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さよならを、あの日の君に。

作者: 璃依



――白く凍る吐息が、鉛色の空へと吸い込まれていく。

 急な坂を上り切り、微かに乱れた呼吸を整えながら、私――(つじ)遥花(はるか)は橋の欄干に寄り掛かった。


 人もそうだが、ほとんど車の通らないこの場所は静かで、ゆっくりするには最適だ。傍から見れば自殺志願者のようにも見えるかもしれないが。

通行人に通報されてもおかしくないなと思い、笑みを浮かべようとしたのだが、水面に映る自分の表情は到底笑顔と呼べるものではなく、私はため息をついた。


 遮るものがない川の真上は風が常に吹き付けていて、じっとしていると凍えてしまいそうになる。にもかかわらず、私は手袋を外すとポケットからスマホを取り出した。

流行りの柄でも、アニメのキャラクターが描かれているわけでもない、至ってシンプルなシリコンのケース。電源を入れてパスワードを打ち込むとホーム画面に切り替わり、視界に飛び込んできた写真に私は息を詰めた。


 写真に写っているのは私と、友人である優月(ゆづき)。それから、彼――片瀬(かたせ)(みなと)の三人だ。

本当は湊と二人だけで撮りたかったのだが、さすがにツーショットは提案できず、優月に一緒に写ってもらったのだ。

三人とも制服姿で、胸元にはコサージュがつけられている。――中学の卒業式のあと、校門前でとった写真だった。


 ゆっくりと指を持ち上げ、液晶画面に触れる。指先の震えが寒さのせいだけではないと、私は気付いていた。

手紙を模したアイコンをタップすると、自動的に受信トレイが更新された。何件か新着メールが届いている中、目的の文字列だけを探す。

果たして――未読メールの中に、求める差出人の名前はなかった。

期待したつもりはなかったのに、思いのほか落胆している自分がいて、私は少なからず驚いた。


「…来てるわけ、ないよね」


――半年。湊からメールも電話も来なくなってから、半年以上になる。

中学卒業後、別の高校へ行った私と湊は、最初のうちこそ毎日のようにメールのやりとりをしていたものだが、ある日ぴたりと連絡が途絶え、それっきりになっていた。来なくなってすぐの頃は私のほうから何度かメールを送っていたが、返信が返ってくることはなく、いつしか送るのをやめていた。

それでも、こうして受信トレイを確認してしまうのは癖というか、一種の願望だ。もしかしたらと縋っているだけの、願望。


 無意識に画面に触れていたのか、メールアプリは閉じ、ホームに戻っていた。背景写真の中の私は笑顔で、まだ一年と経っていないはずなのに遠い過去の出来事のように思えた。


――彼は今、どうしているのだろうか。

私は空を見上げ、湊と出会ったときのことを思い出していた――。



***



「――片瀬湊です。よろしくお願いします」


 夏休み明けでもなんでもない、というかようやく新しいクラスに馴染んだばかりの、前期中間テストが目前に迫る時期に、湊は転校してきた。

新しいクラスといっても、地方の中学だ。一学年のクラス数はそこまで多くはなく、また小学校のころからの友人達も多いので、すでにいくつかのグループが出来上がってしまっている。

そこに途中から入っていくのは容易ではない上に、皆テスト前で呑気に遊んでいる暇がなかったのもあって、湊は転校してきてから三日経ってもひとりぽつんと椅子に座っていた。


 二年生になり、誰もが進路について真剣に考え始める時期だ。自分のことで手一杯で、正直他人にかまっていられないというのも頷ける話であった。

テスト前でなかったとしても、私はもともと友人付き合いの広いほうではないし、誰かと喋っているよりは自分の席で本を読んでいるほうが好きだという性格もあって、クラスに友達と呼べる相手は優月しかいない。まさか、席も離れているのにわざわざむこうから話しかけてくるとも思えないので、彼と関わることはないと思っていた、のだが。

――どうやら、その考えは甘かったらしい。


「あのさ、これってどうすれば…」


 困ったように眉尻を下げ、ささやき声で呼びかけてくるのは件の転校生、湊だった。

今は数学の授業中で、何故私に、というような状況だったろう。これまでならば。

残念ながら、おかしな点は何もない。――湊は、私の隣の席に座っているのだから。


 一体どうしてこうなったのか。――それは、今朝のことだった。

湊が一人だということに気付いた担任教師が、クラスメート達と交流させようと思ったんだか何だか知らないがいきなり席替えをすると言い出し、私は見事に彼の隣――それも、教卓の真ん前の席を引き当ててしまったのだ。


