三十三話 第二階層・地下六階
「暑い……」
太陽が照り付ける乾いた大地。
草や木が生えている場所がちらほらと見受けられ、砂漠と言うほどの熱砂の世界ではなかったが、しかし生物が生息するには厳しい環境だろうなと思わせる、そんなところだった。
(階層が変わると環境も全くの別物になる。知識として知ってはいても、実際に見たらビビるぜ、こいつは)
現在、アグゼはラズマード・ラビリンスの第二階層、地下六階へと足を踏み入れていた。
第一階層は森や樹海と言うべき緑あふれる場所だったが、ここはそれとは完全に違うまさに荒野と称される場所だった。
階段を一つ降りただけでこうも在り方が変わるとは……。
(まぁ下により深く潜ったのに太陽が見えてる時点で、迷宮に常識なんて期待すべきじゃないんだろうけど)
水袋を取り出して中身を少しだけ口に含み、喉の渇きを癒す。
ここに立つのに相応しいだけの実力を身に着けてきた自信はあるが、それでも油断はできない。
人間、いつだって死ぬときは死ぬのだ。
アグゼは魔法のおかげもあってなかなかしぶとくタフな男だったが、彼自身は最近その過信のせいか余計なダメージを負う機会が増えてきていると感じていた。
(ズタボロで帰ったらフィルティが泣いちまうな…………あとトワコのやつも)
今の己には帰りを待ってくれている人が、帰るべき場所があるのだ。
それを肝に銘じて、油断なく、初心に返ったつもりで進まなければならない。
「ラグロ、いけるな?」
オンッ
傍らにいる相棒は力強い返事をしてくれた。
それを受けて心の中で自身も気合いを入れ直した男は、久しぶりの危険な世界への前進を開始するのであった。
両手にペンとメモ帳を持ち、男は歩いていた。
特徴のある地形や自然物があればそれを記録して、時折懐から出した何かをチェックしている。
(第一階層と違って風があるな。飛ばされないように気を付けないと)
彼は手にしたものを少しだけ強めに握りつつ、マップを作製していた。
人類史を紐解くと、何かに情報を書き記すという行為はかなり古くから行われていたことが判明している。
そしてそれこそ製本というところにまで発想・技術がたどり着いているならば、書く物や紙の存在は取り立てて珍しいものであるはずも無かったが、しかしこの世界においては「書く」という行いがより大きく発展せざるを得ない事情が別に存在していた。
迷宮という謎でありながらも文明の発展に強く貢献する代物が十分に認知されているこの世界では、そこを探索する冒険者に必要となる携帯できるペンやメモ帳などが、数世紀レベルも先取りするほどに大きく進化を遂げていたのだ。
インクが内蔵されたペンはその中身を長く保つため、わざわざ専用の魔法までもが開発されていたほどである。
まぁアグゼにとってそれらは当たり前になりすぎて、特別ありがたみを感じたりはしていなかったのだが。
歩きながらの地図作成を続けていたアグゼは、腰を下ろすのに良さそうな岩場を見つけて脚を止めた。
メモ帳を閉じ、再度懐から取り出した小さな箱のようなものに目をやる。
(方角は……合ってるはずだ)
彼が見ていたものは、これまた魔法技術によって高い精度を与えられた方位を知るためのコンパスであった。
迷宮内でもしっかりと働くそれは地図を作るにあたって必要不可欠な道具であり、魔法が絡むため一見高級品のように思われがちだったが、実際は冒険者ギルドにて普通に売られているただの安物だった。
ペンもメモ帳も同様に言えたことだが、趣味や趣向品ではなく「必要だから」作られたものは、自然と安く手に入るように移り行くことが世の常なのである。
「……ふぅ、ラグロ、少し休もう」
火山地帯や雪原ほど明確に殺しにきてるわけではないが、それでも着実に体を蝕む気候に少々の嫌気が差したアグゼは休憩を取ることにした。
