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― 蛮器翁 × 三匹の屍魚 ―

後半、ずっぽり抜けており、再度更新しました。。。

 真白に染まった、世界。

 ところどころ凍りついたままの、大池。

 薄い氷の下の鯉の動きも、どこか緩慢だ。

 高い陽光に氷柱も煌めき、雫となって滴る、昼下がり。

「若君。仰せつかった通りに、ご用意致しましたよ」

 琲瑠が、いつもの、なんとも困ったような表情で、書院の屋根に現れた主君を迎える。

「ああ、ご苦労、、、」

 短く労うと、雪が除けられ、青い毛氈が敷かれたその上に、ごろりと寝そべった。

 長い群青の髪が、流れる。

 いつも纏っている鴉色の地味な狩衣では無く、その日は、臙脂に染めた着流しであった。

「お寒うございませぬか?熱いおささと火鉢も、お持ち致しましょうか?」

 琲瑠が、胸元も露わな薄着の伯に申し出れば、

「半神体だ。構うなよ、、、」

 いけ、とばかりに手を振られた。

 一礼した琲瑠が、音も無く屋根から舞い降りた。

 彼らに、梯子の用は無いらしい。

 片肘枕で、金銀七宝を散りばめた箱に手を伸ばす。

 螺鈿の花鳥の蓋を空ければ、幾本もの煙管が出てきた。

 吸い口から雁首まで、すべて翡翠のものもあれば、細やかな蓮華の金細工の施されたもの、素材すら分からぬ、武骨な代物まで。

 そのどれもが、目を奪わずにはいられない美しさを兼ね備え ―――、伯の手は、無造作に手前の一本を取り出した。

 それだけは、至ってシンプルな細身の造りで、手の中で白銀の光沢を放っていた。

 懐から、何やら包みを取りだして、慣れた手つきで火皿に詰めたのは、無味無臭の香木 ―――、のようであった。

 異国の煙草盆、薄い硝子の筒の中で、小さな炎が揺れている。

 優しい橙の万華鏡となって、辺りに柔らかい輝きを振りまくその筒を外し、火種から、香木に火を移す。

 ジジ…ジ…ジジ…

 小さな音と共に、馨しい香りが辺りに広がった。

「ふ、、、ぅ、、、」

 一口吸って、細く息を吐き出す。

 青紫の煙が、細く細く、ゆらめきたゆたう。

 陽光と混じって、ときおり煌めきながら。

「ん、、、」

 二口…三口…

 とろりと、伯の眸が潤み始める。

 心地が良いのか、足の爪先が、毛氈をゆるく蹴っている。

 茫洋と彼方を眺めては、ぷかり、とやる。

 仰向けになってまた、ふかり、とやる。

 俯せになったところで、ぷかり、とやる。

 クルルゥ…

 小さく喉を鳴らしながら、伯は、余計な思考から、この時ばかりは解放されるのだった。




≪ あ、汪果様、こちらの花の蜜は? ≫

「左の棚の、、、そう、その瓶に足してちょうだい、蟲姫」

≪ この、、、薄紅色の粒は? ≫

「マギの国で採れる、岩塩よ。それは、こちらに」

 炊事場から、何やら賑やかなやりとりが聞こえてくる。

 月一で頼んでいる品々が届き、汪果が、蟲姫と共に荷を解いているところであった。

≪ この白磁と青磁の瓶子は、土蔵で? ≫

「ええ。それは、大陸の白酒と葡萄酒。蒼奘様も若君も呑まれないけれど、客人がいらしたときに、お出しするものなの」

≪ 蒸留酒、発酵酒、千年古酒から猿酒まで、すでにいろいろありますのに? ≫

「蒼奘様が戻られ、いろいろな方が訪れるようになったから。客人に客神、好みも千差万別。ここを預かる身としても、良い刺激になるのよ」

 しきりと感心する、蟲姫。

 育ち柄、あまり目にした事の無い炊事場で、しかも異国の品々が多いためか、興味も尽きない様子。

 大きな眸をくるくるとさせながら、汪果相手に、質問攻めの真っ最中。

 当の汪果もまんざらではないようで、

「汪果」

 廊下で、しばし中を伺っていた琲瑠が、申し訳なさそうに一声掛けたのは、ひとしきり汪果による荷の説明が終わった後だった。

「ああ、琲瑠、戻りましたのね。どうです、主様のご様子は?」

「おくつろいでおられます。酔神香に龍涎香を加えた、瑞神香。我が君の憂さを、すこしでも晴らせればと、献上しましたる海皇が眷族らも、喜ぶことでございましょう」

「それは良かったわ。今日は、蒼奘様も遅くなって、若様は御母上のところ、お帰りは明日のはず。特に何もないようなら、蟲姫は、このまま夕餉の支度を手伝ってくださる?」

≪ あ、ですが、一度、我が君にお伺いを。不自由なされては、、、 ≫

 今朝方、媒体共々、暇を出されたばかりであったが、離れていると、やはり落ち着かぬらしい。

「ああ、それでしたら。まだしばらくは、お傍に寄れませんよ、蟲姫」

 琲瑠が、汲んできた水を、水甕に溜めながら、首を振った。

≪ どうしてですの? ≫

 童女のように、小首を傾げた蟲姫に、琲瑠が言った一言は、衝撃的なものであった。

「瑞神香は、古き神々すらも蕩かす代物。幽鬼の貴女が一吸いしたものなれば、現世に在る想い共々、一瞬のうちに昇華してしまいます」

≪ ひっ、、、 ≫

 とたんに、身を抱いて凍りついた蟲姫の肩を、

「琲瑠、蟲姫を脅かさないの」

 妹分よろしく、汪果が抱き寄せ、琲瑠を睨む。

 肩を竦めた琲瑠が、申し訳なさそうにぺこりと頭を下げると、

「しかし、汪果。鬼や幽鬼に加え、脆弱なる者や精霊、神気を纏ったものらにも、少なからずその影響があるのは、本当の事でしょう?」

 いつもの困ったような、なんとも言えぬ表情で問うた。

 ― いつもは薄ぼんやりしているのに。若君に事となると、時折、本当に喰えない男になるわね。野狐のお姫さまだけじゃなくて、【ここ】にもいたのを、忘れていたわ、、、 ―

 汪果がくすりと、唇に薄笑みを湛えた。

 琥珀色の鋭い双眸が、【意地悪を】、とばかりに琲瑠を睨んでいる。

 珍しく青ざめている蟲姫を、青い刺青刻まれた手でもって、豊満な胸に抱き寄せながら、

「香には、神気を高め、浄化の作用を強めるものもあるのは事実。若君のように、高位に連なるべくして顕現された存在なれば、生半な香では酔いもしませんでしょう。わたくしたちのような中位精霊とて、吸い込めば、一昼夜目覚めぬかもしれないわ」