 私はため息を飲み込むと、問題を解くのを中断して彼のほうを見た。

湊は数学が苦手らしく、今も彼の手の中にあるシャーペンは解きかけの数式をさしている。

連立方程式がずらりと並ぶプリント。まだ最初のほうの問題で、時間内に終わるのだろうかと不安になりつつも、私は指で式を示しながら説明した。


「係数に分数が混じってるから、このままじゃ計算できない。まずは、係数を整数に直さないと」


「…係数ってなんだっけ」


 あとで調べて、と言いたい衝動を堪え、私は可能な限り分かりやすく説明しようと試みる。


「係数っていうのは、ええと……例えば、『2×a』を『2a』って表記するでしょ。その数の部分を係数っていうの。つまり、2aの係数は2ってことになる。――じゃあ、この問題の係数は?」


「……二分の一と、マイナス三分の一?」


「そう。分数を整数に直すには、どうすればいい?…xとかyのことはいったん忘れて、ただの分数として考えてみて」


――分からないからといって、答えだけを教えてやるのは性に合わない。そのときはいいかもしれないが、やり方を覚えなければいつまでたってもできないままだ。何度も何度も同じことを聞かれるのは御免である。

私自身完璧にできるというわけではないから、誰かに解説することできちんと理解しているか確かめられるという利点もある。そしてなにより、教えるのは苦にならなかった。周りには、面倒くさい人間だと思われているかもしれないが。


 そんなこんなで、無事自分で答えにたどり着くと、湊は私を見て無邪気な顔で笑った。


「ありがとう、分かりやすかった」


 大したことはやっていないから、と言おうとして、やめた。

普段なら適当に返していたはずだが――湊にお礼を言われるのは、何故だか妙に嬉しくて。

気が付いたら、思ってもみない言葉が口をついて出ていた。


「いつでも…言ってくれれば、教えるから」


 湊は驚いたように目を丸くし、もう一度短く、ありがとうと言った。



***



――思えば、あのころから既に私は湊に惹かれていたのだと思う。

初めは向こうが聞いてくるのに答えるだけだったのが、次第に私からも話しかけるようになっていって。

そこに優月が混ざって、三人でいるようになるまでに、さほど時間はかからなかった。


 楽しかった。毎日が、輝いて見えた。湊に会うために学校に通っているといっても過言ではなかった。

本当に、これまでにないくらいに楽しくて、私は浮かれていたのだろう。もしも冷静になれていたなら、気付けたはずだ。

――必要以上に男子と仲良くしている女子は、思春期を迎え、噂好きなクラスメート達にとって格好の的であるということに。



***



「――遥花ー、片瀬君と仲いいみたいだけど、付き合ってんの?」


――四限が終わってから給食の支度を始めるまでの僅かな時間に、その質問は投げかけられた。


 ポニーテールを揺らし、私の机に片手をついて問いを発したのは戸崎花音。女子グループのリーダー的存在で、実際学級委員もやっている。

いかにも運動のできそうな彼女はそれなりに美少女であり、男子からの人気も高い。しかしその実、花音という可憐な名前からは想像できないような腹黒さも持ち合わせていることを私は知っていた。

表では(特に男の前では)良い顔をしていて、一歩学校の外に出れば人の噂話や悪口ばかり。

本音を言えばどこがいいのか分からないのだが、花音と仲良くしようという人間が絶えないのだから驚きである。――いや、単純に私が変わっているだけなのかもしれなかった。


 言いたいことがあるなら面と向かって言ってやればいいし、言えなかったなら黙っていればいい、というのが私の基本的な考え方だ。

仕事ならともかく、合わないと思う人と一緒にいる必要性を感じなかった私はそれとなく関わらないようにしていたのだが――まさか私が噂される側に回ってしまうとは。


 正直言って、面倒くさい。無視するのもひとつの手だが、応じなければあることないことを騒ぎ立てられるだろう。ここは冷静を装って、聞かれたことに答えておくのが後々のためかもしれない。

ちらりと教室を見渡すと、湊はいないようだった。いや、いないからこそ声をかけてきたのだろう。私の反応を見てから、後で思う存分からかうために。――趣味が悪い。

私は意識して無表情になると、ぼそりと呟いた。


「…付き合ってない」


 これで納得して、と思ったが、相手は見るからに面白がっている。からかい甲斐のある玩具を見つけた、といったところか。

予想通り、花音は離れていくどころかぐいと顔を近付けてきた。


「じゃ、好きなんだ?」


 いつの間にか、給食当番以外のクラスメート達の視線が集まってきていて、私は舌打ちしそうになるのを堪えた。ひとの気も知らないで、自分には関係がないからといって眺め、囃し立てるなど物好きもいいところだ。

