馬鹿はやっぱり……
背後に抜けて行ったちびっ子へ声を掛けたと同時に俺の全身に怖気が走り、本能も最大限の警鐘を鳴らした。
それも、半端ない程の。
生まれて初めて襲って来た感覚に焦った俺は、瞬時にしゃがみ込む。
直後、頭上スレスレを何かが駆け抜けて行った。
なんだ?! 一体今のは?! と思った時、俺の耳朶にやや感心した感じの声が飛び込んで来る。
「――これを躱すか」
躱す? 一体何を言って……、と思ったのだが、直ぐにハッとなった。
それが先程頭スレスレを過った物だと、瞬時に理解したからだ。
同時に俺は、背筋が凍る様な思いと共に、安堵の溜息を吐いた。
それも束の間、
「だが、まあ良い。まずは一つ」
たった一言呟かれた言葉に、俺は身動きが取れなくなった。
いや、正確には、迂闊な動きが出来なくなった、と言い換えた方が良いかもしれない。
それは俺が今、魂だけでここに居る事に起因する。
本来ならば肉体的な死を意味している現状ではあるが、俺の記憶が確かなら、死に至る程酷い負傷など一切負っていないし、況してや不治の病気にすら掛かってない。それなのに、ここにこうして居る、という事は、一つの事柄を示している。
〝幽体離脱〟
あっちの世界でも広く知られているオカルト現象なのだが、これの最大の特徴は〝魂が肉体から離脱しても肉体的な死は訪れない〟という事。
まあ、原則として、と注釈は付くんだけどね。
そしてこの事を裏付ける様に、あのちびっ子は、俺の魂は肉体との繫がりが切れていない、と言った。
この肉体と魂を繋ぐ繫がり。
これは魂の緒とか、霊子線とか言われるものだ。
この繫がりはどんなに肉体と離れようとも、途切れる事は無く延々と繋がり続けるらしい。しかも物理法則の束縛を一切受けないと言う。
この事からも分かる様に、物理的手段で切る事は絶対に不可能なのだ。
そしてこの繫がりは、体の二ヶ所で魂と肉体を繋げている、と言われている。
一つは、緒の文字が示す通り、胎児であったころ、母親との唯一の繫がりであった臍の緒付近から。
そして、もう一つが――。
頭頂部。
その頭頂部スレスレの所を、何かが通り過ぎた。
本来それは、俺の首を狙ったのかも知れない。
でも、俺は辛うじて致命の一撃を避ける事が出来た。
出来てしまった。
だけど、奴は言った。
〝まずは一つ〟と。
これの意味する所は、頭頂部から繋がっている魂の緒を断ち切られた、と言う事に他ならない。
無論、俺は目の前の奴から目を離してはいなかったから、妙な動きをすれば直ぐに分かる。
だから、先程から寸分違わぬ姿勢で奴が目の前に佇んで居る事も、しっかりと捉えている。
無論、俺の目にも止まらない速さで攻撃を放った可能性も否定しきれない。でもその場合ならば、周囲に何らかの影響が出る筈だ。だがどう見ても、動いた気配は微塵もない。
となると、行きつく結論は一つだけ。
つまり、奴は俺に対して攻撃を放った、という事だ。
目視が敵わず、本能の警鐘で辛うじて致命傷だけが躱せる一撃を。
しかも、一番の狙いを外しても、最低限の結果だけは齎す。
そして次に狙われるのはたぶん、腹部――臍の辺りだ。
だが狙いが分ったとしても、目視すら敵わない攻撃をどうやって見切って躱せばいいのか、今の俺には全く思い付かなかった。
硬直する思考を無理やり巡らせて逡巡していると、不意に倦怠感に襲われ始める。
その事に俺の焦りは更に増し、今は流れる筈の無い冷や汗が噴き出るのを感じて居た。
まさか、ちびっ子にたった一言掛けた事が原因で、こんな窮地に陥るとは思ってもいなかった。
蹲りつつも奴から目を離さずに何とか打開策を思考する俺の耳に、ちびっ子の叫びが滑り込む。
「変人! 右に飛ぶでしっ!」
疑問を浮かべる間もなく俺は声に反応する。
瞬間、大腿部から灼熱とも感じ取れる痛みが迸った。
「ぐうっ……!」
奴から目線を逸らして左大腿部を見ると、辛うじて繋がっている脚が、俺の眼に飛び込んで来た。
血は出ていないが、完全に大腿部半ばから先の感覚が無い……。
「――チッ。余計な真似をしおって。だがこれで――」