「はい。近頃は、浮かないご様子でしたので、一時の慰めになればわたしどもも、嬉しい限りで。何、一刻もすれば、我が君の事、すっかり飽きてお酒をご所望になりますよ」

「ほほほ、そうですとも」

 昇華の恐怖に囚われ震える蟲姫の翡翠の黒髪を撫でつつ、汪果は、屋敷に眷族が増えるのを喜ぶ半面、こうした小さな諍いもまた増えるのかと思い、

 ― 尾長であった頃の方が、気楽だったかしら、、、 ―

 屋敷の一切を取り仕切らせるべく【今】の姿に封じた【相手】の顏を、恨めしく思い浮かべたのだった。




 屋敷の先の辻で、こもり雪の紋を掲げた牛車が止まった。

 牛追い童が、回り込むよりも先に、牛車の中から飛び出したのは、

「ありがと!!またねっ」

 深藍の水干に、大方、祖父に着せられたと思われる熊皮の長衣を合わせた、蓉亜であった。

 道中寒かろうとばかりに、襟巻には山繭で紡がれた絹布が幾重にも巻かれ、小さな顏が埋もれんばかりで窮屈そうだ。

 大きく手を振りながら、幾分溶けかけた雪の往来を、屋敷へと向かって走り出す。

 その手には、祖父と一緒に作った、大きな凧。

 ― 伯と凧挙げしよう ―

 滑る大地も難なく駆け抜け、屋敷の門へと飛び込んだ。

 そのまま、大池へと至る木立に分け入って、

「あれ?」

 いつもの楓に、その姿は無い。

「そっか。さすがにこの雪じゃ、離れか」

 大池を横切って、離れの書院を見上げれば、

 ― ん?なんだか、あそこ、青い煙が、、、伯だ!! ―

 書院の一画、その屋根から立ち昇る煙の下に、見慣れた背中が見えた。

 辺りを見回すが、梯子が無い。

 固い蕾を結んだ、古い木蓮が、生えている。

 ― よし、脅かしちゃおう ―

 凧を置いて、邪魔な上着を脱ぐ。

 ついでに襟巻も取って、庭石を足掛かりに木の枝へ。

 手を掛け、足を掛ける度に、がさがさと木々が揺れるが、

 ― また、寝てる? ―

 青い煙は、同じところから細くたなびいて、伯が気づく様子が無い。

 悪戯な気持ちに火をつけて、屋根へと続く枝から一息に飛び映らんと、

 ― えいっ、、、 ―

 蓉亜は、幹を押したのだった。




 煙りを口腔で燻らせ、細く細く吐き出しながら、

 ― 大海の深みに、漂っているようだ、、、 ―

 伯は、白昼夢に遊んでいた。

 碧く、どこまでも澄んだ、母なるその懐に抱かれているかのように、意識がたゆたっている。

 寄せては返し、右へ左へ、上へ下へ、柔らかな質量を持つ碧き腕に抱かれて、いとも容易くあやされてしまう。

 ― あゝ、憶えている、、、俺は、、、この腕に守られ、愛でられ、歌を、きいていたんだ、、、 ―

 懐かしい、その記憶。

 まだ、生まれ出でる前で視覚は無かったが、それは意識レベルで憶えているものだった。

 今、直面している不安も、芽生えてからと言うもの伯自身を捉え、放さない負の感情も、そこには無い。

 ただ、安らぎと幸福だけが、そこにはあった。

 永遠とも言える【碧きゆらめき】でもあり、

 ― このまま、、、還ってしまおうか、、、 ―

 白昼夢に在っても、その【碧きゆらめき】は、戻ってこいとばかりに、伯に向かって手招きしているようでもあった。

 ― 終われる、のか、、、本当に、、、 ―

 こぽり…こぽ…

 吐息が泡となって、頭上を昇っていった。

 白い丸い光が散開し、碧い波間に、光の紗幕を降ろしては、雲気のようにゆらめいている。

 ゆっくり、ゆっくりと沈みながら、

 ― あいつ、、、昔、俺を、海皇の元へ還そうと術を掛けた事があったが、、、 ―

 琲瑠の事を、ぼんやりと考えた。

 その時は、【先の都守】によって、阻まれたが、、、

 今回の事も、純粋に名乗りを挙げぬ伯の事を考えた、眷族らの提案の一環だったのだろう。

 不思議と、腹が立たなかったのは、何よりもこの安らぎが、偽りではないと伝わってくるからであった。

 琲瑠は、常に、主君にとって最良を望んでいる。

 伯が真に望めば、眷族を裏切ることも、平気でやってのけてしまうだろう。

 こぽぽ…こぽ…こぷ…

 思わず笑みが浮かんで、口元から泡がいくつもいくつも、昇っていった。

 思考が、蕩けていく。

 今まさに、閉ざされんとする視界の端で、白い光に溶けてゆかんとする泡を追いながら、

 ― たまには、、、あいつの意見に乗ってやっても、、、 ―

【いいか】と続き ―――、

「伯っ!!」

 劈くように響く声を、確かに耳に、聞いたのだった。




 蓉亜が屋根に飛び移り、上半身を起こして見たものは、

「ひッ」

 長くうねる群青の髪の先から、透明な雫となって流れ出さんとしている、伯であるべき者なのに、その体がそのまま ―――、【水のように透けた者】だった。

 陽射しに煌めいて、その姿は、神々しいまでの美しさであったが、

「伯っ!!」

 蓉亜の目に映るその姿は、恐怖に足るものであった。

「いやっ、、、嫌だよッ」

 流れだして、消えてしまう。

 降り積もった、雪のように。

 掌で受け止めた、清水のように。

 朝陽を受けた、氷柱のように。

 屋根を濡らす、伯の姿に縋らんとして、

「っ、、、」

 青い煙が立ち昇る煙管に、気がついた。

 ― これっ、、、 ―

 取り上げようと腕を伸ばし ―――、気まぐれな風が、変わった。

 ふわりと流れた、青き煙。

 蓉亜の鼻先、口元へと流れ、

「あ、、、」

 吸い込んだ時には、よろめいていた。

 緩やかな傾斜の屋根の上、後退りながら、小さな人の子の体が崩れて落ちて ―――。




 大きな庭石の上へと落ちてゆく、儚く脆い人の子。

 ― 伯、、、 ―

 意識が暗く沈む寸前に、その名を呼んだのが、最後。

 まっさかさまに ―――、落ちてゆく。

 同時に、煙管が放り投げられた。

「蓉亜ッ!!」

 水を宿していたその身が、急速に彩を纏い、跳ね起きた。

 くらりとする頭を、気力でもって振り払い、考えるよりも先に、屋根を蹴っていた。

「ちっ、、、」

 短い舌打ちと共に、一陣の風となって屋根から飛び降りた後、

「おいっ」

 寸での所で腕に抱き止めた。

 安堵の間も無く、

「起きろ、蓉亜!!」

 その身を、揺さぶる。

 何故、ここにいるのか、問い詰めようとして、

「、、、、、」

 軒先に置かれた、真新しい凧に気がついた。

 伯と遊ぼうと、帰宅を一日、早めたのだろう。

「くそっ、、、」

 やるせなさが、込み上がる。

 蓉亜の体を揺さぶり、何度も何度も名を呼んだ。

「蓉亜っ、蓉亜ッ!!」

 珍しく、声が荒くなる。

「目ぇ覚ませよッ」

 腕の中、ぐったりとしたまま動かない幼い体が、重くなってゆく。

 そのまま、急速に体温が下がってゆく感触に、

「魂魄、か、、、」

 たまらず、胸に掻き抱いた。

 背中を擦りながら、伯は大地を蹴っていた。

 高い築地塀を越えんと舞い上がったところで、

「どうなされましたか?!わ、、、若様?!」

≪ 主様?! ≫

 駆けつけた、琲瑠と蟲姫。

 半神体のまま、蓉亜を腕に、屋敷を後にするその背中を、見送るしかできずにいた。




「今年の龍魚珠の出来は、どうだぇ?」

 金蓮が薫風に弄われて、互いに触れ合っては澄んだ音を奏でる、湖亭。

 女主が、長椅子に寝そべり、藍玉の杯を手にしている。

「粒は上々、質は、そうですねぇ。まずまず、といったところでしょうか、、、」

 向かいでは、円卓に大小様々、色とりどりに煌めく珠を広げる、隻眼の優男の姿。

 一粒一粒、手に取っては、手際良く、並べられたはこに仕分けてゆく。

「二番目にいいものは、橘花龍女に贈れ。三番目は、庚申公主に。四番目は、赤狐の仙洞の女仙らだ。後は、、、誰に乞われたか、、、」

 銀に輝く酒を舐めながら、天狐遙絃は、銀毛で葺かれた耳を立てたり折ったり、思案の様子。

 思い出せないようで、今度は、落ち着かなげに九尾をふわりふわりとやりだした。

 一際大粒で、薄桃色に煌めく珠を摘み上げながら、

「花珠はどうなさいます?また、耳環、簪、首飾りにでも、東天の匠に手配致しましょうか?」

 胡露が、顏を上げた。

「身は一つだ。幾つもいらんよ。そうだな、枕にでも入れておけよ。冷たくて、心地良いやもしれんでな」

「はぁ。では、そのように、、、」

「それと、いくらか抜いて、野狐どもにも分けてやれ。粉にして白粉、飴などは稲荷で遊ぶ子供らへ。風邪など、ひかぬようにな、、、」

「かしこまりました、地仙」

 遙絃のしなやかな手が、円卓に置かれている蒼きデカンタへ伸びた。

 翡翠色に染められた爪先が触れるよりも先に、

「わたしが、、、」

 胡露の手が、取り上げた。

「ん、、、」

 差出された杯に、酒を注ごうとして、

「、、、、、」

「、、、、、」

 二人の動きが、止まった。

 互いに目配せした時には、既に遙絃は杯を置いて、立っていた。

 優美な弧を描く浮橋へと進むその耳に、

「天狐ッ」

 見知った者の声が、聞こえてきた。

 金連を揺らし、その原の向こうから現れた姿に、

「何事だ、弟々。血相を変えて、そなたが結界を破り現れるなど?」

 遙絃が、紺碧の双眸を眇める。

 着流しも珍しいが、現れた姿が、乱れた群青の髪といい、そのまま半神体であることが、そもそも伯らしからぬ様子であった。

 ― む。坊に、何かあったのか、、、 ―

 腕に抱かれ、ぐったりとしている蓉亜を目にした時、遙絃は浮橋を蹴っていた。

 ふわりと、羽衣に風を纏い、伯の元へと急げば、

「頼む。蓉亜を、預かってくれ」

 腕に抱いた蓉亜を、差し出す。

 そっと頬に触れ、そのまま喉へ。

 遙絃の指先が、蓉亜の胸元へと滑り、

「魂が、抜けたか、、、」

 その体を、抱き上げた。

「頼んだ、遙絃、、、」

 踵を返すその肩を、

「若君、、、」

 胡露が掴んでいた。

「放せ」

 伯の声が、低くなる。

 胡露は、首を振った。

 鼻に皺を寄せ、菫色の双眸に朱が滲んだ。

「二度、言わせるな。胡露」

 犬歯を剥いた、伯。

 遙絃への配慮もなく、敵意すら宿した眸であった。

「若君」

 それでも、胡露の手が離れる事は無かった。

 それどころか、乱れた群青の髪に、胡露の手が触れた。

「今のあなたは、冷静さを欠いておられる」

「触るなっ」

「ふ、、、」

 振り払われた手に、薄く笑った胡露。

 伯の貌に顏を近づけ、その鼻先で、くん、と鼻を鳴らした。

「若君、若様ならば大丈夫です。地仙が、その身を預かるのですから。問題は、あなたの方、、、」

「グルィルㇽ、、、」

 低く呻く伯の眼差しを、まっすぐに受け止めながら、その手は肌蹴た襟を正し、

「何を、、、」

「まったく、いつものあなたらしくない、、、」

 甲斐甲斐しく、おかしな方へめくれていた裾を払ってやってから、帯を締め直す。

「酔神香に、羅国、龍涎香、龍脳、黄熟木、、、吸煙向きに調香された【瑞神香】ですね。残り香からすると、若様が、誤って吸い込んでしまわれた?」

「、、、、、」

「魂が抜けるはずです。人の子には、強すぎますから、、、」

 胡露の袖が、振られた。

 その指先に、煌めくものがあった。

「酔い覚ましの良薬です。お飲みください」

「う、、、」

 指の爪程の大きさの、薄桃に輝く珠。

 それを、伯の薄い朱鷺色の唇へ。

 やや強引に飲ませたところで、

「我が君―――っ」

 鈴の音が、屋敷の方から近づいてきた。

 矢車草の花の群れから、浮橋に飛び込んできたのは、すらりとした雌狐。

 首に、小さな鈴をつけている。

「タオフィか、、、」

 遙絃が、欄干に舞い降りたところで、

「ひゃっ、、、よ、蓉亜?!」

 結界の【揺らぎ】を敏感に感じ取ったタオフィが、女主の腕の中を覗き込む。

「我が君っ、蓉亜がどうしてっ、、、どうな、、、っ」

「うろたえるでない、タオフィ」

「でもっ、でもっ、、、」

 いてもたってもいられなくなって、遙絃の膝にすがったところで、

「は、伯!?」

 湖面で、胡露と対峙している伯に、気がついた。

「伯っ、蓉亜、どうしちゃったの?!」

 浮橋から身を乗り出す、タオフィ。

「なんでもない」

 ぶっきらぼうに言って、胡露の傍らから舞い上がった。

 前方の金蓮を伝い、彼方の大地へと向かう背中を見つめていた、遙絃。

 蠱惑的な唇に、意味深な笑みを刷くと、

「胡露、送ってやれ。二人とも、だ」

 蓉亜を腕に、湖亭へと戻りながら、短く命じた。

 その背に、屋敷から駆けつけた数名の侍女らが続く。

「承知致しました、地仙」

 くすり、と小さく笑みを浮かべた、胡露。

 その身が、白き巨狗へと変化すると、

「ひやわぁっ」

 タオフィの首根っこを咥え、伯を追う。

 そのまま先行する伯へ追いついて、着地地点に割り込むや、これまた強引に背に負った。

「―――――ッ」

 何やら、伯の怒号が聞こえた気もしたが、

「お前のお蔭で、伯の、なかなか可愛いところが見れたぇ、蓉亜、、、」

 長椅子にて、膝に寝かせた童の髪を梳きながら、遙絃が嘯いた。

「我が君」

 その傍らに、侍女が一人、膝をついた。

「一星。ここは、いい。それよりも南の外壁、結界の修復を急がせろ。香気が、外界に漏れるのはまずい。都守の屋敷にも、使いを。蟲姫も連れず、翡翠輪も忘れての慌てぶりだ。汪果と琲瑠も、案じておろう」