全身に武具を身に着けて、フェイスガードこそ上げてはいるが兜もしっかりと装着している彼には、暑さはそれなりの難敵だと言えた。
メモ帳とにらめっこをしていたアグゼの代わりに周囲をしっかりと警戒して歩いていたラグロは、相棒の言葉を受けてあまり温度の上がっていない岩場の日陰部分に座り込む。
ただここが初めてのエリアということもあってか、彼は完全には気を抜かず頭を上げた状態を保っていた。
比較的平らな岩に腰を下ろすアグゼ。
少々乱れていた呼吸を整えながら彼は考える。
(…………アレを使ってみるか)
バックパックを外してその中に手を突っ込み、目当てのモノをしばし探す。
そして目的のブツを掴んで引っ張り出した彼は、何とも言い難い顔でそれを眺めた。
「黄色いなぁ」
それは薄く簡素ながらもしっかりとした作りで仕上げられた黄色のマフラーだった。
乾燥地帯では日差しや砂埃を避けるためにローブなど面積の大きい服装を選ぶことは珍しく無かったが、しかし純粋に保温を用途とするマフラーが出てくると、さすがに違和感が強い。
少しの間固まっていたアグゼは小さなため息を吐くと、兜を外してからそれを首に巻いてみることにした。
「あ、ひんやり」
見た目に反して、それは身に着けた彼に心地の良い冷涼感を与えた。
首筋を冷やすことは全身を冷やすことに繋がる。
解放感に近い気持ちの良さに眼が細くなり、自然と笑顔が出てきてしまう。
「あー、気持ちいいなぁチクショー」
アグゼはこれを手にすることになった今朝の出来事を思い返していた。
『ぇ、第二階層は暑い場所だって聞いたぞ。それなのにマフラー?』
朝、迷宮探索に出かける前に弁当を渡そうとするトワコは、同時にマフラーをそれに添えてきた。
『これは《テンパーチャー》、体温調節の魔法が掛けられたマフラーです。身に着ければ暑さにも寒さにも対応できますよ。ぜひ持って行って下さい』
『……お前なぁ。前に言っただろ? 俺は金や安易な援助なんかは受け取らないって』
『はい。しかしそれは裏を返せば安易ではなく、金銭などの絡まないモノなら受け取って頂ける、ということですよね?』
それは屁理屈と言ってもよかっただろう。
しかし意外と理屈でものを考えるアグゼは、トワコの言葉を素直に受け止めてそれについて頭を捻った。
『そう……言えなくもないか? しかし魔法が掛かったブツなんて、どう考えても高いだろ?』
『問題ありませんよ。毛糸代程度は払うことになりましたが、これは私の手編みで魔法を掛けたのも私自身ですから』
トワコの言った内容はとんでもないことであった。
手作りのマフラーを独力で魔具にまで仕上げる。
これはどの方面から見ても「どういうことだよ!?」とツッコミたくなる話だ。
行動力、魔法技術の高さ、どれを取っても半端なことではない。
『お姉ちゃん、すごく上手だった』
トワコと共に見送りに来ていたフィルティが、こうやって、こうやって、と自身が見たであろうトワコの編み物風景をたどたどしく再現する。
目撃者がいる以上、トワコの言うことにおそらく嘘は無いのだろう。
『あの、受け取って、頂けませんか?』
とてもしおらしくトワコが聞いてくる。
その手にあるマフラーはシンプルだが、裕福な客を相手にするようなお高めの服飾店にあっても違和感がない一品だった。
時間を掛けて、丁寧に仕上げられた物であることは想像に難くない。
(全く……なんてものを用意しやがる)
同じ建物に住んではいるがトワコは家族や恋人ではないし、ましてや友人と呼んでいいのかすらもハッキリしない。
そんな相手からの、丹精込めて生み出されたと思われるお手製の贈り物。
これをどう捉えるのが正しいことなのか、客観的かつ正確に言葉に出来る者が、果たしてこの世に存在するのだろうか?
