二十話 人生の決断
フッ、フッ、フッ、
まだ早朝と言える時間、アグゼは両手にそれぞれ一つずつ桶を持ち、小屋と近くの川を駆け足で往復していた。
目的は料理などではなく風呂の為である。
昨夜は夕食の後、フィルティとほどほどに会話をしてから早めの就寝となったのだが、そのとき新たに判明したことがあった。
フィルティはこの小屋に住み着いて一か月強といったところだったのだが、なんとベッドを使っていなかった。
そのうち来るはずの家主のことを考えて、自身は持ち込んだ毛布に包まり部屋の隅を寝床としていたのだ。
殊勝な考え方だと言っても良かったが、その先に待つのは体調不良などろくなものではなく、結果として世話になる人物の負担を増やしかねない行いだった。
フィルティのように体が出来上がっていない年齢だとそれは致命的なエラーにつながることもあり、昨夜はわざわざアグゼが部屋の隅を陣取って、彼女にベッドで寝るよう説得をしなければならなかったほどである。
彼女はその説得を受け入れることは了承したが、清潔とは言えない状態でベッドに上がることを申し訳なさそうにしていた。
よってアグゼは次なる行動として、彼女に清潔さを取り戻させるために風呂を用意しようと考えたのである。
幸いにも現在彼らがいるセーフハウスには、離れの小屋に風呂釜などの上等な入浴設備が存在していた。
ただし、それを使うには燃料の用意や大量の水の運搬などやらなければならないことがそれなりにあった。
もう全快したであろう体のリハビリ&トレーニングも兼ねて、彼は朝からわりと重労働に分類されるような作業を行っているのである。
風呂桶に水を溜め、風呂釜に火を入れる。
燃料が足りないようなら枯れ枝を収集し、薪割りも行いそれを補う。
そうして湯を作ろうと奮闘することしばし、水が適温かなと思え始めた頃にフィルティが目を覚まし、作業中のアグゼのところにやってきた。
「……おはよう、ございます」
「あぁ、おはよう。よく眠れたか?」
コクリと少女は頷く。
「……これ、お風呂?」
ベッドの使用すら躊躇っていたフィルティは当然この風呂場を使ったことが無く、それが稼働している姿を物珍しそうに見ていた。
「その通り。昨日寝るときに色々気にしてただろ? 家主としても、身綺麗にしてくれるに越したことはないからな。今ちょうど入浴するのに良い感じになってきたところなんだ」
「私のため?」
「あぁ。俺は今から軽く一息入れて、その後に朝食の準備をするからその間に入っちまってくれ。おっと、妙な心配事は考えてくれるなよ。これでも俺は、紳士であることにそれなりのこだわりを持ってるんだからさ」
軽くおどけながら話すアグゼに対して、フィルティはさして表情を変えずにいた。
すでに分かっていたことだが、少女は驚いたりしたときもあまり表情の変化を見せることが無い。
うーん、いまいちウケが悪かったかな、などと思いつつもアグゼは話を続けた。
「石けんとかは出してある。他に必要なものがあったら、遠慮なく呼んでくれ」
そう告げると彼は風呂部屋を出て、居住区である小屋の方に戻っていった。
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宣言通り、少し休憩をしてから昨日の夕飯の残りにちょっと加える形で朝食を作っていると、フィルティが入浴を終えて戻って来た。
洗面用具を使い汚れを落としたフィルティの顔は、水気を取り戻した髪と合わさって見立て以上に可愛らしいと言えるものだった。
できた食事を会話を交えながら二人で摂る。
和気あいあい、とはとても言えたものではなかったが、それでもフィルティはこちらの質問にはちゃんと答えてくれた。
ただ生来の性分か、もしくは遠慮もあるのか、彼女の方から話題を振ってくることはほとんどなかった。
まぁ信頼などそういった類のものは、一朝一夕でどうにかなる代物ではない。
アグゼの目にはむしろ拒否されないだけ順調であるかのように映っていた。
食事の後、フィルティは自ら小屋の掃除を申し出てきた。
これまではとにかく小屋の中のものにはできるだけ触れないように努めていた彼女だが、家主の登場により心境に変化があったようだ。
アグゼとしても、ここに来た本来の目的である魔導書のチェックもそろそろやりたいと思っていたころだったので、フィルティが積極的に独自の行動をとってくれることはありがたいと言えるものだった。