 そつなく、指示を出す。

 筆頭侍女の一星イーシンが、拱手して応じ、侍女らと共に慌ただしく屋敷へと戻っていった。

「ふ、、、」

 慈愛に満ちた、紺碧の眼差し。

 静寂に、金蓮が触れ合う音が響く中、

「だが伯に、いつまでもあんな顏をさせるでないぞ、蓉亜」

 いたずらな爪先が、陶器のように滑らかな頬を、突くのだった。




「ちょっ、、、胡、胡露様っ」

 首根っこ咥えられたタオフィは、尾を脚の間に挟みこんで、懇願の最中であった。

「うううう、放してくださいっ、、、さっきから、すっごく、こ、怖いんですけどぉッ」

「、、、、、」

「胡露さまぁああっ」

 白き巨狗の疾駆は、止まらない。

 首根っこを咥えられたと思ったら、茂みにしたたか顏は打たれ、時に高く跳躍し、左に振られたと思えば、右に曲がった。

「ひぃいいんんんっ」 

 滲んだ涙が、吹きつける風に乱暴に拭われる中、

「泣くな」

「は、、、伯ぅ、、、っ」

 頭上から、聞き慣れた声が掛かった。

 しかし、上を見上げようにも、胡露の鼻先が見えるくらいで、

「うっ、、、いたっ、、、」

 舞い上がり、掠める花びらに、目を閉じるしかできない。

 すんすん、と鼻を啜りながら、

「伯ぅ、じゃ、教えてよぉ。蓉亜、どうしたの?」

 先程、胡露に体当たりを食らわされ、そのまま背中をつかんでいるであろう伯に問えば、

「、、、魂が抜けた」

 苛立たしげな響きを帯びた、しかし、呻き声にも似た返事が、返ってきた。

「えええっ!!どうして、どうして、そんなことに!?」

「知らねぇよ」

「だ、、、大丈夫なの、蓉亜?」

 恐る恐る聞き返せば、

「だから、冥府に探しに行くんだろうが、、、」

 忌々しいとばかりの舌打ちだ。

 とっさにタオフィは、

「あ、、、あたしも行くんだから!!」

 そう、叫んでいた。

 ― 今の伯、怖いっ、、、でもッ ―

「あたしも、蓉亜を迎えに行くっ」

 タオフィは、そう言い放った。

 風が、身を切るような冷たさに変わった。

 辺りが暗くなった気配を、瞼の向こうに感じる。

 大地を捉えているはずの胡露の足音に、水の音が混じり始め、肌を舐める大気は湿気を帯びた。

 しばらくの沈黙の後、

「、、、野狐の姿でか?」

 呆れたような、伯の声。

 ようやく、いつもの伯の声の調子に戻って、内心ほっとしながら、

「着物っ、、、そりゃ、まだ、、、神通力で紡げないけど、、、。でも、伯一人より、狐のあたしでも一緒の方が、いろいろと役に立つかもしれないじゃない」

 いつものように、強がってみせた。

 もうひと押ししてやろう、と口を開こうとして、

「着きましたよ」

「へ、、、?」

 タオフィは、大地に降ろされる感触に、目を開けた。

「あ、、、墨依湿原?」

 四方は霧に阻まれ、闇色の水を湛えた大地には、青白いかつての巨木が、化石となって横たわっている。

 その巨木らの影が、ゆらゆらと霧の向こうから現れたり消えたりを繰り返す。

 昼でもなお薄暗い、陰気極まりない場所であった。

「ここは、以前、地仙が【呼び水】によって繋げた墨依湿原との結界です。繋げ易くするため、似せてありますが、別次元。若君がお出になられた後、閉じなければなりませんので、わたしはここまでです」

「ふん、、、」

 伯が、袖を広げ、巨木から舞い降りた。

 パシャン…

 踝の辺りで、水が跳ねた。

 着流しの裾が濡れようがお構い無しに、霧の奥へと向かう背中に、

「待ってよっ」

 タオフィが続く。

 ぐっしょりと脚を濡らしながら、懸命に追う健気な姿を、銀恢の隻眼で見送りながら、

「若君、後程、お迎えに参りましょうか?」

 既に霧の向こうへと溶けた人影に、問いかけた。

 答えは、予想通り、至極短いものだった。

 霧の中から響いてきたのは、不機嫌このうえない喉鳴りと、

「いらんッ」

 いつもの如くどこまでも情ない、伯の言葉。




 白い世界だった。

 どこまでも広く、どこまでも白く。

 漂う意識には、その白さは眩すぎて、くらくらとする中、足だけが、前へ前と進んでいく。

 ― あれ、、、僕、、、 ―

 希薄な五感。

 まだ、どこか夢見心地にも似て、ぼんやりと辺りを見回せば、白い衣の人影が見えたような…

 ― ここ、、、どこ、、、 ―

 視界が、狭い。

 白く、ひらひらしたものが、視界を遮っている。

 ― じゃ、ま、、、 ―

 払おうとして、気怠い体に、苛立った。

 もどかしさに、腹腔深く、丹田の辺りから、むかむかと湧き上ってくる。

 ― もう、邪魔っ ―

 魂の奥底で生まれた熱が、四肢へと廻る。

 希薄だったはずの感覚が甦り、蓉亜は、顔面を手で払った。

 ひらり…

 白地に黒き墨で丸が描かれた布が、外れる。

「う、、、わっ、、、」

 視界が広がり、眩い光の正体が広がっていた。

「砂、、、空、、、まっしろ、、、」

 すぐ近くの丘陵に、駆け昇る。

「うわっ、、、やっぱり、まっしろっ」

 どこまでも、白い。

 ― 僕、、、異界に、迷い込んじゃったのかな、、、 ―

 幼い頃よりの見鬼の性で、下級神霊や子鬼と遊ぶうちに、かれらの棲家へ踏み込んでしまった事を思い出した。

 その都度、父や伯らが、連れ戻しに来てくれたのだが、【ここ】は、そのどこよりも広かった。

「あっ、、、」

 風紋刻まれた、砂海。

 大小様々の丘陵の頂きや合間、その先に広がる平野部に、いくつかの人影が見えた。

 弾かれたように、蓉亜は駆け出していた。

 一番近くに見える、人影に向かって、砂が口に入るのも構わず、走る。

 足をとられながらも、砂の壁に齧りつき、這うようにして登っては、足の裏に細やかな粒子を感じながら滑り下りた。

 この山を登れば、と顏を出した時、

「あ、、、あれれ、、、?」

 人影の姿は無く、見渡せば、そのずっと先を歩いていた。

「どうしよ、、、」

 砂の山の上で、腰を下ろす。

 いろんな事を思い出さなきゃならないのに、ぼんやりとする。

 夢路にも似て、いつかは覚めてくれるといいのだが、ここは、薄暗い夢路に比べると、明るすぎた。

「はぅ、、、」

 溜息に、華奢な背中が、さらに小さくなって、

「お困りですかな?」

「!!」

 しゃがれ声に、背筋が伸びた。

 振り向けば、

「ほほほ、、、」

 白髭白髪の好々爺然とした老人が、忽然と立っていた。

 白い世界の中で、柿色の小袖に闇色の長衣、紫紺の帯を締め、鶸色の名も知らぬ獣の肩掛けが、鮮やかだった。

 一度は身を強張らせた蓉亜だったが、

「、、、、、」

 好々爺の顏を覗き込むと、一変。

「、、、うん。僕ね、とっても困っているんだ。おじいちゃん」

 再び、弱い溜息だ。

「ここって、どこなの、、、?」

 安心してしまったのか、とたんに滲みそうになる、視界。

 袖で目元を擦りながら問えば、

「そうですなぁ、まだ、坊やには【縁無いところ】、とでも申しましょうか、、、」

「えんない?」

「ええ。少しばかり、都で、手違いがあったようですなぁ。間も無く、迎えも参りましょう。こちらへどうぞ、、、」

「でも、、、あんまり深い方にはいっちゃだめだって、父上が、、、」

 そんな言葉が、口を突いてでた。

 好々爺が、大きく大きく、頷いた。

「お父上の言う通り。しかし、ここはそれなりに危険でございましてな。この砂海に呑まれでもしたらと、皇子も案じておりますれば、その庇護届く傍らにて待つのが、一番かと、、、」

