― 花王 ―
― これは、、、 ―
鰭であったはずなのに、指先に見える。
いったい、いつの間に戻ってしまったのか?
伯には、分からなかった。
薄明かりに包まれたと思えば、今度は乳色の光に包まれているのだ。
「、、、、、」
いつも纏っている鴉色の狩衣に、己の群青の髪が長く流れて見えた。
なんとも不可解な心持で、腕を組めば、
「ほ、、、それが、うぬの姿か、、、」
「?!」
耳朶に息がかかって、後方に跳躍。
気配を、感じさせなかった。
右耳を押さえつつ、視線を彷徨われば、霧が形を持つ。
「、、、、、」
後方、左右。
果てがないのか、白亜の巨大な柱が連立し、雲にも似た質感の彼方の天井へと聳え、消えている。
ゆらめくように現れ出でたのは、玉座。
しかし、御簾の向こうには ―――、誰もいない。
「わしが視ているものは、うぬ自身が自覚する姿、、、」
「、、、内臓まで、覗き見されている気分だぞ、花王」
傍らを見れば、袖に縋る幼い女童の姿をした蟲姫の姿が、見えた。
この神域にあって、脆弱無力な己の存在を、痛感しているのかもしれない。
「内臓まで、か、、、ふふ、、、」
届くのは、声。
それも、なんともとらえどころの無い声音。
直接頭の中に響いているようでもあり、声帯でもって発せられているものでもあるような、不可解極まりないものであった。
「内臓を垣間見ているのは、うぬらであるのだがな、、、」
「、、、、、」
伯は、己が体が、神体であるのをようやく自覚した。
首をめぐらせれば、御簾の向こうに、それまでなかった確かな気配を捉える事ができた。
― しまった。こやつの腹の中であったか、、、 ―
呑まれていた事に、今更ながらに気づくと、思わず口角が吊りあがってしまう。
地上では決して味わえぬ、高揚感。
そのような相手に出会えた事が、何故か少し、嬉しかった。
「うぬを呑み込んで、慌てふためくあやつの貌が見れれば、それだけで一興だが、、、。あやつの真名を、冠している以上、ひどい火傷をしそうだ」
「そんな使い方があるとは、知らなかった、、、」
「そんなところが、あの気紛れの手を焼かせるのだな、、、」
「、、、、、」
幾重にも重なった、絢爛たる花月模様の透かしが入った御簾が、巻き上がる。
羽ばたく、鳳凰。
二つの月が、ゆっくりと左右から昇り、中天で一つに重なると、太陽となった。
眩しく差し込む、陽光。
一瞬、視界を奪われ、
「花王、、、」
伯は、脇息に凭れている者を見て、息を呑んだ。
乳色の世界が、俄かに彩を纏う。
多面体の水晶宮。
陽光降り注ぐその中は、桃の花が咲き乱れ、白き大鹿が遊び、長袖を翻し舞う花精達の姿。
耳を澄ませば、さえずる金翅鳥の声に重なって、竪琴や龍笛の音が聞こえてくる。
陽光を反射し、虹色のベクトルを放つその向こうから、芳しい花々の香りが、暖かな薫風と共に肩先を、吹き抜けてゆく。
玉座で、片袖を抓んでいるのは、
「これが、うぬが視る、わしの姿か、、、」
雪色の花弁で葺かれた腕であった。
しゅ・・らら・・・
うねり、豊かに流れる透明な髪が、触れ合って澄んだ音を立てた。
緑柱石を、そのまま嵌め込んだような双眸。
そこから下は、唐布が長く隠していた。
赤紅の薄衣の重ねが、尾のように流れている。
琥珀の鉤爪を持つ、七本の指が胸元に置かれると、
「、、、悪くない」
その異形の主が微笑んだ、ようだった。
「俺が、視る、、、?」
「わしの実体は、ここには無いのでな。今は、思念だけをうぬに寄越している、、、」
「、、、思念」
深い翠を見つめれば、
