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第2章 「遺した軌跡」 前

僕は今まで通り、熱心に練習に取り組んだ。

そして、あっという間に先輩方の、最後の夏がきた。

堀内先輩、そして、お兄ちゃん。

全中出場が期待されている、2本の矢は、どんなレースを見せるのだろうか。

通信陸上。ついに来た。

全中標準を切って、全中への出場権を勝ち取ることができる、一つ目の大会。

もう一つは、県総体。

他のスポーツとは違って、陸上にはシード権たる枠がない。

どんなに強い選手でも、そのレースで、一本一本のレースで力を出せなかったら終わりなのだ。

陸上界は、厳しい。

世界陸上でもあった。

男子100m、決勝。

世界記録保持者が、世界記録を更新すると言い残して臨んだ、そのレース。

フライング。

一発失格。

残された者たちは、異様な雰囲気の中、レースを強いられた。

つまり、言いたいことは1つだけ。

先輩方は、今日失敗したら終わり、ということだ。

県総体に出場できるかどうかは、地区大会のメンバーと、今日、通信大会の結果にかかる。

地区大会の組み合わせ抽選の方法は、僕たちの地区では年によって変わる。先輩なら、もう対策は練ってあるはずだ。

ただ、今日は…。

この通信大会が、直接県総体出場に関わってくるわけではない。

ただ、地区大会の上位の選手が、全中標準を切りにくる大会。

つまり実質は、地区大会の前哨戦なのだ。

そして、この大会は先輩たちのためだけではない。

僕たちも、種目があるのだ。

1年男子1500m。通称、センゴ。

2日目の、一発目だ。

初めての大きな大会。

先輩方を失望させるわけにはいかない。

1日目、レースは大雨の中展開された。

紙雷管が今にも湿気そうなほどの大雨。

レースはあっという間だった。

男子3000m。第1組

堀内先輩と、そしてお兄ちゃんが出場する。

熾烈なレースになるだろう。

なぜなら、彼らは、俗に言う「ガチ勢」だから。

陸上に、思いを募らせて3年間を過ごした強者だから。

そう、僕は見守ろう。

その猛者たちのレースを。

男たちの、雌雄を決する戦いを。

会場中が静寂に包まれた。

✳︎✳︎✳︎


✳︎✳︎✳︎

今日は通信。

この大会で全中標準がきれなかったら、俺にもう後はない。

どうにもペースが上がらない。

ずっと感じていた、脚の重さ。

やはりそれは、恐れていた最悪の事態によって引き起こされたものだった。

「貧血だね。まだ程度としては軽いけど、しっかり治さないと、高校で辛くなるよ。

きっと君は陸上を続けるんだから、遠慮なく言っておく。

そして、シンスプリントでもあるね。

最近の走り過ぎの影響かな。

次の通信が過ぎたら、少しメニューの強度を落としたほうがいいかな。」

ずっとお世話になっていて、俺の良き理解者でもある、剣持先生。

自分が陸上をやっていたことがあるから、その一言ずつに重みがある。

さて、どうしたものか。

貧血は予想できていた。

ただ、シンスプリントだとは。

この時期になっても、自分の体の異変に気付くことが出来なかった俺は、一体なんなんだ。

自分の中での葛藤に、頭を痛くする。

しかし、もう時間がない。

へこんでいる時間ですらない。

大会は、すぐそこにまで迫っている。

また1ヶ月後は、病院だ。

いつものアップ場、サブグラウンド。

入る前に一礼し、一間だがお世話になることに感謝し、お願いします、と伝える。

俺の中でのプライドと、尊敬する顧問がそうさせた。

人は2年間だけで、これほど成長できる。

一つの物事を通して。陸上という、己と闘うスポーツを通して。

「ちわーす!久しぶりでーす!」

「おっ、芳樹か。久しぶりだな。」

大原芳樹。飯島北中、2年。俺らの地区の2年では、ずば抜けて速い。ストライド型の走りで、トラックを縦横無尽に駆け巡る。

先輩からの評判も上々だ。

俺自身、陸上に対して真摯に向かい合う彼の強さは、ある種の畏敬の念を覚える。

「今日はお互い、頑張りましょう!」

「おう、芳樹も。頑張れよ。」

「今年で先輩方と競るのが最後になるのを考えると、寂しくなりますよ。」

「いいや、最後じゃないだろ?まだ高校がある。そして、来年までには、俺よりも骨のあるのが育つよ。」

「え、それって、誰っすか?」

「駆流の弟だよ。晴矢。

