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憤怒の赤、狂い咲く華  作者: 徳川万次固め
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六話 結局何が正解なんだろうか

 全力が注ぎ込まれたその腕はまるで金属の塊のようだ。

 そこから放たれるパンチはおそらくトワコの頭部を刈り取って余りある威力があるに違いない。

 そう思わせる様相であった。


 右拳を握り締めたアグゼが一歩踏み出す。


 対するトワコはただ静かに己への刑が執行される瞬間を待っていた。

 命を要求するなら少し時間が欲しいと言いはしたが、アグゼが待てないというなら仕方がない。

 今の彼女にとって、彼の意志は絶対であった。

 彼が是と言えば例えどのようなことであろうと是なのである。


 元々テーブルを挟んで会話していた二人の間に大した距離はない。

 二歩でトワコの眼前にまで迫ったアグゼはパンチを放った。

 あまりにも、妙なまでに不格好な右のアッパーフック。

 しかしその拳はクリーンヒットすることなく彼女の頭上スレスレを通り抜け、上に振り上げた拳に引きずられる様に体が反転し、アグゼはその場にひっくり返ってしまう。


 この瞬間だけを切り取って見たならそれは失笑ものの光景だっただろう。

 だがそれを見ていたのはトワコだけであり、アグゼ全肯定マシーンと化した彼女がそんな彼を笑うはずもない。

 先程の一撃はトワコの左のこめかみをごくわずかにかする程度には当たっており、ごく少量ではあれど彼女の頬には血が垂れ落ちていたが、トワコはそんなことには一切気を止めずアグゼの異常に気を掛けていた。


 彼は打ち上げられた魚のように床の上でもがいていた。

 その様はまるで溺れているかのようだ。


 アグゼは苦しんでいた。

 極度という表現を超える程の感情の奔流が彼の中を巡り、結果として彼の身体機能を狂わせたのだ。

 怒りは限界以上のパワーを右腕に伝えたが、その感情は力を開放するというパンチにおける次のプロセスを彼の中から消し去ってしまっていた。。

 おかげで彼は膨らみ固まった腕をそのまま振り回す羽目になり、無様にもすっ転んでしまったのだった。


 そして今もまだ苦しみは続いている。

 運動時などに亢進する交感神経と、リラックスした時に亢進する副交感神経。

 これらは身体状況をベストに保つために自動的に働く自律神経系と言われる代物なのだが、この二種は基本的には常に相反するものである。

 なのに今のアグゼの体の中ではこれらのバランスが滅茶苦茶になっていた。

 そのせいで心拍や呼吸、体温や瞳孔の開き具合などが全く安定せず、立ち上がることすら満足に行えない状態に陥ってしまっていた。


「力を抜いてください、アグゼ。意思で律しようとしても苦しむだけです。体が自然に落ち着くまで休んでください」


 朧気ながらも事態を見抜いたトワコが傍に寄って膝を折り、アグゼの顔色を伺いながら助言をする。

 今は彼女の言うことなど全て反発したい心持ちのアグゼだったが、実際他にどうしようもなく、助言に従うように大の字になったまま息を整え始めた。


 荒い呼吸音が徐々に静かになっていく、そんな様子だけが見られる二人の空間。

 やがて口呼吸が必要ない程度に落ち着いたアグゼは、今度は仰向けの状態からゆっくりと反転しうつ伏せになった。

 そのままジッとしているようだったが、少しずつ何か声を出し始める。

 それはうめき声、いや……嗚咽の声だった。

 

 傍で着物姿の美女が正座する中、大の男がうずくまって臆面もなく泣き続けている。

 時折むせたり鼻をすする音も出しており、その姿は男泣きなどと言えたものではない。

 まるで迷子の子供が泣き崩れているかのようであった。


「もし御所望であれば、私自身の手でこの首かき切ってみせましょう。いかがなさいますか?」


 気遣いの気持ちを込めた慰めの言葉とはいえ、あんまりにもあんまりなセリフである。

 もし第三者が聞けばドン引き間違い無しであろう。

 しかし、彼女はそれを至って真面目に口にしていた。


(そうじゃねぇっ。それじゃ、ダメなんだよっ)


