小さな勇者
久しぶりに元の姿に戻った私は今、レジンと共にデュナルモ山脈の麓に向かい、森の中を疾走しています。
ただ、何故この様な事をしているのかと申しますと、あの大鬼から殿下の行方を聞き出したので、お迎えに上がるべくこうして森の中を走っている、と言う訳です。
ですが、暫く南側に来なかったからなのか、ちょっかいを掛けて来る者達が多くていけません。
最も、手ずからその様な愚か者を相手にする訳にも行きませんので、黒妖犬を大量に引き連れて盾代わりに攻撃を防がせてはいるのですが、如何せん、鬱陶しくていけません。
――この状況、何とかなりませんかねえ?
余りにも辟易していた私はつい、レジンに向かって、愚痴を零してしまいました。
――ローリー様と我の姿を見ても襲ってくる輩は、如何ともし難いかと存じます。
普通、上位の者を襲う事などまず有り得ないのですが、ここの者達はどうやら恐れと言うものを知らない様で、愚かしい事に力無き者ですら攻撃を仕掛けて来ては、黒妖犬に始末されているのです。
お陰で私達本来の速さが出し切れず、イライラが募ってしまいます。
ですが、あと半刻もすればあの大鬼の言った事の真偽も判明しますし、今のこの鬱憤も収まる事でしょう。
――ローリー様。
――何ですか?
――大鬼の隠れ里に着いたとして、我等の事をどうやってマサト様の臣だと認めさせるのですか?
――そんな事は問題ありません。逆らう者は片っ端から潰せば良いのです。
――ですが、それですとマサト様とライル殿下の不興を買ってしまうと思うのですが……。
確かにレジンのいう事も一理ありますね。
――ならば、その隠れ里で一番強い者と貴方が戦いなさい。
――我が、ですか?
――そうです。それも、子供の姿で。
――そ、それでは我が……。
――大丈夫ですよ。貴方の姿を運良く殿下がお見掛けすれば、止めに入るでしょうから。
――運が良ければ、ですか……。
レジンが項垂れてしまいましたが、一体どうしたのでしょう?
まあ、私がこの姿であっても殿下には分かるでしょうから、争いにはならないと思いますが、万が一、という事も有りますからね。ここはレジンに生贄になって頂くのが最善と言うものです。
その後、一言も交わさず走り続け、半刻ほども経った頃、山から滑り降りてくる風が湿り気を帯び始め、その中には微かに魔物と思われる匂いが混じっていました。
漸く着いたようですねえ。
――ローリー様。
――分かっています。ここからは歩いて行きますよ。
私達は速度を落とし、通常の歩行に戻りましたが、それでも黒妖犬に取っては小走りになってしまうのですがね。
ま、この者達は走り回るのが仕事みたいなものですし、問題ないでしょう。
――では、我は姿を変えさせて頂きます。
私の隣に居たレジンの体を黒い繭が包み込み、そのまま小さく萎んでいくと、最近では見慣れた感のある子供姿のレジンが現れました。
歩きながら変化するとは、レジンも上達したものですねえ。これも私の教えの賜物なのですから、感謝してもらいたいものです。
ですが、この程度で満足させる訳にはいきません。
戻ったら早速人化の練習をさせましょう。
出来なければお仕置きですけどね。
――ローリー様。今、不穏な事をお考えになってませんでしたか?
何時の間にか感も鋭くなっていたとは、油断なりません。
しかしこの程度、軽く躱せねば、師とは言えないのです。
――私の考える事など、魔法の事だけですよ?
――それは誰の為の魔法でしょうか?
ほう、これはこれは――。
――勿論、私自身の為ですが?