ただ、そこに使われた努力やエネルギー、そういったアレコレを無下に扱ってしまうことは、アグゼにはとても残酷な所業のように思えてしまった。
ひたすら怒りや憎しみしか感じていない相手になら「無駄な努力をご苦労さん」と言い放ち嘲笑う行いも……もしかしたらあったのかもしれない。
しかし例えどんな関係性であろうと、日頃から衣食住の世話をしてくれて、毎日の会話でもいつもこちらを立ててくれる女性に対して、そんなことを言えるほどアグゼは悪逆な人間ではなかった。
(フィルティも見ている。受け取らないという選択肢は……)
アグゼとトワコの間にある確執についてフィルティは全く知らないし、それを教えるつもりもない。
このまま少女の前で、不和を感じさせるようなグダグダしたやり取りをいつまでも続けることは許されなかった……が、やはりそのまま素直に受け取るのも少々癪だ。
これ以上ないほどの「扱いに困る贈り物」を前にして、アグゼの脳はフルスロットルで回転する。
そして何とか抗う言葉を思い付いた彼は、それをもって精一杯の反抗を試みる。
『探索中に戦闘が起きた場合、一々それを外すわけにはいかない。俺の転がったりするような戦闘スタイルだと、汚れどころじゃすまない傷とかが付くかもしれないぞ?』
『そのマフラーは少々の汚れは弾きますし、見た目よりもずっと丈夫なんですよ。もし損傷してしまっても私が直しますから問題ありません。惜しむことなく使って下さい』
万事休すである。
全壊したら一から作り直す、そんな気概すら見せてくるトワコに、アグゼはこれ以上言えることがなくなってしまう。
『……分かった。それじゃあ持っていくとしよう』
受け取っても使うかどうかはまた別の話だ。
大して邪魔になるものでもないし、とりあえずバックパックの中に突っ込んでおけば問題なかろう。
そんな気持ちで、男はそれを受け取るのであった。
「あ゛ぁ゛ー」
朝のやり取りはどこへやら、アグゼは魔法のマフラーの効果を堪能していた。
カラッとした日差しの下の乾いた風も、今の彼には心地良い春風のようである。
「これはな、違うんだ」
何が違うと言うのか、そして誰に言っているのか。
傍にいるのはラグロだけだ。
彼は狼型モンスターだが人語を理解し、人の感情の機微というものすらも汲み取ることが出来るナイスガイであることに加え、同時にアグゼの浅ましい部分なども把握している相棒でもあった。
自分ではなくラグロに言っているのだとしても、それは意味のない言葉だったと思われるのだが……。
「これはな、ちゃうねん」
ラグロはつぶやく男の方に一度顔を向けるが、さほど気にする様子もなく視線を戻してまた周辺警戒に意識を切り替えていた。
「ちゃうねん……」
聞くものなど誰もいないのに、男のつぶやきは続く。
否定の言葉を口にしながらマフラーをどう身に着けるか試行錯誤していく。
最終的には苦しくない程度に、しかし激しく動いてもほどけないぐらいにはキツめに首周りに巻くことにしたようだ。
両先端を後ろに流して小さなマントのようにして、手作業の邪魔にならないことを確認する。
「……よし」
いいのか?
まぁこれを見て「やっぱりアイツも裏で他からの支援を受けてたんだ」などと言い出すような輩は、探したところでまず現れたりはしないだろう。
トワコとの関係への嫉妬ややっかみの文句の方が、よほどありえる話に違いない。
実質、アグゼ自身が気にしないならそれを身に着けることへの障害は一切存在していなかった。
そして肝心の当人の気持ちはというと――
(着け心地は良いし便利だ。何よりもこれ自体に嫌悪感とかが全然無い。……結局俺の復讐の気持ちってのは、その程度のモノだったのか?)
