狂い咲く花園へ。
吹きつける、朱華の花弁。
海棠の並木を抜けようとした時、燕倪は、視界に飛び込む【黒き者】を見る。
ケタケタケタ…
ケテケテケテ…
テケケ…
膝程までしかない、それは【黒き者達】。
「こいつら、眼下に犇めいていた夢魔ってやつか。なんで、こんなところに、、、」
燕倪の太刀が、迷わず引き抜かれる。
よたよたと燕倪に迫りくる、夢魔の群れ。
空洞の眼と口が、笑っている。
視界の先で、女童が転んだ。
立ち上がった、その横顔は、
「あとりッ‼」
まぎれも無い、幼き日の女童、あとりであった。
ギシュッ…ルルッ…
燕倪が、蛟を握りしめた。
大きく口を開けてもがく、蛟。
「伯ッ‼聞こえているかッ‼?」
構わず怒鳴る、燕倪。
「いたぞっ‼あとりだッ‼」
それだけ告げると、太刀を揮った。
微かな手ごたえを感じながら、霧散する夢魔の間を、駆ける。
「待ってくれ、あとりッ‼」
「、、、、、」
しかし、あとりは、その声に耳を貸すことなく、駆けてゆく。
赤い、赤い、赤い。
細い緑の茎に、赤き大輪の曼珠沙華。
黒き夢魔を切り払うごとに、赤いその首が、舞上がった。
「あとりっ、俺だッ‼燕倪だっ」
「、、、、、」
前方を駆けるあとりが、ゆっくりと、立ち止まった。
振り向いた、その双眸は ―――、彼方の燕倪でも見て取れるほどに、蒼く澄んでいた。
脚が、とられる。
膝までずぶずぶと沈んだところで、夢魔に背中にしがみつかれた。
「なんだ、こいつらっ」
脇腹に、腿に、腰に、腕に。
ケタケタケタ…
ケテケテケテ…
テケケ…
きり無く、湧き出る、黒き子鬼。
体にしがみついて、笑っている。
「あとりっ」
「、、、、、」
前方で、あとりが、指を指す ―――、元来た道を。
― 戻れって言っているのか!? ―
ここまで来て、そうも行かない。
燕倪は、脚を引き抜くと、体中に夢魔をしがみつかせたまま、踏み出す。
「連れて帰るってんだろッ‼」
踏み出し、踏み出し、
「‼?」
燕倪は、彼方の月が、落ちてゆくのを、狭まる視界で捕えた。
それだけではない。
白き万年雪を頂いた山々が、剥がれ落ちるように、熔けるように、崩れて行く。
かつて、これと似たようなものを、燕倪は見た事があった。
― 昔、帝都の【亡影】ってのが、こんな感じだった、、、まさか、、、 ―
空間が、瓦解してゆくのだ。
「まずいっ」
ケタケタケタ…
ケテケテケテ…
テケケ…
夢魔を引き剥がし、寄るものは斬り、
「こっちに来いっ、あとりッ」
燕倪が叫んだ ―――、瞬間
「おわぁッ」
底が抜ける感触と共に、宙に投げ出されたのだった。
瞬く光、夢の帯。
伯が、その一端を掴もうとした ―――、その時
「うッ」
光が、弾けた。
展開する、彩の奔流の中で、
「燕倪ッ」
伯が、叫ぶ。
具現化したその夢の世界は、甘く熟れきった腐敗臭をさせ、崩壊を始めていた。
嗅覚が麻痺し、辺りにちらつく花々の中で、
「あれか、、、」
伯は、視界の端に、単衣を纏った女童の姿をとらえた。
無数の夢魔も、落ちてゆく。
同時に、見覚えのある、濃紺の狩衣を見た。
「燕倪ッ」
「俺はいいッ‼何とかするッ‼だから、あとりを―――ッ」
燕倪が、まっさかさまに落ちてゆく。
その先には、夢魔が犇めいていた。
頭上から降り注ぐ、夢の断片。
招かざる人の気配を嗅ぎつけたのか、黒き小さな鬼達が騒めき、手招きする。
燕倪の視線の先には ―――、あとりの姿。
「、、、、、」
伯が、化身する。
