― マルェリアネ・ネルェリアネ ―
― 暴れ馬にでも乗っているみたいだ、、、 ―
体が、揺さぶられる。
四方八方から、違う流れが合流し、或いは離れ、うねる。
― さすがに、龍脈。空とは、勝手が違う、、、 ―
伯は、その複雑奇怪な波に、内心舌を巻いていた。
未だ、名乗りを上げぬ未熟な神霊では、到底御し得ない力が、働いている。
『なぁに、心配はあるまい。お前程の神霊であれば、龍脈を渡り天津国に至る事も、十分にできようよ、、、』
― 天狐め。さも簡単に言いやがって、、、 ―
その実、屋敷から出るのが億劫な天狐の押し付けによって、文の宛名が書き換えられたのだが、少なくとも応じてしまった以上、引き下がる気はなかった。
太陽の輝きに隠れているはずの星々が、近づいては遠ざかってゆく。
黄昏色に染まって見える世界は、伯の目に、捩じれてもいて、凹んでも見えた。
幾筋もの巨大な龍が、波打ちながら大地に鎌首を突っ込み、或いは、空へ向かって、または互いの体に牙を穿っている。
その巨大な【龍】のように見えるものこそが、そのまま龍脈と呼ばれるのだが、
― いまいち、違いが分からん、、、 ―
名乗りを挙げた神々の目には、それ以外の姿として、映るのかもしれない。
― 三界を繋ぐ、龍脈筋。地の底に潜り、海原を貫けば、、、冥府の深淵へも、辿りつけるのか? ―
ぼんやりと、そんな事を考え、首を振った。
― 今は、さっさと終らせる事に集中せねば、、、 ―
伯は、龍鱗浮かぶ六枚の鰭を、大きくはためかせた。
それまで伏せていた紫紺の背鰭が、深紅の鬣と共に迫り出す。
無数に枝分かれした、翡翠の珊瑚の角。
金色の輝きを宿すのは、まだ開かぬ頭部中央に浮かぶ、吉祥紋。
突き出した吻の下部が割れると、鋭い牙の羅列が覗き、
オオオオォ・・・オオン・・・
舌が捕らえる、霊紫の香り。
それが、伯の脳裏で【色】を纏った。
― どこだ、、、 ―
複雑な龍脈の流れを、霊紫の【色】を辿って、【視】る。
枝分かれし、天津国や海底、地底、地上の様々な国々に根を張る、龍脈。
複雑にうねり狂う、細き糸の先を、懸命に追えば、
― ああ、、、そこか、、、 ―
伯は、脇道に反れた。
そこは、深藍の世界。
懐かしい大海原にも似た、成層圏。
高みから睥睨する先に、
― 浮島、とやらか、、、 ―
島影のようなものが、見える。
細き一筋の糸の先端は、そこに突っ込んでいた。
巨躯が、身を翻す。
何が待つとも知れぬ、その先へ。
「どうした、、、?」
どこか物憂げな声音が、御簾の向こうから掛かった。
ここは、なんと言う一室だろう。
壁から天井、床に至るまで、その全ては極彩色の花々で埋め尽くされていた。
しっとりとしたベルベットにも似た質感を残すそれらの香りは、交じり合い、えもいわれぬ馨しさ。
常に、その香りの中に身を置く主は、
「、、、、、」
「、、、、、」
情無く背を向けた、白い巨躯を見つめている。
その訪れはいつとも知れず、ニ、三言葉を交わせば去ってゆく時もある。
それなのに、なんとも満ち足りた心持にさせる、そんな相手であった。
足音もさせず滲んだ闇へと向かった、獅子にも虎にも似た、その相手。
浮島の主は、
「ふ、、、」
小さく、溜息だ。
去ってしまえば、また、まんじりともしない時が、待っている。
別段、苦になるようなものではなかったが、【それこそ】が【退屈】だと【意識させた者】だと、その背中は思い知らせてくれるのだった。
何度も ―――、何度も。
いつものように脇息に凭れ、庭で囁き、舞い、謳う子らの声に耳を澄ませようとして、
「む、、、」
かつてない気配に、身じろいだ。
― この気配は、、、? ―
今し方まで、そこにいた巨躯を探すが、
「、、、、、」
異変を、逸早く察知したその姿は、既に、忽然と掻き消えて…
白き獣の姿をした巨躯は、浮島の淵に立っていた。
一度、大きく首を振る。
龍脈の流れ、その【一端】を、喚んだのだろう。
大きく波打ちながら彼方から押し寄せる気配に合わせ、前肢を進めた時であった。
「、、、、、」
黄金の輝きをそのまま嵌め込んだ双眸が、彼方上空を見上げた。
共鳴するかのように軋むのは、かつて心の臓であった所だろうか?
