幸せの我侭
マサトが噛まれた。それもワシ等の目の前で――。
突然の出来事にワシ等は動きを止め、そして、マサトはそのまま仰向けに倒れて、動かなくなってしもうた。じゃが、噛んだ奴はまだそのまま吸い続けており、それはワシ等が知っておる吸血族の噛み方とは違い、どこか違和感を感じさせたのじゃ。
ウォルケウスが慌てて隊員に指示を飛ばし、マサトと奴を引き剥がさせる。
数名の隊員に連れられてマサトは直ぐそこに有る扉の向こうへ、そして、奴はその場で拘束して二人を離した。
ワシ等は当然、マサトと共に扉を潜る。その後を追うように、ウォルケウスは隊員たちに、そのまま拘束する事と監視を言い渡すと、共に扉を潜った。
幸い、噛まれた以外は意識が無いだけなのじゃが、マサトの体を調べておった隊員の一人が、体温がかなり低くなっておる事を告げてくる。
通常であれば死の直前と同じ症状らしいのじゃが、マサトの場合、心の蔵は力強く脈打っておるので死ぬ事は無いじゃろうと言う事じゃった。
最初は慌てたが、ワシ等はそれを聞き幾らか胸を撫で下ろした。
じゃが、冷えた体は暖めねばならぬ。しかし、暖炉に焼べる薪が有る訳でも無く、魔法で火を点ける訳にもいかぬ。可燃物が無かった故にな。そこで、窓から差し込む日の下にマサトの体を横たえ、ただ只管マサトの目覚めを祈り、見守る。今のワシ等にはそれ以上に何も出来ない事が、ただ、ただ、悔しかった。
*
ワシ等はカレンと違い、マサトとはたった一月しか過ごして居らぬ。じゃが今は、何年も一緒に居るような、それこそ生まれた時からずっと側に居るような、そんな気がして成らぬのじゃ。何故そう感じるかなど分からぬが、これはワシだけではなく、皆も同じじゃ。その証拠に、顔を見ればすぐ分かる。一様に険しい表情を浮かべておったからの。そんな家族とも呼べる者が倒れ、しかも、何時目覚めるのかも分からぬそれを、ただ見ているだけしか出来ぬなど、どれほどの無念に襲われている事か。それに、古今東西、あらゆる魔法を知るワシでさえ、こうなった者を起こす魔法は知らぬ。
この世界の魔法の中には傷を癒す魔法も存在する。じゃが、万能ではない。死に瀕した者の傷をどれ程癒そうとも、死を回避する事は出来ぬし、それと同じで死者を蘇生する魔法も無い。それはワシだけではなくこの場に居る全員、それこそ倒れているマサトも知っておる事。ワシはこの時ほど無力感に襲われた事はなかった。
*
どれ程の間、そうしておっただろうか。皆が見守る中、マサトの瞼が微かに痙攣する。
そして――
「おや、目が覚めたようですね」
最初に気付いたのはランガーナじゃった。
「マサト、ワシじゃ! 分かるか?!」
「大丈夫ですか?!」
その声に慌てたように、アルシェとワシが声を掛ける。
「おにい、しっかりしてよ!」
カレンの心配する声も響く。
「これでは――死人と同じでは無いですか……」
サレシアの言った事が、今のマサトの状態を良く言い表しておった。
彼の瞳は虚ろ、いや、それを通り越して生の色を失っておった。その色を失った瞳で、ワシ等を眺めておったのじゃ。
「これは少々不味いですね。どうやら虜にされてしまったようです」
ウォルケウスの表情が曇っておるが、虜とはどう言う事じゃ。こ奴、何か知っておるのか?
