虹は何かの架け橋とは言うけれど
俺が意識を取り戻したのは、あれから数十分後だった。そして今は制服に身を包み、ダイニングでトーストにサラダ、ハムエッグにコーヒーといった簡単な朝食を取っている。ただし、作ったのは、俺だ。
「可憐、醤油を取ってくれないか?」
「もう、おにいはめんどくさがりなんだから。少し身を乗り出せば届くじゃない」
向かいに座る妹は文句を言いながらでも取ってくれる。今の事からも分かるように、俺達は基本的に兄妹仲は良い。
その理由は両親だ。
家は放任主義を通り越して放置主義なのだ。何故そうなったか、と言うと、両親共に海外出張が多く、その為もあって、二人で協力して何でもやらなければ成らないので、自然とそうなった。もっとも、この海外出張というのが非常に怪しい事この上ないのだが。
何時も出張から帰って来ても一切仕事の話を聞いた事がない。しかも、二、三日するとまた行ってしまう。子供の頃は本当に仕事だと思っていたのだが、最近では、遊びで海外に行っている事等、俺達はお見通しだ。
本来、両親がそんな事をしていれば生活に困る筈なのだが、何故か家は全く困らない。その事を疑問に思い、問い質した事もあったが話してはくれなかった。だが、最近になって、遊んでいてもお金が入ってくるらしい、と分かった。その理由は、通帳の残高が減るどころか、毎月増えていっていたからだ。
家の両親はいったい何をしてるんだろうな?
兎も角、俺達は螺旋階段の様に捻くれず、一応は真っ直ぐに育った。
これってすごくね?
「……にい、――おにいってば!」
妹に呼ばれ我に返る。少し物思いに耽り過ぎていたか。
「ん? どうした?」
「外が……」
居間の方に顔を向けて言う可憐の声は不安そうだった。その声に釣られ、俺も視線を居間の方へと向ける。
「外がな……」
俺はそこで絶句した。何故かって? 庭に面した窓から虹色の光が漏れてたからさ。
――こんなの絶対に在り得ない。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
さっきまでは陽光が差し込んでいたのに、今は虹色の光が差し込んでるんだぜ? どう考えても現実に起こる現象じゃないだろう?
俺達はどれほど呆然と眺めていたのだろう。五分、いや、たぶん十分くらいだと思う。虹色が薄れて元の光に戻るまで、身動ぎ一つ出来なかった。
見慣れた光が戻ると二人同時に安堵の溜息を付く。
――今の何?
可憐が目で問い掛けて来る。
――分からん。
俺も目で返した。
そしてまた二人で溜息。
「とりあえず飯食っちまおうぜ」
これがもし、何かの異変だとしたら、食える時に食っておかないと、腹が減って動けませんでした、なんて事にも成りかねないしね。
「うん」
そこは可憐も分かっているようで、流石は武道家の端くれだ。
という訳で、俺達はさっさと朝食を平らげた。
早飯早グソ芸のうち、ってね。まあ、早グソは出来ないけどさ。
それと、冷めたコーヒーを入れ直して甘めの暖かいコーヒーを飲む。
なんで甘くて暖かい物を飲むのか、と言うと、脳は糖分、要するにブドウ糖しか消費しないからで、働きを活発にさせる為と、暖かい物を飲む事で気持ちが落ち着くんだ。それに糖分ってのは、一番先に消費されるのでエネルギー源にもなる。
炭水化物もエネルギーになるのだけれど、体内で分解してから糖分に変換する分だけ余計なエネルギーを使ってしまうので、吸収されやすい砂糖の方が、効率から言って最も手っ取り早いって事なのさ。
可憐にチラリと目線を向けると、緊張で綺麗な顔が強張っている。
あれは少し緊張し過ぎなんじゃなかろうか?
「なあ、可憐」
「何?」
やっぱり声からしても緊張してるのが分かる。
「おまえさ、また、胸でかくなったんじゃね?」
ちょうどカップに口を付けた所に、俺の声が重なり可憐が咽る。
タイミングが悪かったか。
「い、行き成り何言い出すのよ!」
顔を真っ赤に染めて怒鳴られた。そんなに怒る事なのだろうか?
「だってよ、今朝の感触なんて、前よりも良かったぞ」
耳まで真っ赤に染めて、黙り込んでしまった。うん、可愛い妹だ。
「こ、こ、こ、この変態兄貴……!」
気持ちのベクトルが俺に向いた。これで良い。でも、ここで喧嘩に発展させるほど、俺は馬鹿じゃない。だから、一言付け加える。
「余計な緊張は不測の事態に対処しきれねえぞ」
ハッとした顔も可愛いな。ついでに恥ずかしそうに小声で言われる「ばか」ってのもいいね。
そんな事をしていたら、登校時間になった。こんな時でも学校へ行く事を忘れない俺って、意外と優等生だと思わないか?