「皇子、だれ、、、?」

「おや。一度、お会いになっているはずですが。永遠の黄昏刻の中、龍脈の上にて、、、」

「なんだか難しくて、ぜんぜん分かんないよ」

 むっとして、ふくれた蓉亜。

 好々爺は、皺深い手を、差し出した。

「なおのこと、お会いになる方が、早い、、、」

 にこにことする、素性の知れぬ、その相手。

 しかし、

「ここにいても、仕方ないし、、、」

 蓉亜は、あっさりと、その手を取った。

 好々爺に手を引かれ、立ち上がった時、

 オォオオ…オォオオ…

「いいっ!?」

 すぐ傍らで、砂が巻き上がった。

 目を閉じ、再び開けた時、

「魚!?」

 広げられた巨大な鰭と、背鰭、尾鰭が見えた。

「彼に、乗せてもらいます」

「乗れるの?!」

「はい。足元、気をつけてくださいね」

 ごつごつとした鱗に足を駆け、鰓蓋の上にできている窪みへ、座る。

 蓉亜の背を支えるようにして腕を回し、傍らに立つ、好々爺。

 クォォオ…―――ン…

「ひっ!!」

 両側の鰓部分から、砂が巻き上がった。

 びくりと身を震わせる蓉亜に、

「正面から見ますと、怖がるだろうからと、横を向いたようです。結果、砂をかけてしまって申し訳ないと言っております」

 好々爺が通訳。

 蓉亜は身を乗り出すと、大きな黒瞳で屍魚の顏を覗き込んだ。

「あ、大丈夫だよ。僕、いろんなものを視るから、慣れてるもの。えっと、、、」

「彼の名は、Gregory・Luis・Himenes・De・Vargas」

「ぐ、れごり、リス、、、?」

「グレゴリ、と、、、」

 好々爺に頷くと、蓉亜は、屍魚の落ち窪んだ眼窩を覗き込む。

「グレゴリさん、僕、蓉亜。乗せてくれて、ありがとう」

 ざらつく肌を擦れば、鮮やかなアイスブルーの双眸を眇め、

 コォォオオ…

 左右に体を揺らして応じた。

 ゆっくりと、それでいて、砂海を滑るように泳ぐ、屍魚。

 その背中で、

「おじいちゃんにも、挨拶してないや。僕、蓉亜って言うんだ。耶紫呂蓉亜。おじいちゃんは?」

 傍らの好々爺に問えば、白髭を扱きながら、にこにこ。

「蛮器翁と、、、」

「、、、うー、難しい名前だね、おじいちゃん」

「ほほほ。それより、蓉亜坊ちゃんに、一つ聞きたい事が、、、」

「なぁに?」

 余にも珍しい白い風景が広がる中、供を得て安心したことで、好奇心に突き動かされ始めた蓉亜が、辺りをきょろきょろ。

 その横顔を、懐かしく見つめながら、

「何故、父上が、深い方に行ってはだめだと仰ったのに、この手を取ったのですかな?」

 少々、意地悪な問いをした。

「え、、、?」

 振り向いた蓉亜の表情は、心底、驚いているようだった。

 ― 警戒心が皆無では、見鬼として生きる、この先は、、、 ―

 それは、蛮器翁が案じ、多少はその警戒心を、蓉亜に植え付けんとした時であった。

「だって、【同じ】だから、、、」

「む、、、なんですと?」

「僕の剣術のお師匠さんと、同じ色だもん」

 これには、蛮器翁が加齢で重く下がった瞼の下の眸を、見開いた。

 ― 成程、耶紫呂殿の御子息。直観力の凄まじさや、、、 ―

 内心舌を巻きつつ、蛮器翁は、長い爪の先で、頬の辺りを掻いた。

 年甲斐もなく、こそばゆい気持ちになっていた。

「わっ、、、あそこ、おっきな鏡みたい。ここには水もあるんだね、グレゴリッ」

 蓉亜が、指をさした。

 言葉通り、鏡面のように凪いだそこには、白い空が映り、その上を滑るような歩みで、人影がいくつも渡っていた。

「ね、おじいちゃん、あの人達もグレゴリに乗せてあげようよ」

「あ、、、いえ、それはできないのです」

「どうして?」

「なんと言いますかな。還るところが違うとでも、申しましょうか、、、」

「おうちが無いの?」

 蛮器翁は、首を振った。

 そして、

「彼らは旅人、旅の途中なのですよ。あなたさまは、違いましょう?」

「うん。違う。僕、暗くなる前には、帰らないといけないもん」

「ええ。今は迷子のご様子。さ、彼に、しっかり掴まってくださいね。さ、グレゴリ、頼みます」

 オォウェエ…エ…アア…

 アイスブルーの眸を持つ屍魚グレゴリが、大きく口を開け、砂を吸い込んだ。

 次の瞬間、鰓蓋が開き

「うわぁああっ」

「ほほほ」 

 砂が吐き出されると同時に、グレゴリが舞い上がる。

 みるみる地上が遠ざかり、いっこうに降りる気配が無い。

 大きく背鰭を羽ばたかせ、旋回したかと思えば、不意に、体がくるりとさかしまになった。

「えっ、、、」

 白い大地と空の間に、一瞬だけだったが、巨大な黒き龍のようなものが、互いに身をくねらせ、牙を穿ちあい、行き来しているのが見えた気がした。

 その光景も、細やかな霧状の砂によってかき消されてしまったが、

「お空、だよね、、、」

 蓉亜は、宙を滑空し、滑らかに舞い降りたグレゴリの上で、呟いた。

 目にも鮮やかな、青き花弁が降り注ぐ中、頭上を見上げるが、地上であったはずのそこは、そのまま白き空となっていた。

「双冥皇の御膝元、深淵御苑の淵に程近い、青き花園でございます」

 空であって、今は地上となった場所。

 蓉亜の視界は、噎せ返る程の青さに満ちていた。

 香りは無いが、彼方まで広がっているのか、青さに圧倒される。

 いつか、天狐遙絃の屋敷で目にした青さとも似ていたが、香りや、紫がかった色の違いは、すぐに分かった。

「、、、、、」

 グレゴリの背で、目をしばたかせる、蓉亜。

 青き世界の中、白き光が揺れた。

「それでは、お茶の支度をしてまいります」

 一足先に、蛮器翁が、大地に降り立った。

 蓉亜の視線は、こちらへ近づく、白くもあり、金色でもある光に、釘づけだ。

 光は、グレゴリのすぐ傍らまで来ると、

「また、会ったな、、、」

「あっ」

 蓉亜もよく見知った姿で、けれど異質な雰囲気を纏う者となったのであった。




「伯って、時々乱暴、、、」

「うるせぇよ」

 墨依湿原の霧の中。

 無造作に伯が剥したのは、【次元の壁】とでも言うべき、現世と幽世の境界であったものだった。

 両手を広げたと思えば、この世の真理に乞いもせず、祝詞すら発さず、タオフィの言葉通り、力づくで抉じ開けたのだった。

 すぐに自己修復を始めんとする、その境に飛び込んだ時、

 ガガッ…ゴウォ―――ンッ…

「ひきゃぁっ」

「お、、、っ」

 突然の轟音に、タオフィは耳を折って、伯の懐に飛び込んでいた。

 白い世界、幽世は無限坂。

 延々と続く、急勾配の砂の坂。

 外部からの侵入者に、防衛機構が働いて、突如、稲妻が奔ったのだが、

「遅い、、、」

 伯の頭上に掲げられた右手には、光るものがあった。

 それどころか、辺りに光を、放ち続けている。

 ゴゴ…バリッ…バリリッ…

 火花を散らし、頭上の霧状の砂雲から放たれた、うねる紫電であった。

 ガガガッ…

 もう一筋の閃光が、放たれた。

 伯へと向かって。

 迸る閃光の中に在って、菫色の双眸が、見開かれる。

 朱鷺色の薄い唇が開き、犬歯が覗くと、

 きゅるるるあああーーーッ

 奇声を上げて、迫り出したものがいた。

 透明の大蛇が空中で大口を開くと、そっくり呑み込んでしまったのだった。

 ギギュル…ギュルㇽ…

 腹の中で蠢く紫電をよそに、げぷっ、とばかりに息を吐き出した透明な大蛇【蛟】。

 それらが、うぞうぞと群れを成して、伯の口から零れ落ちてゆく。

 大小様々な大蛇らは、互いに融合と分裂を繰り返しながら、伯に向かって落ちんとする紫電を呑み込み、喰らってゆくのだ。

 手にしたままの紫電を、腕に絡みついた蛟に任せ、

「てめ、タオフィっ、さっさと出、、、」

 懐に潜り込んだままの野狐の華奢な背中を、掴む。

 引きずり出そうとして、

「チッ、、、、、」

 やめたのは、ぶるぶると震えていたせいだった。

 紫電を、蛟らに任せ、伯は無限坂を降りはじめた。

 こんなことでもなければ、訪れる事も無い場所であり、

「、、、、、」

 独り、地上に残されたような気持になった時は、逃げ込みたくもなった場所でもあった。

 草履の裏に感じる、細やかな砂海の粒子。

