三十二話 私ハ分カッテイマスカラ
一連の出来事の後、何度も頭を下げるグレースとソラリスの姉妹は、ルートヴィッヒを支えて冒険者ギルドを去っていった。
今度こそ、やっと終わったかと肩の力を抜くアグゼ。
「アグゼ、こちらに来てください」
「お、おい。何だよ」
そんなアグゼを尻目に少し離れたところでギルド職員と話を交わしていたトワコは、それを手早く終えると急に彼の左腕を引き、訓練場とは違うギルド内の一角へ向かおうとする。
戸惑うアグゼだったが、さすがにここからトワコに面倒事を振られるとは思えず、とりあえず流されるままについていく。
トワコが向かった先は商談などが行われる際に使用される個室で、彼女はそこに入るとアグゼに椅子に座るように促した。
言葉は無くとも彼女の強い想いは伝わってきたし、腰を下ろしての休憩はアグゼ自身も望んでいたことなので、特に逆らうことなく彼は背もたれの無い丸椅子にドスンと座り込んだ。
「鎧を脱がせます。いいですね?」
穏やかだが、それでいて有無を言わさない強い言葉だった。
アグゼはその言葉を受けて少しだけ顔をしかめる。
「……お見通しってヤツか」
「はい」
「分かった。すまんが手伝ってくれ」
トワコの手を借りつつ鎧の上半身部分を外し、更にはその下に着ていた黒のインナーも脱ぐ。
大きな解放感に心地良さを感じるが、伝わってくるモノはそれだけではなかった。
「つぅ……」
「痛むのですね。私に任せてください」
アグゼの体は太く力強い肉に覆われており、褐色の肌との相乗効果もあって単純に頼もしさに溢れていた。
だが、右腕だけは色黒の皮膚の上から見ても分かるぐらいに血の滲みが点在しており、むしろ痛々しさが顔を出していた。
骨折などは無いようだが、おそらくは酷い内出血を起こしているのだろう。
自身の腕の惨状からアグゼは目を逸らす。
逆にトワコはその腕をしっかりと観察して、軽く頷くと自らの手を添えて特別な言葉を紡いだ。
「癒しの息吹を与えたまえ、《ヒール》」
トワコの手が光をまとう。
それは基礎的な治療魔法だった。
とはいえ使い手が優秀だったおかげか、見る見るうちに右腕の状態は良くなり他の部位と遜色ない色合いになっていく。
痛みもあっという間に引いていき、ほんの数秒でアグゼの右腕は怪我があったとは思えない見た目に戻っていった。
「お前が魔法を使うところ、初めて見たけど……大したもんだな」
「ありがとうございます。痛みの方はどうですか?」
「あぁ、大分良くなったよ。助かった」
アグゼの礼に嬉しそうに頷くと、彼女はそのまま治療を続けた。
「えーと、もう大丈夫だと思うんだけど」
痛みがほとんどなくなり、その代わりにむず痒いような気持ちが強くなってきた彼は、そのことをやんわりと伝えようとする。
「大丈夫ですか? 本当にもう痛みはありませんか?」
「問題はない。むしろ汗の方が気になるところだな、ちょっとバックパックを取ってくれるか?」
何か拭くものがあったはずと考えるアグゼだったが、トワコはそれを聞くと良いことを思い付いたと言わんばかりの顔を見せる。
「汗が気になるというのなら、それも私にお任せください」
そう言うとトワコはどこからともなくタオルを取り出した。
そしてアグゼの後ろに回るとそれを使って彼の背中を優しく拭い始める。
「いや、その、自分で拭くからタオルを貸してくれればそれでいいんだが」
完全な密室、自分以外の人物が至近距離にいる、そして上半身が汗びっしょりなスッポンポン状態というシチュエーション。