オォオオオ…アアア……アア…
真紅の鬣が伸び、背鰭が広がる。
尾鰭が揺れ、六枚の鰭が、大気を捉える。
背鰭を倒すと、薄闇を切り裂き、神速で加速。
菫色の双眸に映すのは、右に、あとり ―――、左に、業丸に手を掛けたまま、夢魔の大海原を睨む、燕倪。
二人ともは ―――、不可能。
伯に、迷いは無かった。
迫る、夢魔の群れ。
燕倪が、空中だと言うのに、業丸を構えた。
黒い小鬼が、同じ色の口の中を見せて、笑う。
手招く。
小躍りする。
ケタケタケタ…
ケテケテケテ…
テケケ…
落ちたと同時に ―――、振り斬る。
手に力を込め、衝撃に備え、瞬きも許さぬよう、目を見開く。
その視界の端に ―――、
グルオォオ―――オ…ッ
黎明の風が、吹き込む。
夢魔の上に、夢魔が乗り上げ、巨大な一つの生き物のように、蠕動する。
儚く呑まれる、人の子。
群がり、掻き消える様を、
「、、、、、」
燕倪は、伯の口に咥えられたまま、見つめていた。
一先ず浮上すると、蜘蛛の巣の中央へ。
緻密な糸が組み合わされたそこは、神体の伯が寝そべっても、十分な広さであった。
伯の口が、開く。
燕倪が、業丸を鞘にしまうと、背後で、衣擦れの音がした。
人型に戻った伯が、帯を締めるところであった。
「、、、、、」
振り向いた伯は、いつになく、能面なような顔であった。
そのまま、つかつかと歩み寄ると、燕倪の襟首を無造作に掴み ―――、
ゴツッ…ッ
「うッ‼」
鈍い音と共に、燕倪が、呻いた。
伯の頭突きであった。
額を押さえた燕倪が、
「俺が、悪かった、、、」
詫びた。
死ぬつもりなど微塵もないのだが、咄嗟に、体が動いてしまう。
命を、粗末にするつもりなどない。
人より、少しだけ、人のために動いてしまうのだろう。
伯は、何も言わなかった。
そんな燕倪を、誰よりも知っているのかもしれない。
伯の手が、伸ばされた。
「、、、、、」
燕倪の肩を押せば、蛟が指先へと向かって、するりと離れていった。
顔を上げれば、伯が、群青の髪を物憂げに掻きあげて、ため息。
「なんとなく、こっちに来ちまうんだろうなとは、思ったよ、、、」
「当たり前だ、、、」
ぶっきらぼうに言うと、伯は、燕倪の袖を掴んだ。
そのまま、ふわりと舞上がる。
「あれは、俺でも無理だった、、、」
「、、、、、」
珍しい伯の慰めが、せめてもの救いであった。
「あとりは、自らの眼を通して、【夢魔】に、現世を見せてやっていたんだ、、、」
「夢魔に同情したってのか?」
「夢魔が望み、あとりが応えた。あとりは、一時的なものだと思ったんだろう。だが、時にそれは、こちら側での契約のような効力を発揮する。その視覚は、徐々に夢路側に、蝕まれていったんだ。さすがに、そこまではソウも俺も、気づけなかった。それなのに、あんたは、よく見つけたよ、、、」
「違和感を感じた時に、もっと早く、お前に繋ぎをつけときゃ良かった、、、」
「いや、、、」
伯は、頭をふった。
眺めた先には、犇めく、夢魔の大海原。
「あれだけの数の夢魔が、【あの夢】一つに固執し、巣食っていたんだ。あの匂いといい、とっくに腐敗していた夢ならば、いつ崩落がはじまってもおかしくなかった。崩落に間に合っただけでも、ある意味、奇跡だ、、、」
「、、、、、」
遠ざかる、夢の深み。
夢の浅瀬へと浮上しながら、
「あとり、、、」
燕倪の呟きに、茜色の光が差し込む。
もう、夕刻なのだろう。
思ったよりも、時間が経っているようだった。