明日の1年センゴに出るから、見てやってくれ。奴は相当強くなるよ。」

「わかりました。」

芳樹が自分の時間に戻ったように、そろそろ俺も自分の時間に戻らなければならない。

いや、自分の時間に入らなければならない。

いつも俺は、レース中に集中がだんだんと深くなっていく、「ゾーン」型の入りをしていた。

しかし、今回のレースは、今回のアップは違う。

いつもそろそろ集中状態が片鱗を見せてもいい頃なのに、なのに、なのに…。

まだその欠片は見えない。

まだ、ずっと先にあるような。どこまでも、はるか彼方にあるような、そんな感じがする。

あっという間に召集時間が来てしまった。

真紅と山吹が交じった大西中のユニフォーム。

そろそろ、それを着るのも最後になるのだろうな。と、勝手に思ってしまう。

もちろん、まだ終わらせるつもりはない。

だから、絶対に勝つんだ。この大事なレースで。全中標準を切るんだ。

✳︎✳︎✳︎


✳︎✳︎✳︎

一瞬の出来事だった。

僕の目の前に展開されたのは、まさに地獄絵図だった。

大粒の雨が降り注ぐ中展開されたレースは、まず大西中のユニフォームを着た3人の先輩が先頭を引っ張った。

まず、堀内先輩、お兄ちゃん、そして、蓮川先輩。

前の2人が圧倒的すぎて、蓮川先輩は今まで埋もれていた存在にすぎなかった。

しかし、蓮川先輩はその先頭の2人に必死に食らいつく。

スタートダッシュを終え、ランニングタイマーで見た200m通過のタイムは、31秒〜32秒。

堀内先輩と、それについていくお兄ちゃん。

このまま行けば、確実に全国大会への切符は掴むことができる。

今年の全中標準は8分55秒。

2、3年前まで9分台だったが、参加人数の大幅な増加に体育連盟が困ってしまったらしい、という噂が流れている。無論、それは定かではない。

つまり、1km3分を切らないと全中には行けない。

でも、このペースなら…。

しかし、大雨。ただ見守ることしかできない僕。

必死に祈った。先輩たちが、全中標準を突破できるように。

1000mの通過は2分50秒。

200m平均が34秒。

いくらなんでも、速すぎる。

僕は見ていてそう思った。

いつもの練習よりも、さらに速いペース。

先頭は、すでに4人に絞られていた。

堀内先輩、蓮川先輩、お兄ちゃん、そして、大原先輩。

僕はそれに目を疑った。

いつも練習している3人はわかる。でも、2年生の大原先輩がついて行っているなんて。

ラスト400mにさしかかる。

スパートだ。

事件は、その時起きた。

堀内先輩が、足を引きずり始めた。

明らかに、右足に力がかかっている。

左足を痛めたのは確かだ。

集団からどんどん離れていく、堀内先輩。

直前の1000mは、2分50秒。

2000mの通過は、5分40秒。

ペース的には、3分10秒かかっても大丈夫。

だが、見るからに危ない堀内先輩の様子に、僕の心には暗雲が立ち込めた。

ランニングタイマーを見る。

先頭はもうフィニッシュを迎える。

1着はお兄ちゃん。8分29秒84。

次に、蓮川先輩、大原先輩と続く。

そして。

「全国大会参加標準記録突破まで、後10秒の猶予です。さあ、大西中の堀内くんは、間に合うのか。」

ラスト、80m。

ギリギリだ。

片方の足を引きずっている状態でどこまでペースを上げることができるのだろうか。

今、自分にできる限りのことをする。

「堀内先輩、頑張れ!!」

腹の底から力一杯声を出して、先輩の背中を後押しする。

あと、10m。5m。1m。

最後は倒れこみながらのゴールだった。

記録は…。

8分55秒00。ぴったりだ。

全中標準ぴったり。もちろん、出場は認められる。

しかし、その喜びよりも、僕は先輩の様子が心配になった。

お兄ちゃんと、蓮川先輩、そして、大原先輩に抱え込まれて、トラックを後にする堀内先輩の背中は、どことなく寂しそうだった。

そして、大切なことを忘れていた。

電気計時の速報タイムは、修正されることがある。

結果発表を一日千秋の思いで待った。

✳︎✳︎✳︎


✳︎✳︎✳︎

「プログラム20ページをご覧ください。

ただいま行われている、共通男子3000m、第1組の結果

1着、青桐君、大西中学。時間、8分29秒84。

この記録は、全日本中学校陸上競技選手権大会の参加標準記録の突破です。」

会場全体がどやめきに包まれたのち、拍手が起きる。

