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― 遙絃 ―

 突き抜けるような蒼天に掛かるは、淡紅に縞の惑星、緋と銀の混じった星雲、翠の双月。

 薄く、霞の掛かって見えるのは、中天に掛かった太陽がそうさせるそうで、

「まぁ、大きな、あくびですこと、、、」

 照り返しも眩い白亜の大地が、延々と続いている。

 彼方の山稜もすっかり雪化粧で、蛇行しつつ地平線へと流れる大河も、今日は凍りついていた。

 川面には、蓮の氷像が連立し、葉には透明な雫を結んでいる。

 その水面に浮かぶ、湖亭の一つ。

 侍女頭に傅かれ、爪を磨かせている者が、

「ああ、、、ぁふわっ」

 凭れていた、揺り椅子の背に仰け反って、あくびをもう一つ。

「我が君、、、」

 思わず、苦笑する侍女頭を他所に、

「ふ、ぅ、、、しかし ―――、」

 泪目になった女主は、遠い眼差し。

 ふわりふわりと、九尾を揺らしながら、

「暇だな、、、」

 涙目だ。

「弟々《テイテイ》と共に、斗々烏へ出向けば、良かった」

「我が君。帝都の地仙が、何を仰いますか、、、」

 呆れ顔の侍女頭に、

「はわぁ、、ふ」

 もう一度、あくび。

 そんな様子にも、慣れたもの。

 侍女頭が、爪磨きに専念することしばらく、蓮の氷像の向こう岸に、見覚えのある人影が、二つ。

 薄氷に、白銀の波紋を刻みながら、湖亭へ。

「地仙、お客様でございます」

「ああ、、、」

 胡露の傍ら。

 佇んだ相手に、

「でかしたぇ、胡露。調度、暇に膿んでいたところだ」

 紺碧の流し目だ。

「あれ以来、地上に寄りつかぬとは思っていたが、なにはともあれ、息災にしておったようだな、【元都守】?」

「そなたもな、天狐、、、」

 物憂げな金色の眼差しを受けて、緩んでしまう口元を袂で隠しつつ、その【元都守】を湖亭に据えられた円卓へと、手招いたのだった。

 

 

 

≪ 主様、何か策がおありですの? ≫

 斗々烏への龍脈を戻りながらの道中、蟲姫が、腹の中から問うた。

 うねるように、全身で龍脈の流れを受け、感じ、尾鰭で蹴る。

 星々の海を渡るその姿は、巨大な鯨の如き、であった。

 どこか筒状に視える、龍脈の一端。

 微量だが、煌めく青紫の粒子を、その身に浴びつつ、伯は、降下を続けている。

≪ 異形と化した眷族がため、身を削ってまでも与える、霊紫。いつまで、とも、その理由も、花王は何も、おっしゃりませんでしたわ ≫

 口調の端々に、ありありとうかがえるのは、花王への憤りだ。

 いかにも、無責任だと言いたげな蟲姫を他所に、

「いつまで、も、理由も、無いだけの話だろう、、、」

 あくび混じりの声音で、伯が応じた。

≪ しかし、主様、、、それではまったくの無駄足、じゃないんですの? ≫

「無駄足、なぁ、、、」

≪ わ、、、笑っておられる場合ですか? ≫

 くつくつと、喉を鳴らす様子に、蟲姫は子供のように頬を膨らませた。

「無駄足もまた、良し、、、」

 平素、どこか世捨て人にも似て、それでいて、時折、子供。

 深藍の世界から、黄昏色へと変わり、やがて、白い大地が、見えてきた。

 雲海に突き出した、頂き。

 常人には不可視とされる龍脈の管の中、山裾に添って、舞い降りる。

 背びれが、大きく広がる。

 一度、口を開くと、

≪ あっ、、、 ≫

 蟲姫のしゃれこうべが、転がり出た。

 慌てて、その鬣にしがみつけば、全身に竜鱗が刻まれ、大気に散らばる霊紫の粒子を纏って、淡く燐光を放ちはじめた。

 忌々しいと言わんばかりの菫色の一瞥が、地上へと向けられ、

「、、、蟲姫よ。しばし、息を潜めていろ。次にその名を、呼ぶ時まで、、、」

≪ あい、、、 ≫

 霊紫を吸収しつつ、その巨躯は社の屋根を抜けると、磐座へと降り立つのだった。

 