 無限坂を滑り下りながら、伯の双眸は、辺りを忙しなく見回していた。

 ― 蓉亜。流砂にでも呑み込まれていたら、、、 ―

 表情にこそ出さぬが、血の気が下がってゆく思いであった。

 眼下に広がる、大砂海。

 その気配を探りつつ、目を凝らし、

「来たか、、、」

 伯は、跳躍していた。

 オオゥァオオ…―――ン…

 それまで、伯がいたところが、凹んだ。

 代わりに現れたのは、巨大な咢であり、落ち窪んだ眼窩の向こうで、禍々しい赤光が湛えられていた。

 ゥオオオ…オォン…

 鰓蓋から、砂を吐き出し、辺りに砂塵の煙幕が張られた時、

 グルォオ…ン

 オォオオ…

 もう一匹の屍魚の気配と共に、左右前後上下が迫り出して、

「止まれ」

 伯を呑み込まんとしたところで、静止。

 突き出した両の手に、握られているものがあった。

 屍魚の眼前に突きつけられているのは、伯にしては珍しく、赤い【氷鉄】であった。

 水氣から錬成する【氷鉄】は通常、氷河の青さを宿すのだが、今、二匹の屍魚の眼球を抉らんと向けられているものは、血の色をしていた。

 伯の菫色の双眸が、不機嫌この上無く、眇められる。

 第一棘も、一際立派な屍魚、

「遊んでいる暇はないぞ、壱岐媛」

 壱岐媛を睥睨すると、伯はさらに切先を突き出した。

 フォォオ…

 ォォン…

 短い声を挙げながら、二匹が後退ってようやく、伯は両の手を払い、袖にしまった。

「伯、、、」

 懐から、小さな声が、聞こえた。

 胸元から、いつの間にかタオフィが顏を出して、

「怪我、してる、、、」

 鼻をひくひくとさせた。

「掠っただけだ。すぐに塞がる。それより、壱岐ひ ―――、何をする、タオフィ」

 タオフィの手が、右手の二の腕を掴んでいた。

 見せろと言わんばかりに、

 ウゥウー…

 不穏な喉鳴りだ。

 仕方なく、肘を曲げれば、タオフィが掌を覗き込んだ。

「さっきの、雷、、、」

 焼け爛れた掌から滲んだ血潮が、ぽたぽた、と白い砂に吸われてゆく。

 ― 伯なら、あれくらいの雷、絶対、避けられるのに。なのに、あたしを庇って、、、。なんで、野狐の姿できちゃったんだろ。これじゃ、何にもできないじゃない、、、 ―

 突然、遙絃の命令で、胡露に咥えられたとは言え、情けない話であった。

 タオフィはまだ、神通力で【着衣】を紡ぐ術を知らないのだった。

 獣体であることに、もどかしさを感じながら、爪を立てないように、伯の手を懐へ引き込む。

 伯はと言うと、壱岐媛の額の辺りを掴み、その赤々とした大きな眸を覗き込んでいた。

「いつもは三人で行動している【冥府の守】が、一人だけ足りないが、、、」

 ……

「俺に、【何か】を隠しているつもりだな」

 ……

 無言で、伯を見つめる、壱岐媛。

 もう一匹は、落ち着きなげに辺りを泳ぎ回っている。

 伯の黎明に澄んだ菫色の双眸に、朱が、滲み始めていた。

「大方、時間稼ぎをしろとでも、言われたか?」

 ……

 これには、壱岐媛の視線が泳いだ。

 嘘は、つけない性質らしい。

「見失ったのなら、ここには蛮器翁が来たはずだ。そうでないのな、、、」

 能面のような表情で、声だけが、低く響き始めて、

「ひぐッ」

 突如、伯が、素っ頓狂な声を上げて、仰け反った。

 そのまま、後ろにひっくり返りそうになるのを、辛うじて堪え、

「タオフィッ」

 群青の髪を逆立てつつ、懐から右手を引き抜いた。

「んんー、あたしのことなんて、気にしないで。続けて、伯」

 傷口を舐めていたタオフィが、口の周りをしきりと舐めながら、再び、手を寄越せと腕を伸ばす。

「な、なにを、、、」

 右手が開いたまま、震えている。

 言葉以上に動揺している様子で、頬を引き攣らせつつ睨めば、

「もっと、自分を大切にして欲しいのっ」

「ああ?」

「だって、今日の伯、捨て身なんだもん。そんなの、蓉亜は望まないよっ」

「、、、、、」

 負けじと、琥珀色の眸で、睨む。

 両者、一歩も引かずの睨み合いの末、

「、、、出ろ」

「あぁあんっ」

 伯の逆鱗に触れたタオフィが、首根っこを掴まれ、引きずり出された。

「毛の奥まで、砂が入っちゃうじゃなーい」

 ぶるぶると体を震わせるのも無視して、右手を腰の後ろで拭いつつ、

「保護したのだろう?【あいつ】は、今、どこにいる?」

 そろそろと、伯から距離を取ろうとしていた壱岐媛だったが、

 クォオ…ン…

 身を強張らせて、静止。

 地面を気にしている様子に、伯の薄い唇が、吊り上がる。

「ああ、気づいたか?今し方、大地に吸わせた俺の血は、お前達の腹を標的にしている。遊びは、終わったんだよ、、、」

 ……

「答えろ。蓉亜は、どこにいる?」

 ……

 赤い眸が、くるりと動いた。

 空を、見上げている。

 伯が、大きく頷いた。

 それだけで、十分であった。

「ふぎゃっ」

 タオフィを小脇に抱えると、伯はふわりと跳躍。

 細く、息を吐いた。

 壱岐媛の額を一撫でし、第一棘を掴むと、

「向かってくれ、壱岐媛、、、」

 そう、今度は優しく、乞うたのだった。




 蓉亜を膝に、長椅子の肘かけに凭れている。

 柔らかい風が吹き込んで、頬を弄ってゆくのだった。

 蜂蜜色した、豊かな髪。

 俯いているせいで、朱華の簪が抜け落ちそうになって、

「、、、、、」

 寸でのところで、受け取られた。

 見慣れた器用な手が、頬へと垂れた髪を巻き上げ、結い上げる。

「、、、戻ったか、胡露」

「はい。お傍に、地仙」

 見上げた先で微笑むのは、月白の長袍を纏った隻眼の美丈夫、胡露。

「ご苦労だった」

 短く労うと、遙絃は上体を起こした。

「いえ。若様には申し訳ありませんが、若君にかまう口実になりましたので、、、」

 一方胡露は、口元に笑みを湛えつつ、『茶の支度を』と、茶器の乗った銀盆を円卓に乗せる。

「茶よりも、酒にしてくれないかぇ?」

「いけません。若様がおられますから。それよりも、うたたねですか?」

 慣れた手つきで、切子細工も細やかな瓶から取り出したのは、七宝茶。

 花蕾に見立てた丸い茶葉を、温めておいた青磁の蓋碗へ。

 細く湯気を立て、注がれるこぎみよい音を聞きながら、

「蓉亜に誘われて、ついな、、、」

 美しいその九尾を、ふんわりと掛けている童の顏を、見つめる。

 艶やかな黒髪を撫で、微笑む遙絃の前へ、

「そろそろ、探し出せた頃でしょうか、、、」

 蓋碗を置いた。

「どうだろうな。冥府は広い。だが、【あの男】が、手を回さぬはずもない。ならば、懐に隠さぬ限りは、落ち合っている頃だろうな、、、」

 茶葉が、ゆっくりと開く音を愉しみながら、遙絃の手が、蓋を外す。

 金色の中で揺れる、いろとりどりの小さき花々。

 甘き香りが、辺りに立ち込める中、胡露は、盆にこんもりと積まれた仙桃を選びはじめた。

 遙絃が一口飲んだところで、

「ふ、、、」

 黄金色の仙桃を切り分け、差し出しながら、不意に小さく笑った。

「なんだ?」

 やや熱かったのか碗を置くと、二つ、三つと口の中へと放り込む。

「いや、少し、不思議で、、、」

「何の事だ?」

「龍脈の一件といい、此度の考察といい、御二方は、気心の知れた仲のような感が見受けられまして。地仙にしては、珍しいこともあるものだと、、、」

「お互い、天津神共を胡散臭く感じているという点では、同調しているだろうな。その時、その瞬間、利害さえ一致すれば、私は、誰と組もうが構わん。【あの男】も同様だろう」

『妬いたか?』と、紺碧の双眸を眇めたところで、胡露が首を振った。

『次元が違いすぎます』とでも、言っているようだった。

「それより、胡露」

「なんでしょう?」

 銀恢の隻眼が、遙絃を見つめる。

「龍魚の花珠が、酔い覚ましに効くとは、初耳だ」

「ああ、あれですか、、、」

 伯に、強引に呑ませたことを、思い出した。

「そのような効果はありませんよ」

「む、、、」

「人の子の風邪予防にはなるでしょうが、瑞神香の陶酔作用は、そう易々とは抜けません。気力で、振り払われたようにも見えましたが、言動に、若君らしからぬものが見受けられました故、自己暗示の意味も兼ねて、呑ませたのです」