「うぬの波動は、まこと心地良い。凪いだ水面の如く、実に穏やかだ、、、」
「、、、、、」
花王の姿が、ぶれた。
僅かに身じろいだ伯に、
「揺れてくれるな。うぬに拒まれれば、さしものわしも、この姿を保てぬ、、、」
花王が静かに言った。
― 鏡面の如き、水面。その下で渦巻く激情が、いっそ初々しい、、、、 ―
花王に見つめられれば、
― 見透かされている、、、 ―
伯は、かえって視線を逸らせずに、いた。
「門番が、要らぬ手間を掛けたようだな」
「いや、、、」
伯は、ネルェリアネを封じていた水囲いを、既に解いている。
あの性格だ。
今頃、憤懣をマルェリアネにぶつけている事だろう。
「霊紫が、下界に洩れていると、今し方、報告を受けたところだ、、、」
「ああ。龍門を預かる天狗共が困惑している。何とかして欲しい」
「それは ―――、無理なのだ」
「、、、、、」
あっさりと言われてしまえば、さしもの伯も、何も言えなくなった。
「花王、、、」
下手に、気を逆撫でして良い相手ではない。
それは、分かっている。
「なれば、天狗共が納得できる理由が、欲しい、、、」
分かっているが、食い下がった。
「それも、言えぬ」
「、、、、、」
不意に、花王の姿が、ぶれた。
花王は、どこか緩慢な仕草で己が指先を見つめた。
砂のように流れて消えてゆく、その指先。
伯の感情の揺らぎが、そうさせてしまうのだ。
「いまだ、幼い、、、」
そう呟くと、静かに眸を閉じた。
伯は、ただ在る。
別段変わった様子は、無い。
それなのに、
「、、、、、」
瓦解を始めた世界に、ぽつねんと在る。
腹の中で、蟲姫が、何かを言っている。
そんなもの、どうでも良かった。
ただ今は、花王の言葉が ―――、気に障った。
首の辺りに触れるのは、ざわめく鬣の感触。
凍りつく、大気。
額の吉祥紋が伸び、閉じられたままの眼の周りに、深菫の砡が現れ、蠢いた。
クグィイイイオオ・・・オオオン・ン・・
空間が、そのまま凍てつき、時は止まる。
細やかなひび割れが、細い糸のように四方八方へ。
コォオオオ・・・
低い、唸り声が、唇から毀れた。
伯の身震い一つで、そっくりその空間は消滅してしまうだろう。
カカカカカッ・・・
鋭い牙の羅列が触れ合えば、その音によってひび割れが進行し、
キン・・・パキ・・キッ・・・イインッ・・・
耳障りな音は、空間の悲鳴。
まるで、霧がかかってしまったかのように白く煙る中、神体へ戻った伯が、擡げた首を振り、
「ッ」
びくりと、その身を反らした。
その鼻先に、極彩色の花弁がえもいえぬ芳香を放ち、咲き乱れていた。
「、、、、、」
みれば、細やかなひび割れのまさにそこから、花芽が姿を現しているではないか?
― ここは、今だ花王の勢力下であった、、、 ―
ひび割れから覗いた花芽は、色とりどりの花を咲かせ、蔦を伸ばすと、縫うようにうねり、ついにはひびそのものを閉じてしまった。
ひびと言う隙間に生じた空間に関して、伯は、あまりにも無防備であったと言えよう。
何事も無かったように修復された空間では、再び薫風吹き込み、小鳥は囀った。
― さすがに、相手が悪い、か、、、 ―
ぽとり・・・
足元に、光彩眩しい牡丹が一枝。
毒気を抜かれた伯が、観念したのか、首を床に延べた。
額の菫色の砡も、いつの間にか消えていた。
≪ 嗚呼、主様っ ≫
蟲姫の悲鳴が、ようやく聞こえたが、力の差は歴然。
今更、どうでもよかった。
牙を抜かれた今の伯に、もはや戦意は無い。
ただ、花王の沙汰を待っている。
「、、、、、」
そのまま、石と化してしまうのではないか?