 だがトワコの言葉はアグゼの心には響かない。

 アグゼは事態のドン詰まりっぷりに悲観していたのだ。










 心が衝動的に反応しようとも、頭脳までそうなるとは限らない。

 トワコを殴り飛ばそうと動くその最中にアグゼはしっかりと考えたのだ。

 この事態の行く末を。

 そして理解したのだ。

 ここで彼女を害せば、俺は終わる、と。


 今のトワコはアグゼの望みとあらば大概のことは戸惑うことなくこなすだろう。

 現に今も彼女はアグゼの心を癒すためだけに積極的に己の命を掛けようとしていた。


 しかし、もし、本当に彼女を害したらどうなるだろうか。

 例え命を奪うほどでなくとも、目に見えて残る傷跡などを与えれば、一体何が起こる?


 答えは明白だ。

 彼女の縁者全てがこちらに襲い掛かってくるのだ。

 トワコ自身はそれを止めようとするだろう。

 必要ならば頭を下げてでも周囲の説得に奔走するに違いない。

 だがファンドリオンの人間はそれで止まるような奴らだったか?

 アグゼは十二年前の絶望を思い出してそれを否定する。

 仮にトワコの自傷だったとしても、あいつらの手はその原因を探り当てる、そんな気すらしたのだ。


 別にファンドリオン家が慈悲も容赦もない人間の集まりというわけではない。

 平民であるアグゼの耳に入ってくるファンドリオン家の評判は、むしろ好意的なものが多かった。

 平民にも門戸を開いており身分の差をあまり感じさせなかったり、情が厚く領民や門下生など身内には誠意を持って接することなどが評判を上げる理由のようだった。

 だが名のある武家というものは気性が荒くなるものか、逆に敵対したものには容赦がないという話もチラホラと耳に入ってきていた。


 そんな名門貴族家を敵に回す。

 今や聖女のようにも称えられる彼らの最愛を、誰も知らないずっと昔の恨みを理由に害して。

 ……なんだこれは。

 そんなもの、誰が認めてくれる、誰が賛同してくれる。

 ファンドリオンの奴らは一族総出でこちらを狩りに来るだろう。

 世間の人々は例え理由を聞いたとしても、こちらを心の狭い悪者として扱うだろう。

 物理的にも潰されるし、評判的にも地に沈むだけだ。

 そんな選択、アグゼに取れるはずもなかった。




 話されなければ忘れていられた。

 事実だろうと、知らされなかったならそれは存在しないも同然だったのに。


「お前、がっ、言わなぎゃっ、おば、えがっ!」


 うつむいたままのアグゼの言葉はくぐもっていてとても分かり辛かったが、トワコはそれを静かに聞いていた。


「なんで、今になっで現れだんだよぉ、なんで……」


 アグゼの嘆きに対して彼女は至極真面目に声を返す。


「アグゼ、貴方の心のままに、成したいことを教えてください。私の力の限り、それを叶えてみせます」


「成したいこどなんでっ、ぞれはっ――」


 ふと、アグゼは妙な違和感を感じた。


(こいつ、まさか気付いていないのか?)


 これまでの会話からトワコが優れた知性や察しの良さなどを持っていることはアグゼにも理解できていた。

 しかし、それなら今アグゼが感じている苦悩に気付かないというのはおかしくないだろうか?