アグゼの感性としては、とりあえず切迫した問題が片付いたのなら、もうちょっと間隔を空けてほしいというのが実情だった。
「背中は自分では拭き辛いものです。この方が効率面でも優れていますし、良いと思いませんか?」
「臭いとか、ほら、色々気になるだろ?」
「私は気にしませんよ?」
アグゼが言いたかったことに対して少しずれた対応を見せるトワコだったが、彼女の考えは間違いでもなかった。
それにわざわざ世話を焼いてくれるのに、それを無下にするのは少々心苦しいものがある。
「まぁ、それなら……」
口を濁しつつも、軽く頷いて肯定を示す。
その返事を受けて、彼女は一旦止めていたタオルを動かす作業を再開させた。
なんだかんだ言いはしたが、冷たくなり始める汗を丁寧に拭いてもらうことは気持ちのいいものであり、アグゼはあっという間に抵抗感なくその行為を受け入れ始めた。
ルートヴィッヒが見たなら憤死しかねない光景は両者無言のまましばし続いた。
そして後ろ側を完全に拭き終わる段階まで進むと、トワコは改めて口を開く。
「それでは、次は前を拭きますね」
「いや待て、それは止めろ。それは自分でやる」
「でも……」
「デモもストも無い。いいから、タオルを貸してくれ」
背面という拭くのが難しい部位ならば任せても構わないと思えたが、その前提条件が変わったなら対応も変えてしかるべきである。
渋々といった感じでトワコは頷いた。
ただし、渡すタオルは同じものでは無く、これまたいつの間にか用意していた新しい物だった、
トワコの気遣いに軽く感謝の意を伝えながら、受け取ったタオルで前面をゴシゴシと拭いていく。
「そうだ。もういい時間ですし、お昼にしませんか? お弁当以外にも、何か頼みましょうか?」
「んー、弁当だけだと二人分には足りなさそうだから、何か良さそうな物を適当に頼んでくれ。それと、飲み物も竹筒のお茶だけじゃちょっと厳しいな。そっちも併せて見繕ってくれるか?」
「はい、お任せください」
一緒に食事を取るという考えがアグゼの台詞の中にナチュラルに入っていることに喜びを感じたトワコは、軽い足取りで部屋を出て行った。
アグゼは上半身を一通り拭き終わったことを確認すると、持ってきていた替えの服を取り出しそれに着替える。
下半身部分に関しては……まぁいいかと思い、アーマーも装着したままである。
そもそも服を脱いだのは右腕の治療のためだったのだ。
多少の汗程度の問題しかない下に関しては無理に着替える必要はない、そんな言い訳地味たことを彼は考えていた。
(しかし、今回のアレは一体何だったんだ?)
今はもう完全に治療された右腕を見る。
思い出すのは決闘の最中、迫りくるアース・エレメンタルを前にして複雑に折れた右腕を高速再生させた時のことだった。
あの時、無我夢中でよく分からなかったが、腕を直した魔法は間違いなく《リジェネレート》だった。
しかし《リジェネレート》は自動発動と燃費の良さが特徴の回復魔法であって、今回のような瞬間的な回復が出来るとは魔導書にも記載されていなかったはずである。
それに気になる点はそれだけではない。
体感でも判断できるし、この部屋でトワコに治療された事実からも分かることだが、今のアグゼには燃費の良い《リジェネレート》が発動できる程度の魔力も残ってはいなかったのだ。
これは階層ボスのレッドコム・ベアと戦った時などと比べると、違和感を覚えるほどの大きな消耗であった。
ふむ、とアグゼは考え込む。
気合いだ、ド根性だ、そんな気持ちで戦闘を続けたことを振り返ると、そういった意志の力が何らかの影響を与えたのだろうか?