 

 

 ― 来た、、、 ―

 額に汗の珠を結んだ少年、烏玖慧那うくえなは、天地を突き抜ける龍脈より顕現したその姿に、鼓動が高鳴るのを、確かに感じた。

 そして、柱の一つに背を預けると、

「綴じよ」

 掌から、細く白い粒子が、床に毀れた。

 見れば、ぐるりとその輪で囲まれている。

 その掌が、握り込まれた。

 掌から毀れていた粒子が白い糸となって、袖の中へ。

 細く、息を吐いたところで、

「おい、、、」

 不機嫌な声が、掛かった。

「おかえりなさいませ。冥海の君、、、」

 心の臓が凍りつく感覚とは裏腹に、我ながら平然とした声が、出た。

 緩慢な仕草で、寝そべる巨躯を前に、

 ― う、美しい、、、 ―

 思わず頬に、血が上る。

 透明に透ける巨躯には、大小様々な気泡が現れては消え、時折、虹色に瞬いて弾けた。

「まだ、いたのか。お前、、、」

 前肢に頬を預け、菫色の大きな眸で、幾度がまばたき。

 ぱっくりと割れた吻の奥には、鋭い牙の羅列が覗き、

「あぁあ、ふ、、、」

 大きく、あくび。

 優雅に、体を丸めると、尾鰭でもって頭を覆ってしまった。

 巨躯の至る所から、霊紫の粒子が吸着されてゆく。

 伯が、【栓】となっているのだ。

 斗々烏の変異も、徐々に収束していくことだろう。

「それで、何かお分かりに?」

「、、、、、」

「冥海の、、、」

「、、、、、」

 吹き抜けになっている闇に、たゆたっている。

 すぐそこにいるのに、近づいたり、遠ざかっていったりを繰り返すのは、龍脈の時空間が、烏玖慧那うくえなの立つ現世のものとは、異なるからであろう。

 ― 龍脈。半端なこの身では、おいそれと足を踏み入れる事のできぬ、【理】へと至る、ただ一つの道。だが、、、 ―

 袖から、手が、出た。

 すらりと伸びた指先を、前方へと突き出すと、

「ふぅ、、、」

 指先へ向かって息を、吹きかける。

 月光のように、ぼんやりと辺りを照らす程度の光源は、龍脈の何処に在る星々の明かり。

 その輝きを受けて、【何か】が、煌めいた。

 そのまま龍脈を渡り、伯の全身を囲むように、輝きが、伸びてゆく。

 輝きが、伯に触れるか触れないかの位置で組み合わされば、白銀色の薄繭が、出来上がっていた。

「、、、これは、どういうつもりだ?」

 取り巻く異変に、菫色の眸が、薄く開いた。

 不機嫌そうな声音には、明らかに眠気が、混じっている。

「この社は、私が負うた地。休眠状態にある斗々烏の権限は、私に移っております」

「んー、、、」

 適当な相槌に、烏玖慧那は、細い眉を跳ね上げた。

「たっ、、、他の者のこの社への立ち入りは、禁じております。あなたさまは、早々にお帰りになられたと、一族の皆に伝えておきましょう」

「それで、、、」

 グル、ㇽ…

 獰猛な獣に似た喉鳴りが、大気を震わせた。

「、、、それで、俺を、この社に縛るつもりか?」

「っ、、、」

 一度は息を呑んだ、烏玖慧那。

 しかし、

「いえ、なに、、、」

 可憐な薄紅色の唇に浮かぶ、薄笑み。

「思いついたのですよ。霊紫を吸収する術を身に着ければ、私自身の【神意】も、書き換わるのではないか、と、、、」