 もし、実は彼女がこの詰みっぷりを見てほくそ笑むようなクソドSだったならむしろ感心することろだが、さすがにそれはないだろう。


 アグゼはそれを確かめるため、一旦気を落ち着かせてから顔中の液体を袖で拭い、トワコの方を向いた。


「お前に……聞きたいことがある。今、俺がお前に害をなしたとして、その先はどうなると考えている?」


「どう、とは?」


 気を抜くと声を荒げそうになるので、アグゼはゆっくりと、淡々と話した。

 トワコに手を出せば恐らくはその報復でアグゼも無事では済まないことを。

 そしてそれは考えうる限りどう御膳立てしても避けられず、実質手も足も出せない現状に置かれていることを。


「腹を空かせた犬の前に毒入りの餌が用意されたようなものだ。残酷だな、反吐が出る」


 話を聞くにつれて、平静だったトワコの目が少しずつ見開いていき、顔色も悪くなっていく。


「俺は無理矢理そんな犬にさせられたんだ、お前の手で」


「ち、違います! 私は、そんなっ」


「何が違う。言え、言ってみろ」


 アグゼの言ったことを理解したトワコは何かを言いたげに口を開け閉めするが、口にできる言葉が無いようだ。

 視線が行ったり来たりを繰り返し、所在なさげに手が胸の前で止まる。


「そ、そう、お金を用意しますっ。私の持ちうる全てをっ」


 トワコの言葉を聞いてもアグゼの表情は変わらない。

 ジッと睨むように黙っている。


「待ってくださいっ、すぐ、今すぐにご奉仕します! だから、だからっ」


 トワコは立ち上がり着物を脱ごうとした。

 帯に手を掛けて――


「やめろ、もういい」


 ビクッと体が震え、そのまま固まってしまう。

 涙目になったトワコはゆっくりと離れていた目線をアグゼに戻した。


 何を告げられるのか戦々恐々としているトワコ。

 そんな彼女の心とは裏腹に、今のアグゼは随分と平常心を取り戻していた。

 自分よりも慌てている人を見ると自然と落ち着いてしまう、そんな状況に近いだろうか。


 アグゼは思案する。

 はっきりとした理由は分からないが、今の流れはトワコが望んだものではないようだった。

 ならばどうしてくれようか。

 彼女は現在なりふり構わず罰を望んでいるようだが、それに応える気にはなれない。

 正直に言えばその提案に魅力を感じたことは事実だ。

 チラッとトワコの全身を流し見る。

 体形の分かり辛い着物を着てはいても、その優れた容姿を見れば体つきもそそるものであることは容易に想像ができる。

 極上の女を味わうチャンスを前にして目の色を変えるなというのはなかなかキツい話だ。

 しかし、それでも彼には譲れない想いがあった。


 それはこの償いの話が、半分は義父の最期についてのものだということにあった。

 もし自分が傷付けられたというだけの話だったなら、大人しく金や女などそういった補償で済ませても構わないと思えたのかもしれない。

 しかし苦しんで果てたであろう家族の無念を思うと、そんな決着は認められないというのがアグゼの心境だった。


(父さんの死の理由としては安すぎる。それに、女を抱くネタに父さんを使うつもりはない)


 しかし、だからといって死をもって償わせるルートなども取れないことに変わりはない。


「はぁ……」


 落ち着きを取り戻したアグゼは、自身の精神が大きな疲労を抱えていることを感じていた。


 腫れぼったい目を閉じて、状況を整理して、なんとなく考える。


(これ、今急いで結論を出す必要はないのでは?)


 アグゼは思ったことを口に出す。


「保留だ。今結論は出すのは止めにする」

 

