四話 苦労して、笑って、そして泣いた過去
アグゼはセネカに連れられてゆっくりと街の中を歩いていた。
街の中とは言うがここいら一帯は貴族や金銭的に成功した者、それに連なる人々が暮らすような高級住宅街であり、正直彼には馴染みがなく居心地のいい場所とは言えなかった。
また今向かっている先で何が待っているのか、それが中途半端に想像でき、それでいてその終わりが想像し切れず何とも言えないモヤモヤとしたものが頭にまとわりついている。
そしてそれもまた彼の気分を落とさせる要因となっていた。
「絶対にそちらの不利益になるようなことはしない。ただ、ある人に会ってほしい」
道中セネカからはそのように伝えられている。
アグゼにはその「ある人」に心当たりがあった。
【リム―バーズ】というパーティーの中心人物、それこそが彼がこの地で冒険者活動をする最大の理由であったのだから。
しかしその人物が何を望むのかが分からない。
もし「ある人」がアグゼの想像通りなら、ハッキリ言ってその人物に関して一番に出てくる記憶は最悪の一言に尽きる。
彼の人生の中で最も悲しい出来事、それの中心人物の一人なのだ。
行かない方が良いのかもしれない。
しかし報酬は弾むとのことだし、もぅ十年以上の出来事だ。
今なら……。
様々なことが頭をめぐる。
そしてそんなアグゼを知ってか知らずか、しばらく口を閉じていたセネカが声を掛ける。
「十二年前、何があったのかアタシは知っているわ。忌避したい気持ちも理解できる。でも貴方と会わないとあの娘は前に進めない……」
あの娘ときたか。
やはりこの先に待っている人物は彼女で間違いなさそうだ。
そう考えると同時に、アグゼは「前に進めない」というセネカの言葉も気になっていた。
自分はもう「それ」を過去のこととして乗り越えている。
しかし関わった人物全てが終わったことと捉えているわけではないのだろう。
困っている人がいて己の力がその解決に求められている。
――なんだ、いつもと変わらないではないか。
「問題ありませんよ。会いましょう」
「……ありがとう」
望み通りの展開になったはずだが彼女の言葉は暗く重い。
二人の会話はまた途切れ、それは目的地に着くまで続いていた。
「ここよ」
たどり着いたのはここに来るまでに見かけた屋敷などに比べるとやや小さめな一軒家だった。
とはいえそれは貴族の邸宅として小ぶりというだけであり、門や庭もあるうえその造りや装飾はとてもしっかりとしたものだと、建築に関して素人のアグゼにもよく分かる程度にはランクの高い家であった。
家を見上げるアグゼを尻目にセネカは扉に付いていたドアノッカーをカン、カンと鳴らす。
するとわずかな間をおいて中から髪をボブカットにした黒髪の少女が現れ、訪れた二人の姿を確認すると頭を下げた。
「お帰りなさいませ、セネカ様。そしてようこそおいで下さいました、アグゼ様」
形だけではなく、しっかりと気持ちが乗っていると思えるお辞儀だった。
依頼を受けてやって来た一介の冒険者に対する対応としてはあまりにも馬鹿丁寧に迎えられ、アグゼは一瞬呆けてしまう。
「ただいま、キキョウ。お嬢は?」
「客間にてお待ちしております」
「そう」
侍女と簡潔に言葉を交わしたセネカは振り返り声を掛けてくる。
「こっちよ、ついてきて」
若干気が引けるような感じがあったがやましいことは何もないのだ。
アグゼは気を持ち直し、彼女の後を追うことにした。
家に入ったセネカに続き玄関をくぐり、廊下を歩く。
華美な調度品はなく落ち着いた雰囲気の家の中は、住人の上品なセンスや好みを感じさせるものだった。
二人がある一室の前までやって来ると、セネカはその足を止め扉の前でわずかに深呼吸をする。
そして背筋を伸ばしノックしながら扉の先の住人に声を掛けた。
「お嬢、お客人を連れてきたわ。開けるわよ」
「……えぇ、どうぞ」
扉越しにハッキリと伝わる程度には強く、それでいて静かな言葉が返ってくる。
(客人、やはりそういうことなのか?)