地味に彼の内情は、表面上よりも大分複雑なものになっていた。
受け取るまでの経緯やその有用性などのちょいとした言い訳さえ用意してやれば、それを身に着けることに大きな拒否感を抱かない自身の心に対し、何かがそれでいいのかと疑問を提示してくる。
しかしそれに何の問題があるのか、むしろ使わなかったと知ればフィルティなどは余計な疑問を持つぞ、そんな返答もこれまた自然に出てきてしまう。
そうだ、これを使わないことに意味などないのだ。
あるとすれば――――これまでの、特に復讐に燃えていた頃の自分を裏切ってしまうような気がしてしまうこと。
(それは、そこまで大事にしなければならないものなのか?)
『忘れるな。絶対に、忘れるな』
理性も感情も、その大部分が今を肯定しているのに、アグゼの中の「何か」がそれを認め切れずにいる。
分からない。
何が正解なのか、全くもって分からない。
誰にも相談出来るはずもなく、またおそらく正解なんてもの自体が存在しないであろう疑問。
しばしそれについて思案するが、答えにたどり着けないイライラも相まって、段々その「何か」が疎ましく思えてくる。
いっそのこと、その「何か」を振り切るような思い切った行動でも取ったら、また何か違うものが見えてくるのだろうか?
「礼として花束でも買って帰ったら、トワコのやつはなんて言うかな……」
わずかな間の後、何言ってんだと頭を振る。
今は迷宮の中なのだ。
こんなバカなことを考えていては、命がいくつあっても足りやしない。
まだ出会ってはいないが、ここには自分がまだ見たことのないモンスターたちも多数存在しているはずだ。
そいつらの前に腑抜けた状態で進むつもりなのか?
「冗談じゃない。気合いを入れろ」
今は生きて帰ることが何よりも優先される。
あるものは全て活用しろ。
些末なことは全部後に放り投げておけ。
アグゼは自分に言い聞かせた。
相棒がしっかりと警戒していてくれたおかげで、疲労の回復が完了している
意識を切り替えて、それを確認するような強い口調で彼は声を出した。
「よしっ、休憩は終わりだ。ラグロ、探索を再開しよう」
立ち上がりながらアグゼは相棒に声を掛けた――が、ラグロは動かない。
どうやら遠くにある何かを注視しているようだ。
敵だろうか、そう思ったアグゼは目を凝らしてラグロの視線の先を見詰めた。
(あれは……ダチョウ?)
まだ遠方にいるそれは、かなりの速度で走り続ける背丈の高い鳥のような何かだった。
一応知識としては知っているダチョウという動物と似たフォルムをしているが、それとは違い頭頂部まで羽毛で覆われていてサイズもより大きい。
この階層ならではのモンスターと見て間違いないだろう。
「来るか?」
戦闘準備をするべきかと考える。
しかしどうやらそのダチョウもどきはこちらが目当てというわけではないようで、かなり近くまでは来たものの、そのままアグゼ達の目の前を走り抜けていく。
ドドドドドッ
勢いの良さに少々の面白さすら感じて、アグゼの中に何だか愉快な気持ちが湧いてくる。
しかし、どうやらそんな気持ちを持ち続けることは許されないようだ。
「何かいるんだな?」
グルルルル……
ダチョウもどきが走り去ってもラグロは警戒を止めていなかった。
ラグロがこうした反応を見せたときに、それを信じて損をしたことはこれまで一度もない。
危険な何かが近くにいる、そう受け取ったアグゼは急いで戦闘の邪魔な荷物は先程まで座っていた岩の上に置き、外していた兜を装着してフェイスガードを下ろし、さらに背中の鞘からバスタードソードを抜き放った。
(どこだ、どこから来る)
戦闘態勢に入った彼は神経を研ぎ澄ませた。
奇襲なんざ返り討ちにしてくれるわ、そんな気持ちで周囲に目を見渡す。
前後左右、には何もいない。