「、、、、、」
忘れようはずもない、懐かしきその気配。
近づく【その気配】を、退けようとしたのか?
【白き獣】は、出したままの前脚を見つめ、
「、、、、、」
浮島の大地を、今一度踏むべく ―――、戻した。
どこか人間じみて、それでいて鬱々とした吐息が長く、深藍の世界に洩れたのだった。
― 間違いない。この先だ、、、 ―
半ば強引に龍脈を突っ切りながら、泳ぎ寄る。
次第に見えてくるのは、巨大な城門に、高い塀。
聳えるような巨木が連なる回廊が続くその先に、霧煙る白亜の宮殿が垣間見える。
一息に降下しようとした、その刹那、
― !! ―
体制を崩し、よろめく。
辛うじて踏みとどまり、辺りを見回すが、その姿は当然、見当たらない。
― 今、名を、、、呼ばれた? ―
懐かしい【その声】が、聞こえた気がした。
俄かに、漂う霊紫の濃度が高まり、頭が、ずきずきと痛みを訴える中、
『何用だ?!』
澄んだ声音が、響いた。
『ここは花王宮。その名の通り、花王が御座す神域ぞッ』
瓜二つの顔が、居並んでいた。
毛先は緑を帯びた、紅の髪、。
白金の玉環を通し、萌葱の衣に、薄桃の領布。
手甲と脛当てに、鐵と戟。
「、、、花王宮」
巨躯の呟きにも、動じる素振りも事ない。
それどころか、戟を構え、今にも飛び掛らんばかり。
この手の輩の来訪は、どうやら慣れている様子。
その手厚い歓迎の証は、眼下に広がる萌葱色の草原に白々と伺い見える ―――、異形の巨骨群として。
「霊紫を辿り、地上より来た者だ、、、」
『地上より、、、?』
訝しげな眼差しの二人の声が、重なった。
「ああ。どうもこの島から流れ込んでいる霊紫によって、倭の北の龍門が落ち着かぬ。血肉を纏う天狗は、龍脈に入れぬ。それら地上の守に代わって、こうして出向いた者だ」
『それは、まことか、、、?』
「出所が分かった今、霊紫の流出は、そちらの管轄だ。場合によっては、浮島の危機ともなろう」
『、、、、、』
「この神域を荒らすつもりはない。差し支えなければ、ここで待つ。花王に、取り次ぎを、、、」
顔を見合わせた二人の内、
「ふ、、、荒らすつもりは、無い?」
左側が鼻で笑った。
鐵の大戟を構えると、
「招かざる者に、変わりはない、、、」
その肌が泡肌立った。
鱗の如き白き花弁が逆立ち、甘い香りが辺りを包み込む。
「我が身が纏うは、肺腑を爛れさせる狂宴香。並みの神霊なら、ものの数分で内腑より爛れ落ちようよ」
「、、、、、」
巨躯が、うねった。
身をくねらせ、紫紺の背鰭を大きく開く。
その身が、彼方の草原に向かってよろよろと降下を始める。
「うぬらの如き輩が、大層な理屈をつけ、退屈しのぎにやってきては、神聖なこの地に穢れを持ち込む。ほとほと迷惑しておるのだ。ここは花精の園。あの登翔門を潜る者は、探花使と花精のみ、、、」
冷ややかな眼差しで、いつもながら冷酷無比な片割れに、
「ネルェリアネ、それくらいにしてやれ。みたところ、まだ、幼い神霊じゃないか、、、」
なんとも呆れたような顔で、たしなめた。
「お前は甘いんだよ。マルェリアネ、、、」
ネルェリアネは、傍らのマルェリアネを睨んだ。
「浮島がどうなったって知るか。ネルェは花王から、正面から現れた見知らぬ者は、好きにして良いって、お墨付きをもらっているんだ」
「花王宮に訪ねてくる物好きは、探花使以外じゃ、冥府の、、、むっ」
マルェリアネが、眼を凝らした。
ぐったりと草原に伏し、その身が溶け出すのを待つばかりとなった巨躯の口が、大きく開いていた。
カタ・・・カタカタカタ・・・
何かが、触れ合う音がする。
カタ・・・カタ・・・カ・・・
近づくその音は、、、?