「、、、、、」

「【神意】と言う筋書き通りに生きる。これに、何の意味がありましょう?神意を持たぬ、あなたなら、お分かりでしょう」

「、、、、、」

 烏玖慧那は、手に絡めている銀糸を、見つめた。

 捕らえている、確かな感触。

 今は、ただそれだけで、満たされている。

 ― 貴殿はここで【神鏡】となり、霊紫を集めてくれさえすればいいのです ―――

 名乗りを挙げぬ者に、天津国の神仙らは干渉しない。

 帝都から天狐が出張って来たとしても、斗々烏の名でもって、立ち入りを制限しさえすれば、事足りる。

 烏玖慧那は、思わず緩んでしまう頬を感じながら、

 ―【式】として、我が眷族に加わった暁には、この囲いから解き放ちましょうぞ、、、 ―

 どこか熱っぽく潤んだ眸で、伯を見つめ ―――、

「ッ」

 ドクッ…

 ―――、 飛び出さんばかりに跳ねあがった鼓動に、全身をこわばらせた。

「、、、、、」

 伯はただじっと、黎明を宿した双眸でもって、烏玖慧那の嬌態を静かに見つめていた。

 何の感情も伺わせない、その眼差し。

 己が掌中に在ると言うのに、烏玖慧那は、背筋に冷たいものが這いずってゆくのを感じた。

 引き結ばれ、半透明に透ける表皮と同化していた口が、笑みを浮かべたような ―――、気がした。

「勘違い、するな、、、」

 血の気が引くのを感じながら、烏玖慧那は、喘ぐように息を吸い込んだ。

「勘、違い?」

 辛うじて声になった時、伯は、すでにどこか遠くを見つめていた。

 いつもより、一層、鬱々と響く声音が、

「神意を【持たぬ】のでは無い。俺の神意は、【奪われた】のだ ―――、真名と共に、、、」

「奪われ、、、」

 過去を、奏でる。

「顕現する最中、俺は神意を失い、真名を奪われた。本来のこの姿でもない、脆弱な人の子に似せ、俺は生まれた、、、」

 抑揚の無いそれは、溜息にも似た呟きであり、嘆きでもあった。

「し、しかし、、、っ」

 烏玖慧那は、奇妙な感覚を覚えていた。

「なれば、真名を得た、あなたは、、、、」

 そのすべてを、手にしているはずなのに、遥か高みから睥睨されているような、この感覚は?

 そして、それをどこかで心地良いとさえ思う、この心は?

 烏玖慧那は、思わず自らの胸元を、掴んでいた。

 ― この高揚感、、、 ―

 この時、それが【従属】という喜びに近いものだと、まだ幼い烏玖慧那が理解できなかった事こそが、斗々烏にとっての幸いであった。

「真名を得たところで、自らに冠したものではない。我が真名はさしずめ、この姿へ化身するための【呪文】のようなものだ、、、」

「そのような、ことが、、、あっ」

 震えた、その唇。

 ようやく年相応の顏になって、動揺する少年に、

「ふ、、、」

 伯は、酷薄な笑みを浮かべ、

「ものの、ついでだ。何故、俺が【冥海】を冠しているのか、教えてやろう、、、」

 烏玖慧那を、一瞥。

 菫色の双眸を眇めると、

「我が名は、対価。自らを封じるこの名は、かつて、この地を共に訪れた者の、真名の一部。【大いなる存在に連なる者】らの双肩を食い破りし、強大でいて神意を持たぬ【異端なる者】の、な、、、」

