嘔吐リバース!
目が覚める。とても気持ち悪くて。そして、俺は駆け込んだ。
「おえええええ……」
そう、そこはトイレ。ただし、違う用途で使う嵌めになってしまったが。
「ぎぼぢわるい……」
絶え間なく襲う嘔吐感。こみ上げる胃液。
何故、こんな事になってしまったのか記憶を辿るが、ジョッキの中身を一気飲みした所までしか覚えていなかった。
胃の中身を全て吐き出すと、ほんの少しだけ落ち着き、安堵の息を付いてトイレから出る。すると、口元を両手で押さえたフェリスが俺を押しのけ、トイレへと駆け込んで行った。
扉越しに聞こえる声は、先ほどの俺と同じだ。そして、もう一つのトイレからは憔悴しきった表情のウェスラが出て来て、俺に力ない笑顔を向けると、キシュアがその脇をすり抜けてトイレへ駆け込んで行く。
そんな俺達を困惑した表情で見るのはローザだ。
彼女だけはどうやら何ともない様だった。
しかし、どんなに体調が悪かろうとも、仕事だけは熟さなければいけない。なので、割れるように痛む頭と、未だに治まる気配を見せない嘔吐感に苛まされながら、宿を後にしてノープの北門へと歩いて行った。
「おはようございます。今日もお願いしますよ」
明るい声を響かせてカーベルさんが挨拶をしてくるが、ローザとライルを除いた俺たちには、地獄からの声にしか聞こえなかった。
「おっはよー! 今日もよろしくねー!」
「リエルさんうるさいよ。静かにしてくれ……」
余りにも元気良すぎる挨拶に、思わず力の無い悪態が口を付いて出てしまった。
「どうしたんだ? ハーレム王は?」
「わたし以外、皆二日酔いみたいなんです」
「二日酔いだあ? だっらしねえなあ。そんなんで護衛が勤まるのかよ」
面目ない……。
「余程の事がなければわたし一人でも何とかなります」
「そうか? ならいいけどよ」
ローザには悪いが復活するまでは任せるとしよう。
「とりあえず出発しましょう」
馬に一鞭くれ、カーベルさんが荷車を発車させると、他の御者もそれに習い発車させ、ローザを除いた俺達四人は幽鬼の如き足取りで、その後を着いていった。
ライルは今日も元気に駆け回るが、俺たちの傍だけには来ない。どうやらかなり酒臭いらしい。
そんな俺達四人が何とか着いて行けるのは、宿屋のおっちゃんのお陰だった。
出掛けに小さな樽を一人一つ貰ったのだ。
「こいつを持ってけ」
中身が何かを聞くと、二日酔いでもすっきりと飲める物、と言う事だった。水以上にすっきりと飲める物がこの世に有るのか、と半信半疑のまま樽を抱えていたが、物は試しと、栓を抜いて一口飲むと、爽やかな香りが口いっぱいに広がり、抵抗なく飲む事が出来た。最も、これが何の香りなのかは、まったく分からなかったが。
ノープを出た先も相変わらず草原が広がり、時折、羊を放牧している風景が広がっていた。そんな長閑な中を荷馬車は進み、俺達は樽の中身をちびちびと飲みながら歩いていた。
「どうですか? 皆さん少しは楽になりました?」
ローザが気遣い、声を掛けてくれる。
「出発した時よりは、多少――、マシ、かな?」
最も、マシといえばマシなだけで、相変わらず断続的に嘔吐感は襲ってくるし、頭はまだガンガンしている。それでも何とか歩けているのは、樽の中身のお陰なのだろう。
「マシ、なのじゃろうか……?」
辛そうに表情を歪めて、ウェスラは顔を片手で覆う。
「わらわは昨夜、いったい何を……」
虚ろな瞳で虚空を見詰めるキシュア。
「きぼぢわるい……」
今にも吐きそうな表情で、フェリスは呟いていた。
ローザを除いた俺達は、何かが出て来てもまともに動く事は出来そうになかった。
「はあ……。しかたありませんね。今日はわたしが頑張りますから、皆さん大人しくしててください」
溜息に諦めを乗せてローザは呟くと、商隊の前へと足早に戻っていった。
でも、ホント、俺達は昨晩何をしてたんだろうなあ? 明日になったらローザに聞いてみるか。
「もう直ぐ水場ですから、皆さん頑張ってください!」
前方からカーベルさんの声が響く。それを聞いた俺達は、やっと休めると、安堵の溜息と共に嘔吐感を堪えた。
でも、一昨日は水場の近くで盗賊に襲われたが、今日は大丈夫なのだろうか。
