怪しい雲行きになって来ました
お待たせして済みません……。
廊下を忙しなく走る音が響く。
その音はまどろみの中にいる俺の耳朶を打ち、盛んに現実へ引き戻そうと、躍起になっている様にも感じる。
だが、俺はそんな音にもめげず瞼を閉じ続け、寝返りを打とうとしたのだが、どうにも体が重く、思う様に動く事が間々成らなかった。
その原因を探るべく右腕を動かそうとしても、何故か動かせなかったので、自由の利く左腕を使って動かない右腕に触れ様としたら、とても柔らかいものに触れた。
何だこれ?
そして更に弄ると、
「んあ――」
耳元で艶かしい声が響いた。
え?
動きを止め、ゆっくりと瞼を開けて声の聞こえた方へと頭を動かす。
そこには、満ち足りた表情で眠るミズキの顔があった。
その光景に脳内がフリーズして、ついで、とばかりに体の動きも完全に止まると、自然、彼女を見詰める形になる。
そのまま十数秒が経過した頃、ミズキの瞼が微かに痙攣してゆっくりと開き、俺と目が合うと、はにかみながら顔を寄せて、俺の唇に自分の唇を触れさせた。
そして、ゆっくりと離れ、朝の定番とも言える挨拶を告げる。
「お早う御座います」
「あ、ああ、おはよう」
反射的に言葉が出た。
だが、未だに思考が元に戻らない。そんな俺を不思議に思ったのか、ミズキは微かに困惑した表情を見せていた。
「どうしたのですか? 昨日はあんなに激しく愛してくださったのに」
その一言で思考が加速する。
愛した――って、もしかして俺、やっちゃったのか?! ってか、この状況やっちゃった以外の何物でもないじゃん! やべえ、記憶がねえぞ、俺……。
「あの……」
更に彼女の表情は困惑を深めていく。
不味い不味い不味い! ここで記憶が御座いません、なんて言ったら確実に殺される!
と、取り合えず、無難な返しをしないと……。
「い、いや、何でもない」
自分で言ってて何だが、この返しは無いだろう、と思ってしまった。
「それでしたら、宜しいのですが……」
彼女の表情は困惑から一転、心配そうなものへと変わって行く。
しっかりしろ俺! 取り合えず誤魔化すんだ!
「ミズキの寝顔があんまりにも可愛かったから、つい……」
途端、彼女は頬を真っ赤に染めて、俺の胸へと突っ伏してしまい、力いっぱい抱き付いてきた。
痛い痛い痛い! 軋む! 折れる! 死ぬ! 何かが出る!
「もう、あなたったら! 恥ずかしいじゃないですか!」
ありゃ? 言葉遣いが変わったぞ? って、早く力緩めてください! い、息が……。
目の前にお花畑が広がり始めた瞬間、
「ハザマ様! 何時ま――」
「きゃあああああ!」
悲鳴と同時にミズキは素早い動作で俺から布団をかっ拐い、それに包まり入り口に背を向ける。
俺はと言うと、そのお陰で生まれたままの姿を披露してしまった。
勿論、朝の生理現象もバッチリ。
「うわあああああ!」
慌てて股間を隠しながらうつ伏せになる。
「の、ノックくらいしろよ!」
「そ、そうですよ! 父様! せめて一声掛けてから開けてください!」
「い、いや、済ま――では無い! 緊急事態なのだ! 悠長にノックなどしてはおれぬ!」
「緊急事態?」
俺は眉根に皺を寄せて訝しんだ。
恰好がさまに成らないけど、この際それはどうでもいい。
「今朝方、と言っても、つい先ほどで御座いますが、南の街道からこちらに向かって来る人間数名を見掛けた、と報告が上がって来たので御座います。最悪、戦いになるやも知れぬので、急ぎ報告に参った次第なのですよ」
それを聞いた俺は、不味い、と思った。
一応、大鬼達には人間と争うな、と言ってはあるが、彼等にその気が無くとも人間の方から仕掛けて来る事は、火を見るよりも明らかだ。そうなれば幾ら争うなと伝えていても、自衛の為、という大義名分の元、大鬼達が全力で人間の排除に取り掛かってしまう事など考えるまでも無い。
もしそんな光景をここの村人達に見せてしまえば、せっかく実を結び始めた友好的関係が、元の木阿弥に成ってしまう。
俺はそんな事を望んじゃいないし、大鬼達だって争わずに済むならばそれに越した事は無い筈。
ならば、方法は一つしかない。
「分かった。俺が会いに行って事情を話して来る」
立ち上がり、散乱している衣服を身に着けながらそう答えた。
「しかし……」
「大丈夫。俺も人間だから、行き成り戦闘にはならない筈さ」
「で、ですが――」
「もしも話が通じなければ、俺が打っ飛ばすだけだから気にするな」
軽く肩を竦めて自嘲の笑みを見せる。
「し、しかしそれではハザマ様が人間達の敵になってしまいますぞ!」
苦悩に顔を歪め、キリマルは俺の事を心配してくれている。でも、俺にはそんな心配は要らない。当たり前の事をしようとしているだけなのだから。
「お前達はもう、俺の家族だ。その家族を守る為ならば、人間だけじゃなく、世界を敵に回しても構わないよ」
ちょっとキザったらしいかな? とも思いはしたが、これ以上にシックリくる言葉が見付からなかったので、堂々と告げると、キリマルは一瞬目を見開いた後俯き、その大きな体を震わせながら拳をきつく握り締め、背後からは、ミズキの視線が痛いほど突き刺さっていた。
「は、ハザマ様は我等を家族――、と呼んでくださるのか……」
キリマルが紡いだ言葉はかなり小さかったが、俺の耳にはしっかりと届いていた。