忌々し気な奴の呟きなど、苦渋の顔で俯き自身の脚を見詰める今の俺には、最後通告でしかなかった。
次はもう、避けられない……。
諦めの思いと、皆を残して逝かなければならない悔しさと無念さだけが、俺の胸中に駆け巡ったその時だった。
「やらせないでしっ!!」
決死の思いが詰まったちびっ子の叫びと同時に、硬い金属同士を一瞬だけ打ち合わせた様な澄んだ音色が辺りに響き渡ると同時に、俺は俯けた顔をすぐさま跳ね上げる。
そこには、俺を守る様に仁王立ちして小さな鎌を構える、あのちびっ子が居た。
「……約定を破るとは、解っておろうな?」
不満気に奴はそう呟いたが、ちびっ子は手にした鎌を鋭い動作で突き付けて叫んだ。
「破ったのはお前の方でしっ!」
そして、矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「あちしが結んだ約定は〝現界時間で二日後までに、ここにお前が現れる前に悪意の雑草を駆逐する事〟でし。でもこいつの切れた魂の緒が、あちしに教えてくれたんでしっ!」
「何を――」
「まだ一日も経ってない事をっ!」
奴の差し挟んだ声はちびっ子の怒声に掻き消され、両者の間に沈黙の帳が落ちる。と同時に、濃厚な殺気が俺に向かって注がれる。
「よもやこれを狙ってワザと……」
そんな訳あるか! と叫びたかった。
だって、ちびっ子とは草むしりの約束をしただけだし、魂掛けてまで成すとか言ってないしさ。
ただここは、奴の勘違いを利用するのも一つの手かもしれない。
所謂、時間稼ぎ的な意味で。
「だとしたら、どうする?」
してやったり的な意味で、口の端をクイッと持ち上げた。
無論、今の状態は意図してやった訳じゃないから、この後どうなるかなんて予想も付かない。けど今の俺には、何故かある予感があった。
まあ、予感と言えば聞こえは良いが実の所それは、単なる希望的観測から来る楽観的な思い、と言ってもいい位、脆い物だ。
俺はこんな体――魂か――に成ってからと言うもの、赤人と青人の神力をずっと流され続けた。そうしなければまともに動く事が出来なかった、というのがあるから、これ自体は仕方ない。だから、朝起きてから夜寝るまで、更には就寝中と、四六時中俺の体には神力という、本来なら持ちえない力が巡り続ける羽目になった。しかも、扱う魔力すら純粋なものではなく、神力を変換した異質なものへと変わった。
この魔力に関しては正直、前よりも扱いが不便になったけど。
けどもう一人、と言っていいかわからないけど、神力を受け続けたものが居たのも確かだ。
それは当然の事だ。
だって、起きている間は殆ど身に着けていたし、戦いともなれは魔力を流し込む必要もあったからな。
だからそいつは、常に自分自身を変化させ続けた筈だ。
異質な魔力に適合出来るように、神力にすら耐えられるように。
そんな相棒ともいえる存在が、俺の危機に気が付かない訳がないと、ふっと思ってしまったんだ。
そしてその思いは――予感は今、確信へと変わった。
頭上から落ちて来る、何か硬い物を無理やり突き破ろうとする音で。
音に誘われて視線を上げれば、真っ白な空に小さな黒点が生まれ、徐々に無数の黒線が走り始める。
そして――。
『我は剣。我は盾。主望むままに姿変える、万能にして最強の武法具成り』
幽界に木霊するは、聞きなれた声。
縦横無尽人に走り回った黒線は瞬く間に繋がり空を砕き始め、金色の輝きを纏った矢が轟音と共に俺の眼前へと突き刺さり土煙を上げる。
けぶる視界の中から漏れ出る金色の光からは、
『我を置いて行くとは、馬鹿主もここに極まったか?』
俺を貶す声。
そんな声に俺は笑みを浮かべながら、何時もの台詞を返した。
「俺は馬鹿じゃねえって、何時も言ってんだろが」
まったく、こいつは主を主とも思ってないくせに、こうやって駆け付けて来るんだから、どんだけ俺に懐いてんだよ。
「な、何だ?! 何なんだそれはっ!」
「へ、変人が終に本当の変人になったでし!」
奴の驚きはたぶん、普通な事だと思う。
思うんだけどさ、ちびっ子の驚きはかなりズレてないか?