返ってきた声そのものより、扉越しのやり取りの方がアグゼには引っ掛かるものがあった。
家人以外を迎え入れる時、その相手を客として持て成すことは決しておかしなことではない、例え依頼を受けに来た冒険者に対してであろうともだ。
しかしここまでの道中でのセネカの態度、キキョウの一礼、扉の奥の人物の声の調子。
そしてそれらを鑑みたうえでの客人という言葉。
様々な点が、今回の依頼は自分をここへ来させること自体が目的だったのではないかということを示していた。
きな臭いと言えばそうだろう。
慎重さを信条とする者ならここからでも引き返すことを検討していたかもしれない。
しかし彼はそんな慎重論を頭の中から追いやった。
理由はただ一つ、この程度の怪しさで退くのは「つまらん」からだ。
理由はどうであれ、今自分が相対しているのはこの迷宮都市でも最大手の冒険者パーティーなのだ。
冒険者として名を上げようとしている自分が、何となくといった程度の理由で彼女たちからケツまくって逃げるなど……つまらんっ!
促されるまま部屋に入る時、アグゼの心は「シャァッ、いつでも来い!」などというちょっと何言ってるのかよく分からない状況になっているのであった。
「トワコ・ファンドリオンです。一目見て分かりました、お久しぶりですね、アグゼ」
ある意味自分を元気づける為であったイケイケゴーゴーな気持ちは一瞬で霧散してしまった。
目の前の存在の一言では説明し辛いパワーのようなものに圧倒されたのだ。
トワコ・ファンドリオン、大貴族の子女でありながら【リム―バーズ】の中心人物にして『聖女』『ヴァルキリー』というやや仰々しい肩書を持った人物。
そしてそれに恥じない実力でラビリンス攻略の最前線に立つ女性。
冒険者としての実力だけでなくその容姿も話題になる逸材だ。
端的に言って美しい。
金髪碧眼に極めて整った顔の造形をしている。
長く流れる髪は手入れだけで無く元々の素材の良さもあってのものだろう。
プロポーションを含め、聖女の呼称に決して見劣りすることのない見事な造形美であった。
彼女は極薄いものではあるがしっかりと化粧をし、舞い散るチェリーブロッサムの花が描かれた白のフリソデ・ドレスをビシッと着込んで部屋の中央に立っていた。
魅力的な微笑を浮かべる姿は、そのバックボーンも併せてとても良い絵になっている。
以前吟遊詩人のジェシーが、アグゼは唯一無二の伝説になれる可能性があると言ってくれたことを思い出す。
しかし彼は想う。
目の前の人物のような『華』が無ければ、それは到底あり得ないのではないか、と。
「えぇ、お久しぶり、です…………ファンドリオン公爵令嬢」
多少気後れしてしまいそうな心持ちになったうえ、貴族階級との会話の作法などろくに知ってはいなかったアグゼは言葉に詰まる。
何とか知恵を絞って無難かと思えるセリフを口にした。
「楽に会話してくださって構いませんよ。むしろ普段通りの口調で話しては頂けませんか?」
なかなか難しいことを言ってくれるとアグゼは思ったが、ここまでお客様待遇なのだ。
その言葉に素直に従うのが正解だろうと彼は当たりを付けた。
「うん、あぁ、うん。……了解だ、これでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
嬉しそうにトワコは微笑む。
本当に嬉しそうに言うのでアグゼは少々の気恥ずかしさすら覚えたものだ。
「ぁー、本当に久しぶりだな」
「えぇ、もう十二年。本当に、本当に長い時間が経ちました」
お互い何となく会話を続けているが、あまり上手くいっているとは言い難い。
そもそもこの二人、一見すると幼馴染みやそれに類する古い友人のようだったが、実際はただの知り合いと称してもおかしくないほど短い付き合いしかなかったのである。
おまけにアグゼの記憶ではトワコはとても快活な少女であり、今のような清楚なお嬢さま然とした姿とは全く結びつくものではなかったのだ。
声も少女から女性へと変わり、正直なところ目の前の人物が知り合いであるという感覚は彼にはほとんどなかったりする。
目を合わせ辛くどうしたものかと考えるアグゼと、微笑を浮かべながら何故かそれ以上の行動を起こさないトワコ。
会話が弾まない二人にセネカから助け舟が出される。
「ずっと立ち話もアレだし、二人とも椅子に座ったら? アタシはキキョウと一緒にお茶の用意でもしてくるわ」
確かに突っ立ったままの状態というのもぎこちない会話の要因の一つと言えただろう。
