第1章 「閃光の始まり」
「自己紹介をしてもらおう。」
中学校初めての部編成。
僕は当たり前だが、喜んでここにいたわけではない。
無理やり入らされたも同然の身だ。
拗ねたように机に寝そべる。
「…じゃあ、はい!次!」
しぶしぶ起立。
「青桐晴矢です。1年2組です。一生懸命頑張るので、よろしくお願いします。」
席に着いたところ、顧問の桜井先生から質問を投げかけられる。
「青桐は、短距離と長距離のどっちをやるつもりだ。」
あ、考えてなかった…。
突然の2択に、一瞬困ってしまう。
だが、一間のうちにすぐ決めることができた。
なぜなら、自分は努力ができるから…。
そして、お兄ちゃんから、努力が出来る人じゃないと出来ないと、聞いていたから。
「長、距離…」
「ん、なんだ。もっとはっきりと言え。」
「長距離をやります。」
それが、僕の全てだった。
そこから歯車が噛み合いはじめた。いや、噛み合い「はじめて」しまった。
そこから僕は、一生の相棒を見つけることになる。
恐る恐るグラウンドに踏み出した僕。
脚が緊張し、いつもよりも重たく感じてしまうのは気のせいだろうか。
緊張するのも当たり前。堂々と佇む200mのトラック。無論、陸上界では400mトラックが基本なのだが、今まで陸上との関わりが皆無だった僕は驚いてしまった。
と、その時。
「2000m通過、ここまで6分フラット。この1周36秒。いいペース。」
身体すべての筋肉を、余すことなく使い、土の上で躍動する、肉体に対して意識をしなくとも美しさを覚えてしまう。
息を切らし、その遣いを荒くし、こちらまで聞こえてくる一定のリズム。
力強く地面を蹴って、空中に駆け出す音。
風を切り、気持ちよさそうに走る先輩。
不意にも、僕はその姿に見とれてしまった。
そして、思った。
絶対に、あの人を超えてやる。
「3000m、フィニッシュ。8分55秒。全中優勝、狙えるぞ。」
「はぁ…はぁ…」
息を切らしているが、まだ余裕がありそうだ。
しかし、この時、僕には先輩の凄さをわからなかった。
「明日の大会頑張ろうな。」
汗を拭きに行く先輩の背中に、顧問が声をかける。
そして僕は悟った。
ああ、この人は、孤高に生きる人なんだ。
今まで目前に繰り広げられていたもの。
自分が越えるべき、いや、越えなければならないもの。
それを目に焼き付けようと、その場から離れられなかった。
「よぉ、新入生。長距離かな。大歓迎。一緒に楽しんで走ろうぜ。」
先ほどまで息を切らし、全身の筋肉をバネのように使って走っていた先輩だ。
「あ、は、はい。ありがとうございます。」
僕はこの時思った。長距離に入って、良かった、と。
そして、この先輩を必ず越える、と。
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「3000m、タイムトライアル行きます。ようい、ゴー。」
地面を強く蹴り出し、スタートダッシュ。
大会用のスパイクじゃないけれども、地面にはしっかり引っかかる。
トラックがタータンじゃなく、アンツーカーなのが唯一、不安だ。
タータンの反発がもらえないなか、1キロ当たり3分で走り続けるのが、どれほど辛いことだろうか。
その上、200mの短いトラック。
400mトラックじゃないと、どうにも走りづらい。
でも、そんなことは言ってられない。
今年の夏は、俺にとって最後の、中学生としては最後の夏なんだから。今年こそは、俺は負けない。
去年の夏、全日本中学校陸上競技選手権大会。通称、全中。
全国の猛者が集う、日本最高の大会。
男子3000m。決勝。
一人ひとりが呼名されるなか、スタジアムの熱気と、異様な雰囲気に呑まれてしまっていた。
「10番 O県 R市立 大西中学校 堀内 竜也」
自分の名が呼ばれ、気持ちを落ち着かせる。
大丈夫、俺なら、きっと…。
長い沈黙の後に、紙雷管の乾いた音が青い空に響く。
猛暑の中のレースだった。
結果は3位。
中学2年としては、結果は良かったのかもしれない。
ただ、俺は満足しなかった。
完全な体力不足だった。
走り込みが足りなかった。ひしひしとそうに感じた。
タイムは8分40秒98。
ギリギリ8分40秒台。。
目標タイムさえ出せていれば、あと10秒早ければ、優勝できた。
来年こそは、負けられない。
そう、今年こそは負けられない。
そして、駅伝も。
そしてもう一つ。
俺は探さなければならないものがあった。
俺の相棒を、気の合う相棒を。
そして、高校でも切磋琢磨できる相棒を…。