そんな不安が脳裏を掠める。今の状態で襲われたら、多少の被害は覚悟しなければならない。なんせ、俺達はローザしか使い物にならないのだから。
だが、俺のそんな思いは杞憂に終わったようだ。
無事に水場へ辿り着き、商隊の面々とローザはすぐさま昼食の準備に取り掛かり、あっと言う間に終わらせてしまった。
まあ、準備中に襲われるとも限らないし、迅速な行動が一番だよな。
最も、俺達は食べたくても食べる事など出来はしない。
大体、未だに襲い来る嘔吐感と戦い、獅子奮迅の活躍……ではなく、敗色濃厚な状態にまで追い込まれているし。
そんな俺達の元に、ローザがお椀を抱えて持ってくる。
「兎に角、食べられるだけでいいので食べてください。でないと、体が持ちませんよ?」
パンを水で戻し柔らかくした粥状の物をローザに手渡され、それを俺達は無理やり掻き込んで、直ぐに草原に横になった。
「うー……気持ち悪い……」
起きているよりは幾分楽なのだが、それでも気持ち悪いのは変わらない。それは他の三人も同じ様で、終始呻きっぱなしだった。
「そろそろ出発しましょう!」
またカーベルさんの掛け声が響くと、俺達はノロノロと立ち上がり、死人の様に青ざめた顔で列の最後尾へと戻り、その後を着いて行く。
時間の感覚さえ失い、只管遅れないように無言で足を動かす俺達の耳に、叫び声が飛び込んできた。
「前方に魔物です! あれは、――小鬼の集団?! 何故あんなに多いんです!?」
それはかなり慌てたカーベルさんの声だった。
「大丈夫です! わたしが抑えます!」
気持ち悪さをぐっと堪え、顔を見合わせると、俺達も前へと動く。ただし、早足で。
だって、走ると気持ち悪さが倍増するんだもん。
「フェリス、い――」
そこで嘔吐感に襲われ、声を詰まらせてしまった。
「お――」
彼女も嘔吐感と戦っている様だ。
若干ふら付きながらも前へ前へと進み、小鬼の一匹と接敵を果たすと、俺はゆっくりと剣を抜いて構え、相手の出方を伺った。
小鬼の装備はぼろぼろのショートソードだが、今の俺には非常に危険だ。二日酔いで体調が最悪な為、普段の動きが全く出来ないからだ。
「アギャ!」
一声鳴くと剣を振り上げながら無造作に突っ込んで来て、俺に向けて振るう。だがその時、えもいわれぬ悪臭が漂い本日最大級の嘔吐感に襲われ、俺は小鬼の顔面目掛けてぶちまけてしまった。
「おえええええ……!」
「ギュエエエ?!」
行き成り吐寫物を顔面にぶちまけられた小鬼は、ショートソードを放り投げて一目散に逃げ帰っていく。そして、俺の視界の片隅では、同じく吐寫物に塗れた小鬼が逃げていた。
おそらく、フェリスもあの悪臭に刺激されてやってしまったのだろう。だが、とりあえずは撃退はした。しかし、前方にはまだ小鬼が残っており、そこではローザが獅子奮迅の活躍を見せている。
一方的だけどね。
普段は二、三匹、多くても五匹くらいの集団の小鬼が、今回に限っては三十匹ほどの大集団だ。ローザがどんなに頑張っていても、やはり打ち漏らしが出るのは否めず、自然とこちらにお鉢が回ってくる。しかも、猛烈な悪臭と共に。
その度に俺とフェリスは嘔吐を繰り返し、更に、俺達が打ち漏らした分は後方のウェスラとキシュアの餌食となり、吐寫物塗れで逃げ帰るという、なんとも締まらない撃退戦となっていた。
そして、あたりにはすっぱい匂いが立ち込め、俺とフェリスはすっきりした表情で佇み、ローザは呆れた顔で鼻を摘み、後方では勿論、ウェスラとキシュアもすっきりとした表情で微笑んでいる。ただし、商隊の面々からは苦笑が漏れていたが。
「なんだか凄いすっきりしたな」
「そうだな。俺もすっきりしたぞ」
「うむ、ワシもじゃ」
「わらわもだ!」
「おめえ等――武器がゲロって……」
そう、ボスコさんの言うとおり、今回、俺とフェリスは一切武器を振るっていない。襲い来る小鬼を全て吐寫物で退けていたのだ。
「ま、まあ、無事に撃退出来た訳ですし……」
カーベルさんも苦笑を浮べている。
「ひょれより、早くいきまひょう。ここにひると、わたひまれ、もろしそうれす」
ローザが鼻を摘んだまま話すものだから凄く変だ。
「そ、そうですね。直ぐに出ましょう」
そして、俺達はその場を後にしたのだった。
あー、すっきりした!