「人の身で、何体も夢魔を斬ったんだ。よくやった方だ、、、」
「それ、褒めているんだろうな?」
「ああ、、、」
「素直に、ありがとよ」
項垂れた燕倪の袖を掴んだまま、伯は、茜色の光の中で、その菫色の双眸を眇めた。
両目に差し込む、現世の光の中で、
「後は、神霊の末に任せておけ、、、」
伯は、そう呟いたのだった。
西の空が、夕焼けに染まる頃。
紫紺の靄の向こうに、人影が浮かんだ。
「戻ってきたか、、、」
奏伯の呟きに、縁側に座ったまま、二人の身を、ただただ案じていたあとりが、
「無事で、良かった、、、」
胸を、撫で下ろしたところであった。
靄の傍らに佇んでいた、奏伯。
「ソウ、、、」
伯が、その人の元へ。
雪色の直衣の袖を掴んだ、伯の姿は、
― あ、、、 ―
燕倪の目に、かつての幼い童の姿に見えた。
「、、、、、」
袖を掴まれるままに、伯の内なる声に耳を傾けること、しばらく、
「、、、異存は無い」
奏伯は、金色の双眸を眇め、伯に頷いた。
伯は、
「あとり、、、」
縁側に腰を下ろした、あとりの元へ。
その背中は、いつもの見慣れた姿に戻っていた。
銀仁を一瞥し、あとりの前で膝をつくと、
「すまない。片目しか、見つからなかった、、、」
「伯、そんなことより、燕倪も、無事か?」
「ああ、当然だ、、、」
伯は、その右目を覗き込んだ。
蒼い湖面を思わせる眸に、墨が落ち、滲んだようだった。
「あとり」
「あ、、、」
ぼんやりと差込み始める、光。
「あ、ああ、、、」
零れ落ちる涙と共に、墨色の眸へと染まってゆく。
あとりは、光が痛いものだと、初めて知る。
ぼんやりとした輪郭が、陽炎のように揺れて、見えた。
右の頬に伸びる手を、
「、、、、、」
伯が、取った。
そのまま左の頬へと導けば、
「一晩もすれば、馴染むはずだ、、、」
どこからか、奏伯の声が聞こえてきた。
一足先に、門へと向かう雪色の直衣の背が見えた。
「あ、、、みえ、、、見える、、、っ」
伯の左目は、あとりの悲鳴に似たその言葉を、聴いた。
手の中でゆっくりと頷くと、銀仁に目配せ。
「俺達は、そのために来たんだ、、、」
「伯、、、わらわは、お前達に無理を、させたんじゃないのか?」
「誰に向かって言っているんだ、あとり?」
伯が、鼻で笑った。
「伯、、、」
ふんわりと笑った、あとり。
「夜風は体に障るぞ。治り始めが、一番肝心だ、、、」
「ん、、、」
素直に頷いたあとりの涙を、伯の手が力強く拭った。
「燕倪、都守も、、、ほんと、、に、ありが、、、ぉ」
その震える唇は、言葉にならない。
「まったく、らしくないじゃないか、天羽のおてんば姫」
「な、、、燕倪っ」
一瞬言葉を失い、すぐにいつもの調子で声を荒げた、あとり。
燕倪は、なんとも言えぬ微笑で、
「おうおう、その調子だ、あとり。お前が、塞ぎ込むなよ。銀仁の眉間の皺、ますます深くなるぞ」
「むっ」
「我の、眉間、、、?」
顔を見合すあとり、と銀仁。
そんな二人の姿を、目に焼き付けて、
「快復を待って、また、ゆっくりと顔を見に来るよ。良い肴を、用意しておいてくれよ。じゃ、な」
「燕倪、、、」
奏伯の後を追った、燕倪。
どこか賑やかに騒がしく、玉石を踏みしめる音が、遠ざかってゆく。
「伯、、、」
一人、残った伯を、銀仁の琥珀色の双眸が見つめた。
さっさと連れて行けとばかりに、片手を振られ、苦笑。
「さ、あとり、、、」
あとりを屋敷の中へ連れて行きながら、銀仁がもう一度、振り向いた。