まったくと思いつつ、二人に向かってに反論しようと口を開いた正にその時。
天地を揺るがすほどの轟音が辺り一帯に降り注いだ。
辺りを震撼させる凄まじい音のシャワーに、目の前の二人は頭上に腕を跳ね上げつつ仰ぎ見るが、それは俺も同じ。
そして顔を上に向ければ、全ての光を吸われて闇色に変わってしまった、幽界の空があった。
「い、一体、何が起きて――」
ミッシーが現れた事といい、空が闇に飲まれた事といい、余りにも予想外過ぎる事だったのだろう。
奴は俺達を攻撃するどころか、完全に狼狽えていた。
ちびっ子も顔を上に向けたまま、ピクリとも動かない。
俺はと言うと、表情を険しくして天頂付近へと視線を送っていた。
暫く、と言ってもほんの数秒。
暗天の中に、不意に微かな揺らぎを捉える。
なんだ? とその揺らぎに注視していると、突然強烈な蒼い光を発し始めると同時に、急速に膨れ上がっていく。
「――?!」
流石の俺もこれには驚きで言葉を失い、身を強張らせる。
無論、あの二人も。
だが、膨張している蒼い光を、もっと良く目を凝らして注視してみれば――。
「――っ!!」
ここへ向かって落下しているから、膨張している様に見えるのだと分かった。
幽界の空の高さなど分からないが、急速な膨れ具合からして、落下速度はかなりのものだろう。それに、地面に激突する際の衝撃も相当なものになると思われる。
即、退避。
直ぐに脳裏にはその言葉が浮かんだ。
ただ、今から逃げてもそれほど距離は取れないだろうから、激突の際に生ずる衝撃には巻き込まれてしまう可能性が高い、というか絶対に巻き込まれる。
だからと言って、無駄な足掻きはせずにここは諦めて、などという選択肢は絶対に有り得ない。
ならばどうするか。
最低限、直撃だけには巻き込まれない様にして、ミッシーを使って何とか衝撃波をやり過ごし、生存の可能性を高める必要がある。
瞬時にそう判断して目の前のミッシーを手にしたまでは良かった、のだが。
同時にちびっ子にも抱き着かれてしまっていた。
唯でさえ片足が動かなくて本来の動きが取れない俺には、これ以上ない程の枷だ。
これじゃあ「一名様、地獄へごあんなーい♪」と言われている様なものでしかないじゃなか。
しかも、
「な、何やっ――?!」
「あちしの存在を掛けて変人だけは守るでし!!」
なんて事を言われてしまったら、無碍に扱う事すら出来ない。
こうなったらもう、最後の手段に出るしかない!
「ミッシー!」
愛刀の名を叫び、俺はすぐさまイメージした。
二人を覆い隠せるくらいのシェルターを。
イメージしたのは防具ではないし、ミッシーが理解出来るかも分からない。でも今は、これ以上の物は思い付かなかった。
なのに……。
『うむ。やはり馬鹿が進行しておったか』
一瞬――、本当に一瞬だけ、俺は唖然とした。
だって、目前に迫る危機的状況の中で、呑気にそんな事を言われてみろよ。唖然としない方がおかしいだろ?
ってか、馬鹿は進行しねえっつうの!
「お、おまっ! いい加減に――」
しろよ! と言い掛けた瞬間に、俺達は蒼い光に飲み込まれた。
瞬く間もなく全ての視界は蒼一色に染まり、これがこの世界での死――魂の滅びなのかと思ったのも束の間。
「繫がりが絶たれ掛けたので慌てて来てみれば……。何をしているのですか、貴方は」
呆れと微かな怒りを含んだ、それはもう、よーく知っている声が聞えた。
「――え?」
「え? じゃありませんよ。その胸に抱え込んだ娘は何なんですか。もしかして、また嫁を増やす心算だったのですか? と言いますか、現界の女人だけでは飽き足らず、まさか神族をも娶る心算なんですか? まあ、そこは流石にあの方の息子だと、言いたい所なのですが……」
「あ、あの、おっしゃってる意味が解らないんだけど……」
「その娘、直系ですよ?」
「はい?」
ドユコト?
「死王の」
「しおう?」
ダレソレ?