――そうでしたか。失礼致しました。
この程度で引き下がってしまうとは、レジンもまだまだ甘いですね。これがマサト殿でしたら、もう一言くらいは突っ込んでいた筈ですのに。
その後も他愛の無い遣り取りを交わしていると、風の匂いが更に強くなり、かなり隠れ里に近付いた事を告げて来ます。
そして霧が出始め、周囲を白く染め上げていきました。
――聞いていた話の通りですね。
――はい。
――なら、これを抜ければ隠れ里、という事ですか。
――あの大鬼が嘘を言っていなければ、ですが。
――それは無いでしょう。あの者はマサト殿の事を我等が長、と呼んでいましたしね。
人間が魔物の長に成るなど、私の知る限り、未だ嘗て誰一人として居ません。
確かに意思の疎通が出来る者達も居ますし、傲慢な態度を取らなければ友好的な関係を築く事が可能な者も居るでしょう。ですが、それだけで長に納まれるほど、簡単な社会ではないのです。
確かに我等の間では弱肉強食が全てに置いて優先されはしますが、ただ強いだけでは絶対に上に立つ事など出来はしないのです。
斯く言う私も今では三頭犬の王、とまで言われていますが、実際にこう呼ばれるまでは挑まれた戦いの相手を必要以上に傷付けず、それでいて明確な勝利を突き付け力を誇示する必要が有ったのですから。
『マサト殿と居ると驚かされてばかりで、楽しくて仕方ありませんね』
――全くでございます。
私がつい洩らした呟きに、レジンも念話で同意を寄越してくれました。
本当に不思議なお方です、マサト殿は。
魔物も魔獣も恐れず、それどころか対等の立場で接してくる。しかも、我等の死を悲しみすらもする。
怪我をしていれば助け、腹が空いていると見れば自分の食料を分け与え、見返りを求める事も無い。
――魔神様も確か、マサト様と同じだった、と我が父から聞き及びました。それ故に人間から忌避され、排除されてしまったのだ、と。
レジンが漏らした台詞は、少なからず私の驚きを引き出してくれました。
――レジンの血筋には、魔神様の話が伝わっているのですか?
私が知り得ない事をレジンが知っていた事に少々驚いて、聞き返してしまったのですが、もしそうだとすれば、レジンは由緒正しき血統の持ち主、と言う事になります。
何故なら、魔神様の傍らには常に、魔物と魔獣の上位種が居たと、人間達の間に伝わる話には残っているのですから。
――はい、子が出来たならば必ず話して聞かせよ、と厳命されておりますので。
『――はははははは!』
マサト殿は嘗て魔神様を演じましたが、もしかすると、本当に魔神様の生まれ変わりなのかもしれませんね。
そう思うと嬉しさが堪え切れず、つい笑いを漏らしてしまったのです。
――如何為さったのです? ローリー様。
突然笑い出した私を訝る様に、レジンから念話が届きました。
――何でもありません。ただ少し、嬉しかっただけですよ。
そうです。嬉しかっただけなのです。
私が仕えるに相応しい方だと、殿下を任せるに相応しい方だと、分かったのですから。
――さあ、ここからは堂々と行きますよ。
私は真っ直ぐ前を見据えて、レジンに告げたのでした。
*
「き、キリマル様っ! い、一大事で御座います!」
慌しく扉を開け、里の哨戒を任せている者の内の一人が焦った様子で我の前に傅いた。
「どうしたのだ。何をそんなに慌てている」
「け、三頭犬に率いられた黒妖犬の大群が里に近付いているとの報告がっ!」
「な、何だとっ!」
その者の言を受け、我が耳を疑った。
この里は、絶対に晴れる事無き霧に覆われた我等が最後の砦。しかもその霧には、我等一族か、招かれた者以外を拒む魔法が掛けられているのだ。
例え如何な者とも言えども招かれざる者は惑わされ、この場に辿り着く事の無い永遠の回廊に封じ込められる筈。
それを突破して来るとは……。
「ど、どうすれば――!」
慌てる者を一喝し、直ぐに指示を出す。
「狼狽えるでない! 戦える者全てを集め門を死守せよ! 我も直ぐ行く故、それまでは何としても持ち堪えるのだ!」
「ははっ!」
踵を返し走り去っていく後姿に一瞥を投げ掛け、我は立ち上がり足早に別の部屋へと向かった。
「ミズキ、入るぞ」
一声掛けて扉を開ける。
「父さま、外が騒がしいようですが……」
不安そうな顔を向ける娘に、我は正直に答えた。