「伯らしからぬ、か、、、」

「ええ。地仙こそ、何故、タオフィを?」

 遙絃は頬杖をついて、彼方の青き山稜に沈む、赤い縞の惑星を眺めた。

 衛星である二つの月が、白々と蒼穹に、浮かんでいる。

「護る者がいる方が、独りの時よりも、強く在れる者もいる。伯が、そうだ、、、」

 遙絃もまた、伯の捨身に気づいた者であった。

 存在意義である【神意】を奪われ、抉じ開けられた世界。

 懸命に、直向きに、それでも伯なりに向き合ってきた過程を、遙絃は知っている。

 視野が広がり、成長の分だけ募る ―――、やるせなさ。

 時として現れる、その【感情】が齎す自傷行為にも似た行動を憂い、遙絃はタオフィを供に連れていかせたのだった。

「自身でも、それに気づきはじめているだろう。【暁】は、もうすぐそこなのかもしれないな」

「【暁】、、、」

 遙絃が口にしたところの【それ】が、具体的に何であるのか、胡露には漠然としたものでしか分からなかったが、意味する事は、容易に理解する事ができた。

 胡露の言葉に置き換えるのならば、それ即ち、

 ― 【悟り】、、、 ―

 であった。

 千切れ雲の向こうから、番いの麒麟が現れて、金銀の軌跡を残していった。

 金蓮の合間を縫うように胡蝶らは舞い、やわらかな風と共に、湖亭を通り抜けてゆく。

 花野原では、白き獅子の子が遊び、極彩色の金糸雀が囀っている。

 穏やかな時間であった。

 膝の蓉亜に配慮しながら、遙絃は軽く伸び。

「んー、、、蓉亜にも、淹れてやってくれ。そろそろ、眼が覚めるだろう、、、」

「それが、遙絃、、、」

 胡露が、蓉亜の顏を覗き込んで、

「若様の口元から、異国の紅茶と甘いお菓子の香りがしています」

 そう、苦笑した。




 壱岐媛が中空を滑空し、霧雲の先へ。

 さかしまの大地の上空から、青き花園が見えてすぐの事だった。

「、、、、、」

「ちょ、、、ちょっと、伯。ここ、風伯様達、いないんだよ?あたし、羽衣もってないし、、、ねぇ、ほ、本気じゃな、、、いいッ、、、いやぁぁああっ!!」

 壱岐媛が下降するのも待たずに、伯は、着流しの片袖を広げた。

 宙に浮く感覚と同時に、タオフィは目を瞑り、屍魚の背中から飛び降りた伯の体は、群青の髪にしたたか頬を打たれながら落下を始めた。

 咲き群れる【青】き大地が、みるみる近づくその最中、伯の朱鷺色の唇が、【紡ぐ】。

 ― 来い ―

 と。




「んんーっ、おじいちゃん。この赤いお茶、すごくおいしいねっ」

 蓉亜も見たことの無い、ぽってりとした形の陶器製の茶器ぽっとから注がれた、血のように赤い紅茶。

 舌に、ほのかに甘く、香り豊か。

 最初は、恐る恐る唇をつけたが、蓉亜の大きな黒瞳は嘘がつけない様子で、きらきらと輝いた。

 金糸に銀糸、虹色に煌めく糸によって織紡がれた、厚手の絨毯。

 細やかな唐草模様は、時折風に揺れ、つつましく結んだ可憐な花には、蝶が舞い寄り、鳥はその実を咥えて、こちらの世界へと飛び立ってゆく。

 そこにちょこなんと正座し、蓉亜は、薄い陶器のカップに揺れる、美しいルビーレッドを見つめた。

 温かい飲み物に、一息つく心地であった。

「お菓子もどうぞ、お召し上がりを、、、」

 蒔絵の塗りも見事な器。

 蓋を、皺深い手が取り去ると、これまた宝玉のような菓子が現れた。

 ひとつ、抓み上げた。

 薄紫の欠片に、透明な飴の糖衣が纏わせたものだった。

 口に入れれば、ほんのりと甘く、噛めば、ぱりぱりと弾けて舌に、えも言われぬ香りを残す。

「これ、、、花びら?」

 顏を上げた時、そこに好々爺の姿は無かった。

「そうだ」

 代わりに、声は、すぐ傍らで聞こえてきた。

 脇息に凭れ、片膝を立てたもの憂げな姿で、蓉亜を見つめながら、

「もう少し、食べるといい。地上のものは、希薄になった魂魄と器の結び目を、安定させる、、、」

 蒼奘に良く似た男が、そう促した。

 指先が、蓉亜の黒髪で遊んでいる。

「なんだか、透明でキレイだから、食べちゃうのがもったいないなぁ」

 しげしげと菓子箱の中を見つめる、蓉亜。

 きらきらと輝く様は、金銀七宝、宝石のようだ。

「伯も、その菓子が好きだった、、、」

「お菓子食べてるとこ、あんまり見ないけど、僕、知っているんだ。時々、甘い匂いがするんだもの。隠してるけど、お菓子、好きなんだよね」

 思い出してくすくす笑えば、その鼻先を、香りに誘われた胡蝶がかすめて飛んでいった。

 ひら…ひらり…

 不思議な絨毯から迷い出た、蝶。

 そのまま、高く高く舞い上がろうとして、

「あっ」

 強い風が、巻いた。

「花嵐を、喚んだか、、、」

 銀の髪を風に靡かせ、金色の双眸が見つめる先に、青き竜巻。

 巻き上がる青き花弁が、天地を繋ぎ、

「あれが、花嵐?」

 白い世界に、青き花道。

 すぐに風がおさまれば、花弁が、はらはらと、と辺りに降り注ぐ。

 花嵐に導かれ、青き花園に、ゆらりと降り立ったのは、

「、、、、、」

 翡翠の角、群青の髪を背に流した、菫鳳眼が主。

 と、

 クキュゥ…

 へなへなと、腰を抜かした野狐であった。




「わぁっ、伯!!」

 蓉亜が、駆け出した。

 青い花野原の中、蓉亜が伯に抱きつく。

「、、、、、」

 伯の手が、蓉亜の頭に置かれ、耳から頬へ。

 蓉亜は、そのぬくもりがくすぐったくて、くすくす笑いながら、伯の細腰に腕を回す。

 伯を見上げ、

「どこから来たの?全然、分からなか、、、むぎゅっ」

「、、、、、」

 頬を、抓まれた。

 乱れた群青の髪も、そのまま、

「い、、、痛たいよっ、伯ッ」

 もう一方の手も、蓉亜の頬を擦り、今度は掌を押し付けてくる。

「むにゅっ、、、もむみゅーッ」

 ひとしきり感触を確かめたところで、今度は抱き上げられて、

「ちょ、何?」

「、、、、、」

 伯が、蓉亜の胸に耳を押し付ける。

 そして、ゆっくりと降ろすと、

「、、、蓉亜」

 ようやく、小さく名前を呼んだ。

 ― あ、、、笑った? ―

 蓉亜だけが分かる、安堵の表情。

 一見、能面のようだが、その菫色の双眸は雄弁で、どこまでも優しく、満天を染める暁刻が黎明の如く、澄み渡るのだった。

「伯、、、」

 どれほど心配していたのか、蓉亜は知る由もなかったが、それでも、こんな表情をさせてしまうと、なんだかとても悪いことをしてしまったような気分になるのだった。

「な、んだか、、、ごめ」

 蓉亜が、そう口を開こうとして、

「すまん、、、」

 伯が、遮った。

「俺が、悪かった。配慮が、足りなかった。お前を、こんなところまで、、、」

 伯の手は、蓉亜の肩に置かれたままだった。

 痛いほどの力、であった。

 伯が来てくれて、すごく嬉しいはずなのに、胸中は複雑だった。

「ううん。いいんだ。僕こそ、よく憶えてないんだけど、きっと、、、」

 それでも、言葉にしないといけない気がして、

「きっとね、伯に、いつもみたいに悪戯しようとしたんだよ。だから、その、、、いつもいつも、そのね、感謝、してるんだよ」

「、、、う」

 言葉にすれば、伯は少し驚いた様子で、びくりとした。

 突然の蓉亜の予期せぬ言葉に、狼狽えたのかもしれない。

 しばしあって、

「ん」

 伯は、蓉亜の肩を掴んでいた手で、その頭を、蒼奘がするようにぐしゃぐしゃと撫でた。

「でもさ、伯、なんで僕のほっぺた抓ったの?痛かったんだからね」

 伯の手の下で、蓉亜の頬が、ぷっくりと膨れた。

「伯は、あなたが本物かどうか、確かめたのよ。蓉亜」

 小さな鈴の音と共に、タオフィが頭を振り振り、蓉亜を見上げていた。

「タオフィっ」

 蓉亜の手が、野狐を抱き上げた。

 腕に抱いたところで、

「茶が、冷めるぞ、、、」

 聞き慣れた声が、掛かった。

「っ、、、」

 弾かれたように、硬直した伯を余所に、

「あ、うん」

「白銀の君、お久しぶりでございます」

 蓉亜とタオフィは、絨毯へ。

「野狐、相変わらず、世話を掛けているようだな、、、」

「いえ、いいえっ!!今も昔も、好きで押しかけているだけなので、そんな事は、これからもずーとっ、無いですからっ」

 恐縮するタオフィに、

「調度、間に合ったようでございますな。茶器の用意をしてまいりました。遥々と、ようこそおいでくださいましたな。さ、お嬢様も、おあがりくださいませ」

 どこから現れたのか、蛮器翁が、タオフィの前に茶を差出した。

「あのね、タオフィ。これ、すごく、おいしいんだよ」

「ふわぁあ、透けてて、とっても綺麗ね。どれどれ、、、って、食べさせてよ、蓉亜」

「なんで、今日は狐なの?タオフィ」

「うっ、、、ここに来るまで、あたしもいろいろあったのっ」

 蓉亜の姿に緊張が解けたのか、タオフィも顏を突き合わせて、いつもの調子。

 蛮器翁が、立ち尽くしたままの伯の姿に会釈した時、闇色の冥衣の袖が、舞った。

 伯の傍らまで来ると、

「一息つかせる時間は、必要だ、、、」

「、、、、、」

 そう言って、歩き出した。

 かつては見慣れ、それでいて、今はどこか遠くに感じる背中。

 その背に続き、青い花園を歩きだして、

「伯?」

 蓉亜の声を聞いた。

「タオフィとそこにいろ、蓉亜。すぐに戻る」

 短く言えば、

「うん。いってらっしゃい」

「お茶してまーす」

 蓉亜は、大きく手を、タオフィは、ふさふさの尾を左右に振ってみせるのだった。




 青き花の彼方。

 黒い闇の淵が、広がっている。

 浮島のようなものも見えるが、そこへ至る橋も無く、果てもなく、底も無い。

 見通せぬ闇が、蟠っているのだ。

 その淵に、立っている。

「冥府の御苑淵だ。かつて、冥官となった蒼奘が詰めていた、鬼灯録が収められている書庫も、この中だ、、、」

「、、、、、」

 吸い込まれそうな、深い闇であった。

「【神苑】へと至る、【深淵】。中は、龍脈筋よりも複雑に、空間が入組んでいる、、、」

「昏い、、、」

 ぽつりと、覗き込んでいた伯が、そう言った。

 伯自身、ここまで来るのは初めてであった。

 全身が、泡立っていた。

 見通せぬ【闇】を、本能が畏怖している感覚だ。

 平静を装ってみたところで、傍らの男の目は、誤魔化せないだろう。

「ああ。この世界は殺伐として、昏く、乾いている、、、」

 察したのか、男は淵に背を向け、歩き出した。

 青く、どこまでも咲き群れる、名も無き花の園。

 花弁舞う、その中を、男が行く。

 自然、その背に続く、伯。

「、、、、、」

 膝の辺りにあった花々が、いつの間にか胸の辺りにあることには、まだ、気づけずにいるようだった。

 幼く退行した、かつての水干姿。

 見上げた先に、白い髪に、広い背中。

 見失わないように、花々を掻き分け進む。

「無限坂の果てに広がる砂海を、【時化】と呼べば、こちらは【凪】の砂海だ。【ここ】は、それなりに穏やかでな。今となっては帝都の喧噪が、懐かしいものだ、、、、」

 ふと気づけば、声だけが聞こえてきた。

 見回してみたところで、白い空と、青い花々が、世界の全てであった。

「、、、、、」

 姿が見えなくなっただけで、胸の辺りが、そわそわする。

 耳を澄ましてみたところで、世界はどこまでも静かであった。

 溜息が、朱鷺色の唇を突いて出た。

 その名を呼ぼうとして、

「もう少し、上手く隠れたらどうだ、、、?」

 いつか聞いた言葉と当時に、手を掴まれた。

 かりそめの体だろうが、ぬくもりが、あたたかかった。