「ああ、貴方には〝冥王〟と言った方が良いでしょうか?」
何かヤバ気な名前でた……。
「まあ直系とは言っても、序列的にはそれほど高くは無いようですが、かと言って低くも無さそうですけど」
ナニソレ?
困惑してきた俺は、ちびっ子について今まで得た情報を、箇条書きで整理してみる事にした。
・このちびっ子はとりあえず死神。
・冥王様とやらの直系、つまり人で言う所の王族。
・継承権は高くは無いが低くもない。
・この子は何かの、と言うか、誰かの策謀に嵌った。
うむ、ここまでだと、完全に継承権争いっぽい。
・んでもって、本当ならば争いに負けて脱落予定だった。
・でも何も知らない俺がそこへ登場して、引っ搔き回して問題をややこしくした、と。
・そして今、青人に勘違いされている。
とまあ、こんな所か。
「なるほど、向こうから見れば、悪いのは俺なのか」
「何が悪いのですか?」
「いやぁ俺さあ、継承権争いに首突っ込んじゃったみたいでさあ」
えへへ、とちょっと軽めに伝えてみるも、少々バツが悪い。
なんせ、完全に部外者なのに、でかい面しちゃったしな。
「継承権争い、ですか?」
「うん」
「はて? 私の得ている情報では、継承権の選定はかなり先の筈ですが……」
「え?」
「確か、二千年後くらいの予定だったかと」
先長っ! ってか――。
「そ、それじゃ――」
俺はその後に続く言葉を飲み込んで、脳内で推測を推し進める。
今貰った情報を加味しなければ完全に当てはまるのに、加味するとさっきまでの推測から外れるとしたら、これは一体――。
直ぐに疑問が沸き起こった。
もしかして排除? でも何の為に? 理由が無いだろ。いや、王族だから、か? だとすれば、王族が居ると邪魔、って事か?
でもちびっ子の状況だけでそう決め付ける訳にはいかないし、もう少し何か情報が欲しい。
なんて思っていると、
「くっ! こ、この神力! こ、これでは近付く事が――、ま、まさか――?! いや、有り得ん! 有り得る筈がない! ここまで降りて来た事など、一度として無いのだから! だとすれば、一体何者が――、む? これは――。この感じは……。ふむ、僅かばかり違う、か。しかし、ここまで酷似した神力を一体何者が――」
などと奴が宣ってらっしゃった。
青人の神力はこっちの世界の誰か、と言うか、どっかの神様の力とかなり似ているらしい。
それも、奴が大慌てするほど、力ある神様に。
って事はだ。奴――というか奴等か――が遣っている事は、バレると不味い事らしい。
尤も、これで何かが分る訳でもなし、後は直接聞きだすくらいしか手がないのが痛い。
俺がそんな風に黙考していると、不意に声が掛かった
「その娘、連れて行くのですか?」
一瞬、何処へ? と返しそうになったが、よくよく考えれば、青人は俺を迎えに来た様なもの。なので、自ずと行き先など決まり切っている。
それにしても、本当にどうしたものかね。
置いて行けば不幸間違いなしな人生を送りそうだし、現界だとたぶん、青人や赤人と同じになりそうだしな。それに、冥王様が追い掛けて来そうな気がするんだよなあ。
娘はやらん! やらんぞう! とか物凄い形相で。
これはこれで、非常に困った問題だ。
「――どうしたらいいんだよ、ホントに」
俺が思わず呟くと、ミッシーが突然しゃべりだした。
『何を悩むことがあるのだ、連れて行けば良かろうが。ここへは置いて行けぬのなら。それにだ、主の嫁としては些か幼すぎるが、ライル殿の嫁候補としてならば問題あるまい?』
おお! 一理あるな!
なんて、感心するか、この馬鹿野郎。
「ふむ、それならば問題なさそうですね。現界における肉体構築などは、我等と同様にすればよいですしね」
おい! お前まで同意すんじゃねえ!
『では、良きに計らえ』
「ええ、そういたします」
おーい、もっしもーし。青人の主って一応、俺だよね? ミッシーじゃないよね?
なので二人の会話に介入を試みる。
「ちょ、ちょっとま――!」
『煩し!』
「黙っててください」
だがしかし、敢え無く撃沈。
その後も一本と一柱は、細々とした打ち合わせを続けるのだった。
お、俺に決定権はないのか……。
 