「2着、蓮川君、大西中学。時間、8分31秒06。

この記録も、全日本中学校陸上競技選手権大会の参加標準記録の突破です。

3着、大原君、飯島北。時間8分35秒89。

この記録も、全日本中学校陸上競技選手権大会の参加標準記録の突破です。

以下の記録は、正面玄関前の掲示板をご覧ください。」

放送が終わると同時に、掲示板の前に着いた。

俺は、もう走れない。

記録は8分55秒01。

あと100分の1秒。誤差に泣いた。

もう一度、チャンスはある。

周りの仲間、大会を見に来ていた先輩、そして、後輩から励まされる。

だが、彼らはなに一つ分かっていない。

もう、今の俺には、あれ以上の走りはできない。

テントを出て、人通りの少ない道を歩きながら、嗚咽した。

力不足。体調管理ができなかった俺は、弱い。

今日のレースが、全てを物語っていた。

「おい。」

唐突に後ろから肩を掴まれた。

振り向くと、そこにはつっかえ棒。

俺たちの間で流行している、いかに相手を引っかけるかという遊び。

見事に引っかかってしまった。

「なにめそめそしてんだよ。バカ。」

駆流だ。いつも、いつも、自分よりも先に、こんな俺のことを心配してくれる。

「お前、貧血だろ?」

「どうして、それを。」

「あんなぐだぐだの走り見せられたら、誰だってわかるわ。

で、Hb(ヘモグロビン)数は?」

「11。でも、1週間後。また測る。」

「そっか。総体まであと少しだから、頑張ろうな。」

駆流は走り去る。

俺は唖然とした。

あいつだけは、あいつだけは俺のことをわかってくれた。

一緒に走り続けてきた、あいつだけは。

その小さな、夏の陽炎の幻影を遠くに見送りながら、俺はしっかりと地面を蹴った。

こんな早く、引退なんて出来るものか。そして、あいつのために、あいつと一緒に走るために負けていいものか。

1週間後、血中のHb数は5になっていた。

また今日から、練習に打ち込む日々だ。

つまり、これからはどんどん走れなくなっていく。

今回の総体で県に進める枠は、5枠。

いや、正しくは、2枠。

もう、俺はこの1週間、休むしかないかもしれない。

全中で、優勝を飾りたいのなら。

そう。そのとき、俺は決めた。

俺は、全中でなにをしたいか。

答えはただ一つ。優勝。

となれば、完全に貧血を治してからが勝負だ。治さなければ、勝負にならない以前に、選手たちに申し訳ない。

俺の長い闘いは、このときから始まった。

絶対に、去年を超えてやる。

そう胸に誓った。

この、7月の日差しが降り注ぐ、暑き暑き競技場で。

また、きっと戻ってくる。

そうに胸に誓って。まっすぐまっすぐ歩き始めた。

そう、そして、明日。

明日は俺が期待する、小さな小さな後輩君の、大きな大きなチャレンジだ。

俺は確信している。

2ヶ月、俺と同じメニューをぐうの音も上げずにこなしてきたあいつなら、絶対いける。

全中へ。

しっかりと見つめてるぜ。

どんな走りをしてくれるか、楽しみだ。

見てるこっちがわくわくする走りをお願いするぜ、晴矢。

✳︎✳︎✳︎


✳︎✳︎✳︎

2日目、今日も昨日に負けず劣らずの青い空。その空の下、今日、僕は運命のレースを迎える。

レース1時間前。アップ場。

相方の進と一緒にアップ場に入った。

先日のTTの結果から決められた参加。

1位と、2位だ。

真っ赤なタータンのトラックに、礼をしてから一歩。

補助競技場とはいえども、それなりには立派な作り。

スタンドがあるかないかの違いのようなものだ。

だが、お世辞にもタータンの赤は鮮やかとは言えない。

今までのアスリート達によって、汚された色だった。

一体ここで何人のアスリートたちが光っていたんだろうか。

そうに考えると、僕は一人で心を躍らせた。

アップ中にも、自分の足が意思を持っているようだ。

本当に、いいレースが期待できる。

自信を持って、招集に向かった。

ODRは、4番。

つまり、4レーンからの出走だ。

「On your marks…」

初めてのレースの、運命の幕開けの声が響く。

そして、レースが始まった。

入りの200m。

先輩に言われた通りに先頭集団にぴったりと付く。

「晴矢、お前の実力なら優勝だけでなく、全中も夢じゃない。入りの200、32でいければ大丈夫だ。はじめは時計なんか気にせず、思った通りに、自分の走りたいように走れ。