彼女が部屋から出て行った後、アグゼは近くのテーブルの椅子に目を付け、家主に着席の許可を求める。
トワコが頷くのを見てから椅子を引いて腰を下ろすと、それを確認した彼女はアグゼの対面となる位置に同じく座った。
立ち位置や姿勢が変わり、相対すべき存在が一人になるなど状況が変わると気持ちも切り替わる。
アグゼはまず聞くべきことがあったと思い至ると、そのことを口にした。
「なぁ、今から依頼についてを聞かせてもらえるのか? それとも、そもそもここまで俺を連れてくること自体が目的だったのか?」
セネカからはやってもらいたいことがある、ある人に会ってほしいと言われ、それでいてこの家に入ってからはほぼ完全に客人扱いだ。
己の今の立場を把握しておきたいというのは極めて自然な欲求であると言えるだろう。
「そのどちらも間違いではありません。私は貴方に会いたかった……会わなければならない理由があった、そして今からはおそらく貴方にとって困難なことをお願いするつもりなのです。もし現状に至るまでの過程で不審に思われることがあったなら、謝罪致します」
トワコ達も今回のアグゼへの接触が多少不自然であることは理解していたのだろう。
疑問の目を向けた彼の質問に頭を下げすんなりと答えた。
「いや、俺とアンタがこうして嫌悪なく向かい合うなんぞ、あの時の終わりを考えれば確かに想定し難いことだろう。接触に多少の無茶があろうともおかしくはないさ」
そして一呼吸置いてから言葉を続ける。
「俺はもうあの頃のことには折り合いをつけている。できること、できないことを咀嚼して、それなりに今を楽しくやってるよ。そっちはどうだ? って、同業最大手の先輩に言う言葉じゃないな」
「……はい、そう、ですね」
過去はどうあれ今はお互いフラットな関係だ、そんなアピールしたつもりだったが、しかしトワコの反応は芳しくない。
アグゼに比べ彼女は過去に対して思うものがあるようだった。
「私も、いろいろありましたが……充実した日々を過ごせてこれたと思っています」
とても額面通りに受け取れる声色ではない。
どう応えたものかと返事に窮する彼を見て、トワコはわずかに逡巡した後、意を決したように改めて口を開く。
「冒険者である貴方に依頼があります。私と貴方が共に過ごしたあの五日余りの日々は、貴方からはどのように見えていましたか? できるならその前後も含めて本音で……教えていただけませんか?」
絞り出すような声でお願いしますと、トワコは言葉を続けた。
なるほど、確かに辛い過去をわざわざ思い返すというのは困難なことだろう。
予感していたとは言えどうするべきかとアグゼは改めて考える。
しかしそんな彼に決断させるためか、彼女は畳み掛ける。
「もちろん依頼なのですから報酬は用意致します。額に糸目はつけません」
そうだ、これは仕事なのだ。
ちょいと昔話をするだけで懐が暖かくなる、ならば決まりである。
「――どこから話したものかな」
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アグゼは己の出身についての質問に上手く答えることが出来ない。
何故なら彼は物心ついたころから路地裏が寝床であり、両親の顔なども全く覚えていなかったからだ。
茶色い髪にくすんだ肌色というこれといった特徴のないありふれたストリートキッズ。
幸いにも妙に仕事に恵まれ、犯罪行為をせず商店の丁稚など危険度の低い作業をいくつかこなすことで食いつなぐことが出来ていた。
ある日、アグゼはとある呪術師の男の雑用係を住み込みで受けることとなった。
呪術師という肩書きや当人のやや偏屈で口数少ない性格もあって、それなりに高い賃金の割りには受けようとする者がいなかった仕事だ。
しかし少年にとってはその金や屋根があるところで寝られる点は魅力的であったし、また呪術という未知の力にも興味を引かれるものがあった。
男との共同生活は存外に悪くない物だった。
確かに彼はコミュニケーション能力に少々難があるように思われたが、その相手も丁稚としてこき使われるこれまでの日々と比べて特別キツイと思うほどではない。
そして慣れてしまえば己の術を惜しみなく見せてくれることや、ぶっきらぼうながらも子供相手だからと馬鹿にした態度を取らない点など、男の美点も見えてくるようになった。
彼との生活に違和感が無くなる頃には、親と暮らすというのはこういうことかと何となくだが感じたりもしたものだ。
