掌編――井戸
私の家には井戸があった。物心ついた頃にはすでに枯れ、分厚い鉄の蓋が中を覗きたくなる誘惑の邪魔をしていたのを覚えている。
七歳の時。三歳年上の姉が、井戸から水音がする、と言った。その時の父の顔を今でもはっきりと思い出すことができる。幽霊を見たみたいに凍りつき、真っ青になったかと思うと鬼の形相で怒り出した。
枯れ井戸に水が沸いたのだからきっと喜ぶに違いない、いつも厳しい祖父もほめてくれるかもしれないと浮ついた気分はいっぺんで吹き飛んだ。納戸に閉じ込められた姉の泣き声は幼い私にはたいそう怖かった。
それからすぐ、祖父が死んだ。私は幼すぎてあまり覚えていないが、後で叔母から聞いた話では、枯れ井戸に落ちたのだという。井戸の周りで遊ぶなと言われたが、その理由すら理解できていなかったと思う。
小学四年の時、井戸端で一緒に遊んでいた友達が、水音がすると言い出した。父親の顔を思い出した私は彼に口止めをしてそのまま帰らせた、と思う。実はその頃のことを全く覚えていない。高熱で寝込んだ数日後、登校して初めて彼が死んだことを知った。
枯れ井戸の水音が聞こえたら誰かが死ぬ。私はそのことに気がついた。姉が聞いた時には祖母が、友達が聞いた時には彼自身が。
私が水音を聞いた日、父は私を納戸に閉じ込めた。なぜ分かったのかは分からない。翌日、父は枯れ井戸の底から見つかった。
以来十年間、叔母の家に身を寄せた私たちはあの家に帰っていない。去年の震災で焼け落ちた家を、思い切って叔母の勧めに従って手放すことにした。
いやな思い出を捨て去るために、家の明け渡しには三人で立ち会った。取り壊され、更地になった庭にはもはや井戸の跡形もなかった。
その日から、叔母の家の裏庭には井戸がある。