(俺の魔力って感情の爆発で得たものだしなぁ。そういうもの……なのかも)
いくら想像したところで正確な答えなど得られるはずもなかったが、そんなアグゼの元にその回答を出してくれるであろう人物が戻ってきた。
「料理はしばらく時間が掛かるようですが、飲み物は先に貰ってきましたよ。お弁当を広げて、一緒に昼食としましょう」
了解だ、そう応えたアグゼはテーブルの上のタオルなどを片付けて、空いたスペースにバックパックから取り出した弁当が入った包みを置く。
それを開いて蓋も取ると、中には生唾を誘う料理が並んでいた。
トワコが持って来た飲み物と小皿を受け取り、彼女も席に着いたことを確認すると、アグゼは目の前の上等な食事に対して簡素な感謝の言葉を述べながらフォークを手にした。
「今日のお弁当は海老のフライが自信作なんです。きっと美味しいですよ」
「そいつはしっかりと確かめないとな」
衣が落ちてもいいように反対の腕で持った小皿を下に待機させながら、アグゼはフライにかぶりつく。
ガブリ、サクサク、モグモグ、ゴックン
ウンウンと頷いて味に満足している様子を見せると、トワコも微笑みながら食事を始めた。
昼食は雑談を挟みながら進む。
その内容は当然先程まで行われていた決闘のことであった。
話の中で、丁度いいかと思ったアグゼは骨折を高速回復させたときのことを聞こうと話題を振ってみた。
聞かれたトワコは少しだけ口を閉じた後、自身の考えを述べる。
「あの時に貴方が行ったことは、おそらくは魔法の倍加発動だと思われます」
「倍加?」
「はい。魔法は効果を強めたり、対象範囲を広げることなどを目的に、魔力を余分に消費して強化版とも言うべき形で発動させるテクニックがあるのです。ただそれは一割程度の強化で倍の魔力を使い、二割増しになればさらに倍といった具合に、あまりにも効率が悪い手段となっています」
「なるほど、そんな手があったのか」
「しかしお恥ずかしい話ではありますが、私は自動発動タイプの魔法でも倍加発動が出来るということを知りませんでした。状況的にはアグゼが《リジェネレート》を無意識に倍加させて骨折を治した、とは思うのですが……本当は確証があるとも言い切れないのです。申し訳ありません」
個々の術の話ではなく魔法全般のテクニックの一つで、そのうえトワコが知らないほどマイナーなパターンだったのならば、魔導書によっては書かれていない場合も当然ありうるだろう。
「謝る必要はない。状況的にも納得がいくし、むしろモヤモヤしたものが無くなってスッキリしたぐらいだ」
魔力がスッカラカンになっているのは、《リジェネレート》の苦手分野である瞬快回復を倍加発動という無茶でゴリ押ししてしまったせいであろう。
しかもその治療も実際のところは完治には程遠く、そんな状態で戦闘を続けて、さらにはタライに粉砕級の全力パンチをかますという暴挙まで行ったのだ。
そう思うと、右腕が酷い内出血を起こしていたことも不思議だと感じはしなかった。
(そっかそっか、バカやったなー)
呑気な感想を持ちつつも、アグゼは疑問が解消された心地良さの中でエビフライを口に運ぶ作業を再開させるのであった。
アグゼは気にしていた事柄が無くなり純粋に食事を楽しんでいたが、どうやらトワコの方はそうではないようで、表情が謝罪をした曇り気味の状態から変わっていなかった。
「……あの、本当に申し訳ありませんでした。私のせいで貴方にいらぬ面倒を掛けてしまうことになって……」
どうやら今回の決闘が起きた経緯に関して思うものがあったようだ。
アグゼは一旦食事を止めて、トワコの話に付き合うことにした。
「気にする必要は無い。お前が起点ではあろうとも、何かミスをしてしまったから起きたことだったとか、そういう話じゃないんだろ? さすがに求婚に応えていれば良かったんだ、みたいなバカなことを言うつもりは無いしな」
「ですが……」
「それに決闘の最中にも言った気がするが、売られた喧嘩を俺が買った時点で、あの決闘は俺とあの男だけのものになったんだ。今更お前が割り込む余地なんかはどこにもないんだよ。もう一度言うが、気にするな」
言い方には少し棘があるが、間違いなくそこには気遣いが込めれらていた。
そしてそれを察したトワコは、ますます何かをしなければならないと感じてしまう。
何しろアグゼは結果として、事を終えても何一つ得るものが無かったのだ。
