厨房にて
「…………遠い」
邸の廊下を歩きながら、あたしは呟いた。私室から厨房へと向かっているのだけど、前世の記憶を取り戻したばかりのあたしにはこの広々とした貴族のお邸がとてつもなく広く感じてしまう。たかが男爵家、されど男爵家。一般市民に比べたら非常に大きなお邸に間違いない。
「ワンルームとは言わないけど、せめてもうちょっと近くても良くない?」
あぁ、そうか。お貴族さまは厨房が遠くても使用人がお茶もご飯も運んでくれるから関係ないんだわ。ある意味納得しつつも、せめて水差しくらいは部屋に置かせてくれても良いよね。これもお姉さまたちからの嫌がらせの一つだったと思い出す。水差しが部屋に無いから、喉が渇く度に厨房へと足を運ばないと飲めないのだ。せめてコップ一杯の水だけでも……という願いさえも却下されていた。使用人でさえ、自分の部屋に水差しくらい置いているのに。
「マジで性格わっる!」
なんというか……とっても、ちまちまとした嫌がらせばかりされて来た気がするわ。例えば……お姉さまにだけ新しいドレスを仕立てて、あたしにはお姉さまがサイズが合わなくなったお古のドレスを渡される。それだけならまだしも、わざとあたしにさえサイズが合わなくなってからようやく渡してくるのだ。お蔭で自分でサイズ直しをしてからじゃないと小さくて着れない。
最近になってお姉さまとのサイズ差が殆ど無くなったから、その手段も使えなくなったのよね。そしたら今度はわざとドレスにワインや紅茶を零して染みを作った後に渡してくる様になった。どんだけ暇なんだっつーの!
「思い出せば思い出すだけムカムカするわ。何か一緒に甘いモノでも食べよう」
ようやく辿り着いた厨房へと入ると、夕食の支度をしている料理人のパンチェスが顔を上げる。
「パフィットお嬢様、頭を打たれたと聞きましたが大丈夫ですかい?」
「ええ、無事よ。それよりも余っている水差しを一つ頂戴。あとグラスも」
「……ようやく奥様が許可されたんですか?」
「これからぶん取るところよ」
あたしの言葉に目を丸くするが、すぐに面白そうな顔をして水差しとグラスを用意してくれた。
「とうとう反撃されるんですかい」
「下剋上ってとこかしら。どんなお顔をされるか楽しみだわ」
実はこのパンチェス。あたしの母の幼馴染だったりする。当時この邸でメイドとして働いていたあたしの母は、父である男爵の気まぐれで手をつけられたのだが本当はパンチェスと想い合っていたらしい。でも、父のお手付きとなってしまった為に二人は結ばれる事は出来なかった。
そんな過去があるからか、パンチェスはあたしの味方だ。
「そういう表情をするとパオラそっくりですな」
「嬉しいわ」
あたしはいそいそと、棚の中からクッキーの入った籠を取り出した。そして勝手知ったる厨房で紅茶を淹れ、使用人用のテーブルの上にクッキーと紅茶を広げて口へと運ぶ。あぁ……甘いクッキーで癒されるわ~。ポリポリとリスの如くクッキーを咀嚼していると、奥の廊下から金切り声を発しながら赤い髪をアップにした女性が厨房へと入って来た。