上空、にも怪しい影は見当たらない。
それなら地下は――
(――いる)
わずかな揺れを感じ、アグゼとラグロは飛び退いた。
揺れは段々と大きくなり、ついにはその異常が目に見える形となって現れる。
アグゼたちがいた場所の地面が隆起して、その下から異形の生物が姿を見せたのだ。
「ッッ、デスワーム!」
新たな階層に入るにあたって手を抜かずやっておいた出現モンスターの事前予習。
その中でも特に大型のモンスターとして記憶に残っていた存在、それがデスワームだ。
長さに着目するならその大きさはレッドコム・ベアを優に超えるこの階層でも最大クラスのモンスター。
見た目は簡単に一言で表すならとてつもなく大きなミミズ、もしくはイモムシと言ったところか。
表皮は乾燥した大地に適応してかヌメりなどが全くなく、薄い装甲板が連なったような生物感の薄い外見は気持ち悪さよりも純粋な恐ろしさを先立たせている。
頭部と思わしき先端部は牙が生えた口と数本の触手だけが付いており目など他のパーツは見受けられなかったが、どうやら怪物は何らかの手段でしっかりと周囲の存在を知覚しているようだった。
デスワームは下半身を地面に埋めたまま、ゆらりと頭部をアグゼに向ける。
その口の側面の一部が膨らんだことを確認したアグゼは、慌てて剣の側面を前に構えた。
ボビュッ
口腔の分泌腺だろうと思われる部位から液体が吹きかけられる。
それは正確にアグゼの顔に向かって撃ち出されたが、しかし彼の剣はただ「受ける」だけではなく「止める」ことが出来る大きな幅を持っていた。
防御は難なく成功して液体は剣に付着するだけに留まるも、それは強烈な臭いを放っており仮に顔などに直撃していたら恐ろしい事態になっていただろうと思わせた。
「ラグロっ、挟撃だ!」
思わぬ強襲を仕掛けられたわけだが、幸いにも事前に知識を仕入れていたおかげもあって大きく不利になったりはしていない。
そのことを認識したアグゼは相棒に簡潔な指示を出した。
言葉を受けた狼は指示通り、デスワームをアグゼとの間にサンド出来るような位置に走り込む。
敵が一体だけならばまさに必勝と呼べる戦法、【センチュリア】のゴールデン・パターンが発動だ。
定位置に就いたラグロは挑発めいた遠吠えを行った。
デスワームのような本能のみで生きていそうなモンスターとはこれまで戦闘経験が無かったため、これでどの程度注意を引けるかは未知数だったが――
(いいぞ、完全に向こうに気を引かれてやがる)
デスワームはラグロをターゲットにして攻撃を繰り出していた。
丈夫で太い縄を思いっきり振り回すように、自身の体を武器にして相手を叩き潰そうとする。
ビタンビタンと怪物の巨体が地面に打ち付けられる様はなかなかのインパクトがあったが、ラグロはキレのあるステップでそれらを全て回避していく。
ラグロの方にだけ意識が向いていてこちらのことなど全く気にしていない。
無脊椎動物らしい単純さを目にして、アグゼは小さく呟いた。
「やってることはモグラ以下。ナリこそデカいがそれ以上のものもない。イケるぜ」
それはモンスターの情報解析であり、己への鼓舞でもあった。
大きいということは強いということ。
一般的な生物の摂理を尊重した場合、眼前のモンスターは強者と判断せざるを得ず、それはこちらの脚をすくませる武器にも成り得た。
だが最近闘ったばかりの階層ボスという恐るべきバケモノ、レッドコム・ベアと比べればそのパワーもスピードも特筆すべきものがあるとは思えなかったし、何よりあの実際に肌で理解させられた暴虐的な圧力が全く感じられない。
もっと恐ろしい脅威を乗り越えた己が、ここで怯む理由がどこにある。
彼は自分にそう言い聞かせていた。
アグゼの脚が力強く大地を踏み抜いた。