俺は「もう1人」探していた。
そんな時あいつがきた。
俺の走りを、輝いた目で見ていた、晴矢が。
見た瞬間に分かった。
あいつは必ず、速く、そして「強く」なる、と。あいつの兄のように。
唯一無二だった俺の好敵手のように。
強く、速くなる。
そして俺は声をかけた。気がついたら、心拍が上がっていた。
つい、とっさに。心の奥底から出た本音で。
「一緒に頂点を、目指そう」と。
こいつなら絶対出来る。
理由はまだわからない。
だが、俺は自信を持って言える。
必ず、強くなる。
いや、強くしてやる。
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次の日、4月の素晴らしい青空が目前に繰り広げられた、実に大会日和の日だ。
慣れない1年生は、僕を含めて8人。
短距離、長距離、投擲、跳躍。
4つの種目を合わせて8人だ。
だが、投擲、跳躍は短距離としてカウントされることが多い。
今日は、先輩たちの走りを見て、勉強する日。
僕はそうに決めた。
そして、大会の雰囲気をこの肌で味わうんだ。
バスに乗りこみ、ぶらりぶらりと揺られて、大会会場へと向かう。
もちろん、隣は1年生。
先輩方は集中の極地にいる。
話しかけられるような状態ではない。
堀内先輩とはあっという間に仲良くなった。
話も合う。そんななか、先輩は僕にこう言ってくれた。
「俺は必ず晴矢を強くする。だから、ついてこい。」
入部してすぐだった僕はとても驚いた。
口を顎が外れたかのようにあんぐりと開けた。
本当に顎が外れたかと思った。
いきなりあんな走りをする先輩にこんなことを言われたのだ。
でも、強くするって、一体、どういう意味なのだろうか。
この時点では、この言葉の意味はわからなかった。
朝早くから招集されたので、1年生にしては大変だ。
そのうえ、まだ学校生活にも慣れていないから、その疲れは倍となって体に重くのしかかる。
眠気と戦っているうちに、考えることをやめてしまう。
今、僕がこんなことを考えても意味がわかるわけが無いんだから、それなら、ただただ先輩についていこう。
そうに決めた。
遂についた、戦いの会場。
ゴムの400mトラック特有の匂いが、鼻をつく。
まだ慣れることがない、その匂いを、不安気に感じながら、これからお世話になる競技場の門をくぐった。
「On your marks.」
イングリシュコールの後に競技場全体に響き渡る紙雷管の音。その後にする、かすかな硝煙の匂いが鼻をくすぐる。
そんなことに気を取られている場合ではない。
堀内先輩の、今季初のレースだ。
先頭集団の2、3番目を走る、堀内先輩。
入りの200mは、38秒。
堀内先輩にしては、ずいぶんなスローペースなはずだ。
だが、なんかおかしい。
昨日の走りじゃない。
昨日ほど身体に躍動がみられない。
あの衝撃的な印象を与えた、あの走りをしていない。
あっという間に2000mの通過。
ここまで6分20秒。1キロの平均、3分10秒。
先頭集団は縦長になり、トップは2人。堀内先輩と、あと…
お兄ちゃん。
2人が競り合っている中、ラスト1周を告げる鐘の音が鳴る。
あっ。
堀内先輩が前に飛び出した。
どうやら、勝負を制するのは先輩のようだ。
普段、しっかり生活してないからだよ、お兄ちゃん。
心の中ではそう思った。
視線は先輩に、一直線。
ラスト1周を短距離の選手のように駆け巡り、ゴール。
タイムは…9分08秒。
直前の1000mを2分52秒。
速い。
僕は言葉を失った。
そして、堀内先輩の顔を見て驚いた。
笑っている。
この時、僕は悟ってしまった。
僕は、先輩には敵わない。
しかも、その直後にゴールした兄まで…。
これが、陸上部。
特にトップは凄まじい速さ。
追いつけるのか。いや、追いつかなければ。
3年後に、絶対。
翌日から練習。
先輩にしっかりついていかなければ。
この負けず嫌いの自分が許すわけがない。
そして、先輩もがっかりさせたくない。
耐えるんだ。そして、速くなるんだ。
赤いタータンのグラウンドを見ながら、プログラムを握りしめた手でそう思った。
「お願いします。」
学校の小慣れた土のグラウンド。
これから毎日走らせてもらうグラウンドだ。
陸上競技をするもの、グラウンドに敬意を抱くべし。
顧問の先生が口癖のように言っていた。
今となっては当たり前のこと。
だけど、この時には、その大切さがわからなかったのも確かだ。