穏やかな辺りの様子とは相反し、沈黙が、続く。
やがて、その耳に聞こえてきたのは、
≪ 花王宮に、閂は存在せぬよ、、、 ≫
「、、、、、」
己が手足で知り得ろ、とでも言いたげな、花王の誘いであった。
苔生した、大地。
木漏れ日が、至る所から差し込み、また、抜けている。
踏みしめた大地はすべて、木の根であった。
無数に絡み合い、その向こうで、悠々と枝を広げている。
木漏れ日に包まれているような、天と地すら曖昧な空間であった。
「、、、、、」
その中を、枝から枝へ渡りながら、散策する姿があった。
菫色の双眸を眩しげに眇め、手には、牡丹を持っている。
まばゆいばかりの光彩を放つ、虹の色。
花王が残したものであった。
高い鼻梁。
そっと、花弁に寄せて、
「、、、ふ」
細く、息を吐いた。
≪ 我が君、罠かもしれませんわ ≫
伯の胸元で息を潜めていた蟲姫が、煙のように立ち昇り、いつもの妖艶な姿をとった。
それまで伏せていた眸に、黎明が宿った。
どこか、茫洋と漂う眼差しが、
「、、、無い」
つまらなそうに、呟いた。
≪ 無い、、、? ≫
首を傾げた、蟲姫。
指先で、茎を回し、牡丹をくるくると弄びつつ、
「香りだ、、、」
うっそりと、応えた。
≪ 香り、、、そのように、美しいのに、、、 ≫
童女の仕草で、小首を傾げた、蟲姫。
「ああ。俺の【迷い】が、そうさせるのだろう、、、」
≪ 我が君に、迷い? ≫
平素、飄々としたその姿を、間近で見ている者としては、俄かに信じがたい言葉であった。
「【知れ】と言われ、はたして【知って】、いいものか、、、」
≪ 我が君、、、 ≫
まだ知らぬ一面を垣間見たようで、
「だから、香りが届かぬ。迷いが、いつまでも、晴れぬのだ、、、」
短いため息の後、伯は足を進めた。
どこまで行っても、同じ風景であった。
それなのに、別の場所だと言う妙な感覚だけがあった。
≪ 、、、、、 ≫
いつもならば、持ち前の好奇心で、あれやこれを見て回る、蟲姫。
それが、さすがに今は、伯の傍らに寄り添って、離れようとしない。
「、、、不安か?」
辺りを落ち着かなげに見回す様子に、伯が、問うた。
≪ あ、いえ、、、でも、、、あ、、、少し、だけ、、、 ≫
伯の眼差しに合えば、偽れるはずもなく、
「ふ、、、」
不意に、朱鷺色の唇に、笑みが湛えられた。
≪ あ、、、 ≫
小さく、声を上げた蟲姫を余所に、
「漠然と思い描いていたものを、成さんと決めたはずなのだが、、、この心は、未だ、定まらず。【彼の者】が据えた指針のまま暮らしていた日々が、どれだけ心安かったか、今更になって、身に沁みる、、、」
どこか自嘲気味に、胸の裡を吐露した。
弱音であり、それ故の本音であった。
≪ 【彼の者】?それは、、、 ≫
先程、すれ違った相手では、ないだろうか?
蟲姫が、蠱惑的な丹唇を開こうとして、
≪ 我が君?! ≫
伯の手が、虹色の牡丹の花に掛かるのを、見る。
それは、己の心を、自ら諌め、戒めるようで…
「、、、、、」
そのまま、握り締め ―――、開いた。
薫風に乗って、散り散りになり霧散する ―――、虹の花。
無数の粒子が、虹色に瞬き、掻き消える様を眺めつつ、
「いくぞ、蟲姫。この先だ、、、」
掻き消えた、その先へ。
頭上、木々の頂きへ向かい、枝から枝へ。
白々と差し込む、光の中。
くっきりと刻まれる、その姿。
蟲姫は、従属の喜びに頬を赤らめつつ、
≪ あい、、、我が君、、、 ≫
その背に、付き従うのであった。
それまで縁どっていた新緑が、頭上より降り注ぐ陽光に溶け、光で満ちる。
上も下も、右も左も無くなる ―――、感覚。
眩しくて、目を閉じたところで、
「蟲姫」
手首を、力強く掴まれた。
大きく袖が広がり、大気を捉える、音。
そのまま、ふわりと、舞い降りた。
手首から冷たい手が離れ、
「着いたぞ、、、」
その声に、蟲姫は、ゆっくりと目を開けた。
辺りは薄暗く、
≪ ここは、、、 ≫
蟲姫は、周囲を見回した。
どこまでも広い、空間であった。
「面白い、、、」
伯がしゃがみ込み、呟いた。
その傍らに、舞い寄れば、
≪ これは、、、 ≫
柔らかな感触の足場に、ぽっかりと空いた、孔。
人一人、ゆうに潜り抜けられる大きさのその孔の向こうには、樹海が広がって見えた。
みれば、大小様々な孔が、頭上や前方、そして、床に口を開けている。
どうやら、その一つを、二人は通り抜けてきたようだった。
≪ 太陽の中、ですの、、、? ≫
「そうらしいな。一切の輝きを許さず、吸収し、放出する。ここには【色】が、存在しない」
≪ あっ、、、 ≫
顏を上げた蟲姫が、思わず声を上げた。