優月は、と思ったが、姿は見えなかった。どうやら私の味方はひとりもいないらしい。いたからといって何が変わるわけでもないけれど。


「……別に、あなたには関係ないでしょ」


 苛立ちを堪えながら言った一言に、花音の唇が笑みを刻んだ。そこでようやく、私は返答を間違えたことに気付く。が、後の祭りだった。


「へぇー、そっかそっか。関係ないってことは、好きなんだ」


「何でそうなるの……!」


 一応否定してはみたものの、効果があるようにはとても思えない。見ているクラスメート達の中からは「何ムキになってんの」などという声も聞こえた。

私は己の考えの甘さを悔やむと同時に、何故、という問いをも自らに投げかけていた。


 今まで私は、男子はおろか女子とも優月以外に関わることはなかった。そんな私が急に湊と仲良くし始めたとなれば、好意を疑われるのは必至だ。少し考えれば分かることである。

それに――友達だと言い張っていれば、ここまでの騒ぎにはならなかったはずだ。多少噂は流れたかもしれないが、やがて皆興味を失って離れていったことだろう。

――ならば何故、私は誤解を招くような言い方をしてしまったのか。


 自問自答する間も男子連中は騒ぎ立てており、私は怒鳴ってしまわぬよう奥歯を噛みしめなくてはならなかった。

花音は爆発寸前の私の顔を覗き込み、


「じゃあさ、遥花は片瀬君のどんなところが――」


 好きなの、と続けられるであっただろう花音の言葉は、最後まで言い終えることなく途切れた。

理由は、すぐに分かった。


「――俺が、どうかしたのか?」


 牛乳パックが大量に詰め込まれたケースを抱えた湊が、教室に入ってきたところだったからだ。

タイミングが悪い、としか言いようがない。だって、花音はきっと湊に全部話してしまう。

――それだけは、絶対に嫌だった。


 花音は頬を強張らせた私を面白そうに見たあと、湊に近付いていった。背の高い湊を上目遣いで見上げ、教えようか教えまいか迷っている、といった様子を演出している。手のこんだ嫌がらせに、私だけでなく湊までもが眉をひそめた。

湊の反応に気付かないまま、花音は私のときより明らかに高い声で言った。


「今ね、遥花が片瀬君のこと――」


 限界、だった。


「――やめてよ!!」


 しん、と教室が静まり返り、私は我に返った。

言ってしまった。引き返せないと分かっていて、叫んでしまった。

静寂は一瞬で、すぐにまた無遠慮な声が上がり始める。


「……遥花」


 ざわめきの中、湊が私の名前を呼んだ。顔を見れなくて、私は湊を押しのけて廊下に出た。呼ぶ声が聞こえた気がしたが、構わず走る。混みあっている手洗い場を抜け、階段を二段飛ばしで駆け上がった。