「学校行くぞ」
「学校って……」
不安な表情を浮かべ絶句しているが、そこまで変なのかね。でも、そんな表情で見上げられると、保護欲をそそられるけど、甘い言葉を掛けようものなら、即座に冷たい視線を浴びせられるから、ここは堪える所だ。
「外がどうなってるか分かんないけどな、元のままだったら行かないと遅刻だぞ?」
言われてのろのろと動き出して鞄を手にした妹に、更に付け加えてやる。
「ああ、そうだ。木刀も持っていけ。もしもって事も有るからな」
ここで俺が、竹刀、と言わなかった意味は可憐も分かってるはずだ。
案の定、妹は抜き身のままの木刀を鞄と一緒に左手で持った。仕舞う布は鞄に詰め込んで。
「俺が先に出る。やばそうならすぐにドアを閉めるから、その心算で居ろ」
真剣な表情で頷く妹に、俺は踵を返して玄関へと向かう。
幾分、緊張が戻って来てるようだが、それは仕方ない。俺だって少し緊張してるし、あんな光景を見た後だしな。
俺達は玄関まで行くと、普段通学に履く革靴ではなく、トレッキングシューズを履いた。何故トレッキングシューズなのかと言うと、これの別名を聞けば分かると思う。
〝軽登山靴〟
これだけでは不十分か。
一応、説明するとだな、動き易さと丈夫さを兼ね備え、ソールは土の上でも滑り難く、もし足首を捻る事があっても、普通の靴よりも軽症で済む利点がある為だ。
可憐に視線を向けると頷くのが見えた。準備完了の様だ。
俺はドアノブに手を掛けると、思い切って開け、外へと踏み出す。そして、暫く唖然とした。
唖然とせずに居られる物なら、俺と同じ体験をしてみろ、と言いたい。
俺の目に飛び込んできた物、それは、石造りの天守閣を持った和風の城とその背後に聳える中世ヨーロッパ的な城壁の見事な折衷。
――こんなの在り得ねえ。
そう思った瞬間に複数の視線に気が付いた。それも、恐れと期待が入り混じった感じの視線だ。俺は僅かに眉間に皺を寄せ目線を向けると、そこには玄関前にずらりと並んだ人の列。
そして、俺の真正面に居るのは二人。
右側はロマンスグレーの髪を綺麗に撫で付け、柔和な表情を浮かべた誰が見ても執事と一発で分かる服装の壮年の男。
その左側は執事風の壮年よりも頭一つ高く、髪を角刈りにしている。感じからして年齢は俺より少し上くらい。しかし、着込んでいる物は西洋の甲冑。それも相当な重量だと窺い知れるほどの物で、腰には大降りの剣をぶら下げている。ただ、その頭には犬のような耳を生やしていたが。
何のコスプレだ?
その二人からやや下がり目の位置に居るのは、俺達と同い年くらいの女の子。金色の髪は腰まで届きそうな長さのストレート。抜けるような白い肌に大きく愛らしい蒼い瞳、筋の通った鼻梁と微かに上気した頬、小ぶりな唇には口紅を付けているのだろうか、薄桃色をしている。その身に着けている物は上半身は淡い桜色をベースに赤い花びらを散りばめた着物の様な物を羽織り、下はフリルの付いたフワっとした感じの細かい刺繍の入った膝丈の白いスカートで、足元は編み上げのブーツを履いていた。これもあの城と同じく、見事なまでに折衷。そして、何よりも驚くのは彼女の醸し出す雰囲気。それはどこか高貴な人物を思わせ、お姫様みたいだ。
更にその後には、二十歳前後と思しき女性が控えている。髪は燃えるように赤く、肩の辺りで切り揃えられ、切れ長の理知的な瞳にはメガネ。上品に伸びた高めの鼻筋に少し厚めの唇と相まって、年不相応な妖艶さを醸し出していた。ただ、服装だけは何処かスーツを思わせるような格好だった。
なんだか、エロゲにでも出てくる女教師みたいだ。でも彼女の耳が尖っていたのは見逃さない。
そして、その四人を取り囲む様に甲冑に身を固め、腰に剣を下げた十数人の者達がいる。
ここまで来ると、コスプレの一言で片付ける訳にいかない。
「お、おにい……」
制服の裾が引っ張られる。これは可憐が怯えてる時に見せる仕草だ。
ここは俺が気張る場面だな。
「おい、あんた等何者だよ? それに、なんだその物騒な物は。俺達に何か用が有るなら、そんなもんぶら下げて来るのは失礼じゃねえか」
耳付き甲冑男の腰に指を差し、幾分尊大に、そして、毅然とした態度で言い放つと、男の口元が緩んだ。
ずいぶんと余裕あるな、こいつ。
「これはこれは、――何とも肝の据わった男だ。これだけの人数を前にして、臆するどころかその様な態度を取れるとは。だが、腰の物は手放す訳にはいかん。我が命と同等なのでな」
格好は騎士だけど、言ってる事は侍と同じだ。やっぱり、武士道と騎士道ってのは似てるのかもしれない。
「言っとくけどな、俺は数に物言わせる連中が大っ嫌いなんだよ。それに、そういう連中に限って弱かったりするんだよな」
肩を竦めて馬鹿にした態度と、そこに表情も合わせる。これでどう動くかで、相手の度量も分かるはずだ。