「【異端なる者】。それ故、縛られないと、、、」

「そうなるな、、、」

 自嘲気味に、そう笑ったのだった。

 ― 冥海の君、、、 ―

 その姿が、どこか哀愁をはらんでいるようで、

「私には、、、わかりません。そのような力を得ていながら、何故、この大地に縛られているのか、が、、、」

 雲海に遊び、龍脈を渡り、天津国へと至る【神通力】を得ながら、大気も澱む大地に、在る。

 それが、精霊と天狗の間に生まれた烏玖慧那には、理解できなかった。

 伯は、鬣を逆立て、鰭を大きく開いて伸びをすると、

「、、、貴様は、気に入らないのか?自らを育んだ、この斗々烏の大地も、白帝の御使いである翠狗も、母なる天狗らも、、、」

 淡々とした口調で、問う。

 面食らった、烏玖慧那。

「い、、、いいえ、そんな、こと、、、は、、、」

 咄嗟の出来事で、しどろもどろに。

 視界の端で、伯が再び、寝そべった。

 瞬きを繰り返し、

「そうか、、、。俺も ―――、同じだ」

「ぁ、、、」

 細く息を、吐き出した。

「葛藤とやらは、今もしている。だが、ここでの暮らしは、それなりに、気に入っている、、、」

「、、、、、」

 たまらず俯いた、烏玖慧那。

 伯は、一度だけ牙を剥くと、

「義理は無いが、天狐との約束だ。俺は、【霊紫喰い】に入る。起こしてみろ。この里を、水底へ、叩き込んでやるからな、、、」

「う、、、」

 何時になるとも知れぬ目覚めを告げず、烏玖慧那を残して、眸を閉じたのだった。

 

 

 