始まりにも終わりにもケチが付いた決闘だったが、彼はそれを全力でやり遂げた。
ならば、何か一つぐらいは報われても良いのではないか。
そんな気持ちがトワコの中には存在していたのである。
しかしそんなトワコの気持ちとは裏腹に、アグゼは心は意外なほど充実した状態が保たれていた。
(プライスレスな報奨ってところか、悪くない)
確かに今回の決闘において、物質的な意味で彼が得たものはこれといって無かった。
だが精神的には、実に充実したモノが己の中に満ちていることを、アグゼはしっかりと感じていたのだ。
まず、決闘そのものはしっかりと相手を打ちのめしたうえで完勝して、その後の対応でも関係者全員の面子を考えたなかなかの采配が取れた。
加えて自分を純粋に応援してくれる人の存在を知ったり、大勢の観客の前でバルディアン・アーツの大技を披露したりと、気分が良くなるアレやコレやが加わっている。
(ちょっとやそっとの金銭程度じゃ、この感覚は味わえないだろうな)
迷宮探索という命を懸ける仕事で、意図的に難易度を上げることで名声を得ようという無茶を続けている事実からも分かるが、アグゼは精神的な充足に大きな比重を置いている男だった。
まぁ実利的な損得や金勘定も軽く見ているわけではない。
ただ今回は結果的に獲得したモノがいつもとは大きく違うという事実に、これはこれでいいじゃないかと十分満足していたのである。
しかし、敵だったとはいえ人を思いっきりブッ飛ばしたことに愉悦を感じた事実などは人品卑しく他人に言えたものでは無いし、心の内を細々(こまごま)と説明する気もなかった彼は、それを表に出さないよう軽い口調で場を濁すことにした。
「今回は俺の優しさが良い感じに炸裂した、それで十分だろう」
「優しさ、ですか」
「……いや、やっぱり今のは無しで」
自分を指して優しいと言うのはなんかアレだな、アグゼはそんな感想を持った。
とはいえ己が優しさを持っているというある種の傲慢な考えは、彼の場合だと一応自身でもそれを肯定できるだけの根拠が存在していた。
彼は常日頃から他者のことを気に掛けたり、己の品格を落とす行動を出来るだけ取らないように心掛けている。
何故ならそうした余裕のある生き方は強者の生き方であり、スラム育ちの彼からすればそんなムーブが取れるということ自体が「自身が這い上がった証拠」でもあったからだ。
自尊心を満たすためには優しさが必要である、そんな方程式を持ち、そのうえで最近の充実した日々を振り返ったなら、まぁ己は優しさを忘れてはいないと考えてもいいのではなかろうか。
(打算ではある。が、打算だけのつもりもない。……ガチの聖人とかが知ったら、なんて言ういいだろうな)
(優しい。そう、貴方は本当に優しい。優しくて暖かくて、そして……その光の傍には、私のおぞましい影が見える)
今現在、アグゼと共に暮らしているトワコは、アグゼが見せる優しさの大部分は彼自身が元来備えている素晴らしいものであると、己の体験を基に考えていた。
しかしその生い立ちを知り、これまでアグゼが何を思って生きてきたのかを理解している彼女は、その優しさがどのようにして育まれたのかという点にまで考えが及んでいた。
アグゼが持つ人生の指針とする思想は、端的に言えば「強く立派に生きる」というものだった。
そのように願い行動するならば、その参考となるものは何よりも自身が実際に目にした強者であることは必然である。
アグゼがこれまで見たことがある強者の中で、最も強烈なイメージを残している存在は、おそらく義父であるヒューベインとファンドリオンの武芸者たちであろうと考えられた。
前者はまさに最大のお手本と言えた
子供の頃のアグゼと真正面から向き合い、時には大きな背中を見せて、最期は彼のためにその命を費やす。
家族の温もりや他者への献身、強く生きるということそのものを最後まで示し続けた偉大な人だった。
そして後者は…………最悪の反面教師だったに違いない。
誤った情報を鵜呑みにして、弁明の機会も与えず多数による圧倒的暴力を行う非情の集団。
慈悲や理性の無い武力の醜さ、強さの果てがこうであってはならないという悪い意味での具体例として、アグゼの心に焼き付いているだろうという嫌な確信があった。
(それでも、彼らが私の愛しい家族であることに変わりはありません。彼らの暴走は私のせい、彼らが醜く見えたならそれは私の醜さが見えたということ。アグゼ、私は……)