「なっ、、、」
骨と言う骨が、触れ合っているのだ。
すぐにそれはわんわんとした振動となって、
「分解されていくッ!!ネルェの、、、ネルェの狂宴香がッ」
たまらず耳を押えたネルェを庇うようにして、マルェリアネが立った。
「あれは、、、人の、、、」
その口から赤光放ち、歯をカタカタと鳴らせているのは紛れも無い。
人の頭蓋骨であったもの。
ふわりと浮かび上がると、凄まじい赤光を放ち、
カタタ…カカ…
こちらを睨み据えている。
― こやつ、死霊を従えていると言うのか?! ―
少なくとも、マルェリアネの記憶では、今まで死霊を使役する神霊の存在に出会った事が無かった。
「蟲姫、もういい、、、」
巨躯が、大地より鎌首を擡げて、言った。
≪ 主様が、そうおっしゃるのでしたら、、、 ≫
振動が止むと、頭蓋骨はその口に吸い込まれ、閉じられた。
ぶるりと身震いする巨躯に、青ざめた顔のまま、
「おのれぃいいっ」
大戟を振り下ろさんと逸る、ネルェリアネ。
「もうよせ、ネルェリアネ」
「だがっ」
「お前の狂宴香を受けても、あの通りだ」
その眼差しの先には、ただひっそりと、こちらを伺う巨躯の姿。
「それがなんだって言うんだ?!」
こんな屈辱は初めてだ、とばかりに、鼻息荒いネルェリアネ。
「お前の狂宴香は、死霊によって防がれた。分からないのか?あの神霊の力は、未知数だぞ」
「知るかっ」
なだめようと、血走った眸を覗き込むが、聞く耳持たぬネルェリアネ。
「、、、ならば何も言うまい」
マルェリアネは、その肩を離した。
大戟を振りかぶって、ネルェリアネが、神速の降下を始める。
≪ 主様、、、 ≫
腹の中で、蟲姫の心配そうな声がする。
「すぐそこまで来ている、、、」
意味深な声音で、巨躯は鰭を大地に広げた。
そして、
「霊紫に、分解してやるよっ」
大戟の一閃。
凄まじい衝撃波が放たれる、刹那 ―――、
「おいで。」
―――、 優しい詞。
それは、召喚であり、呼び水。
ピ・・・シャ・・・ンン・・・
「むッ」
何も無かった空中に、突如現れた水の囲い。
それどころか、放たれた衝撃波は分厚いその水の層の中にあって、外郭に程近い辺りで、
ちゃぷん・・・
とやったきりであった。
「舐めやがってっ」
むちゃくちゃに振り回しても、
「くそぉっ!!なんでだよぉおおッ」
水の囲いは、そう容易く裂けはしない。
ネルェリアネは、穏やかですらある巨大な水球の中だ。
「おい、マルェリアネッ!!傍観してねぇで、さっさとネルェをここから出せッ」
囲いの内側から叫ぶ、片割れに、
「良い機会だ。少し頭を冷やせ」
「お、、、マルェッ」
大戟を左手に持ち直し、巨躯の元へと舞い降りる。
ひっそりと、大地に腹をつく巨躯と対峙すると、