無言の会釈に、
「、、、、、」
伯も、浅く頷いて応じた。
二人の姿が、屋敷の内へ消えるのを見送って、
ぽた・・ぽたた・・・り・・・
何かが顎先から滴り、鴉色の衣に、染みを作った。
ぶっきらぼうに、手の甲で拭うと、伯はそれを左目の前へ。
冴え冴えと差し込んだ月明かりの元、象牙色の肌を染めるのは、
「、、、、、」
紛れも無い、赤き血潮であった。
強い風に、髪を弄られながら、
「なんだよ。酒も酌み交わさず、行くのか?」
先を行くその背に、門を出たところで追いついた。
「燕倪、、、」
ゆっくりと振り向いた、奏伯。
「お、、、おま、、、」
燕倪はその貌を見て、大きな眼を、見開いた。
その閉じられた右目から、赤紅の雫が滴っている。
「どっ、、、」
思わず口をついて出た大声に、慌てて辺りを見回すと、
「いったいどういうことだ?」
奏伯の傍に歩み寄って、声を潜めて言った。
右半顔を、紅に染めたまま、その凄惨を微塵も感じさせぬ声音で、
「この身は、我が真名を持つ伯と同調している部分が、少なからずあってな、、、」
とめどなく滴る血潮をそのままに、静かに言った。
「暢気な顔して言うなよ。伯のやつ、任せろとは言ったが、、、まったくお前達、それで本当に大丈夫なんだろうな?」
「我は神体に戻れば、なんら支障は無いが、、、」
そう言って奏伯は、物憂げな眼差しを屋敷へと注いだ。
視線の先に、鴉色の袖を風に靡かせながら、伯が現れた。
「伯、、、」
俯きがちの伯の両頬を、燕倪の武骨な手が包み、押し上げた。
血潮が滴るままの右の眸を覗き込めば、菫色だった眸が、深紅一色に、染まっていた。
「痛くは無いか?」
「、、、、、」
燕倪の心配そうな顔が、間近にあった。
伯は、何度か瞬きを繰り返す。
「、、、、、」
その右目には、やはり光は差し込まない。
それが、あとりが負っていた長年の夢見としての、対価。
「大丈夫だ、、、」
「任せろって、これだったのかよ」
「言えば、あんたは止めるだろう?」
「当たり前だ。それなら、俺のを、、、」
「だから、だ。どのみち、人の眼は使えない、、、」
燕倪の両手を振り払うようにして首を振り、伯は袖に風をはらんだ。
「おおっ」
その身が、衣を引き千切りながら、翡翠の鱗を刻む巨躯へと、変化する。
長く、大地に寝そべるように伸びた鼻先に、いつの間にか奏伯の手があった。
僅かに身じろいだようだったが、強情を決めていた伯も、束の間の再会に、素直になることにしたのかもしれない。
一度は擡げた鎌首を、再び大地の上へ、延べた。
燕倪は、黙って暮れゆく夜空を眺めた。
― 羽琶殿、、、 ―
帝都で待つ者の貌を、思い出していた。
「燕倪、行くぞ、、、」
しかし、その姿は、すぐさまぶっきらぼうな声に、掻き消されてしまう。
「んっ、、、ああ?なんだ、もういいのか?」
「、、、、、」
無言の伯。
その沈黙に微かながらに苛立ちを感じ取って、燕倪は伯の気が変わらぬうちに、急いで巨躯の元に、駆け寄った。
慣れたもので、鰭を足場にして紅の鬣を掴むと、その紫紺の背鰭を背に、攀じ登る。
引力を感じさせず、ふわりと舞い上がる、感覚。
「燕倪、、、」
「お」
遠ざかる奏伯の手が、何かを投げ渡した。
「空は、冷える、、、」
それは、闇色の厚手の外套。
みるみる遠ざかる、大地。
上空から吹き付ける風が、燕倪の硬い髪を頬に打ち付け、
「礼くらい、言わせろよっ」
強い風の中、燕倪のその声は、届いたのだろうか?