「一人で大丈夫か?」
「がんばる、ます」
この世界のこの時代、よほど生活に余裕がある身でなければ、子供でも掃除や炊事など生活に関することを多少はできることが当然であった。
掃除用具の場所や掃除してほしいところなどを伝えてから、彼は目的のものが揃っている本棚の前で椅子に腰を下ろした。
闇属性や火属性など、自身の能力に関係のあることが書かれている書を選び、ページを開く。
書は内容が濃く、しかも文学書的な書き方で解読がなかなか困難であったため、読み書きが特段得意といったわけではないアグゼの読書はとてもゆっくりとしたものであった。
しかしそれが多少実感を伴って理解できるようになっていたこともあり、完全に立ち止まってしまうということはなく、彼はそれを着実に読み解いていった。
ふと顔を上げると、一生懸命に雑巾がけをしているフィルティの姿が目に入った。
チョコチョコと動く彼女を見て「ちょっと前にも似たような状況あったなぁ」と彼は考える。
だがその時動いていたトワコに対しては特に悪いと思う気持ちもなかったので気にはならなかったが、今回の場合はそうやって安穏と過ごすことは少々難しかった。
今のアグゼは酒に酔ってなどいなかったし、フィルティはむしろ同情を誘うような立場であったので、彼女だけを働かせることはいくらかの心苦しさを生んでいたのだ。
端的に言うと、バツが悪くて読書を続けることが難しくなってきたのである。
(しかしなぁ)
こうした状況での「あるある」な心境として、見ている側は居心地が悪くとも、動いている側はそうではないというものがあった。
フィルティは動かなければ手持ち無沙汰になってしまううえ、現状でも住処と食事の提供を受けている身の上だ。
下手にアグゼが手を出すよりは、作業量が多少増えようとも本人のペースで好きにやらせる方が、彼女にとって良いシチュエーションだと言える可能性は否定しきれなかった。
どうしたもんかねと思いながら、彼は一旦読書を中断して何となく書棚に目を向ける。
そしてややぼんやりとその辺りを見ていると、一冊の本が彼の目に留まった。
(あれは……)
それは義父が書いていたと思われる魔術の理論などをまとめた研究書であった。
義父は研究者肌というか少々偏屈なところがあり、それは書き物に関しても同様のことが言えた。
かつて少しだけ目を通したその内容は、当人さえ読めればいいといったものの極致と思えるようなもので、アグゼはさっぱり理解できず見るのをすぐにやめてしまった覚えがある。
だが、思い返してみると記述の中には所々に日付が残されていて、日記のような側面がある書であったことも彼は思い出していた。
アグゼはそれを取ると軽くほこりを払い、組んだ足の上で開いた。
彼が思ったことは一つ、フィルティの母親に関する情報があるのではないかということだった。
彼女は義父と同じく魔法使いであったという。
ならば、もしかしたら魔法の研究において互いに協力していたり、場合によっては彼女個人についての言及などもあるかもしれない。
合理性や損得勘定などを捨て去ることはあり得ないが、それでも心情的にはフィルティの今後を何とかしてやりたいというのがアグゼの本音だった。
昨日も思った「己の背中へのもう一押し」、それが何かあるのではないか。
そんな考えのもと、彼はページをめくり続けていった。
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その日の晩、昨日と同じくアグゼが作った夕飯を食した二人は、食事の後片付けをしてからゆったりとした時間を過ごしていた。
長時間掃除に従事していたフィルティは疲れが出てきたのかやや眠そうだ。
そんな彼女を見ながらアグゼは考える。
今、言うべきなのかどうか。
これは少女の今後を左右する話し合いとなるだろう。
なかなか気軽に切り出せる話ではないが……かと言っていつならば話しやすいのかと考えると、その答えなぞ彼は持ち合わせてはいなかった。
アグゼは腹を決めて口を開いた。
「フィルティ、話したいことがあるんだが、いいか?」
少々ぼんやりした眼ではあるが、振り向いた彼女は頷いた。
「お前はお袋さんに言われて、俺の義父さんの世話になりに来たんだろ? しかしな、残念な話だが義父さんは……もういないんだ。ずっと昔に亡くなっている」