「責任はこのマルェリアネが負いましょう。我らの通用口を開きますので、こちらから、どうぞ、、、」
大戟の柄で、大地を穿った。
大地が波打ち、粒子が散漫するのを、腹の下に感じる。
紫紺の渦が生まれると、一行は足元から徐々に呑まれて行く。
― 時空間。俺が使っているものとは、規模の桁が、違う、、、 ―
闇色に染まってゆく、視界の中、
「マルェリアネ――ッ」
ひどく耳障りな劈き声が、わんわんと響いていた。
「、、、、、」
天も地も、無い。
方角すら、掴めない。
酷く狭くもあるようで、広くもあるような、感覚。
ただ、ぽつりと、在る。
辺りを見回せば、ただ、黄昏を思わせる薄闇が、延々と辺りを占めていた。
≪ 主様、これは、、、 ≫
なんとも不安げな蟲姫の声音に、
「舐められたものだな、、、」
言葉とは裏腹に、のんびりとした声音が応じた。
あくびを、噛殺しているらしい。
そのまま、くったりとして、漂うに任せる気配に、
≪ 騙されましたのに、そのように悠長な、、、 ≫
さすがに、蟲姫が呻いた。
「腹の中で喚くな、蟲姫、、、」
≪ あ、、、 ≫
口が開くと、しゃれこうべが転がり出た。
闇を嵌め込んだ眼窩から赤光が放たれると、黒髪豊かな美姫となる。
≪ ほぅ、、、 ≫
赤々とした眼差しと、それ以上に濡れ濡れとした丹色の唇が、白い溜息を吐いた。
「それに、まだ、騙されたと決まったわけじゃない、、、」
のうのうと、惰眠を貪ろうとする主の傍らで、
≪ だとしても、この状況は、、、。主様、お休みになられる前に、綻びの一つでも、見つけてくださいまし、、、 ≫
蟲惑的な唇を尖らせた。
聞く耳持たぬ様子で広い背を向けると、
「我らは所詮、余所者。足掻いたところで、その気がなければ扉は開かぬ、、、」
≪ もし、永遠に開かなければ、、、? ≫
刹那、凍りついた、大気。
幽鬼の身でも、寒いと感じるのだろうか?
己の肩を擦る姫は、薄笑い混じりの、
「その時は、あの浮島諸共、水底に沈めてやる、、、」
声を聞いた。
底知れぬ、神霊としての姿。
そして、絶対の畏怖の後に来る、
≪ 嗚呼、我が君、、、 ≫
この戦慄は、、、?
それは、従属と言うものが、震えるまでに甘美なものだとさえ思える、瞬間でもあった。
ふよふよと主君の傍らに舞い戻れば、心得た様子で、その口が大きく開いた。
しゃれこうべとなって吸い込まれてしまえば、そこは群青の世界。
こぽ・・・こぽぽぽ・・・
泡が、上へ下へ、右へ左へ。
舞い寄っては、擦り抜けてゆく。
そこは確かに伯の腹の中でもあるのに、外の様子が手に取るように見えるのだった。
マルェリアネは、闇の中でまんじりともせず、大戟の切先を眺めていた。
「、、、、、」
眼を凝らしたとしても同じように【視える者】が、如何程存在するだろうか?