見つめた先の横顔は、輪郭だけであった。
纏っている衣が、線として視界に展開し、髪の一筋までを、辛うじて再現している。
闇に塗りこめられた世界で動く、薄墨色の線。
己が手を、見た。
輪郭が線となって、うすぼんやりと浮かんでいた。
「隠しものは、光の中、、、」
― それほどまでに、隠さねばならぬものとは、、、? ―
伯が、闇の中、目を凝らす。
くん、と鼻が、鳴った。
むせかえる霊紫の、甘い香りに混じって、妙な香りが、漂っている。
― 、、、いや、違う。ここだけ薄いのだ ―
伯は、甘い香りに背を向け、歩き始めた。
幾つもの孔を飛び越えて、目を凝らす。
霊紫の香りの、薄い方へ。
一際大きな、孔。
樹海を一望できるその孔を、飛び越えようとして、
「む、、、」
不意に、視界の端で、何かが、動いた。
「、、、、、」
歩み寄れば、徐々にその全容が、姿を現しはじめんとしていた。
伯は、その傍らで、膝を折った。
≪ わ、我が君、、、 ≫
蟲姫の、震えた制止の声も聞かず、伯の手が伸びた。
線の一端に、そっと、 ―――、触れた。
― 、、、温かい。これは、生者の証 ―
伯の指先が、それを確かめるように、輪郭をなぞっていく。
はッ、、、あ、、、ッ、ぐ、、、ッ、、ギギ、、、
短く荒い呼吸音に混じる、苦鳴が、指先から伝わってくる。
すべての情報が、触れている一点から、伯へと流れ込む ―――、感覚。
触れた当初、すべらかでいて、優美な曲線であった。
それが、突如、ざらついて不快な感覚を、指先に残した。
「、、、、、」
それでも、伯の指は、離れない。
触れた指先から、網膜へと流れ込み結ばれる ―――、映像。
沈黙の内に、指先で【線】を辿る、伯の様子。
≪ 我が君、、、我が、君? ≫
不安になった蟲姫が、声を掛けるが、
「、、、、、」
呼び掛けた伯に、反応はなかった。
そのまま、輪郭だけの彫像と化してしまったかのように、動かない…
― これは、【思念】だ、、、 ―
茫洋と、指の先で息づく気配を辿りながら、伯は【意識】を【網膜】へと移す。
そこには、第二の視覚とでも言おう世界が、次々と映し出されていくのだった。
腐臭で満ちた、蠕動する赤黒き大地。
紫紺の水が湛えられた湖畔から、記憶は始まった。
たおやかな仙女の姿で、肩に羽衣を纏った、探花使。
触れている者にとって、それは、幸福なひとときであった。
やがて【自分】は、とある浮島に芽吹き、祖に連なる【王】に、愛でられることだろう。
【脆弱なる者】にとって、それは、願っても無い幸運であり、【自分】は、それに足るだけの【花精】に成る ―――、はずであった。
それは、ほんの偶然であった。
不意に、風が巻いた。
悪戯な風伯が、探花使の衣の裾を弄ったのだった。
その拍子、
― 落ちる、、、 ―
探花使の青ざめた顔が、見えた。
伸ばされた指先よりも早く、空と空の狭間に、放り出される。
くる…くる…
上も下も、
右も左も。
くるくる…くるるるるくくる…
無防備な、生まれたての花精。
真っ逆さま。
龍脈に揉まれ、風に嬲られ、どこへ行くと言うのだろうか?
誰も、いない。
何も、無い。
黄昏色に占拠された、空間。
魂までもを散り散りにせんと、加速していくのを感じながら、五感が麻痺していくのだけは、分かった。
最後に、意識が闇に呑み込まれる―――、その刹那。
― 嗚呼、なんと言おうか?この感覚は、そう、、、【安堵】だ ―
この先を見なくてもいい事に【安堵】したのは、【呑み込まれた花精】と、今、それを【視ている者】―――、 同じ時を迎えんとしている、紛れもない【伯自身】であった。
― そうか、、、そうだったのか、、、 ―
一部始終を垣間見て、伯は何度も頷いた。
それは、己に言い聞かすようでも、あった。
≪ あ、嗚呼、我が君っ ≫
ふと、肩の辺りを見やった。
甲高い、聞き慣れた声音に、
「、、、、、」
無言で唇の前に、人差し指を、当てる。
≪ え、、、? ≫
蟲姫の心境を余所に、『静かにしていろ』とは、なんとも酷だが、
≪ 、、、、、 ≫
そこは蟲姫、ぐっと色香の香る丹唇を引き結ぶと、伯の懐にあるしゃれこうべの中へと戻っていった。
一方、伯は、【網膜】に結ばれた世界の、さらに奥深くを覗いてみた。
首の辺りまで、生ぬるい汚泥にも似たものに、浸かっている。
そこから、緑色の太い茎が、映えていた。
泥の中に、いる。
澱んだ、大気。
汚れた、水。
穢れた、大地。
いずことも知れぬそこで、命は紡がれていた。
手足は捥げて、首は皮一枚。
それでも四肢は、大地を求め、水を吸い上げ、呼吸する。
それは、順応と呼べるのだろうか?