 水面から立ち昇る、薄靄。

 薄絹にも似たそれが、霞となって大気を漂い、中空に浮かぶ天狐を、朧に霞ませる。

「、、、、、」

 遙絃は、先のやりとりを、思い出していた。

『斗々烏での怪異。その詳細は、よく分かった。だが、複雑化させねば、足がつくぞ』

『【神鏡】には、我が【荒御魂】を。奔流からこちらへは、檎葉が【枝出し】をする、、、』

『ほう、随分と手際が良いな。この地に、幼神を置き去りにしたかと思えば、やはり可愛いと見える、、、』

『、、、乗るのか、乗らないのか?』

『乗らぬはずが無かろうよ。いつまでも弟々を、斗々烏に置いておけようか。それに此度は ―――、私にも責任がある、、、』

 ― そう、私の責。だから、早く帰って来い。伯よ、、、 ―

 豊かな蜂蜜色の髪を背に流せば、肩に纏った羽衣が七色に変化。

 九尾がふわりと、広がった。

「空狐」

 ≪ ケ…ェェエエエ―――…ンン…―――… ≫

 体内深くに宿る【獣】、荼吉尼が応えれば、九尾が粒子となって掻き消える。

 全身が、淡い金色に包まれれば、陽が差し込むように、白銀の世界は同色へと染まっていった。

 金色こんじきの髪に、大きく広がった、獣の耳。

 耳の先から爪先、雪色だった肌の一切までもが、そのまま【光の化身】へ。

 眩くも柔らかい、黄金こがねの絹布が幾重も、遙絃と天地を繋ぎ、揺らめき、たゆたう。

 その様を、

 ― 主様、、、キレイ、、、 ―

 タオフィは、胡露のすぐ傍らで、見上げていた。

 辛うじて人型の輪郭を残し、光の柱と化した、【空狐化】。

 それは、溜息が出る程に美しい光景であった。

 空も大地、タオフィ自身も、全てが、等しく【光】に包まれている。

 その甘美な瞬間に立ち会えた悦びに、膝から崩れ落ちそうになって、

「後学のためにも、しっかりと見ておきなさい。タオフィ、、、」

 胡露の腕に、両肩を支えられた。

 眇めた隻眼で、遙絃を見上げつつ、

「花王、冥仙、地仙。三界三柱の神通力を結ぶ、その稀有なる姿を、、、」

 タオフィに言い聞かせる。

「三界、三柱、、、」

 地上で、譫言のようにタオフィが呟いた時、中空に立つ遙絃は、両の手を前方へと伸ばしたところであった。

 長い睫が震え、濡れた輝きを宿した紺碧の双玉が、現れる。

 炯々と光る双眸は、伸ばした指先の遥か、その先へ。

 陽炎のように、一画が揺らめけば、緑柱石《ベリㇽ》の輝きがせり出す。

 ところどころにちらついて見えるは、青紫の燐光。

 龍脈の一端に含まれる、霊紫だ。

≪ 来イ… ≫

 受け入れんと、両手を広げた、その先へ。

「あっ、、、主様―――ッ」

「むッ、、、」

 胡露が、跳ね起きんとしたタオフィを、咄嗟に抑え込む。

「嗚呼 ―――ッ」

 それは、タオフィの悲鳴であった。

 大気に突如穿たれ、現れた龍脈の一端。

 それは、見上げる程に巨大な穴となり、その前に立つ遙絃は、タオフィの目に、余りにも脆弱見えた。

 堰を切ったように、濁流と化した龍脈が、その身を ―――、貫いた。

「や、、い、やぁぁあ―――あッ」

 取り乱した、タオフィ。

 幼い頃の記憶と、白々と舞い上がった雪煙が、重なったのだろう。

「落ち着きなさい、タオフィ」

 ばたつく四肢を押さえ込みながらも、胡露の隻眼は、前方に広がる雪原へと叩き込まれた遙絃の姿を、忙しなく探している…

 

 

 

 ― さて、どうしたものか、、、 ―

 そこは、夢の浅瀬にも、似ていた。

 薄明るく、どこまでも平坦な世界であった。

 足首まで、水のようなものが湛えられ、そこに、どこからともなく舞い降りた、青紫に透ける、掌程の鱗。

 ひとひら、ふたひら…

 数を増して、浮かんでゆく。

 霊紫であった。

 淡く発光する、その霊紫の帯が、水面のところどころで、できている。

 それをながめながら、

 ― この【中】が、俺が喰らえる霊紫の限度。消化不良どころが、この地では、発散もできんな。それに、、、 ―

 目を、眇める。

 広大なように見えて、こればかりは十分でない事を、伯自身、見当がついているようで、

 ― この分では、何年抑さえられるか、、、 ―

 足元に浮かぶ、ひとひらの霊紫。

 可憐な、朱鷺色の唇。

 摘み上げた霊紫を、放り込みながら、大きく、伸びをする。

 じゃりじゃり、と硬いものを咀嚼する音をさせつつ、

 ― 、、、まぁ、この際だ。斗々烏が、眠りから醒めるまでは、足掻いてみるか ―

 大きく広げた、腕。

 ゆっくりと、胸の前に持ってくると、

 パンッ…

 柏手、一つ。

 呼応するかのように、水面に、無数の気泡が浮かび上がると、そのまま泡となって舞い上がり、霊紫を吸い込んだ。

 それが一つのところに集まれば、美しく発光する多面体へ。

 キィン…キキ…

 ィイイ…ン…

 木が、水を吸い上げるように、澄んだ音をさせながら、突き出す結晶は数を増し、あるいは、同化し、嵩を増してゆく。

 重厚ながら、ゆらゆらとして頼りなげに水面に浮かぶ、その不可思議な多面体と向き合ったまま、

「、、、、、」

 伯は、額に汗結び、彫像になったかのように、動かなくなったのだった。

 

 

 