トワコは決して心が弱い人物ではない。
むしろ胆力などは冒険者として十分過ぎるものがあり、モンスターの群れが相手でも果敢に立ち向かうことが出来る強い精神力を持っていた。
しかしアグゼに関することになると、途端に思い詰めて年齢よりも幼い少女のような儚さを見せることがしばしばあった。
些細なことでも急に深く考え込んでしまう彼女の心は、そういった瞬間だけ切り取って見たならば、正直病んでいると言ってもよかっただろう。
同じ建物で暮らすようになったアグゼは、そんなトワコの様子を見る機会がこれまでに何度かあった。
彼女ほどには深い情念で相手を見ているわけではないアグゼは「何か考え込んでるな」程度にしかそれを捉えておらず、今回もそう重く受け止めはしなかった。
しかし美味い食事を味わうに至って、目の前の人物が沈んだ顔のままというのはあまり嬉しいシチュエーションではない。
アグゼは少しだけ頭を捻った後、口を開いた。
「ま、気にするなと言いはしたけれども」
「え?」
「それでも気になるものは気になる。あぁそうだな、分かるよ。じゃあさ、一つ頼んでもいいか?」
思考の海から急速に浮上したトワコは何を言われているのか理解するのに若干の時間を必要としたが、アグゼがこちらの秘めた心に応えるように何かを
要求しようと考えていることに気付くと、すぐさま目に力を取り戻し背筋を伸ばして佇まいを直した。
以前直接アグゼに向かって口にしたこともあるが、彼に頼られてそれに応えるということはトワコにとって喜びそのものなのだ。
彼女は戸惑うことなく返事をした。
「はい、何でも仰って下さい。出来うる限り応えてみせますから」
「そいつは頼もしいな」
そう言うとアグゼはわずかに目線を上げて、過去の光景を思い出しているような様子を見せた。
「ほら、前にザルソバってヌードルを作ってくれただろ? あれ個人的にはなかなかのヒットだったんだけど、麺をつける汁がもうちょっとだけ甘めになってるとなお良しって思ったんだ。だからさ、それも加味してまた作ってくれないか?」
「あの、それは構いませんが、そんなことで良いんですか?」
「そんなこととか言うなって。お前にゃ分からんことかもしれんが、庶民の飯のレパートリーなんてさもしいもんだぜ?」
少しだけ笑いながら彼は話を続ける。
「まぁ俺たちの付き合いには色々と複雑なものがあるが、少なくとも飯に関してはマジで含むところとか一切無いんだ。俺としては、何ならザルソバだけじゃなくて、そっちの地元の美味いもんをもっと食卓にガンガン出してくれってのが本音だね」
「はぁ、分かり、ました」
それは願いというには実に小さなものだった。
アグゼの妙な力説に対して、トワコは気の抜けた返事をする。
コンコンッ
そんな二人だけの空間に来訪者が現れた。
「すいませーん、料理をお持ちしましたー」
「おっと、来たか」
アグゼの言葉でこれまた何か考え事が生まれたのか、トワコの反応はやや鈍かった。
逆に弁当に手を付けつつもまだまだ腹が満たされてはいないアグゼは、更なる料理の到着に素早い対応を見せる。
立ち上がりドアを開けて、トワコに背を向けたまま給仕の相手をするアグゼ。
その背を眺めながらトワコの中には、一つの疑問と理解が生まれていた。
(アグゼ、貴方のそれは……)
トワコは男の言動によって、自身の遠い過去の記憶を呼び起こされていた。
ファンドリオン家は大貴族だが実践性を重視する武家であり、サバイバル能力の向上などのため、意外なことに当主ですら一定の家事炊事ができることが求められた。
そんなわけで、トワコの両親もその能力を不足ないレベルで備えていることは必然であった。
彼女は母の手料理が大好きで、幼い頃にファンドリオン家の子女として武芸を仕込まれる中で、何かを一つを覚える度に母に「あれが食べたいから作って」とねだっていたことを思い出す。
優しい母は幼い末娘の願いを無下にせず、しっかりとその願いに応えてくれた。
――貴族としてはかなり異端なことに、トワコは平民が考える類の「家族に甘える」というものを知っていたのである。
(家族のいなかったアグゼはおそらくそういった甘えを知らず、経験したこともない。そんなアグゼの中からそのような言葉が自然に出てくるというのは……本人も意識していない心のどこかで、私に『家族』を見出してくれているからなのでは?)