ゆっくりと、内容をちゃんと受け取ってもらえるようにアグゼは話す。
「それで――」
言葉を続けようとしたアグゼの口が止まった。
フィルティの様子に変化が現れたからだ。
アグゼの言葉を受けた彼女はじんわりと瞳に涙を浮かべた。
そして徐々に無表情気味だった顔を歪ませて、何か言葉を発し始めた。
「――ぁさん、おかあさん」
それは母親への呼び声だった。
「おかあざん゛っ、おか゛あ゛さ゛ん゛っ」
これまでのフィルティへの印象を一変させるような、大口を開けてひたすらに母を求める声。
迷子だったり留守番だったり、そんなときにとにかく声を出せば母がやってきてくれるのではないか、そんな子供の願いを込めたような叫びだ。
「オ゛カ゛ァヒ゛ャン゛ッ」
もはや声ならざる声といった有様だった。
親を亡くしたばかりの子供がこういった事態に陥ることはないではなかったが、それでもそうした時の心の内は一様ではない。
アグゼもフィルティの内面をはっきりと察することができず、何と言っていいかは分からなかった。
そもそもアグゼの義父は彼女にとっては全く見ず知らずの他人に過ぎず、ここまで多大な反応を示すとは予想外である。
彼女がこのように急に叫び始めた理由――それはフィルティがただ一つ心の支えにしていた、母との間に残された糸が途切れたのだと感じてしまっていたからだ。
例え多少の虐待や育児放棄があろうとも子は親を求めるものである。
十分な愛情を受けていたならば、子にとって親は神とも同義となるだろう。
そしてそれはフィルティにも当てはまることだった。
彼女は母親と死に別れてしまったが、それでも母が残してくれた言葉を胸に立ち続けていた。
その遺言に従っていればまだ母に護られている、そんな信仰にも似たような想いを抱いていたのだ。
しかし母が告げた人はもう存在していないと、目の前の男は言う。
それは今後は母の言葉通りにはいかなくなる、つまりもう母に護ってもらえなくなるということを意味していたのだった。
人形が潰れそうなほどに強く抱きしめて、声を張り上げるフィルティ。
その姿は痛ましく、見ているアグゼにも辛さが伝わってくるほどのものだった。
この少女の心に安寧をもたらすにはどうすればいいのか。
何となくの抱擁や、ただ優しいだけの言葉などではそれは成しえないだろう。
だからアグゼは選んだ。
「フィルティ、聞いてくれ。フィルティ」
アグゼはしっかりとした言葉で、少女に話しかける。
だがそれで一度泣き出した子供が簡単に止まるはずもなく、彼の言葉は受け取ってもらえなかった。
「大事なことなんだ。俺にとっても、お前にとっても」
彼は姿勢を変えなかった。
声の調子はそのままに、泣き止めなどと強く言うこともなく、ただ真っすぐに語り掛けた。
それを受けてか、やや時間は掛かったが少女の声のトーンがわずかに下がってくる
そして様子が少し落ち着いてきたのを見計らい、彼は本題を口にした。
「どうやら義父さんはミレーニアさんに恩があったようでな、もしフィルティに会っていたなら、きっとその面倒を見ていたと思うんだ。それで、だ。その義父さんはもういないわけだが……俺が代わりになる。俺がその代わりとして、フィルティの面倒を見ようと考えているんだ」
ミレーニアとはフィルティの母親の名前である。
アグゼはその名が義父の研究書の中に書かれていることを発見していた。
しかも『ミレーニアに大きな借りができた、返さなければ』という極めて分かりやすい文面で。
そう、アグゼは探していた「もう一押し」を既に見つけていたのだ。
ほぼ全編にわたって解読困難な文字の羅列にしか見えない記述が並ぶ中で、逆に異質にすら思える簡潔な文。
それが書かれていたのは記述郡のほぼ最後、日付的にも義父が亡くなる少し前といったぐらいの頃で、おそらくこの「借り」は返すことが叶わなかったに違いない。
「なんでぇ……?」
顔を涙と鼻水に濡らしながら、フィルティは聞いてきた。
頼まれた当人ではないアグゼが代わりに頼みごとを聞くということは、彼女にとっては不可解な話であったらしい。
「フィルティにとって、お袋さんはとても大事な人なんだろ? それと同じようなもんで、俺にとって義父さんは忘れちゃいけない重要な存在なんだ。もしあの人がやり残したことで、俺にできることがあるならそれは引き継がなきゃいけない。……そう思うぐらいにはね」