呪術師と暮らすようになり数年が経っていた。
男はまれにどこかから舞い込んできた仕事を受けることがあった。
そうした時、これまでは何日か家を空けると言い単独で出ることばかりであったが、今回は話が違っていた。
『貴族からの依頼に? 俺もですか?』
『お前と歳が近い娘に掛けられた呪いを解く。娘と話して何かしらの情報が得られれば助かる。頼めるか?』
『はいっ、任せてくださいよ、先生!』
前々から男の仕事に興味があった自身への気遣いに、少年は喜んで応じた。
目的の場所は彼らの居住地から馬車で五日ほどというところにある屋敷だった。
ファンドリオン公爵家、それが屋敷の住人であり今回の依頼主の名前である。
公爵というものがどんな地位にいるのかアグゼには全く分からない。
ただその屋敷の豪邸っぷりや庭の広さなどは少年を驚嘆させるには十分なものだった。
アグゼは今回、単なる荷物持ちとして同道していた。
助手などの名目の方が扱いが良くなりそうなものだが、そうなると場合によっては仕事の一環として依頼主達との会話などが求められる可能性が生じてしまう。
貴族への礼儀作法など一切知らないアグゼのことを考えれば、これが無難な選択だろう。
カースメーカーの小間使いということでその対応はお客様待遇というわけではなかったが、さりとて無下に扱われたかというとそうでもない。
これまで権力の最底辺を生きてきたアグゼにとって、しっかりとした食事と暖かい寝床が用意され、そしてちゃんと「いるもの」として見てくれるだけで、十分に分相応に扱ってくれていると感じられたものだ。
これまで生きるために働き詰めだった少年が、仕事はともかく家事なども一切しないで済む状況になったのはこれが初めてだった。
そうすると意外な問題点が湧き上がってくる。
「暇」という名の強敵の出現である。
さすがに敷地内を好き勝手に歩いていいという許可が貰えるはずもなく、また呪術師の仕事の見学も機密に関わるからという建前でファンドリオン家の者に止められてしまった。
仕方なく、彼は見知らぬ土地であるこの屋敷の外に、自身の興味を引く新たな何かを求めることにした。
そしてそんな彼に目を止めた人物が存在した。
それがファンドリオン家の次女にして末の子供であり、呪いの治療対象たるトワコだった。
二人の出会いはアグゼ十一歳、トワコ九歳の時のことである。
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「あれには驚いたもんだ。俺の前に走り込んできて、指をビシッと突き付けながら『私も連れて行きなさいっ!』だからな」
「貴方は当時の私の周りにいなかった類の存在でした。そんな貴方に興味を引かれ、私は何としても声を掛けなければと必死だったのですよ」
「へぇ、やはり公爵家のお嬢さまともなれば、平民の子供と話す機会なんかはないものなのか」
「いえ、ありますよ?」
「なんと」
「ただそれは伝統ある武家として、才能のある子を門下生として迎え入れているというだけの話。その接し方は同門の兄妹弟子として節度あるものでしたし、身分の上下が完全に無かったわけでもありません」
「じゃああの時の俺は……」
「貴方の場合、恐らくは知らなかったからこそなのでしょうけれど、貴族への敬いも恐れも何もなくとても自然体でしたね」
話の途中に用意された茶や菓子を口にしながら話は進む。
時折、軽い笑い声がお互いから上がる。
昔を懐かしみつつ、思いの外会話のキャッチボールが上手くいっていることが嬉しく感じられたからだ。
しかしそんな和やかな雰囲気も長くは続かない。
それは事の経緯を知っている二人にも分かっていることであった。
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ファンドリオン家に来てから五日ほど経った頃の夜、アグゼはカースメーカーの男から翌日の朝にはここを離れ街に戻ることを聞かされた。
アグゼは驚いた。
トワコが呪いの治療対象であることも、その治療が済んだことも初めて知ったからだ。
まぁその驚きも無理もない。
トワコとはここ数日、屋敷の外を共に元気に散策していたし、本人もそんな素振りを見せることは全くなかったのだ。
そもそも一応自分に与えられていた仕事である「同年代の治療対象の少女から情報を得る」ことなどは何一つやっていない。