だとしたら、それは――――それはなんという至福であろうか。
アグゼが聞けば間違いなく「違う!」と言い放つだろう。
しかし、勝負事に勝った後に良いものを食べさせて、などという頼みは、トワコにはまるで家族へのおねだりのように感じられていた。
大き過ぎず、それでいてちょっとだけアバウトな図々しさ。
親しみの絆があってこそ出るような言葉を口にされて、共に暮らすようになってまだ日は浅いが、それでも己の行いがアグゼの心に随分と染み込んでいるのだと実感する。
その事実が、とても嬉しい。
女は思考を飛躍させる。
(妹を持つようになり、甘えられることを知り、そこから甘えるということを知る。えぇ、大丈夫です、大丈夫ですよ、アグゼ)
家族を知らず、それでいてあのような言葉が出て来たということは、貴方の奥底には甘えたい願望があるのですね?
問題ありません、求められるなら私は貴方の隣に立つ妻だけでなく、貴方を包み込む母親のような存在にもなりましょう。
大丈夫デスヨ、私ハ分カッテイマスカラ。
「汁物はまだだってさ。まぁメインどころは揃ったし、別にいいか」
受け取った皿をテーブルに置き、改めて椅子に腰を下ろすアグゼ。
ふと、彼は目の前のトワコの様子が先程までと違うことに気付く。
給仕と会話を交わしつつ料理を受け取る、ごくわずかな時間。
そんなほんの少しの間に、何か心境の変化でもあったのだろうか。
この部屋に入ってから基本的に己の中の充足感に酔いしれて、トワコには必要以上に強く注視していなかったアグゼだが、今の彼女からは妙なものを感じざるを得なかった。
「……何か、あったか?」
「いえ、何も問題ありませんよ。食卓に並べるラインナップを考えたときにざるそばだけでは物足りないと思えたので、何を一緒に出そうかと考え始めたのですが、何だか楽しくなってきてしまって……それだけです」
「そうか。いや、それなら別にいいけど」
トワコは落ち着いた微笑を浮かべていた。
杞憂だったか、そう結論付けて視線をテーブルに戻す。
アグゼが料理に再び手を付け始めると、トワコもそれに続いて食事を始めた。
彼女の顔に影は無い。
アグゼが持った違和感は、あっという間にどこかに消え去ってしまうのだった。
噂の人となり、今日は決闘にも勝利した。
確かに今のアグゼは、少しばかり輝いているように見える人もいたことだろう。
しかし、そう感じたならば、その光の端の方をよく観察してみるとまた違ったものが見えたはずだ。
黒く濁った、光を包み込もうと広がる蜘蛛の巣のような何かが。
その日の晩――
「好みの味だ、こいつはいいな」
「さくさく、おいしー」
「天ざるそばに冷や奴、茶碗蒸し。久しぶりに作ったやつも、けっこう上手くいったわね」
「たた甘くしただけではない整えられた味。見事です、お嬢様」
「お代わりならありますよ、持ってきますか?」
「いや、丁度食べ切ったし俺がやるよ。フィルティは何かいるか?」
「ちゃわんむしー」
――あぁ、素晴らしきかな穏やかなる晩餐。
データやらが色々あったりで遅い投下になりました。
今回はちょっと湿度高目でトワコの勘違い女レベルを上げてみました。
正直気持ち悪い感じが強い気もするけど、あんまり健気な雰囲気だけで行くとヤンデレっぽくないとも思えたので致し方なし。
なんでそうなる!?、と思われたなら申し訳ない、作者の実力不足です。