今のアグゼの生きる理由、その柱の一つになる程度には、ヒューベインの息子であることはアグゼにとって重要なこだわりだった。
それはフィルティのような、純粋な親への愛情などとはやや異なるものだったのかもしれない。
それでも、多少の損得などでは崩せない強固な想いであることは紛れもない事実であった。
今のアグゼは、彼が彼であるために、嫌々ではなく積極的に少女の保護者になろうとしていた。
「だからフィルティ、俺にお前の面倒を見させちゃくれないか? これは俺のワガママでもある」
「お兄さん……」
「そうだな、俺がフィルティの兄ちゃんになる。許してもらえるか?」
「お兄ちゃん…………お兄ちゃんっ」
決断は早かった。
少女は立ち上がりアグゼに駆け寄ると、その腰にギュっとしがみ付く。
彼女は結局変わらず泣き続けることとなってしまったが、その涙の種類が先程とは違うことにアグゼは気付いていた。
彼は己の腰に顔をうずめる少女の背中をポンポンと優しく叩き、しばし慰め続けるのであった。
これは二人の間に急速に親愛の情が生まれた場面である――――というわけではない。
アグゼの行動はその生き方や主義、プライドから取られたものだったし、フィルティも代理人を通して母の遺言が叶えられ、それによって消えたと思っていた母との糸がまた結ばれたことが何よりも嬉しかったゆえの喜びなのである。
お互い優先したい事項があり、それが通ったからこそ何とか築き上げられた関係だと考えると、そのつながりは決して盤石とは言えそうもない代物だった。
それでも――今日、この地にて、一つの新しい家族が誕生したことは紛れもない事実であった。
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翌朝、長きにわたる懸念事項が一応解決したことや新しい家族の存在もあってか、フィルティはしっかりとアグゼに合わせるように起床していた。
朝食の準備を率先して手伝い、それをともに食べる姿を見て、アグゼはまぁ上手くやっていけるだろうと感じていた。
そしてその後片付けを終えてから、わりと重要な問題があることに彼は気付く。
特段焦るような話ではなかったが、それでも手を打っておかなければと思ったアグゼは少々頭を捻った後、仕方あるまいと遠話の付術具を手にして小屋を出るのであった。
以下、それを使って行われた会話である。
『ぁー、こちらアグゼだが、トワコ、聞こえてるか? 今大丈夫か?』
『――はいっ、聞こえています! えぇ、こちらは大丈夫です。時間は全く問題ありませんよ、いくらでもお付き合い致しますからっ』
『そうか、助かる』
『はいっ! あの……久しぶりですね、アグゼ。体の調子はどうですか? 食事などはしっかり摂れていますか?』
『久しぶりってほどでもないだろうが……まぁ体の方はもう万全といってもいいくらいだよ』
『それは良かったです。本当に……』
『えーと、それでだな、ちょっと相談したいことがあるんだが』
『はいっ』
『実は今の安宿住まいを止めて、もう少しフロアに余裕がある部屋を借りたいと思ってるんだ』
『えっ!? あ、新しい部屋、ですかっ?』
『あぁ。それで聞きたいんだが、トワコはラズマードの不動産関係者に顔が利いたりはしないか?』
『ぁ、あ、その、多少は利かなくはないとは思いますが、あの、その、なんで』
『それがな、ちょいと理由があって小さな女の子を引き取ることになってな。それで今の部屋じゃマズいって思ってさ』
『……………………女の子、ですか』
『まだ十歳前後の小っちゃい子だ。面倒見ると約束しておいて、実は個別の寝床もありませんでしたじゃ詐欺みたいなもんだ。それは許されねぇ』
『……………………そうですよね、同じベッドでなんて、そんなこと、許されませんよね』
『あぁ。で、そんなわけなんだが、頼んでも問題ないか?』
『ハイ、お任せください』
『ん、ありがとな。ぁ、それと言っておくが、費用は庶民のレベルで考えてくれよ。今の俺は所詮ただの一冒険者に過ぎないんだからさ』
『えぇ、大丈夫ですよ。ちゃんと貴方のことを考えた物件を、見繕ッテオキマスノデ、ゴ安心ヲ……』
この作風で少女のニコポ、ナデポ、即落ちを書くなんて絶対に許されない(戒め)。
過程が大事ってそれ一番言われてるから。
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