ショートダッシュでデスワームの傍まで接近したアグゼが狙うのは敵の胴体部、地面から生えているその根元。
如何に攻撃のために上体が動き続けていようとも、大地との境目であるそこはしっかりとその場に固定されており、攻撃を外す余地はない。
踏み込んだ勢いを剣に上乗せし、アグゼは右上から左下への力強い袈裟斬りを放った。
太く重い剣は胴部の装甲板ごと肉を叩き斬り、そのまま止められることなく振り抜かれる。
(アレと比べりゃバターも同然っ)
装甲のような外皮も、その硬さはボスクラスには遠く及んでいない。
並みの小剣程度ならばともかく、アグゼの重撃の前ではそんなものは障害とは成り得なかった。
勝利への確信を持って振り抜いた剣の勢いを保持し、今度は左上から右下へと流れるように敵をさらにブッチ斬る。
淀みのない、力に満ちた破壊的な連撃。
×の字に大きく切り裂かれ、デスワームはおぞましい叫び声を上げた。
そして予想通り、今まで相手をしていたラグロのことは完全にほっぽり出して、今度は頭をこちらに向けてくる。
だが、その動きは戦闘が完全に【センチュリア】の望む形に進んでいるということの証左でもあった。
防御のために間合いを取るべく下がると同時に、ラグロの動向を確認する。
ラグロは自身がフリーになったことを理解すると、それならばと次のアクションのための構えに入った。
相棒の剣士がディフェンスを担当するなら、彼が次にやるべきことはオフェンスである。
相棒に比べて攻撃能力ではやや見劣りするところがあったラグロだが、今は丁度良いウィークポイントが生まれている。
狼はやや腰を落とした状態から一気に駆け出すとその狙うべき箇所――アグゼが斬りつけた部位の裏側に向かって突き進んだ。
飛翔するような速力での体当たり、驚異のビーストキャノンはアグゼにだけ注視していたデスワームの胴に直撃した。
するとそことは反対側にある大きな傷口から、ボヂュっという音とともに内臓と思わしき管や袋のようなものが体液を伴いながら押し出されてくる。
デスワームの痛覚が哺乳類などとどれほど違うのかは判断できたものでは無いが、それでもこれは大きなダメージとなったのだろう。
怪物ミミズはもがいた。
狂乱したかのように体をメチャクチャに動かし、体液をまき散らす。
その有様はここまで戦闘の緊張感で無視出来ていた気持ち悪いという感情が、嫌でも心の中に湧いてきてしまうほどのものだった。
「うへぇ……」
いつでもとどめを刺せるようにと、とりあえず付かず離れずといった程度の距離を保つアグゼ。
幸いにもデスワームは埋まっている部分を未だ地上に出してはおらず、むしろそこがストッパーとなってくれているおかげで攻撃の届かない安全圏と呼べる範囲が判別しやすくなっている。
アグゼは気を張り過ぎることなく事態の推移を見守ることが出来ていた。
しばらく待っていると余力が無くなったのか、デスワームは暴れることを止めて地面にその身を委ねるようにぐったりと倒れ伏した。
何となく原始的な強い生命力によりもっと長く暴れるものと思っていたアグゼは、少々拍子抜けしながらもとどめを刺そうと横たわるワームに近付いた。
どこを刃を入れるべきか、そう考える彼は、ふと頭部に目をやった時に口付近の触手に変化があることに気が付く。
(青白い光…………ッ)
瞬間、アグゼは叫んだ。
「離れろっ!」
言葉と同時に、本人もデスワームから距離を取ろうと反転しながらの全力ダイブを行う。
バヂィッッ
耳に残る破裂音が響き渡る。
ごく一瞬のことだったが、デスワームが電撃による全方位攻撃を全身から放ったのだ。
幸いにもストックしていた知識のおかげで異変を察知でき、そこからの行動もモンスターの動きよりわずかに早かったようで、アグゼもラグロも何とか放電を喰らわずに回避することに成功していた。