「三頭犬が黒妖犬の大群を引き攣れ、この里に襲撃を掛けて来よった。父もこれより出る故、お前は殿下を連れて奥の部屋に隠れるのだ」
「な、ならば私もっ!」
「ならん!」
「し、しかし!」
「お前には、ハザマ様の妻として生き延びる義務があると心得よ!」
「で、ですが!」
「くどい! 皆まで言わねば分からぬのかっ!」
ミズキはハッとなり、奥の部屋へと視線を向けた。
そうだ、それで良いのだ。
我等はあの時の戦いで、殿下に頼り過ぎた。
結果、不甲斐無い事に、殿下に重症を負わせてしまったのだ。
シュラマルのお陰で幸いにして命に別状が無かったから良かったものの、一歩間違えばハザマ様にも、女王陛下にも顔向け出来ぬ所であった。
だからもう、これ以上は殿下に頼る事等、出来ぬのだ。
「キリマルおじいちゃん」
その時、殿下の声が奥の部屋から漏れ出てきた。
「これは殿下、起こしてしまわれましたか」
扉越しに声を掛ける。
「僕、平気だよ。だから、僕もいっしょに行く。おとーさんとの約束、守らなくちゃ」
我の話を聞かれてしまったのか、気丈にも殿下は共に行くと仰ってくださった。
だがしかし、幾ら気丈であろうとも、その魔術がどんなに優れていようとも、殿下はまだ子供であり、今は両の足が折れている重症の身。
その殿下をお連れするなど、如何な緊急時であろうとも我には出来ぬ。
「ですが、これ以上殿下に頼る訳には……」
「僕はあの時、シュラマルのおじちゃんを守れなかった。だけど、今度はちゃんとみんなを守る。だから、いっしょに行く」
あれは幾らなんでも殿下でもどうにも成らない事だったのだ。
それなのに責任を感じさせてしまうとは……。
余りにも自信の不甲斐無さに顔を俯け、奥歯を噛み締めて拳を握り締める。
そして、声を絞り出す様に告げた。
「あれは――殿下の責任では、御座いません。寧ろ、たった一人で済んで良かったと、言える程で御座います。我等一族は殿下と――チッピ殿に、感謝こそすれ、恨む事は、御座いません。それは、命を賭して殿下を逃がした、シュラマルとて、同じ筈。ですから、今度は殿下の御身を我等に守――」
何かの物音が聞こえ、ふと顔を上げた我は、その光景を見た瞬間、目を見張り言葉に詰まった。
剣を杖代わりにして、殿下が立って居られたのだから。
「ほら、僕立てるよ。だから、大丈夫」
幾ら治療を施したとはいえ、折れた両の足は完治には程遠い。
しかもそんな状態で立てば、相当な痛みが襲っているであろうに、それを微塵も感じさせぬ笑顔を浮かべている。
「僕はみんなを守る。守らなくちゃいけないんだ」
そして、剣で体を支えながらゆっくりと足を踏み出し、一歩、また一歩と、徐々に我に近付いて来る。
「ほら見て。ちゃんと、歩けるよ」
時折よろめきながら、時を掛けて我の元まで来た殿下の額には、薄っすらと汗が滲み、懸命に痛みを堪えている事が容易に窺い知れる。
だが、笑顔を崩さず、我等に気取られまいとするその姿勢を見せられては、否、の一言すら発する事が出来なかった。
「ね、大丈夫でしょ?」
剣を握る手は震え、篭められた力の程を知らせ、額から流れ落ちる汗は、どれほどの痛みに耐えているかを我に教え、そしてその笑顔は、決意の程を痛いくらい心に叩き付けて来る。
殿下の体は小さく、力も弱い。
だが、今我の目の前に居るのは小さな子供ではなく、紛れも無い戦士。
それも、並みの戦士ではない。
歴戦の勇者にも匹敵する、偉大なる戦士だ。
そんな姿を見た我が、どうして断れよう。
「分かり申した。殿下にもご一緒して頂きましょう。ただし、歩く必要は御座いません。――ミズキ!」
「はい!」
我の呼び掛けを待っていたかの様に、すぐにミズキは殿下を抱え、誇らしい笑みを浮かべて我の隣に立つ。
「では、参ろうか」
「うん」
「はいっ」
そして我等は部屋を出て、門へと向かうのだった。
*
門前には武装をした者共が集まり、我等の姿を見た瞬間に一斉に傅く。
そして、微かに聞こえるのは、驚きの声だ。
ミズキに抱えられているとはいえ、殿下は重症の身を推して皆の前に出て来たのだから、驚かぬ訳が無い。
しかし、その驚きは直ぐに賞賛へと変わって行き、皆の体から立ち上る気が更に強くなり始め、瞳にも力が宿り始めていた。