「ウォルケウス! 虜とはどういう意味じゃ!」
ワシは詰め寄ると、ウォルケウスの奴は険しい表情で、驚愕の事実を口にしたのじゃ。
「吸血族が相手に噛み付く理由は二つ有るのです。一つは先ほど皆様が話していた事。もう一つは、――自分に忠実な僕を作る事です」
*
マサトが僕にされた。ウォルケウスのその言葉にワシ等は愕然となった。
だってそうじゃろう? 吸血族にその様な能力が有ったなど知らんかったからな。じゃが、ウォルケウスはワシ等にとって、更に残酷な事を告げよった
「恐らく、もう元のマサト様には……」
飲み込んだ言葉はワシ等にも分かった。奴の悲痛な表情を見れば誰だって察しが付く。
ワシは脚の力が抜けてその場にへたり込みそうに成った。じゃが意外な事に、最初に頽れたのはサレシアじゃった。
絶望の表情で力なくその場にへたり込んだかと思うと、大粒の涙を流し始め、両手で顔を覆い、声を上げて泣き出し、その口から途切れ途切れにマサトの名を零しておった。これがあれほどマサトに対して毒舌を吐いていた女か、と思うほどに打ち拉がれて。
サレシアが先に泣き出さねば、ワシ等二人とて同じ様に頽れていた筈じゃ。しかし、幸いな事に彼女のお陰で、少しだけ冷静に成れた事は感謝せねばなるまい。
「マサトを元に戻す方法は、必ず――有る筈です」
唇を噛み締めてアルシェアナが声を振り絞る。その瞳には、今にも零れそうなほどの涙を溜めておった。じゃがしかし、考える事は一緒。元に戻る事は無い、と言われたからとて、即諦めるなど出来ぬからの。
「ワシもアルシェアナと同じ事を思うておった。ウォルケウスよ、その方法を知らぬか?」
ワシ等はウォルケウスに顔を向けるが、力なく首が振られただけであった。
「そ、そんな……!」
アルシェアナは絶句してへたり込み泣き出してしもうたが、ワシは諦めん。いや、ワシだけは諦める訳にはいかんのじゃ。
「本当に無いのか?!」
我侭を初めて叱ってくれたマサト、幸せになる為に我侭を言えと言ってくれたマサト、そして、忘れもしない、一緒に居てくれると言ってくれた、あの時の笑顔。じゃから言わねばならん。それを取り戻す為に、ワシが幸せで居る為に、マサトと幸せになる為に、幸せで有り続ける為の我侭を。
「どんなに些細な事でも良い、何か糸口に繋がる様な物はないのか! 何でも良いのじゃ、何か――何か有るはずじゃ! ウォルケウスよ、頼む! ワシは――ワシは、マサトを失いとう、無い……」
ワシは彼の甲冑に手を掛け必死に縋った。
「私も出来る事ならばマサト様を元に戻したい。ですが……」
ウォルケウスも苦渋の表情を見せておった。しかも、奥歯を噛み締めておるのか、微かに歯軋りの音が聞こえる。彼も悔しかったのじゃな。
それはワシを諦めさせるには十分な音じゃった。そして、方法が無いのならば、いっその事ワシも、そんな考えに支配され掛けた、正にその時。
「血を吸った相手を滅ぼせば元に戻るんじゃない?」
今まで何も言わなんだカレンが、突然口を開きよった。それも滅ぼすなどと、物騒な事を。
「カ、カレン様、何故、その様な噂を知っておいでなのですか?!」
ウォルケウスが驚いて声を上げておったが、逆にワシは、ウォルケウスの言葉に驚きを隠せなんだ。
「噂、じゃと? そのような噂があったなど初耳じゃぞ!」
「たぶん、殆ど一般には知られていない無い筈です。遥か昔、我等人狼族だけに伝わったと言われている事ですから」
困惑した表情からすると、嘘を言っておる訳ではなさそうじゃが、それを何故カレンが知っておるのだ。
「こっちの事は知らないけど、あたしの世界じゃ常識よ? 吸血鬼に襲われた者を元に戻す方法はそれしかないって事はね」
先ほどの声もそうであったが、心なしか怒気を孕んでおる。それもそうじゃろうな。ワシの目から見ても仲の良い兄妹じゃったからの。じゃが、カレンの話には少し引っ掛かる事が有る。
「マサトもそうじゃったが、吸血き? とは吸血族の事なのか?」
彼等は吸血族の事を吸血き、と呼んだ。たぶん、マサト達の世界での呼び方なのじゃろうが、少し違和感を感じたのじゃ。
「そうよ。血を吸う鬼だから吸血鬼。それが何かあるの?」
「鬼! じゃと!?」
驚いたのはワシだけではない。頽れた二人ですら、泣くのを止めて目を見開き驚いておる。じゃが、カレンだけはそんなワシ等を不思議そうに見ておった。
「みんなどうしたの? そんなに驚いて?」