針の先程の【点】が、そこに【存在】していた。
― さて、どうしたものか。このままどこか彼方に流してしまうか、あるいは、花王に、、、 ―
時空間。
裏側にある、世界。
線と点で繋がる、各界の狭間。
― いや、やはり、素性の知れぬ者など、、、 ―
マルェリアネは今、大戟の切先で開いた時空間の出入り口を捻り、塞いでいるのだ。
それが、点。
― 幸い相手は、名乗りも上げぬ幼神。ネルェリアネ共々、ここで欠けたところで、それもまた大いなる意思の掌中、、、 ―
大戟を引き抜けば、それで全ては終る。
捻った点が圧縮され、その中に閉じ込めた空間諸共、時空間に漂う粒子として分解される事だろう。
一息に、引き斬ろう。
腕に力が入り、幼神を【神砕く】。
無意識ではあったが、口角が上がり、薄笑みを湛えた ―――、刹那。
「つ、ぁッ、、、」
大戟が、灼熱した。
たまらず手を離せば、大戟はゆるりと宙をたゆとい、点は広がり、空間に同化した。
クククク・・・
ぼんやりとした輪郭が色彩を纏い身震いすれば、群青色の燐粉が流星の如く四方八方へと流れていった。
紫紺の背鰭が大きく広がり、孔雀、鳳凰を思わせる長い尾鰭を靡かせ、翡翠の龍鱗を浮かべた六枚の鰭でもって大気を掴む。
睥睨するかのように、深紅の鬣をざわつかせ鎌首を擡げる、その姿。
― どう言う事だ。何に、守られていると、、、?! ―
痺れる手首を掴んだまま、冷たい汗が噴出す。
何かの庇護を確信し、愕然とするその鼓膜を、
「退け。魂魄を、焼き尽くされるぞ、、、」
震わせた、低い声音は?
「冥淵君、、、」
弾かれたように蹲踞した、マルェリアネ。
いつの間にか、白い光が、差し込んでいた。
「それは、我が地に縛りつけし ―――」
闇の中から歩んでくるのは、茫洋とした白き陽炎。
伯は、近づくその気配に、
「、、、、、」
動けずにいた。
すれ違う、その瞬間。
「冥海の名を冠する者だ、、、」
「あ、、、」
群青の髪に、触れられような…
「しかし、冥淵君、、、」
さすがに声を荒げたマルェリアネも、
「このところ、探花使の質が落ちたと嘆いていた。あの花王のことだ。新顔に飢えておろう、、、」
「ぐ、、、」
格上の相手に、返す言葉を失ったようだった。
「め、、、冥淵君が、後見であらせられるのなら、、、」
マルェリアネの大戟が空間を斬ると、彼方に薄明かりが毀れる。
そよ風にでも揺れる紗幕が、幾重にも垂れたそこへ、
「度重なる非礼を、無知を、お赦し下さいませ。この先こそ、まぎれも無い、花王宮、、、」
伯に深々と一礼すると、マルェリアネが先立って薄明かりの中へと消えて行った。
当の伯は、
「、、、、、」
マルェリアネの言葉など耳に入らず、ただ、背後の気配だけを、捉えていた。
全てが、その一点に注がれている。
まるで、それ以外の一切を、忘れてしまったかのようだった。
「、、、、、っ」
いざ、このような形で出くわしてしまうと、なんと声を掛ければいいのか、分からなかった。
頭の中が、うろたえるでもなく、真っ白だった。
「その懐のしゃれこうべは、穢れ。ここへ、置いてゆけ、、、」
その声の主。
「、、、、、」
振り向いた先の闇の中に、白き獣が佇んでいた。
「ぁ、、、、」
腹腔深くから、胸の辺りへと込み上げる痛みを、伯は知っていた。
触れたい ―――、
そう伸ばした、腕。
それは鰭であったはずなのに、指先となった。
―――、モドッテシマウ。
その手を取られたのなら、全て【さかしまに時が巻いて】しまう気がして、
「、、、、、」
伯は、手を戻した。
彷徨う視線が捉えたのは、半透明の己が鰭であった。
「聞こえなかったか、、、?」
どこか、冷ややかすらある声音に、巨躯は大きく首を振った。
「いやだ」
はっきりとした声音が、告げた。
≪ 主様、、、 ≫
腹の中に在る蟲姫の声が歓喜に打ち震えて、聞こえてきた。
「これは、あんたのものじゃない、、、」
伯は、振り切るように背を向けた。
身をくねらせると、花王宮へと繋げられた、紗幕揺らめく薄明かりの中へ。
その声から、姿から、逃れるように…
光の中へと、吸い込まれて行くその後姿を、見送った白き獣が、
「、、、、、」
淡く笑ったような…
やがて、ゆっくり前肢を上げると深き深淵の闇が揺らめく、その奥へ。
今はまだ、微かに残る潮の香りだけを、共に…