頭上彼方で、身を乗り出すようにして大きく手を振る燕倪を、
「、、、、、」
奏伯は、懐手のまま眺めていた。
彼方の雲間に紛れ込む二人を見送ると、白い溜息が一つ、毀れた。
やがて、
「、、、、、」
佇むその人が闇色の花弁となって霧散すると、潮風が吹き抜ける。
今。
闇夜に、風と海だけが、啼いている、、、
「寒っ」
ぶるりとやった、燕倪。
日中と違って、さすがに夜風が冷たい。
投げ渡された外套に袖を通していれば、伯の飛ぶ速さが、幾分遅くなっていた。
襟元を掻き合わせ、眼下の大地を見下ろせば、黒々と蟠る薄墨色の大地が広がっている。
銀の巨大な蛇の如き輝きは、川だ。
前方から迫ってくるのは、倭を東西に割る、弩欒山脈。
その向こうに、帝都が在る。
「奏伯が、銀仁を行かせなかったのは、俺の二の舞を見越しての事だったんだな」
「ああ、、、」
「けれど、お前は、良かったのか?」
ふと、燕倪が尋ねた。
「、、、、、」
伯の視線だけを感じ、
「あとりの性格だ。お前の目と引き換えなんて知ったら、、、」
そこまで言えば、暢気なあくびが、どこからか聞こえてきた。
「言わなければいい、、、」
「まぁ、そりゃそうだが、、、」
「あとりの天寿が尽きれば、戻ってくるものだ。幸か不幸か、俺には、約束された天寿とやらがないらしい、、、」
抑揚もなければ、感情もない。
そんな神霊としての声音に、
「羨ましいやら、哀しいやら、、、」
燕倪が、背を預けながら、空を見上げて一人ごちた。
瞬く星々が、今にも流れんばかり。
「哀しい、か、、、」
伯は、燕倪の片手が、背中に置かれているのを、感じていた。
そこだけ、熱い。
脈打っているかのように熱く、それでいて、力強い。
言葉にすればするほど、深まってしまう ―――、溝。
それを、容易く埋めてしまえる、そんな手であった。
この瞬間、それが、在る。
それだけで、十分であった。
伯が、鎌首を擡げ、前方を見つめる。
沈黙の中、なんとも言えぬ、穏やかな心持で、伯は夜空を、渡る。
やがて、臥龍のように延々と伸びる弩欒山脈を眼下に、伯が鰭を大きく広げた。
薄い膜が現れると、背に居る燕倪を隠すかのように徐々に降下を始めた。
滑空するように闇を渡れば、地上には微かな潮風だけが、吹き抜けるだけだ。
夜霧に煙る、帝都の姿。
ほんの少し、空けただけだと言うのに、込み上げるこの懐かしさは?
伯は、音も無く燕倪の屋敷の大池に舞い降りた。
いつ戻ってもいいように、点され続けた行灯の灯りが、それだけで暖かさをこの静かすぎる闇夜に、与えているようであった。
燕倪が、飛び降りてすぐ、
「、、、、、」
伯の体は、無言で水面に溶けた。
淡い輝きとなって水底へと遠ざかる儚い輝きを見送って、
「まったく、お前まで何も言わせないつもりかよ、、、」
なんとも伯らしいと言うのか、燕倪が苦笑しつつ呟いた。
その性格を、この男が案外、一番知っているのかもしれない。
潮風が吹き抜け、輝きも消え去った時、
「お、、、、」
その耳に、微かな衣擦れの音を、聞いた。
「いかんいかん」
何よりも、夜風でその人が体を冷やしては一大事、と、近づく足音の方へと急ぐ燕倪であった。
※
「起きて。もう、お昼だよ?ねぇ、ねぇ、ねぇッ」
甲高い、子供の声がする。
しゃれこうべを、枕。
頭の下で、いつもなら真っ先に主に近づく不届き者を諌める幽鬼も、珍しく主の気に当てられ、深い眠りに就いているようだった。
「お き てっ、よぉおっ」
ぺたぺたと、無遠慮に頬を叩き、手で払えばよりしつこいその手が、両瞼の薄皮を摘みあげて、
「ひわぁあっ」
おかしな声を上げた。
一度は手を引っ込めたが、その悪戯に好奇心旺盛な手が、もう一度伸びて、
「い、痛いっ」
「、、、、、」
伯に手首を掴まれる事となった。
頭が、まだぼんやりとしている。
その貌を、【不届き者】が、覗き込む。
「あれれ?その目。どうして、蒼くなっちゃったの?」