緑であった茎は、次第に色を失い、皮が剥がれ、青い突起が無数に現れた。
そこから、捕虫するための赤き舌が幾重にも伸びて、自身も腐臭を放つのだ。
花精の精神とは裏腹に、肉体は、辛うじて得た【生】に、貪欲であった。
舞い寄った虫を喰らい、迷い込んだ獣の血肉を啜った。
時には、天津国では忌み嫌われる、雑鬼や瘴気の類も、糧に連なった。
堕ちてゆく―――、どこまでも。
「、、、、、」
伯が、手を、袖にしまった。
辺りを見回せば、輪郭だけの存在が、いくつもいくつも蠢き、点在しているのが見て取れた。
細く息を吐き出すと、
「ここに隠され、集められているのは、【異形の花精】。彼らを、霊紫でもって浄化していると言うわけか、花王よ、、、」
伯が、静かに問いかけた。
「うぬは、まだ、名乗りも挙げぬ【霊紫の結晶】。そういう事にしておけば、『まぁ、そうだ』と言ったところか、、、」
背後から、あの声が掛かった。
振り向けば、そこだけ淡く発光しているのか、唐布で口元を覆った花王が、忽然と佇んでいた。
手に、一輪の虹の牡丹を持っている。
唐布が、揺れた。
吐息によって、花弁が一斉に粒子となって、辺りに散らばり、
「お、、、」
闇が、晴れてゆく。
思わず、手指を見つめた。
白々とした、見慣れた手であった。
辺りを、見回した。
彩を得た、世界。
苔生した大地と、同色の天蓋。
清らかな水が、細く幾重にも流れるそこに、整然と居並ぶのは、この世ならざる色彩の花々であった。
おおよその草花は揃えていると言われる、天狐遙絃の花園。
そこで見た、どの花々とも違う、神々しくも禍々しい ―――、【狂乱の花園】。
暗紫に、浅葱の斑模様。
橙の雌蕊には、真紅の花粉と海松色の蜜。
漆黒の葉には、緋色の棘。
汚泥のようなものが、可憐な桃色の花弁の隙間から、滴っているものもある。
蔓状に伸びた枝に、つつましい雪色の花弁を結びながらも、その根本には、蒼黒い黴状のもので覆われた、手足と思しきものが見受けられる花精も、いた。
「、、、、、」
言葉を失った伯に、
「未分化の者もいれば、分化後に母胎樹と同化したものもいる。皆、生きるために様々だ、、、」
花王は、静かにそう言った。
手近な葉に触れながら、
「彼らは、未だ夢を見ている。覚めるかもしれぬし、覚めないかもしれない。永遠ともなるやもしれぬこれは、そう、【悪夢】だ、、、」
慈愛に満ちた眼差しで、けして愛でられる事ない【異形の花精】らを見渡した。
花精らを導き、束ねる【神意】を持つ者。
異形と言えども、眷族として、その行く故を案ずる事も、その【神意】に含まれているのかもしれない。
「うぬは、この浮島群の最上層、【天津国】は、知らぬな?」
「ああ、、、」
伯は、浅く頷いた。
幾度が耳にした事はあるが、海皇の眷族でもあり、大地に縛られた身ならば、無縁の場所だとも、思っている。
「そこには、神意神意と、頭の固い連中も多い。そやつらに知れたら、無慈悲に始末されてしまうかもしれぬ。神格に嵌っている連中は、時として、実に厄介でな、、、」
神々と呼ばれる者には、全てにおいて【神意】が優先されるようだが、時に、【神意】同士が重なりあう場合もある。
その際に初めて、個々の神格こそが試されるのだが、花王の口ぶりでは、それこそを、懸念しているようであった。
― だが、、、 ―
伯は、それを耳にし、逆にある疑問を、抱いた。
黎明と謳われる、澄んだ菫の双眸が、花王を見つめた。
口を突いて出た言葉は、
「あんたは、【悪夢】と言った。終わることを、願っているかもしれないとは、考えないのか?」
至極、天邪鬼なものとなった。