 見渡す限りの、雪原。

 雪を蹴り上げ、一陣の風となって、白狗が駆けた。

 力強く躍動する、四肢。

 その脚が、擂鉢状に抉れた大地を前に、減速。

 それは、広大な規模に及んでいた。

 雪は吹きとび、茶と黒と赤が混じった斑の大地が、覗いている。

 ぐるりと周れば、大人の脚でも半刻はかかるやもしれない。

 その最深部とも言えるところに、胸の辺りで手を組み、横たわる人型を見つけ、

「遙絃」

 胡露は、天狐遙絃の元へと、駆け降りた。

「遙絃っ、、、」

 雪色の長衣を纏った獣人態になると、その肩を、腕に掻き抱く。

 銀恢の隻眼。

 その眼差しが、頭頂から爪先を何度も何度も往復する。

 蜂蜜色の髪に、大きく広がった耳と、九尾。

 いつもと変わらぬ、秀麗たるその姿のどこにも傷は、見当たらない。

 目覚める様子のない遙絃の頬に、手を添えると、

「遙絃ッ」

 胡露は、その名を呼んだ。

 その腕の中で、

「くく、、、く、、、」

「っ、、、」

 たまらず喉が鳴って、胡露はこの時ばかりはさすがに、憮然とした顏になった。

「お戯れが過ぎます、地仙、、、」

「ふふ。戯れも何も、余韻に耳を澄ませていただけだ」

 いつもの紺碧の双眸が、胡露を見上げ、丹の色の蠱惑的な唇は、艶然と笑みの形を作った。

「お前も大地に寝そべって、この地に根付いた【龍脈のせせらぎ】を、聞いてみろ、、、」

「、、、遠慮致します」

 胡露は、その細腕に易々と、遙絃を抱き上げた。

「おい」

「久々の大技。さしもの地仙とて、御身に負荷が掛からぬはずありますまい、、、」

「、、、、、」

 珍しく、口を噤んだ相手。

 斜面を登りきったところで、

「ん?」

 胡露は、頬に当たる柔らかな感触に、空を見上げた。

 無数に舞い降りるは、青紫の羽。

 髪に遊び、肩に降りて、白銀の大地へ還るかのように、弾けて消える。

「花王宮より漏れ出た、霊紫。その身を賭しても、堕ちたる眷族を救わんとしているとは、殊勝なことだ、、、」

 胡露の腕に頬を預け、遙絃が呟けば、

「花王もその昔、異形として顕現し、先王に救われたと聞きます。その神命に従う探花使らも、盲信的とまでに感化されてしまうのは、それ故、、、」

「盲信的、となぁ。お前もそうだったか、【元】探花使長、、、?」

 胡露が、薄く笑って、

「さて、どうでしたか。けれど此度、地仙は、その花王と似たような事をなさってますが、、、」

 そう言った。

「ふ、、、ふん、、、」

 そっぽ向いたところで、

「おや、新芽が、、、」

 白銀の大地に、俄かに萌える、緑、翠、碧。

 霊紫を吸って生き生きと、凍える世界に、春の装い。

 二人の足元で、可憐な節分草が咲き群れて、あちこちで、蕗の薹の萌黄や福寿草の黄色が、広がってゆく。

 みるみる花園へと変化して行く中、小鳥の声が聞こえてきた。

 どこからともなく、子鹿や野兎が現れる中、野狐らが飛んだり跳ねたりするのを遠くに眺めつつ、

「お屋敷に戻りましたら、タオフィに声を掛けて下さい。遙絃、、、」

 その鈴の音が聞こえない事に、ようやく気がついた。

「何があった?」

「初めて目にした【空狐化】に、過去を思い起こして、少々、気が動転したようです。落ち着いてはおりますが、何よりも、母にも等しい地仙の身を、誰よりも案じておりますので、、、」

 胡露の腕の中、お構いなしに大きく伸びをする、遙絃。

「あの子は、優しい子だからな。戻らぬ伯の事もある。よし、、、少し、からかってやるか」

 隻眼を穏やかに眇めると、

「ええ。くれぐれも、お手柔らかに願いますよ、地仙、、、」

 胡露は遙絃を見つめながら、頷いたのだった。


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