四月・入学式
二日降り続いた雨も止み、ときおり日も差してくる穏やかな午後。わたしは緊張とワクワクが入り混じって高鳴る胸を押さえながら、高校の門に立った。
私立、綾織高等学校。略してあやたか。
わたしは今日からこの高校に通うのだ。
中学時代のようにはしない。したくない。
ぎゅっと手を握りしめると、気負いなさんなとでも言うように春風がスカートを揺らした。
大きく息を吸い、吐いて、口角を上げる。背筋を伸ばす。
フレ、フレ、わたし。
わたしは一礼して、門をくぐった。
わたしが入学した綾織高校は男女共学、優秀な普通科、英語科と、共学のはずなのに女子しかいない被服科の三つから成っている。ここの前身は外語専門学校と洋裁専門学校で、二つが合併して私立の高校を設立したと入学まえのオリエンテーションで聞かされた。
校舎も分かれていて、普通科、英語科は大きな鉄筋コンクリート製の3階建ての校舎。屋上には天体望遠鏡を収めたドームも載っている。
一方、わたしの通うことになる被服科は、歴史のある、古めかしい、レトロな、……ええい、はっきり言ってしまえばオンボロですきま風の吹きそうな、二階建て木造校舎。
なんと言うか、これだけでも学内での力関係がほの見えそうな感じ。
でもここを選んだのはわたし自身。
だから文句はないし、絶対にうまくやる自信もある。
さあ、野々村つぼみ、高校デビューです!
大きな講堂で行われた入学式が終わって教室に戻り、形式的なオリエンテーションが終わると、自己紹介をしましょうと担任の先生が言った。
「あらためて。わたしの名前は、三島絹枝です」
カッカッと小気味良い音を響かせて名前を板書し、振り向いてにっこり微笑んだ先生の年の頃はおよそ三十代の初め、髪をきちんと一つにしばり、すっと伸びた背筋はまるでバレリーナのようだ。
「綾高で被服を教えるようになってもう、十年になります。被服一般とファッションデザインの授業を担当しているので、授業でわからないことがあったら相談してくださいね。みなさんの先輩方からは、『おキヌさん』って呼ばれることもあるけれど、他の先生方がおられるときは、『三島せんせい』って呼んでください」
教室の後ろにいる保護者から、くすくす笑いが小さく起こった。
「じゃあ次は、みなさんの自己紹介をお願いします」
おキヌさんはそう言うと再び黒板に向かい、
①名前
②出身中学
③得意なもの、または好きなもの
と書いた。
「最低でもこの三つは言ってね。他に言いたいことがあったら、どんどん言ってください」
ええっ、どうしよう。とわたしの右の席に座っている子が小さくつぶやいた。ナーバスになっているのがわかる。ちらっと目が合った瞬間にわたしは両手を胸の前で握りしめ、小さく振ってみせた。ファイトです。
メガネをかけた彼女はそれを見ると、ホッとしたように目を細めた。
被服科は普通科とは違って人数が少ない。ありていに言って、人気がないのだ。
今年度の被服科一年生、わたしのクラスメイトは、わたしを含めても二十人。端から一人ずつの自己紹介も、すぐ順番が回ってくる。
メガネの彼女の順番が来た。
「ええっと……、春田佳音と言います……、第一中学校から来ました……、お菓子づくりが好きです……」
最後の方は隣にいたわたしにしか聞こえなかったんじゃなかろうか。消え入りそうな小さな声でそれだけ言うと、真っ赤な顔をして急いで椅子に掛けた。
何かの小動物を思わせるキャラクターだ。……リスかな? 小柄で華奢な体格と臆病そうな性格がかわいらしく微笑ましい。
「お菓子づくりが好きなのね。調理実習もあるから楽しみにしていてね」
おキヌさんが言った。よく聞こえるんだなあ。
ところで自分の自己紹介はどうしよう。なんと言うといいのかシミュレーションを繰り返しているうちに、自分の番が来てしまった。もちろん他の人の自己紹介なんて聞いちゃいない。
まずは名前。
「野々村つぼみです。……つぼみ、はひらがなで書きます。こんな名前ですけど、おばあちゃんになるまでに花が咲くといいなと思ってます」
小さなくすくす笑いが教室のそこかしこから聞こえた。
出身中学を言って……得意なもの好きなもの、か。
「ええと……中学では吹奏楽部でクラリネットを吹いていました。それが得意といえば得意なことです」
でも高校では吹奏楽はやらない。もうクラリネットはやらないんだ。だからこの高校を選んだんだ。
わたしは席に腰を下ろした。
余計なことを言ってしまったなという後悔でもやもやしていたので、残りの人の自己紹介も聞いちゃいなかった。さいわいひとクラスの人数が少ないんだし、おいおい覚えるしかない。
「自己紹介もみんな済んだから、それぞれクラスメイトの名前は早く覚えてね。それから、入学してすぐで悪いけど、一学期の学級委員はこちらから指定させてもらいます」
おキヌさんはそう言いながら教壇を降り、こちらへ歩いてくる。そんな、学級委員なんてガラじゃないよわたし!
「葛木新子さん」
おキヌさんが立ち止まったのは、わたしの前の席だった。
「野々村さん、なあに。学級委員やりたかった?」
思わずブンブンと首を横に振る。ご冗談でしょう。そんなわたしを見てにっこりと笑ったおキヌさん、いや三島先生は案外油断できない人かもしれない。
カツラギシンコ、と呼ばれた人の肩に手を置いて、おキヌさんは言った。
「彼女になんでも相談してね。……葛木さん、クラスの要として頑張ってください。拍手〜〜〜」
ぺちぺちと気の抜けた拍手の音の中、前の席の葛木さんは立ち上がって一礼した。すうっと伸びた背筋、短く整えられたうなじ、思いのほか高い背丈。ちらりと見えた、美しい顔立ち。
思わずため息の出そうな整ったルックスだ。なんでまたこんな人がこんなところにいるんだろう。
見とれるように葛木さんを見上げていたら、彼女は視線に気づいて振り向き、微笑んだ。
……なんだかどぎまぎしてしまう。微笑んだ葛木さんはただただ美しかった。
葛木さんが着席すると、ちょうど鐘が鳴った。
「はい、じゃあ明日の時間割はさっき配ったプリントを見てね。今日は終わりまーす。委員長、号令よろしく」
「きりーーーつ!!」
ものすごく響く声がして驚いた。これ葛木さんの声? まるでオペラ歌手か何かみたいによく通る大きな声だ。
「気をつけ、礼!」
しかも、タカラヅカの男役の人みたいに柔らかいアルト。聞き惚れてしまう。
顔を上げると、葛木さんがこちらを見て微笑んでいた。
「野々村さん」
「は、はい」
思わず腰を低く構えてしまう。まるで王子に呼び止められた村人のように。
「音楽が好きなの? 吹奏楽やってたんでしょう」
「え、あ、好きというかあの」
しんこさーん、しんちゃーんと呼ぶ声がした。おキヌさんだ。葛木さんはそちらに目をやると、じゃあまた、と言って去って行った。
「素敵ですねえ……」
わたしの隣に立って、春田さんがうっとりとつぶやいた。
「春田さんもそう思うんだ」
「はい、思います。……わたしのことは、『かのん』って呼び捨てでいいんですよ」
「じゃあ、かのんちゃん。……丁寧語にしなくていいからね」
わたし達はお互いの顔を見て、にっこりと笑った。
こうして、高校生活が始まろうとしている。
フレ、フレ、わたし。
きっと大丈夫。