これが驚かずに居られるものか。それはこのデュナルモ大陸に生きる者にとっての、禁忌なのじゃから。
「良いかカレン。その名は今後一切、人前で口にするでない。ワシ等デュナルモに生きる者達にとっては禁忌とされる名じゃからの。仮に相手を罵倒する時にその名を口にして殺されてしもうても、その場合はお主に非が有ると見なされてしまうのじゃ。良いか、重ねて言うぞ。絶対に口にするでないぞ」
こやつ、首を傾げて考え込んでおる。マサトの妹のくせに理解の遅いやつじゃ。
「分かりやすく言うとじゃな、お前を殺す、と言ってナイフを付き付けるのと同じ意味じゃと思えばよい」
もっとも、この名はそれ以上の重みが有るのじゃが、今はその事を説明している場合ではない。どうやってマサトを元に戻すか、それが最優先なのじゃから。
「あーうん、そういう事ならもう言わない。そんな事で殺されるのも馬鹿らしいし」
悠長な感じじゃが、何とか納得してくれたようじゃ。しかし、カレンの言った事はワシが推論を立てる良い切っ掛けとなってくれた。
結論から言えば、吸血、という行為は永久の契約と似たような効力が有るのではないか、という事。その理由じゃが、永久の場合、お互いが同等の者として結ばれる契約なのに対して、吸血とは主従関係を強制的に結ぶ物なのではないか、という事じゃ。ならば、永久がそうで有るように、それもまた、どちらかの魂の消滅を持って解消されるのではなかろうか。それを踏まえるならば、カレンの言った、滅ぼす、というのは正に適切な対処法なのであろうという事じゃ。
ワシがその推論を皆に告げると、一様に納得をしてくれたようじゃった。
「では、あの娘を滅ぼす事が出来れば、マサト様が元に戻る可能性がある、という事ですね?」
流石はウォルケウス、飲み込みが早い。
「しかし、私では殺す事は出来ても滅ぼす事が出来ません。アイシン様はどの様にお考えなのですか?」
先ほどまでの悲痛な表情が消えたと思うたら、不適な笑みを口元に浮かべて冷静な瞳を向け来よる。まったく、これじゃから武人は厄介なのじゃ。
「うむ、それはじゃの、相手の力量が判らぬ故、自由にしての戦いは厄介じゃと思うておる。じゃが、捕らえておる今ならばワシとアルシェアナで殺れるじゃろう。ワシの炎の理にアルシェアナの聖魔法を重ねれば、肉体と魂の両方を一度に浄化出来るじゃろうからな」
「なるほど、聖なる浄化の炎ですか。これはまた悪魔族が聞いたら震え上がりそうな事を考え付くものですね。しかし、出来るものなのですか?」
ウォルケウスがそう思うのも最もな事じゃろう。未だ嘗てそれを試み成功させた者等おらぬのじゃから。
「可能じゃ。元々、火という物は物を燃やすだけでなく灯りにもなる、そして強ければ強いほど、灰も残さず燃やし尽くす事も出来るのじゃよ。それに、火はソルリス教のオーズ神の化身とも分身とも言われておるのじゃぞ。その神が太陽の化身たるソルリス神の加護を受けた者の光を拒む訳がなかろう。まあ、後はタイミングの問題じゃな。火よりも先に光を当てる訳にはいかんからの。先に遣るのはワシで、その後でアルシェアナとなる。放つタイミングはランガーナ、お主が見極めよ」
最も重要な役割を任す者の名に回りは戸惑っておるが、当の本人は全く動揺しておらぬ。まあ、ワシも奴の経歴を知っておったからの指名なのじゃが、どうやら他の者は知らんかったようじゃな。
「何故、私なのでございますか? 適任者ならば他にもいらっしゃると存じますが?」
流石というか何と言うか、早速恍けよったか。まったく食えぬ奴じゃ。
「ワシが知らぬとでも思うておるのか? なんなら今ここでばらしても良いのじゃぞ」
口の端を上げて目線を送ってやると、流石に奴も観念したようで、溜息を付きよったわ。
「流石にそれは困りますね。……分かりました。その役目、お引き受けいたします」
何時もの慇懃無礼な礼ではなく、目礼だけと来よった。まあ、こちらとしてもその方が有り難いがの。
「よし、奴を滅ぼし、必ずやマサトを元に戻すのじゃ! 行くぞ!」
ワシ等が部屋を出ようとマサトに背を向けたその時、それは聞こえて来たのじゃ。
「誰が誰を滅ぼすというのだ。まさか、おぬし等がわらわを滅ぼす等と、夜迷い毎を吐いているのでは有るまいな」
その声に愕然として振り向くワシ等の目の前には、マサトをその細腕に抱きかかえ、口元を笑いの形に歪めて牙を覗かせ、その端からは血を滴らせた、あの娘が立って居った。