 屋上にたどり着き、私は荒い呼吸を整えた。誰もいない屋上の壁にもたれ、私は目を閉じる。

教室から逃げ出してきたのに、誰かが来はしないかと耳をすませている自分が情けなかった。


 どれくらい、そうしていただろうか。

階段を誰かが上がってくる音がして、私は瞼を持ち上げた。

誰が来たのかは分からないが、じっと階段のほうを眺めているのも待っていたようで気がひける。なので、私は屋上の出入り口から離れ、フェンスのほうに歩み寄った。

あたりに高い建物はほとんどない。これが都会なら違うのだろうが、見えるのは二階建ての一軒家ばかりだ。


 あてもなく視線を彷徨わせていると、キィ、と音を立ててドアが開くのが分かった。

近付いてくる気配。気配は足を止め、躊躇いがちに声をかけ――、


「――ひゃっ」


――ないまま、何やら冷たいものを私の頬に押し付けてきた。

悲鳴、というより奇声を上げて振り向くと、そこには他でもない、湊の姿があった。

頬に押し付けられていたのは牛乳パックで、私は数歩後ずさって冷たい感触から逃れる。


「何、で……」


 来たのが優月なら、分かる。教師という線もあった。だが、何故ここで湊なのか。

私は逃げ出してきたから知らないが、湊だって何の話をしていたのか聞いたはずで。

反応が怖い、というのが素直な心情だった。

湊に拒絶されたら、あの楽しかった時間は終わりを迎えてしまう。そのことに、ただただ怯えていた。


 永遠にも思える沈黙の後、湊は俯く私と手の中の牛乳を交互に見ると、首をひねった。


「もしかして、牛乳嫌いなのか?…今日の献立ハンバーグだったから、そっちを持ってくれば良かったかな……」


 見当違いのことを心配し、ああでもないこうでもないと本気で後悔している湊の様子に、私は思わず吹き出していた。

吹き出して、憮然とした面持ちの彼を見てまた笑って。

――視界が滲んだのは、笑い過ぎたせいだ、多分。


 やっと、分かった。何故我慢できなかったのか。友達だと、そう言えなかったのか。

考えてみれば、簡単なことだった。

――私は、私の気持ちに嘘をつきたくなかったのだ。


 湊のことが好きなのだと、私はようやく理解した。

好きだから、友達だと言ってしまいたくなかった。

好きだから、誰かに先に気持ちを伝えられたくなかった。

――湊が、好きだから。



 しばらくして笑いの衝動が落ち着き、私と湊は並んでフェンスに寄り掛かった。

湊の持ってきてくれた牛乳パックにストローをさし、冷えた液体を乾いた喉に流し込む。


 穏やかな風が吹き抜ける音だけが響く中、不意に湊がこちらに顔を向けないまま声を発した。


「遥花。俺たちは……友達、だよな」


 友達、という言葉だけがやけにはっきりと聞こえた。

躊躇いを乗せた彼の言葉に、私は――、


「――うん」


 頷くと、湊はゆっくりと顔を上げた。

彼の瞳が本当に、と問いかけているように思えて、私は笑みを浮かべた。


「私と湊は、友達だよ」


――違う。

否定しようとする心の声と、胸の痛みを無視して私は続けた。


「それ以上でも、それ以下でもない、友達。――でしょ?」


――違う。

私が望んでいたのは。私の本当の気持ちは――、


「友達だって言ってくれて、嬉しかった。――ありがとう」


――気の合う友人としてではなく、ひとりの異性として見てほしかった。


 私の精一杯の声に、湊は心なしか安堵したように見えた。

これで、いい。これで良かった。――否、これしかないのだ。

私達が共にいられる方法は、これしか。


 私が想いを伝えれば、二度とあの楽しかった日常は帰ってこないだろう。お互い、気持ちを知ってなお変わらずに接することができるほど、器用な性格はしていないから。

だから、私は湊に。

――自分の心に、嘘をついた。



***



――恋は、毒だ。


 確かに恋をしていれば、幸せな気分でいられる。毎日が楽しく、生きていて良かったと思うこともあるだろう。

だが――禁止薬物が乱用者に快楽だけを与えるわけではないように、恋もまた幸せなだけではいられない。

視野が狭まり、彼以外の全てを蔑ろにして、それで上手くいけばいいけれど――いかなかった場合、残っているのはぼろぼろに傷付き、何もかもを失った己の心。

あったはずの日常も、描いていた未来もそこにはない。恋などしなければ良かったと、思ってしまうほどに。

――なのに、ヒトという生き物は恋をすることをやめられない。

薬物に依存するように。どんなに恋愛をしたくないと思っても、逃れられない呪い。


「…分かってた。最初から…」


――この恋は、成就することはないのだと。

それでも、湊を嫌いにはなれなかった。むしろ、一年経ち、二年経つ頃にはもっともっと好きになっていた。

成就するどころか、想いを伝えることすら叶わないと分かっているのに。

日常を失いたくないからと嘘を積み重ね、自分で自分に苦しめられる。――それはまさしく、呪いだった。


 いっそのこと、ただの友達であれたなら、連絡が途絶えるなんてこともなかったのかもしれない。

恋をする運命から逃れられなかったとしても、せめてあの時――初めて彼が見せた、弱さを拭ってやれていたら。

変わっていたかもしれないと、私は思わざるを得なかった。



***



「遥花、俺……不安なんだ」


 鼓膜を揺らした声のあまりの弱々しさに、私は隣を歩く湊に目を向けた。