「今日のメニューはペーランだな。堀内は1000×1の落とし日。昨日のレースで疲れてるから、ペースも38でいこう。他の部員は、1000×4本。200m36〜42で、実力順に分かれること。で、1年生は800×3本。1周46秒基本だけど、あげられそうなら40まで上げていい。でも、上げすぎないこと。体が出来上がってないから、疲労がたまって壊しやすくなるからな。」
部員たちはその合図とともに、散っていく。
が、しかし。
「先生、俺、1年と一緒に走っていいですか?」
「堀内、お前…」
「すいません。1000だけじゃ多分物足りないんで。800を1周40で3本。1年生にここまで上げていいって教えると同時に、一緒に走ってみたいんです。」
「わ、わかった。ただ、お前も一緒だ。今年の駅伝では、お前は必要不可欠。怪我しないように、ペースを上げすぎないように。明日からはまた上げていくからな。」
「わかりました、ありがとうございます。」
僕ら1年は、聞き間違いか、と思っていた。
昨日あれだけの走りをした、堀内先輩が、僕らと一緒に走ろう、と言っているんだ。
長距離ブロックの3人の1年、全員が固まった。
「アップ行くぞー」
周回を決めるゴールラインの方から、先輩の声がする。
すっと現実に引き戻された。
今日もせわしなく進むアップについていく。
もちろん、この後のメニューのことを考えながら。
「800のペーラン、行います。よーい、ゴッ」
十分なアップを済ませた後に、メニューが始まった。
堀内先輩はスタートダッシュで早くも前に出る。
時計を相当気にしている。それもそうだろう。いつものペースよりも、ずっと遅い。
感覚だけでは、ペースメイクできないはずだ。
そして、僕には、先輩がこうに言っているように見えた。
「俺の背中を、追ってこい。」
僕は必死に先輩の背中を追った。
だけど、2年間という埋まることのない時と、練習量。ついていけるはずもない。
結局先輩は、3本とも2分40秒でゴール。
きっちりとしたペースメイクを見せた。
これには、桜井先生もうなる。
「堀内、すごいな。きっちり40秒。いい感じに休めていたな。」
「はい、でも、ちょっと貧血かもしれないです。最後、38ぐらいで行こうとしたんですが、上がりませんでした。1週間後、上がらなかったら病院行きます。」
僕はぞっとした。
あの先輩が、貧血かもしれない。
そんな事実を突きつけられたのだ。
それでも、あのペース。
僕ら1年からしたら、十分すぎるほどのペース。
結局僕は、2分50秒でしか走れなかった。
先輩との差は、10秒。
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俺は強い。そう思っていた。
ただ1人、あいつが現れるまでは。
俺の目の前に、あいつが…。
部編成の日。ついに念願の陸上部に入れる。
そう思って心を弾ませたのは、今でも新しい、確かな記憶だ。
だが、しかし。
今となっては、現実には古い思い出は、思い出すことも少なくなった。
なぜなら、俺の前には、立ちふさがってる敵がいるから。
堀内 竜也。同級生。クラスメート。
こいつには勝てない。
小学校の時は、ずっと一番を取ってきた俺。
だけど、中学生になって、6校の小学校が集まって来た日を境に、俺は1位の座を退くことになった。
まだまだ未熟な、俺自身。
もっと強く、もっと速く。
早くあいつのいる世界に追いつくんだ。
だけど、ふと、こうに思うことがある。
もう、あいつが達した世界に、俺がたどり着くことは不可能じゃないか、と。
あと少し。努力をしていたら。
もう少し。努力をしていたら。
後悔ばかりしか残らない。
せめて、弟には。こんな思いをしないでほしい。
あいつならきっといける。
いや、必ずいける。
あいつは、たっさんと同じ眼をしている。
部編成の時、陸部を選んでくれて、俺は正直嬉しかった。
お前はその眼で何を見るんだ。
好奇心と、探求心に満たされた、その水晶を通して。
期待してるぞ、晴矢。
中学では無理かもしれないけども、IHの、スタジアムで。
会えることを。兄弟とではなく、同じ競技者として。
勝ち負け以外そこにはない、厳しいリングの上で。
お互いで潰しあえることを、楽しみに待ってるぜ。
もちろん、簡単に潰れてもらっちゃ困る。
だから、これからの2年間、必死に、死に物狂いで努力しろ。
たっさんと、竜也と、並ぶ。いや、それを越えたいのなら。
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