視線を向けると男は俯いて肩を震わせていた。
さては怒ったか、と思ったけれど、それは俺の勘違いだった。
男の震えは次第に大きくなり、嗚咽にも似た声が漏れ出してくる。俺が訝しげな表情を取った途端、顔を上げて大音声で笑い出した。しかも、鎧が擦れ合う音も混じり合って、煩い事この上ない。
「お主の様な男は久しぶりだ。ここで手合わせしたい所ではあるが、今はそうする訳にはいかん」
その瞳に力の篭もった光が宿るのが見えた。
こいつ、かなり出来る。ちょっとヤバイかもしれない。
「素人相手に凄むとは、貴方もまだまだですね」
執事風の男が飄々とした感じで口を挟んでくる。
今度は爺さんか。
「親衛隊隊長が失礼いたしました」
慇懃無礼に腰を折る爺さんの姿は、一朝一夕で身に着く仕草じゃない。こんな事をされては、こちらも謝らなければいけないだろうが、俺にそんな気は毛頭ない。
「別にあんたに謝ってもらう義理はないよ。先に突っかけたのは俺だしね」
でも、こういう雰囲気の爺さんって、案外、人生経験が壮絶だったりするから、こんな事言われても難なく躱すんだろうな。
「いえいえ、武器も持たぬ相手に凄んだのは此方でございます。故に謝罪するは道理。それに、貴方様の言い分は最もでございましたから」
終始笑顔のままだから、表情が全く読めない。これでは何を考えているのか分かったものじゃない。ここは素直に謝るのが吉だ。
「そこまで言われちゃ謝らない訳にはいかないよ。こちらも言い過ぎた」
俺も腰を折り、謝罪の姿勢を取る。爺さんには敵わないだろうけど、そこそこ出来てるはずだ。
「双方ともその位でよろしいでしょう」
涼やかな風の様な声が走る。その声に顔を上げると、先ほどまで二人の後に居た少女が何時の間にか、前に出て来ていた。
「私の部下が失礼を致しました。ですが、挑発した貴方にも非は有るのです。そこの所はお忘れなく。一応、双方とも謝罪はした様ですし、本題に移らせていただきます」
これは一般人の言い方じゃない。王侯貴族の様な人を下に見るのを慣れている輩の物言いだ。自分を必要以上に貶めず、謝罪した事を匂わせる。普通ならばこんな言い方はしない。
それにしても、本題ってなんだろうな。まあ、後から分かるか、話すみたいだし。今は聞きたい事を先に聞こう。
「一つ、お聞かせ願いたい」
俺は少し畏まった口調で聞いた。
「何でしょうか?」
「貴女様とお連れの方のお名前を伺っても宜しいですか?」
先に名乗れ、と言われるかと思ったが、結構素直な返事が返ってきた。
「そうですね……。分かりました。無理やりお呼びした訳ですし、こちらが先に名乗るべきでしょう」
無理やり呼んだとは、どういう事だ。また疑問が増えたぞ。
彼女が目配せをすると、後で控えていた三人が前に出て来た。
「我が名はウォルケウス・ガンドー。ユセルフ王国第三王女親衛隊隊長だ」
親衛隊隊長って事は、かなり強いのではないだろうか。喧嘩しないで良かった。
「私はランガーナ・シリンセと申します。第三王女付きの執事をさせていただいております」
この爺さん、意外と曲者の雰囲気有ったんだけど、見た目通りだったのね。
「サレシア・ラズウェル。第三王女付きの秘書官をしている」
女教師じゃなくて秘書官か。それにしてもぶっきら棒な物言いだな。でも俺、睨まれてるみたいだけど、何か悪い事したっけか。
「そして私がユセルフ王国第三王女、アルシェアナ=ファム=ユセルフよ。覚えておきなさい」
思った通り王族だったか。道理で態度が尊大な訳だ。
「有り難うございます。では、こちらも名乗らせていただきますが、その前に一つ伺いたい事があるのですが?」
それはだな。
「この国では、家名の前に名が来るのでしょうか?」
下らない疑問と思う無かれ。これはこれで重要なのだ。今の日本と違って、この中世の様な世界では家名や名というのは重要な筈で、この先どうなるか分からないにしても、ここはハッキリさせて置かないと後々面倒なのだ。
「そうでございますが?」
すぐに返答してくれたランガーナさんだけど、やっぱり疑問に思ってる。この国じゃ常識なんだろうし、仕方ないか。
「お答え頂き有り難うございます。俺の国では家名の後に名が来るものだったので」
今ので頷いたから、何故聞いたのか納得してくれた様だ。
「俺はマサト・ハザマ、後に居るのは……」
振り向いて可憐に名乗るように促す。
「妹のカレン・ハザマです」
可憐は軽く頭を下げる。
俺は奴等の溜息を聞き逃さなかった。どうせ、妹を見て付いたんだろうけど。
やっぱり妹は自慢出来る。なんせ、一国の王女様すら見蕩れてるのだから。ただ、残念な事に俺を見蕩れてはくれなかったがね。
顔は同じ筈なんだけど、なんでだろう?