出会った当初より背も髪も伸び、大人っぽくなった湊。――それとは関係なしに、この時の湊は別人のように見えた。

――葛藤を押し隠して過ごしてきた二年間。その日々も、もう終わりだ。明日の卒業式が終われば、私も湊も、中学三年生ではなくなってしまう。

勿論私も悲しいし、寂しい。けれど、湊の口から弱音が零れたのは、これが初めてのことだった。


「不安?」


 聞き返すと、湊は無言で頷いた。

いつも笑顔の彼ばかりみていたから、意外だったというか――正直驚いた。


「…何で俺が、あのおかしな時期に転校してきたのか……遥花に話したことってなかったよな」


 俯き、笑みらしきものを浮かべた湊は、クラスメート達とうまくいかずに、ついには学校での居場所を失って転校してきたのだと語った。

具体的に何があったのか詳しくは言わなかったし、私も聞かなかったが、湊にとって思い出したくない記憶なのは確かだろう。深い影の落ちた横顔が、それを証明していた。

学校にいられなくなるほどの何か。きっと、私なんかに想像がつくようなものではないだろうし、仮についたとしても軽々しく『分かる』などと言えないことも分かっていた。


――何か、言わなければ。湊の弱さに寄り添い、救い上げられるような言葉を。

普段、あれだけどうでもいいことをぺらぺらと喋っているというのに、肝心なときに限って乾いた喉からは何の言葉もでてこず、私は唇を噛んだ。


 だが――言うことができたとして、それは湊の心に届くのだろうか。

限られた人以外との関わりを避けている私の言葉が、いったいどれだけ心に響くというのだ。


外野の私が何を言っても、その場しのぎの綺麗事でしかない。

――同じ経験をした者でなければ、本当の意味で分かりあうことはできない。


結局、私は「そっか」と、それしか言えないまま家に帰った。



***



 空気が一段と冷え込んできて、私はマフラーに口をうずめた。

かじかんだ手で落とさぬように、スマホを握りしめる。と、スマホが振動して、私は画面を見た。

新着メールの文字が目に飛び込んできて、私は差出人を確認する。――メールの送り主は優月となっていた。

連絡ツールなら他にもあるのにと言われたことを思い出しながらメールを開くと、思いの外本文は短かった。


『駅で、湊らしき人を見かけた。声かける前に行っちゃったけど』


「―――」


 脳が、文面を理解するまでに時間がかかった。切れ切れの単語は暫しぐるぐると頭の中を回り続けていたが、だんだんと意味を持ち始める。

最初の驚きから解放され、浮かび上がってきた感情は――、


「そっか……元気なんだ。元気で、やってるんだ……」


――安堵。

私の胸中を占める最も大きな感情は、安堵だった。


 高校入学直後から全然音沙汰なくて、心配していたのだ。何かあったのではないかと。

だが――優月からのメールで、その不安は払拭された。

湊は元気にやっている。それが分かっただけで良かったと、そう思った。――寂しさを、堪えることはできなかったけれど。


 ひんやりとしたものが頬を撫でて、私は顔を上げた。

厚い雲に覆われた空から舞うように降りてくるのは純白の結晶体。天気予報では今夜から雪になると言っていたが、少し早まったらしい。

六角形の氷の粒を伸ばした手で受け止める。気温が低いとはいえ、手のひらの上の雪粒は私の体温ですぐに溶けてしまうだろう。


――同じだ、と思った。

私が壊したくないと望み、縋っていた日常はほんの少しの変化であっけなく崩れてしまうような、脆くて儚いものだった。――手の中の、雪の結晶のように。


 結晶の形が崩れて、残ったささやかな雫をじっと見つめてから、私はそっと手のひらを傾けた。指の間を伝い、雫は煌めきを残して水面へと落ちていく。水滴は涙のようでもあり、私は目を閉じた。


――過去に縋っている私が、前を向く彼を引き止めるわけにはいかない。

湊は湊なりに、頑張っているのだろうから。新しい学校で、新しい仲間と。

私ももう、過去を追いかけない。――自分の道を、進んでいく。


 私は瞼を持ち上げると、手に持ったままだったスマホに視線を向けた。視界に入るのは、ずっと変えることのできなかったホーム画面の背景写真。――それを、私は何の躊躇いもなく変更した。


 忘れるわけじゃない。湊のことは、好きなままだ。

だけど――あの日々を取り戻すのは、今じゃないから。


 雪は、溶けるものだ。けれども、世界から消えてなくなるわけではない。

長い時間をかけて、いつかまた結晶となって私達の目を楽しませてくれることだろう。


 隣に、立てなくてもいい。未来を見据えて歩いて行った先で、同じように前を向いている湊と笑いあえたらと、そう思うから。

だから――、


「――さよなら」


 心からの笑みを浮かべて、私は過去に――あの日の君に、別れを告げた。

欄干から体を離し、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込む。雲間から細く光が射し込んでいて、私はそちらに向かって歩き出した。


太陽の光に照らされて、宙を舞う粉雪はきらきらと輝いていた――。



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― 新着の感想 ―
[一言] 青春の甘酸っぱさが伝わってきました。読ましてもらってありがとうございます。
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