「あ、、、ぅ、、、」

 話したい事や尋ねたい事が、本当は山ほどあったはずなのに、いざ言葉を探してみたところで ―――、出てこない。

 ― 、、、同じだ。傍にいれば、沈黙の方が心地良くなって、言葉を放棄していた、あの頃と ―

 伯は、手を引いてくれる、その白い背中を見つめながら、

 ― だが、、、 ―

 もう一方の手の拳を、きつく握った。

 それを、胸の前に置いて、

 ― 俺は、【あの時の選択】を、後悔するわけにはいかないんだ ―

 ゆっくりと手を、開いた。

 掌から、小さな、それでいて金色の優しい光が溢れ出す。

 群青の髪は長く、唇に当たる犬歯の感触は、鋭さを増した。

 膝の辺りで揺れる、青き花々。

 視野は広がり、手のぬくもりは無くなっていたが、何よりもその背中が、すぐそこにあった。

 金色の双眸が、こちらを見つめていた。

 青い唇が、ゆっくりと動いたようだった。

「ソルーイ」

「ひぎっ、、、ガっ、、、ぁ」

 それは、【真名】。

 本来ならば伯だけが知り、秘されるべき解放の名。

「あがッ、、、」

 ざわざわと、群青の髪が逆立つ。

 足元に落とされた影は、すでに巨大な影となり、迫り出し、呑み込まんとこちらを窺っている。

 額の吉祥紋が熱く疼きだし、心の臓が肥大しては、気道を圧迫する。

 耳鳴りが、する。

 音は、こえで、祝詞で、歌であった。

『名乗を挙げよ』と、大気が、大地が、世界が、契約を迫るのだ。

「い、、、ぁっ」

 伯の手が、男の腕を掴んだ。

 もう一方の手が、襟の辺りを、掴む。

 群青の髪の下で、細い顎先が見えた。

 髪の間から、朱に染まりきった双眸が、

「い、、、や、いやだッ」

 男を睨み、言い放った。

 拒絶は、言葉は、力を持つ。

「う、、、」

 耳鳴りは消え、足元の影は、元に戻っていた。

 額の疼きは掻き消え、鼓動も落ちつく中、伯の体は、ずるりと力なく崩れ落ち、

「強情な、、、」

 男の腕に、支えられていた。

 呆れているようでもあり、褒めてもいるような、そんな響きを帯びていた。

「いつまでも、幼神ではいられぬ。名乗りを挙げねば、その【かりそめの身】もろとも【滅び】を迎えるぞ。前兆に、気づかぬお前ではあるまい、、、」

 男の腕を、襟を、それでも掴んだまま、

「あ、んたなら、、、」

 伯は、呼吸を整えながら、口を開いた。

「あんたなら、なんとかできるだろ、、、」

「ソ、、、」

「呼ぶなッ!!いやだっ、その名はっ、、、いや、なんだ、、、」

「、、、、、」

 それは、幼子のような仕草であった。

 駄々をこねるように、首を振っている。

 金色の眸が、どこか、ここではない遠くを、眺めた。

「伯。私という存在は異端であるが、万能ではない、、、」

「、、、、、」

「私がしてやれること言えば、名乗り挙げる上での【神送り】と、終わらせるための【神砕き】だ、、、」

 淡々として、腹腔深くに響く声音。

 掴む力が、強まるのを感じながら、

「お前を縛りつけておいて、理不尽だと憤るのならば、お前が私を、【神砕け】ばいい、、、」

 男は、鬱々としたかつての口調そのままで、語りかける。

「【神意】を持たぬ、今のお前ならば、天津神らに咎められることも無い。我が知識が、お前の求める【答え】の足掛かりとなるのならば、この気鬱も終わろう。お前には、選択という権限がある、、、」

「、、、、、」

 俯いたまま、じっとしている、伯。

 その髪に、男の手が触れた。

 そっと、いつかのように梳いてやりながら、

「お前は、どうしたい、、、?」

 いつかと同じ声で、いつかと同じ問いを、繰り返した。

 ずるい、と思ったのかもしれない。

 うまくたなごころに乗せられたものだ、とも。

 そして、漠然と胸に抱くようになった、【答えにも似た願望】にすら、辿りつくように導いたのだろう、とも思った。

 それなのに ―――、それなのに。

 朱鷺色の薄い唇には、薄笑みが、浮かんでいた。

 そう、無意識に。

「ぃ、、、たい、、、」

「うん?」

 そしてそれは、小さな呻きが、

「抗いたいんだ」

 意志へと、変わった瞬間であった。

 ― 抗う。そうだ、、、 ―

 伯の四肢に、力が漲るり、体の異変は、収まっていた。

 男の襟と腕を放すと、二三歩き、

「どこまでも、だ」

 深く、乾いた大気を吸い込む。

 そのまま、大きく伸びをした。

 先程まで、朱に染まっていた眸は、今、黎明を宿して澄み渡っていた。

 ― 決められて、堪るかよ。この気持ち、あんたなら、、、 ―

【答えにも似た願望】は、伝わっただろうか?

 口に出せば、【大いなる存在】の妨害に遭うやもしれぬ、【不遜な願望】。

「、、、そうか」

 否定でも、肯定でも無い。

 男の言葉はそれだけで、しかし、伯にとっては充分であった。

 男の手が、伸びた。

 振り向くよりも先に、頬に手が触れ、髪を背中でまとめられた。

 無数の青い花弁が、その手元で、くるくると回っていた。

 一つ一つから細い糸が伸びていて、それによって紡がれた綾紐が、男の手によって繊細な編み込みを、その青さでもって彩ってゆく。

 こちらを見ようとする伯を、

「前を向いていろ、、、」

「うー」

 制した。

 普段から、髪に触れられることを避けている伯にしたら、珍しい事であった。

 群青に、鮮やかな青き花紋。

 所々に煌めくのは、その雫であった。

 ― 前を、向いて、、、 ―

 伯が、その言葉を反芻していると、男の手が、背中を押した。

「お、、、」

 歩き出した伯の傍らで、

「伯よ。ひとつ、頼まれてくれるか?」

 男が、言った。

「燕倪の元に、近々、文が届くだろう、、、」

「文、、、誰からだ?」

「届けば、分かることだ、、、」

 青い花園の前方。

 三匹の屍魚の巨躯と、見慣れた背中が、見えた。

「蓉亜、、、」

 タオフィ、蛮器翁と談笑しているのか、愉しげな笑声が、聞こえてきた。

 自然、速足になる、華奢な背中。

 冥衣の腕を組んだ男は目を眇め、少し笑ったようだった。

「近いうちに、また逢おう。伯、、、」

「、、、、、」

 その言葉に、伯が振り返った時には、既に姿は無く、青い大地が、どこまでも広がっているだけで、

「あーっ、伯!!おかえりなさいっ」

 伯に、一番に気がついた蓉亜が駆け寄ってくるまでのしばしの間、菫色の眼差しは、青い花園のあちらこちらを、彷徨わずにはいられなかったのだった。




 白い坂が、どこまでも続いていた。

 三匹の屍魚が、顏を突き合わせるその先に、

「蓉亜、俺達がついて行けるのは、ここまでだ」

「いい、蓉亜?ここからは、一人でいかなきゃ」

 伯とタオフィ。

「うん。分かった」

 二人を前に頷くのが、蓉亜。

「まっすぐ」

「ああ、まっすぐだ。後は、お前の魂が、現世へと導くだろう。振り向かず、前だけを見て歩け」

「うん。ふりむかない」

「よし。俺達は、お前のその先にいるから」

「蓉亜、しっかりね」

 歩き出した、華奢な背中。

 砂に、足を取られながらも、白い砂雲が行き交う、その先へ。

「伯」

 ふいに、蓉亜の声が掛かった。

「振り向くな、蓉亜。見届けるまで、俺は、ここにいるからな」

 懐手で佇む、伯。

 傍らで、見上げたタオフィは、その能面のような表情に、

 ― ホント、こーゆーとこ、伯ったら気づいてないんだろうけど、さらって優しいこと言っちゃうんだから、、、 ―

 いつだって、蓉亜への優しさを見つけてしまうのだった。

「えっとね、その髪なんだけど」

 時折、砂に手をつきながらも、登る。

 伯は、その体が徐々に、白い魂魄体へと変わってゆくのを見守りながら、

「かっこいいねっ」

「ッ」

 蓉亜の思わぬ言葉に、片眉を跳ね上げた。

 白い光となった蓉亜が、ふわりと舞い上がり、砂雲や砂霧の切れ間に垣間見えながらも、高く高く昇ってゆくのを、共に見送ったタオフィが、

「なーに、今更、言ってんだか、、、」

 自慢の尾を、伯の足に巻きつける。

 編まれた髪がどうなっているのか、今頃になって気になったようで、伯は、手で後頭部の辺りに触れた。

「、、、、、」

 当然ながら、よく分からなかったらしい。

 憮然とした面持ちで、

「俺達も戻るぞ、タオフィ」

 溜息混じり。

 二人を囲む屍魚が、

 ォオオオ…ン…

 クィィイ…

 キシシシシャ…

 それぞれ、低く低く、鳴いた。

「壱岐媛、Gregory、飛雲フェイユン。もし次があれば、全力で来い、、、」

 名残惜しげに砂海に沈み込む、屍魚。

 伯とタオフィは、 砂雲が行き交う中、濃い砂霧へと向かい、歩き出した。

 辺りが薄暗ってすぐ、

「ひゃわっ」

 何かを踏んづけたタオフィが、伯の背中へ。

「ああ、忘れていた、、、」

 丸々と肥えた蛟らが、伸びている。

「戻って来い」

 掌を差出すと、それらは小さな青き玉となって、転がった。

 一息に呑み込んで、

「ねぇ、伯。そんなにいっぱい蛟を飼ってて、お腹壊さないの?」

 タオフィの素朴な疑問だ。

 蓉亜と同じ次元だと思いつつ、

「存外、おとなしい生き物だぞ。一匹、くれてやろうか、、、」

「い、いらないわよっ」

「ふん、、、」

 暗がりの先へ。

 そこで待つ、枯れ枝のような痩躯の主に、

「世話を掛けたな、蛮器翁、、、」

 伯は、声を掛けた。

「いえいえ。耶紫呂殿の御子息にお会いできて、何やら我が事のように嬉しゅうございました。久々に、賑やかな時を、過ごすことができました」

 白髭を扱きながら、しゃがれた声で、蛮器翁はにこにこと笑って言った。

「耶紫呂殿がいらした時、そのお姿を魂魄に宿すまで、こちらの刻で十日程掛かりましたが、驚きましたなぁ。既に、【自ら】を持っておられましたので。お蔭で、一目で分かりましたよ」

「ああ。蓉亜は、蒼奘とは違う。生まれてからこれまでの間、その見鬼の力、自制しようとした事はないはずだ。その魂の本質は、人でありながらも、俺達に近い、、、」

 蒼奘は、もって生まれた【神にも通じる力】を、その生い立ちから一度は封じ、放棄せんとした。

 だが今は、その力を受け入れ、転じて【都守】として、人々を護るべく日々尽力している。

 何も言わず、伯を蓉亜の傍に置いているのは、一重に信じているのだろう。

 誰もが生まれ持つ、気づきの力を。

 タオフィが、ふと、辺りを見回した。

「あの、この辺りの防衛機構、停止しているみたいなんですけど、、、」

 雷に襲われた事を思いだし、伯の足にしがみついたまま、恐る恐る尋ねた。

「はい。冥海の君の【髪紐】でございますよ」

「この、青い?」

「ええ。皇子が紡がれたので、解呪されておりましょう。【護符】のようなものです」

 伯は何も言わなかったが、戻って来たその髪には、青き花が咲き、透明な玉が幾つも揺れていた。

 着流しはともかくとして、ばさらに乱れた髪を見兼ねての事だったのかもしれない。

 頬骨の高さ、顎の細さが際立って、どこか、いつもよりも精悍な印象さえ与えるに十分であった。

「その皇子に、境界壁の再構成を申しつけられましてな。これを機に、こちらの孔は、綴じさせていただくことになりました」

「すまない」

 頭を下げた伯に、蛮器翁が恐縮し、肩を押した。

「冥海の君のせいではございません。もとより【薄かった】のでございます。お気になさらずに。ですので、今後お立ち寄りになられる際は、お手数ですが龍脈の通い路より、お越しくださいませ」