「、、、、、」
うっそりと眺めれば、いつもの顔が、間近に在った。
昼寝をしていても、お構い無しに異形の守役が腹の上に攀じ登る相手は、ただ一人。
「蓉亜、、、」
「ねぇ、どうして?燕おじと、どこに行ってきたの?」
瞼を抉じ開けられたと思えば、これである。
一晩立つと、流石に血は止まったのだが、伯の右目は、それは蒼く澄んでいった。
伯は、右瞼を押えた。
違和感。
昨夜の出来事が、脳裏に過ぎった。
痛みは無いが、
「、、、、、」
そこには夢路へ誘う闇が、在る。
狭い視界に慣れるには、まだ少し掛かりそうだ。
小さく鳴くのは、吊るされた鐵風鈴。
そよ風と呼ぶにはあまりにも儚い風が、あまい椿の香りをどこからか運んで来た。
肺腑に深く入れれば、沈みかけた気分も、幾分晴れそうな気が、した。
「昔馴染みの見舞だ、、、」
やんわりと言えば、
「花鳥姫」
「む、、、」
蓉亜の得意げな顔とぶつかった。
その大きな黒眸が、勝ち誇ったかのように、煌いている。
「ちっ、、、」
面倒な、そんな舌打ち。
今回の事情を知る者は、一人しかいなかった。
「、、、琲瑠のやつ」
「陰陽頭の末姫って、どんな人?僕、小さくて覚えてないんだ」
伯の苦鳴など、お構い無し。
矢継ぎ早な、質問攻めに、
「うるせ」
伯は枝から地上へ、舞い降りた。
その右目は、菫色に変えた。
いつもの、どこか物憂げな眼差し。
木洩れ陽が眩しく、思わず眼を閉じた伯の耳に、
「嗚呼っ、そのあおいろ。とってもキレイなのにぃ」
もうちょっと見たいと、枝から身を乗り出す、蓉亜。
「きれい、、、」
伯の呟きに、
「何かに似てると思ったら、ほら、父上が大事にしている瑠璃の杯があるでしょ?あれにね、本当は、夜に使うんじゃないんだって。御日様がある時に使うとね、陽の光が入って青く透き通るんだ。きらきらって、万華鏡みたいに見えるんだよ。【瑠璃】の眼みたい。知らなかった?」
「、、、ああ」
「じゃ、確かめてみようよ」
枝に取り残された蓉亜が、手を伸ばす。
心得て、蓉亜を抱き降ろしながら、
「そうだな、、、」
朱鷺色の唇を、微かに歪めた伯が、静かに応えたのだった。
伯の手を引きながら、蓉亜が木立を抜ける。
大池の畔を、蔵の方へと向かいながら、
「明日、清親お姉ちゃんのところの馬場に行く約束、覚えてる?」
振り返った。
「忘れてねぇよ、、、」
足元見て歩け、と顎をしゃくる伯に、
「僕が上手に【瑠璃】に乗れるようになったら、遠駆けに行こうね」
蓉亜が、にっこり笑って言った。
「お前、どこか行きたいところあるのか、、、?」
ふと、そんな事を問うた。
華奢な背中が、目の前で、飛び跳ねた。
「うん。海っ」
春が過ぎ去ろうとしている。
これから、暑い夏が来るだろう。
もうすぐ、伯にとっての【その日】がやってくる。
それまでに、蓉亜は、馬術が上達しているだろうか?
聞き分けの良い弟で、いるだろうか?
そんな事を、考える。
「伯、、、?」
不安になって、蓉亜が、もう一度振り向いた。
伯を見つめるその前に、
「うわっ」
大きな手が、髪をぐしゃぐしゃと撫でてゆく。
「今居の浜。俺が生まれた海の名だ、、、」
「じゃ、そこ、いくっ」
きらきらと輝く、大きなその澄んだ眸。
「ああ、、、」
伯は、蓉亜の眼差しが眩しすぎて、空を見上げた。
白い太陽が、薄い雲を纏い、中天を過ぎたあたりに掛かっている。
日差しの温もりを感じながら、ゆっくりと、伯は目を閉じた。
もう一度、目に焼き付けよう。
旅立つ前に、蓉亜を連れて。
昨日、聞いた、潮騒。
耳から、まだ離れない…
無口だった幼少期の伯の感情、果てや、微妙に背が伸びているのを、誰よりも早く気づく、動物的な勘に至っては鋭い燕倪の兄貴。。。
伯が喋るようになったって、兄貴は健在。。。この二人が出てくると、実に台詞だけは、さらさらと、、、紡ぎやすいものです。。。
年恰好が近い、伯とあとり姫。。。ちょっと、見てみたいものです。。。