これでいいのか、いつ治療をしていたのだろうと頭を捻るアグゼに、男は答えを与えた。
『解呪というものは身体の治療とは別物だ。必ずしも付きっきりでいる必要はない』
そんなものかぁと無理矢理自身を納得させたアグゼに対し、男はしばし考えた後口を開く。
『……学んでみるか? 呪術を』
『え、いいんですか!?』
『お前に呪術の才があるのかは分からん。中には過酷な修行もある。しかし、とりあえず知識を納めるだけなら、損にはなるまい』
アグゼは喜んだ。
何となくだがカースメーカーの技とは一子相伝のようなイメージがあり、教えてもらえるとは思っていなかったからだ。
新しくできた友人とは離れてしまうことになるが、それで縁が切れるなどとは露ほども考えず、彼は帰ってからのことを想像し胸を膨らませていた。
翌日、朝早く二人はファンドリオン家の侍女の言伝で邸宅から少し離れた演習場にやってきた。
別れの挨拶でもするのかな、などとアグゼは思っていたが、隣に立つ男の考えは違っていたようだ。
彼の頬を小さな雫が伝う。
冷たい朝露、ではない。
それは彼の汗だった。
『これは……良くないな』
突如、二人の下に燃え盛る火球が放たれた。
それは地面に当たると炸裂して二人を吹き飛ばした。
ゴロゴロと転がされ何が起こったのか分からないアグゼは朦朧としながら痛みにうめく。
落ちそうな意識を保ち、何とか目を開けて周囲の状況をうかがうと、髭を生やし立派な鎧を着こんだ目つきの鋭い男が、十人を超える武器を携えた屈強そうな男女を引き連れこちらを睨んでいた。
カースメーカーが立ち上がりその一団と会話をする。
耳鳴りのせいでアグゼにはその内容が分からなかったが、狼狽えるこちら側に対し髭の男は激しい怒気をまき散らしていた。
会話は決裂したのだろう。
一団が弓矢や杖をこちらに向ける。
とっさにカースメーカーはアグゼの前に走り込み、掌を前方に向ける。
防御系の術と思われる黒い靄が現れ、それが放たれた矢や魔法をいくつか受け止めた。
しかし数が多いうえ、囲むように布陣した彼らの攻撃は、一つの壁では防ぎ切れない。
這いつくばるアグゼの肩に矢が突き刺さり、氷柱がわき腹をえぐる。
『イダイ、イダイィィ』
少年の泣き声に呪術師は振り向く。
このままではただの的だと考えたのか、彼は地に伏したアグゼを抱え上げ後方に駆け出した。
しかし一団の攻勢は収まらない。
少年を抱えた男の背にいくつもの攻撃が浴びせられ、またいくつかのそれは少年にも当たっていた。
アグゼの本能が意識を失ってはならないと訴えていた。
本能に従い、激しい眠気に抗い、甚大な血を流しながらも彼は再び目を開けた。
トワコが見えた。
泣きながらこちらに来ようとしていたが、それを誰かに止められていた。
手が伸ばされる。
こちらも手を伸ばす
点が見えた。
それが徐々に大きくなり、向かってくるものが矢じりだと理解した。
頭部に衝撃が走る。
そこで彼の意識は途絶えた。
目を覚ましたアグゼは自身が全く知らない小屋で寝かされていることに驚いた。
全身に包帯が巻かれ治療されていることはすぐに分かったが、全身の皮膚が褐色に染まり、髪も茶色から赤に大きく変色していることにアグゼは二重に驚いた。
それに大きな痛みや倦怠感こそあれど、包帯の下にあったであろう外傷はほぼ完璧に治癒しているではないか。
果たして自身の怪我はそんな簡単に治るものであっただろうか。
正直意識を保てていたかと言われると怪しい限りだし、今の状況も含めて分からないことだらけだ。
アグゼは痛みに耐えながら立ち上がり、小屋の中を調べることにした。
小屋は多少のほこりこそあれど意外なほどに清潔であり、それに様々な物資が蓄えられていた。
そして彼は、目につくようにテーブルの上に置かれていた四つ折りの紙を手に取る。
それはカースメーカーからの別れの手紙であった。
この小屋が彼の用意していた非常時の避難所であること、以前住んでいた場所からは離れており追手が来る可能性は低いこと、中の物資や書物は好きに使っていいこと、そして《エナジートレード》という魔法で尽き欠けている両者の生命力を合わせることで、アグゼを助けるつもりだということなどが簡潔に書かれていた。
己のミスのせいでアグゼを殺すわけにはいかない、強く生きろとも最後には記されていた。
体色の変化なども治療の影響なのだろうか。
ふと自分が寝ていたベッドの近くにローブが落ちていることに気が付く。