「承知した、、、」

「では」

 蛮器翁が、左の掌に、右の拳を当てた。

 そこから引き抜かれたのは、

「おさがりください。この【冥刀】は、境界の縫合部を斬り裂き、塗り固めるためのものでございます。いかに神々、霊獣といえども、刃に触れれば傷口より、たちどころに霊紫へと還ってしまいますので、、、」

 深淵の闇を宿した、大太刀であった。

 身の丈よりも巨大なその大太刀を手に、蛮器翁は、細く息を吐き出した。

 そして、

「ぬんッ」

 張りつめた大気を斬り裂いて、闇色の一閃。

 白々とした光が、薄闇に一筋引かれて、ぱっくりと裂けた。

 茜色が混じった薄闇が、その向こうから、冷たい風を招き入れる。

「タオフィ」

「うん」

 伯とタオフィが、走り出した。

 閉じてしまうその前に飛び越えれば、足元で、水が跳ねる音がした。

 裂目の向こう側では、

「蓉亜坊ちゃん、耶紫呂殿にもよろしくお伝えください。お二方とも、どうぞ、お気をつけて」

 深々と蛮器翁が頭を下げていた。

「ああ。礼を言う、蛮器翁、、、」

「蛮器翁さん、お茶、とっても美味しかったです。ごちそうさまですっ」

 裂目が閉じ、その向こう側で、【綴じられる重厚な音】が、聞こえた気がした。

 鼻をひくひくさせながら、

「帰ってきたね、、、」

 タオフィが、空を見上げた。

 薄霧の世界が、赤々と燃えているようだった。

「ああ、、、」

 その一際赤い方へと、伯が歩き出した。

 速足で、傍らに寄ると、

「蓉亜、眼が覚めたかな?」

 伯を見上げて言った。

「たぶんな」

「冥府での事なんて、忘れてるよね。夢みたいに、、、」

「その方がいい。ガキのうちから、負荷をかける事は無い、、、」

「うん、、、」

 ぬかるむ、墨色の大地。

 墨色の水。

 肌を刺す如く、冷たい。

 白い肌、赤い目の魚が、幾つも現れて、尾鰭で水を掻いていく。

 伯に、付き従っているようでもあった。

 中には、水を跳ねる輩もいて、

「ちょっ、、、何よ、この性悪魚ッ」

 フゥーッ、と牙を剥いたところで、ふわりと体が浮き上がった。

 そのまま、伯の肩へ。

「あ、ありがと、、、」

「、、、、、」

 伯の手が、タオフィの尾をぐるりと首に回した。

 ― 襟巻扱い!!、、、でも、ま、いいけど ―

 その首を抱くようにして、タオフィは、伯の顎先に顏を寄せて、耳を伏せた。

 ― はゃ、、、無条件で、あったかい、、、 ―

 そのまま目を伏せれば、伯が歩く、心地良い震動だけが、伝わってくる。

 ぬくもりにうとうととして、タオフィは、まどろみに落ちていったのだった。




「、、、、、」

 息が、白い。

 霧が掛かった葦原を抜け、薄氷の張った大地を踏みしめた時、伯は、西の空を眺め、白い息を吐いた。

 夕陽が、雪を頂いた山稜に、沈まんとしていた。

 青白い、大地。

 ところどころ、獣の足跡が残るだけで、膝まで沈む雪を行き、辛うじて道と呼べるところに出た時は、辺りはとっぷりと暮れていた。

 星々が瞬き、塒へと急ぐ雁の群れが、山間へと融けてゆく。

 耳朶をくすぐるタオフィの寝息を聞きながら、人目を避けて歩き出した。

 人の姿へ化身する翡翠輪を、屋敷に忘れたままだった。

 どこか、帝都に程近い暗がりに身を潜め、夜半にでも戻るかと辺りを見回して、獣の足音を聞いた。

 目を眇めれば、雪を跳ね上げ、こちらに向かってくる【もの】がいる。

 ウゥオ―――ンッ…ウォンッ、オンッ…

 真白の毛並の白き獣が、駆けてくる。

「あいつは、、、」

 犬とは明らかに違う、鳴き方であった。

「ん、、、」

 首に巻いたままのタオフィが、身じろぐ気配に、

 ― 静かにしろ、そら ―

 伯の菫色の一瞥。

 クゥン…

 とたんに萎縮して、耳を下げると、闇夜でもよく光る蒼い眸が、上目使い。

 伯を探して辺りを駆け回っていたのか、体からは、湯気が出ている。

「分かるだろ、宙、、、」

 蒼い双眸が、伯の首の辺りを見つめ、口を閉じた。

「良い子だ、、、」

 膝を叩けば、そろそろと近づいて、尾を振りながら、伯の手を舐めた。

 頭を撫でてやったところで、白狼が駆け出した。

 その先に、見慣れた牛車の姿。




 ゆるゆると歩く牛に、鞭をくれながら、

「なんと、お詫びしたら、、、」

 琲瑠が、何度目かの詫びを口にした。

 牛車の中では、

「汪果の使い羽が、蓉亜が胡露さんに連れられて、元気に戻ってきたって言ってたじゃないか。過ぎた事だよ、琲瑠。君達が悪いわけじゃないよ」

 宮中帰りの蒼奘が、伯を前に、微笑んでいた。

 琲瑠の報告を受け、そのまま、こちらに迎えに来たようだった。

「君もだよ、伯。そんな薄着で飛び出して、、、」

「、、、、、」

 蒼奘の言葉には一片の棘も無く、それが反って、平静さを取り戻していた伯を、どうしようもなく、揺さぶるのであった。

「蒼奘、、、」

「うん」

「なぜ、ここに来たんだ、、、」

「ここって、迎えに?」

 伯が、奥歯を噛み締めた。

 疲れて眠ってしまったタオフィを起こすまいと、声を落としたまま、

「蓉亜が、心配じゃ、、、」

 怒りにも似た、口調であった。

 頼りなげな吊り行燈の明りの中、微笑みを湛えていた蒼奘の顏から、笑みが掻き消えていた。

 闇色の双眸で、まっすぐに伯を見つめると、

「心配だよ」

 低い声音が、そう告げた。

 暗がりの中で、その白い手が、伸びた。

「っ、、、」

 反射的に、顎を引いた伯の頬に、

「君と、同じくらい心配して、、、」

 冷たい手が、触れた。

「君の事も同じだけ、心配になった」

「、、、、、」

「無茶をさせたんじゃないか、と、、、」

「、、、、、」

 冷たい肌の先から、じんわりと温もりが伝わってくる。

 ひとしきり頬を擦って、その手は、離れていった。

 訪れた沈黙に、

「、、、すまない」

 伯が、詫びた。

 これでいて、気位の高い、伯の事だ。

 幾度も詫びを口にするのは、今回の件が、相当、堪えている証拠だろう。

 薄明りの先で、蒼奘は首を振った。

「父として、礼を言わせて欲しい。いつもありがとう、二人とも。もちろん、琲瑠も汪果も、蟲姫にもね。ああ、そうだった。後、天狐と、、、」

「、、、、、」

 伯は蒼奘を見、そして、暢気に眠るタオフィの尾に触れた。

 喉から胸元をくすぐる、ふさふさとした毛並は、狐特有のものであったが、

「ん、、、?」

 ふと、伯の目に止まったものがあった。

「どうしたの、伯?」

 蒼奘も、伯の眼差しの先を見つめる。

 駱駝色の毛並に、ぽつりぽつりと、鮮やかな赤が混じっていた。

「こんな毛色は、タオフィには無かった、、、」

 ぽつりと言えば、

 ― 小さな変化にも気づくなんて、存外、君は、、、 ―

 蒼奘は、不思議そうに伯を見つめた。

 言動にはあまり出さないが、それは、こう言った無意識の発言に裏付けされてしまうものなのかもしれない。

 もっとも、一番喜びそうな相手は、夢の中。

「換毛期、と言うのかな。彼女、赤狐の血筋だったでしょ?」

「そうなのか?父親の事は以前、聞いた事があったが、、、」

「おそらく、野狐から、神位が上がりはじめているんだよ」

「神位、、、」

 人知れず、修行に明け暮れていると言うのは、どうやら本当のようだった。

 二人の視線を釘付けにしたまま、

「ん、にゃ、、、ふ、、、」

 タオフィが、何やら寝言を言っている。

 慣れないところに行って、それなりに疲弊しているのだろう。

 それは、伯も同じだったのかもしれない。

 ― いろいろな事が、あった、、、 ―

 気が緩んだのか、瞼が重い。

 隅に身を寄せると、肩を齎せた。

 蒼奘が、長衣を伯の膝へ。

「お眠り、伯。着いたら、起こすから、、、」

「、、、ん」

 こくり…

 素直に頷くと、そのまま目を閉じた。

 吊り行燈の下、持ち込んだ未読の書簡を広げていた、蒼奘。

 すぐに、穏やかな寝息が聞こえてきて、顏を上げれば、

「ふふ、、、」

 思わず、苦笑。

 ― 寝顔は、出会った頃と同じ。あどけないままだよねぇ、、、 ―

 当の伯には、間違っても言えないと思う蒼奘であった。


屍魚に、カウンタパートの名前をつけた煬でございます。。。


僕は、名前を考える作業が苦手で、気付けは大抵、韻が同じ仕上がりにwww


本編を書いていたつもりが脱線し、何故かこちらは、一月程で仕上がってしまったので、次こそは本編を!!…リアルと相談しながら進めて行くつもりです。。。


お付き合いくださる方、どうぞ気長に、今年もよろしくお願いします。。。

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