しかしアグゼは焦る。
なりふり構わずとにかく離れることを念頭に置いて飛び退いたので、今は地面に這いつくばり敵の姿も全く視認できない非常に危険な状態になってしまっていたからだ。
倒れた姿勢で後ろにモンスターがいる状況、これはマズいなんて言葉で済ませられるものではない。
アグゼは早くなる心臓の鼓動に急かされるように体を起こし、もつれる手足で剣を拾いつつ立ち上がろうとする。
「…………あれ?」
焦りの中、幅広のバスタードソードを盾のように構えながら振り向いたアグゼは、予想していなかった意外な光景を目にすることとなった。
てっきりこちらの体勢を崩したのをいいことに、デスワームが追撃せんと牙を向けてくると思っていたのだが、何故かソレは先程と変わらず地面にぐったりと寝た状態のままだったのだ。
油断なく剣で身を護る姿勢を保ちながら、アグゼはどういうことかモンスターを観察する。
そしてしばしの緊張の後、彼は気が付く。
よくよく見るとデスワームは、先程までの死んだふりのような形だけのダウンではなく、時折ピクピクと痙攣する様が垣間見える動きたくとも動けない完全な致命的状態に陥っていたのだ。
「おい、まさか……自爆したのか」
ナマモノが焼け焦げたような音と煙、そしてかなーりの悪臭。
それがデスワームについた傷口よりはみ出た臓物あたりから漂っていた。
本当に自傷により動けないほどのダメージを負ったのならなんて間抜けな奴だと思わなくもなかったが、しかしそれは決してあり得ない話ではなかった。
生物はその体内で様々な物質を作り出しているが、その全てが当人の細胞に無害なものなのかといえば決してそんなことは無い。
例えば胃液は人体内部でもかなりポピュラーな物質の一つだが、ぞの実態は極めて強力な酸であり、ぶっちゃけその溶解性は体細胞の全てを破壊できるほどの強さを持っていた。
人体は防御因子による中和などでなんとかそれを制御しているのが実情で、少しでもそのバランスが崩れれば胃壁に穴が開いてしまうほどだった(ちなみにそうなった状態を示す疾患が胃潰瘍である)。
今回のようにもろに内臓が飛び出た状況で全身を包むような放電をかませば、それが臓物を焼き、さらには体内の器官をいくつも傷付けることは容易に想像できることだった。
デスワーム自身は何が起こったのかなど一切理解はしていないのだろう。
腹に穴が開いた状態でいつもの行動を取ったら、体が動かなくなってしまった。
そして体が動かせない中でも傷口からは絶えず何かが流れ出し、命の灯は確実に消え去ろうとしている。
可哀想な話だ。
しかしこれはデスワームの方から仕掛けてきた戦いであり、アグゼがこのことに何かを感じるなどという話はそれ自体が筋違いなモノなのである。
彼が何かしてやれることがあるというなら、それは苦しみを早く終わらせてやるということのみ。
「……今、楽にしてやる。じゃあな」
アグゼは握った剣を構え、大きく振り上げた。
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アグゼは再び岩の上で休憩を取っていた。
疲労の回復も重要だったが、それよりも今のアグゼには己の装備が酷く汚れてしまったことの方が気掛かりだった。
のたうち回るデスワームの近くにいたことにより、彼の全身には乳白色の液体が無視できないぐらいの量が降り注いでいたのだ。
血の匂いならまぁそれなりには慣れたものだったが、この何とも表現し難い異臭はそれとはまた違うキツさがあった。
気候的にさっさと対処しなければ乾いてもっと酷いことになりそうだという予測も考慮すれば、彼の思いは至極当然のものだったと言えよう。
「……はぁ」
兜を脱いでそれを真正面から見る。