それは限界まで生命を絞り出し、その身を消滅させてしまったかのようで……。
走り書きのうえ血がにじんで汚い手紙を握りしめ、涙をこぼしながらアグゼは終ぞ言えなかった言葉を口にした。
『父さん……』
アグゼはこれからどうするかを考える。
彼は大きな喪失感のせいで、生きる気力があまり湧いてこない自身に気が付いていた。
動くことが億劫だ、でも与えられた生命を無駄にしてたまるか。
そんな思いが己の中を駆け巡る。
今の自分には何か目標が必要だ。
そうして彼は生きるための目標として力を、復讐を望んだ。
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「ただまぁ問題なく生活が出来るようになると不思議なもんでな、数年もするうちに復讐とかはあまり考えなくなっていったんだ。今の目標は迷宮の探索で名を上げることだよ」
半分は嘘で、半分は本当の話だ。
歳を重ね世間を知り、現実が見えてきたということもあるだろう。
武勇に優れると噂の公爵家を一人でどうこうしようなど余りにも無茶が過ぎる。
それに対して迷宮の制覇はどうだろう。
こちらも無謀と言われれば否定はできないが、前者と違い後ろ暗さがない。
アグゼ自身、自分がこのままこの都市の迷宮踏破者に成れるなどとも正直思ってはいないが、それでも周囲よりちょいとばかり厳しい制限を付けて頑張ってみれば、それだけで現状のように過程の段階でも噂の人物となり人から羨望の眼差しを向けられるのだ。
浅ましいと言うなかれ、それが自尊心となり、これもまた生きる原動力になる。
なんとも健全ではないか。
それに復讐にしても、相手が武勇を誇る貴族家ならば、こちらが相手の分野である武で名を馳せることは、十分な代替行為となるのではないだろうかとアグゼには思われた。
実際に保有する武力を比べあうわけではない。
ただ、奴らが成していない武を用いた『何か』を俺が成す。
それができたならば、少なくとも俺の心のわだかまりは大分晴れてくれるのではないだろうか。
アグゼがこんな風に考えられるようになったのは、あの惨劇から数年以上経ってからの話だ。
父と慕った人は消えて、自身も大きなダメージを負い、そこからの生活は軌道に乗るまでがとても大変だった。
まぁそれでも、なんだかんだで今はこうして前を向いている。
結局は腹いっぱいに飯が食えるようになると、人間というものは意外と前進していけるものだというのがアグゼの結論である。
目の前の相手が仇に関係する者の中で唯一、こちらに手を伸ばしてくれた人だからこそこうして会話が出来てはいるという面もあるが……。
「こちら側も何かしらの過失があったのだろうとは感じている。だから必要以上にもう過去のことは振り返るつもりはないんだ」
ちなみにこれもある程度は本音である。
あのカースメーカーの男を父と思っていることは今も変わらないが、その全てが尊敬できたわけではない。
口数の少なさや人付き合いの悪さがそれを知らない貴族家を怒らせる姿は容易に想像できた。
己のミスのせいとも手紙には書かれていたし、まぁ発端はそんなところにあるのだろうとアグゼは考えていた。
興が乗ってしまい、話してくれと言った当人一人になら大丈夫かとつい仇だの復讐だのと口にしてしまったが、内容が内容だけに相手の目を見て話すのはあまりにも気まずい。
逃亡してからの話はアグゼしか知らないこともあって、今の彼はトワコの方を向かずにゆっくりと一人で語るように喋っていた。
そして、一通り話すべきことは終わったと思った彼はそこで改めてトワコの方に振り向く。
「だからさ、改まって謝罪とかは……」
泣いていた。
ただ黙って、大粒の涙を流して彼女は泣いていた。
美人ってのは泣く姿も絵になるものだな、などとぼんやりアグゼは考えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「なぁ、謝らなくてもいいんだ」
噂に伝え聞くトワコの現在の性格面の評価は、大雑把に言って慈悲深き人格者というものだった。
そんな彼女が今の話を聞けば、こうなるのも仕方ない話か。
それでも、もうずっと昔に終わったことだと、アグゼは止めようとする。
「私がっ、私なんかが!」
「もう昔のことだよ」
「違うんです、そうじゃないんです!」
「おい、だから」
「私が、わたしが――」
――そこから先は聞かなければよかったのだろうか――
「――――私の悪意が、全ての発端なのです」