― 俺は、、、まだ、よく分からない、、、 ―
確かに、生きる事は、それだけで価値のある事なのかもしれない。
だが、価値があるかどうかは、最終的には自分次第なのだ。
伯の問いを受けた、花王。
唐布の下で、笑みが毀れた。
その問いを、まるで、待っていたとでも言うように。
「夢から覚めたら、聞くつもりだ、、、」
それは、一言で言って、明快なものであった。
伯は、思わず薄く笑っていた。
そして、そこに、
「気の長いことだ、、、」
「ああ、、、」
花王が背負うものを、初めて垣間見た気が、したのだった。
花精らが傅く中、無邪気に舞い寄った極彩色の蝶。
伯と蟲姫を見送って、玉座の間へ戻ってきた花王は、蝶をその手に止まらせて、
「あの幼神を、あまり揺さぶるなよ、、、」
巨獣の姿をしたものに向かって、そう言った。
「、、、、、」
金色の双眸が、花王に一瞥。
花王は、伯が描いたその姿を気に入ったのか、薄く笑みを漏らすと、
「名乗りを挙げれば、神意との板挟みとなるまでに、あの者の精神は柔軟だ。だが、それ故、脆い、、、」
指先で羽を休めていた蝶を、放った。
頼りなく、ふよふよと舞う様を眺めながら、
「つい、力を込めて ―――」
「、、、、、」
「―――、砕きたくなる」
「、、、、、」
その手を、握り締めた。
― そなたが、何を考えているのかは、いっこうに分からぬがな、、、 ―
細く、息を吐く。
幾重にも重なる七色の綾衣が揺らめけば、万華鏡が足元に現れた。
花精が爪弾く、竪琴の音に合わせて、変化する中、
「それはそうと、かつては共に、地上で過ごしたのだろう?それ故に、離れたのか、、、?」
「、、、、、」
沈黙が、返ってきた。
花王は、首を振り、
「、、、愚問であった」
「、、、、、」
玉座に、腰を下ろした。
降り注ぐ陽光に、金属に似た光沢を放つ玉座は、それ自体が生き物であるかのように、枝が伸び、透明の花蕾を結んだ。
ゆっくりと花開き、甘い香りが漂う中、
「久々の邂逅なのだろう?後を、追わないのか?」
細い顎先に手を当て、問えば、
「、、、近いうちに、いずれまた、会うだろう」
獣は、首を振った。
背に負った後光が眩く、全身を包み込む。
金色の繭に見えたのは、そのまさに一瞬。
白々とした人の手が現れて、
「ふん。それが、あの幼神が描いた、そなたの姿か、、、?」
花王は、目を眇めた。
白々と、肩に流れる垂髪は白く、新雪の如き肌には、青い血管がうっすらと透けて見える。
金色の双眸は、切れ長で、もの憂げ。
鼻梁高く、薄い唇は青く、どこか不遜な笑みを湛えていた。
一見して神々しいが、その身に纏うた闇色の寛衣に、紫紺の帯が、どこか底知れぬものを感じさせる。
【冥官】と呼ばれる、死者を迎える者が纏う【冥衣】であった。
長身の男は、己が指先を眺めてから、
「、、、いや。これは、以前、預かっていた人の身に、似せたものだ、、、」
慣れた様子で、髪を背に払った。
「懐に抱いた眷族を、【上】に差し出したくなければ、龍脈をずらす準備をしておけ、、、」
そのまま、踵を返し、揺らめく時空の狭間へと歩き出す。
「その姿で、どこに向かう?」
陽炎立ち昇る、その先へと遠ざかる白い背中。
玉座から投げかけられた、花王の問いに、
「地上だ、、、」
男は肩越しに、金色の一瞥。
青い唇は、そのまま薄笑みを、浮かべているようだった。
その姿が、陽炎に呑まれる寸前、
「誰に似たのか、あれはあれで頑固でな。時に、手を引かねば、何年何十年と【霊紫喰らい】を請負うような、そんな者だ。幸い口の堅い、霊紫の引き受け手に、心当たりがある、、、」
どこか鬱々と響く声音だけが、聞こえてきたのだった。