想像通りの酷い有様だ。
そして重い気分のまま、今度はマフラーを外そうとする。
金属や厚革で作られた装備品ならともかく、手編みのマフラーはもう使い物にならなくなっていることだろう。
意図したわけではないが、それでもトワコの想いを踏みにじったような気持ちが浮かんできてしまう。
俺のせいじゃない、俺が気にすることではない、そもそもアイツが探索中に使ってくれって言ったんだ。
そんな言い訳を強引に頭に浮かべながら後ろに流していたマフラーを首から外し、その状態を確認したアグゼは――驚愕する。
「全く、汚れてない……」
マフラーには汚れが全く付着しておらず、また飛び散る砂による傷なども一切付いてはいなかった。
トワコの言葉が思い起こされる。
このマフラーは見た目よりもずっと丈夫で、少々の汚れなら弾いてしまう、らしい。
(これが少々ってレベルか? 一体どんなトリックだよ)
一体どうすればこんなものが出来上がるというのか。
アグゼの持つ知識では、その一端を想像することすら出来なかった。
しかし同時に思う。
確かにこの性能なら、探索中に身に着けていても問題は無い。
侮っていた頑丈さも、この分なら首に巻いておけば喉への防刃効果すら多少は期待できそうだ。
トワコが自信を持って使ってほしいと言ってきたわけが理解できる。
(何と言うか、スゲーものを渡してきやがったもんだ。…………やっぱり、何かしてやるべきかな)
彼はバックパックから汚れを落とすための道具を取り出しつつ、トワコから贈られたそれを眺めるのであった。
トワコのお手製マフラー。
これはとても丈夫で、汚れを弾く性質も併せ持っていた。
アグゼはそれが魔法によってもたらされたものだと考えており実際大きく間違えてはいなかったが、実は正解とも言い切れないものがあった。
彼女のマフラーが高い強靭性を持つ理由、それは強く魔力を保持する材質――――『トワコの髪の毛』が毛糸に編み込まれているからだったのだ。
頭髪は血液などと同じく魔法の触媒としても使いやすく、魔法使いにとっては普通に有用な代物だった。
さらに髪という物質自体が、束ねれば異常なほどの強靭性を発揮する性質を持っている。
トワコが気合いを入れて魔力を練り込んだソレは、魔力コーティングにより丈夫かつ生半可な汚染など物ともしない、もはや防具として見ても遜色ないほどの一品となっていたのである。
素晴らしい。
その制作手腕は称賛に値すると言ってもいいだろう。
少なくともこういったことを生業とする者からすれば、それは満点をくれてやってもいい出来だったに違いない。
ただし……実際に受け取った人物が、この事実を聞いたうえでそれをどう評価するかは、また別の話だと思われるが。
想像してみてほしい。
女が深い情念を込めて己の髪から何かを作る。
しかもそれは、愛する男の首に巻かれることを想定した代物なのである。
……制作の手法だけ抜き出して聞いたなら、人はこれを呪いの産物――『呪物』と呼ぶのではなかろうか。
デスワームはUMAとして有名なアレです。
毒に加え電撃も使うくせに実在度がUMAでも最高レベルなんだとか、すごいね。
今回の主人公の気持ちの揺れ、葛藤を他作品のキャラで例えるなら、某野菜王子が額にMを付けて操られていた時みたいな感じ。
彼ほどの気高さとかが無いからか、むしろそれを受け入れ気味で爆発とかしてませんけど。
主人公の気持ちがブレブレだからといって、この作品の復讐という部分はまだ全然終わったわけではないのでご安心(?)を。
誤字脱字の報告はいつも本当に助かります、誠にありがとうございます。
今回キリの良いところまで書こうとしたら余裕の一万字超え、こんなんだから投稿が遅くなるわけですが、読んでくださる方々、以後もよろしくお願いします。