だけど300通過のランニングタイマーはしっかり見ろよ。

400を超えたら、自分のペースで走れ…」

200mの通過。初めてのレース。

戸惑いがあり、ランニングタイマーを見そびれてしまった。

しかし、300の通過。

タイムは45だった。

速い。200m30秒ペース。

だが、僕には自信があった。

今大会は強い選手は3000mで全中標準を狙っている。

だからこそ、今回の1500mはダークホースが多いのだ。

その中でも、前評判で晴矢が一番だ。

タイムにも期待がかかる。

切ってやるんだ、全中標準、4分07秒50を。

あっという間にレースは1000mが終わった。

この1000の通過は、2分45秒。200mあたり、33秒ペース。

先頭集団は、ラスト1周の合図を聞くことになる。

その集いは、3人。

そして、僕はペースを上げた。

高い、少し耳に響く音が、後ろから遅れて聞こえてきた。

気持ちがいい。自分がこのレースを支配している。

あっという間。あと300、200、100、0。

ペースは、面白いほどどんどん上がっていく。

最後には、集団となっていた2人を置いていったみたいだ。

フィニッシュタイムに期待がかかる。

しかし、僕はそれどころではなかった。

今までに味わったことのない、えもいわれぬ快感に身が包まれた。

走ることが、こんなに気持ちがいいなんて。

ドーパミンが一気に放出されているのがわかるような快感だった。

あっという間の1500m競走。

僕は心をそれに奪われた。

そして、この夏が楽しみになってきた。

この夏の、総合体育大会が。

でも、それは、先輩との別れを指し示していた。

大切な、努力を共にしてきた先輩たちとの、別れ。

それを考えただけで、胸を締め付けられた。

あと、1ヶ月。いや、あと、半年。

駅伝をもって、先輩たちは本当に引退。

せめて、最後くらい笑顔で、みんなで終わらせてやる。

10分後、タイムが出た。

1年男子1500m 予選第1組

1着 ORD.3 青桐 晴矢 大西中 4'07"45 ◎

2着以下が僕の名前の下に連なる。

そして、一番下には、小さくカッコ書きで、脚注が書いてあった。

(◎=全日本中学校陸上競技選手権大会参加標準記録突破)

僕は全日中の参加資格を勝ち取った。

だが、喜んでいいのか、悪いのか、微妙なところだった。

その後僕は、決勝で4分10秒65という記録を出してこの種目の若きチャンピオンになった。

✳︎✳︎✳︎


✳︎✳︎✳︎

通信大会が終わり、全中のキップを長距離の部員で掴んだのは3人だった。

青桐兄弟と、蓮川。

ブロック長の俺は、あと少しの差でそれを手にすることができなかった。

どうしても悔いが残る。

中盤までは、あれほどにまでいいレース展開だったのに。

だが、俺が今戦っている世界は、真剣勝負の世界。

そこでは、一切の言い訳は通用しない。

勝負に、だったら、してれば、だったのに、はないのだ。

その場で実力を発揮できないと、いくら強くても、地に堕ちる。

悔しくて悔しくて、枕をぐっしょりと濡らしたあの夜を思い出して、苦虫を噛み潰したような表情になる。

もう、あれだけ悔しい思いはしたくない。

いや、しない。

一番悔しかったのは、晴矢が全中の出場権を得たこと。

俺はできる、といった。

だが、それでも、実際に目の前でそれをなされてしまうと、強烈な印象を受けてしまう。

実際、悔しい。

だから、俺が。

今度は俺が、あの壁を乗り越えて、その先の未来へと物語を繋ぐんだ。

そして、俺の新たな挑戦を、その物語を紡ぐんだ。

俺に残されたのは、あと1つの舞台。

県総体。そこで絶対に、全日中の、標準記録を切ってやる。

俺は決意をした。

今、ここで。やらなければ。いけない。

為さねばならない。

意地として。

やるんだ。今。

やりきるんだ。

✳︎✳︎✳︎

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