「キリマル様、準備整いまして御座います」
一人の者が前へ進み出ると、そう告げて来る。
「して、三頭犬は?」
「は、もう間も無く姿が見えるかと」
「そうか、間に合ったか。ならばここは外で迎え撃つが得策。皆の物! 覚悟は良いな!」
「「「おおっ!!」」」
一斉に鬨の声が上がり、士気の高さを伺わせる。
これも殿下のお陰なのかも知れぬな。
「開門!」
そんな事を思いつつ、我が声を張り上げると同時に門は開かれ、皆が一斉に外へと雪崩れて行く。
「ミズキ、父から離れるでないぞ」
「はい」
「殿下はご無理を為さらない様に」
「うん」
我等が外へ出ると門は閉じられ、閂を下ろす音が微かに響いた。
我は皆と共に前方を睨み付け、
「我が前に立つ不運、篤と思い知らせてくれようぞ」
そんな呟きを漏らしていた。
皆が固唾を呑んで前方を睨み付ける中、幾許もしないうちに霧の中に薄っすらと影が見え始めると、その姿は徐々に近付き、我は思わず息を呑んでいた。
我が息を呑んだのは数の多さではない。
黒妖犬など何匹来ようが敵ではないが、それを率いる三頭犬が尋常ではなかったからだ。
我の知り得る中でもその三頭犬は桁外れに大きく、額からは角を生やし、そして、醸し出す雰囲気は王者の風格さえ漂わせている。
それでいて此方を威圧するような気は、微塵も発していない。
我は瞬時に悟った。
この三頭犬の前に立てる者は、我を除いて他にない、と。
「皆の者下がれ! 彼奴の相手は我がする! 貴様等は黒妖犬の排除をせよ!」
「し、しかしそれでは――!」
「あれには貴様等が束になっても勝てる相手ではない!!」
募る者を一喝し、我は前へと出る。
そして、三頭犬と対峙すると腰に佩いた太刀に手を掛け、油断無く短く問うた。
「何用だ」
『我が名はローリー――。ローリー・ケルロス。我が主、マサト・ハザマ殿の命を受け、ライリー王子殿下のお迎えに仕った。貴殿等と争う意思は無い故、何卒剣を収めて頂きたい』
腹の底を振るわせる様な重みを持った声で淀みなく放たれた台詞に、我は眉根を寄せ、訝かしんだ。
「ならば何故、斯様な大群を率いて参った」
『道中の厄介事に手間を取られたく無い故に。決して貴殿等を襲う為ではない』
「その証左は?」
この返答如何では問答無用で斬る心算であった。
だが、ローリーと名乗った三頭犬が左右の頭を黒妖犬に向け顎をしゃくると、後方で群れていた奴等はゆっくりと背を向けそのまま霧の中へと戻って行く。
『これで宜しいか?』
だが、それでも油断は出来ぬ。
彼奴一匹だけでも脅威なのだから。
「まだだ。我を信じさせるには、まだ足りぬ」
『ならば、どうしろと?』
「ハザマ様の僕、という証拠を見せて頂こう」
証拠など有る訳は無いだろうが、適当な事を言ったのならば即座に斬り掛かる心算で居た所、彼奴は考え込む素振りを見せ、呟きを漏らしていた。
『これまた無理難題を……』
一挙手一投足から目を離さず、油断無く彼奴の仕草を観察していると、突然後方から「あ! レジンだ!」と殿下のお声が上がると同時に『ガウガウ!』という泣き声が聞こえて来る。
『おや? 何時の間にレジンは殿下の下へ行ったのでしょう?』
彼奴は首を傾げて実に不思議そうな目をしたばかりか、口調までも変わっていた。
「レジン?」
訝かみつつ聞き返す。
『殿下御付きの二頭犬です。まあ、マサト殿は飼い犬ならぬ飼い魔獣、と言っておりますが』
「飼い、魔獣?」
何を言っているのだ、この三頭犬は。
『ええ、ユセルフ王国王都セルスリウスの自宅近辺のご近所では、子供達の良い遊び相手でも有りますからね』
我等の会話の間中、引っ切り無しに殿下の嬉しそうなお声が耳に入るにつれて、この三頭犬が言っている事に嘘は無い様だと感じ、構えを解き軽く頭を垂れた。
「ローリー殿、貴殿を疑った事、許されよ」
『構いません。想定の範囲内ですので』
この言葉を聞き、何と思慮深い三頭犬なのだと、唸りそうになってしまった。
それと同時に、もしも問答無用で斬り掛かっていたのならば、甚大な被害が出る事は避けられなかったやも知れぬ、と思った途端、背筋が薄ら寒くなった。
「なれば、とりあえず中で話をしようではないか。こちらからも聞きたい事がある故、な」
そして我は振り向き、腕を上げて開門の合図を出すのだった。