「え……」


「今のこの状況が俺には辛いんだ。俺の為にと考えるなら、察してくれ」


「っ、はい、はい!」


 トワコはコクコクと頷く。


 再び息を吐きながら、アグゼは赤く腫れたまぶたの上から目を軽く押さえた。

 しばらくそのまま体を休め、そしてほどほど時間が経った頃、彼は立ち上がった。


「今日はもうこれで帰らさせてもらおう。だがこれで終わったわけじゃない。必ず償いはさせる、必ずだ」


「はい」


 トワコも少し落ち着いたのか、その返事は再開当初の凛とした声に近いものとなっていた。


「……そのうち使ってやる、使い潰してやるよ」


「お待ちしております。それでは、これを」


 トワコは懐から巻き貝のようなものを取り出した。


「なんだ?」


「遠話の術式を込めた付術具です。御用とあればいつでもお呼びください。万事を排して応対させて頂きます」


 差し出された巻き貝をしばし眺めた後、アグゼはそれを受け取った。

 そして彼女に背を向けると歩き出し、部屋の扉に手を掛け開ける。

 扉をくぐる時に一瞬その体が止まるが、彼は特に何か言うでもなくそのまま出て行ったのであった。






 アグゼが去った後、トワコは己の不甲斐無さをただただ恥じていた。

 事態は己の想像とは全く違う終わり方になってしまった。

 彼女は金銭のことなども口にはしたが、元々自分の命をもって償うことを念頭に置いていたのだ

 しかしその考えが彼女らしくない想定の甘さを呼び込み、思わぬ状況を招いてしまった。


 思慮深いトワコがこのような失態を見せた理由、それは己の死を強く意識し過ぎたせいであった。

 無理もない話である。

 彼女は何か大きな教義に沿って生きている宗教人などではないのだ。

 償うという心に嘘はないが、それでも若くして自身の最期をその意思で選択するということは、彼女の精神に多大な消耗を強いた。

 その結果、彼女はそれに付随するもの、例えば自身の死後のことなどに頭が回らなくなってしまっていたのだ。


 正直に言ってしまえば、アグゼが生きているかもしれないと知り、死をもって償いをすると決めたその時から、

トワコの精神状況は澄ました表情の下でパンパンに膨らんだ風船のようなギリギリ状態に置かれていた。

 結局その風船は破裂することはなかった。

 過程はどうあれすぐに命を失うことは避けられ、彼女は自分でも気づかないうちにホッと息を吐き心の安定を取り戻すこととなる。

 しかしそれと同時に、改めて彼女はとんでもないことをしでかしてしまった事実に胸を痛めていた。


 少しでもアグゼにとってプラスになればと思って起こした行動で、まさかの損害を与えてしまう。

 あまりにも滑稽、あまりにも無様。

 アグゼによって激しく散らかされた部屋の中で、トワコは正座をしたまま目を閉じて自身を強く叱責する。

 己は、これからどうするべきなのだろうか?

 

「決まっています。私の全てをささげ、彼に尽くすのです。今度こそ……間違えません」


 決意するトワコはそういえば、と思い出す。

 急いで着物を脱ごうとしたとき、ほんの少しだがアグゼの目に劣情の色が浮かんでいたような気がする。

 でも彼は記憶よりもずっと強い、しっかりと己を律することのできる尊敬できる男性になっていた。

 立派な人間である彼は女性を単なる性のはけ口にはしたくないのかもしれない。


(彼に気兼ねなく使ってもらうために、もっと御膳立てをして、もっと理由を付けて、そうすれば……)


 彼に組み敷かれる自分を想像して、ほんのりと頬が赤くなる。

 そうだ、彼がその気になった時の為に、これからはもっと女を磨くことを意識しよう、そうしよう。


 あくまでアグゼの為と前置きしつつ、トワコは色々なことを考え始める。

 その想いは決して建前などではなかった。

 だが彼女は気付かない。

 それは幼くして自ら捨ててしまった感情だった。

 それは彼の為に捨てた感情だった。

 だから、彼の為にと思案する心に紛れ込んでも気付けるものではなかったのだ。




 ただ一人の男性のことだけを考える、ただその人の幸福だけを考える、それはトワコにとって初めての行為。

 それは言葉にすると何というのだろうか。

 激しい言葉のやり取り、情愛と性愛をない交ぜにして、捨ててしまったものが本人も知らぬうちに再びその手に戻る。


 ――あぁ、叶えてはいけない恋の花が咲く。


  はい、ヤンデレ一丁上がり。


  他の人の作品に比べ一話が長いようなのでもう少し短くしたいところ。

  その方が投稿ペースも上がるし。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 表面面の良く又、一応は善意の人で有る無自覚悪魔を上手く描いてる点。 結局、12年前と変わらず、主人公の師匠(恐らく父)、主人公にとっては一方的に搾取され何かしても命を失う事になるだけなのが…
[一言] アグゼは前後不覚に陥るレベルで激昂する中でも頭が回る優秀な男ですね 本当なら毒の餌の話をした後、保留とも言わずに無言で立ち去る方がトワコへの罰になった気はしますね
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