「当たり前だろう? ミズキは俺の妻だし、キリマルは俺の義理の父親だ。それに今や俺はお前達の長からな、他の奴等も俺の家族と同じだよ」
そう告げるとキリマルは顔を上げて、柔らかい眼差しを見せていた。
「ハザマ様は、本当に良く似ていらっしゃる。その心根があのお方達に……」
「あのお方達?」
頷き、今度は一転して真剣な眼差しを寄越した。
「ですが、決して世界を敵に回してはいけませぬ。さもなくば、あの方達と同様の結末を迎えて仕舞います故」
その視線は余りにも真剣過ぎて、軽口を利く事など許されない雰囲気を纏っていた。
「世界云々は例えだ。でも、そのくらいの気持ちでいるって事なんだよ、俺はね。それに、世界全てが敵になんてならないさ」
キリマルの後から心配そうな顔で覗くライルの姿を見て俺が微笑み掛けると、見る間にその表情は笑顔に変わり、視線をキリマルに戻してその瞳を見詰めながら、無言で伝える。
お前達もだろ、と。
それが正しく伝わったのかは分からない。でも、キリマルの瞳にはうっすらと涙が浮かび上がり始めていた。
「あの方達が我等の前から姿を消し、幾星霜の月日が流れた事か……。元は一種族であった我等はあの日あの時より忌み嫌われ、魔物にまで貶められ、人間からは狩られる日々……。再興を願いながら叶わず、それでも諦め切れず抗い続け、何時か叶うと信じて耐え忍んだ長い旅路の果てに、終に我等は得た。この命を賭すに足る御方を――。成ればっ! 今度こそ――二度と、二度と同じ過ちは繰り返すまい!」
瞳からは涙を溢れさせ、全身を歓喜に震わせてキリマルは叫ぶ。
「ハザマ様が世界を敵に回す、と仰るのであれば、我等もお供いたしましょう! そしてっ! 魂の最期の一片までをも使い、家族を守り抜いて見せましょうぞ!」
鬼の目にも涙、とは言うが、この場合は哀れみや慈悲ではなく歓喜の涙だ。そして凄絶な笑みを浮かべて全身を振るわせる姿は、正に鬼人と呼ぶに相応しい。
「ミズキもお供いたします。マサト様に」
その声に振り向けば、ミズキもまた、妖艶な笑みを浮かべていた。
まったく、この親娘は揃いも揃っていい根性してるぜ。そんな顔されちゃ応えない訳には行かないじゃないか。
「なら、俺は長として持てる力全てを注ぎ込んで、お前等の不幸を殺し尽くしてやる。一族皆が幸せを掴める様に」
「僕もお手伝いするよ!」
間髪入れず響く声に目を向ければライルは笑顔をこちらに向けて胸を張り、そして、その笑顔を目に入れた俺達は、心の中から好戦的なものが消え去っていた。
笑顔一つで皆の心を変えるなんて、本当にライルは不思議な子だよな。
「じゃあ、家族みんなを守るのは、ライルに任せるかな」
「うん、まかせて!」
「では、我は殿下のお手伝いを致しましょう」
「ミズキも及ばずながら、お手伝いさせて頂きます」
「ありがとう! キリマルおじいちゃん! ミズキおかーさん!」
祖父、と呼ばれたキリマルは目を細めて柔和な笑みを浮かべ、ミズキは母、と呼ばれたのが恥ずかしいのか頬を赤らめていた。
「ところでさっきの話だけど、何人くらいか分かるか?」
脱線していた話を元へと戻して、俺は聞いた。
「はい、馬車が一台と、馬に乗った者が数名で御座います」
それを聞いた俺は、もしかして、と眉根を寄せる。
「ハザマ様、如何なされた?」
「その中に俺とそっくりな顔をした人間は居なかったか?」
「さあ、そこまでは……。ですが、馬車には獣族が乗っていた、との報告は受けております」
ウェスラ達かな? と一瞬思ったが来る方向が違うから、ギルド絡み、という訳ではなさそうだ。
「なあ、馬に乗った奴等って、騎士か?」
もしも騎士だと非常に不味い、と思い質問を投げ掛けたのだが、キリマルの答えは、否、だった。
「それは間違いないな?」
念の為にもう一度確認をする。
「流石にそれを間違う者など居りませぬ。我等の生死にも関わります故」
と成れば、向かって来るのは商隊護衛をしている冒険者の類かもしれない。
ただ、それが分かっただけでも対処がし易くなった。
冒険者って、お金が貰えればそれで良し! みたいな所があるからさ。
まあ、ウェスラ達だったならばもっと楽だったんだけど、逆にそれはそれで俺が非常に困った事に成るから少しばかり安堵もしていた。
「それじゃ、場所を教えてくれ」
「はい」
キリマルの説明では、彼等の足で街道を走って三十分ほどの場所で見掛けた、という事だった。
「人間ならどのくらいだ?」
大鬼の走力が分からないので、人に換算するとどの程度なのか聞いた所「人間ならば確実に我等の倍は掛かるでしょう」と直ぐに答えが返って来た。
詰まり、人間の足で走って一時間くらいの場所で見た、と言う事になり、そこから更に時間が経っている訳だから、今は二十分くらいの所まで近付いていてもおかしくは無い。
「急いだ方がいいな」
「そうして頂けると助かります」
「よし、直ぐに出るぞ。ライルは万が一に備えて皆を守れ」
「わかった!」
「ミズキはライルの補助を頼む」
「はい」
「それじゃ、行って来る」
「お気を付けて」
「いってらっしゃーい!」
二人の声に見送られて俺は、近付いて来る冒険者らしき者たちの元へと向かった。
村を出てから直ぐに風魔法を纏い走力を上げて距離を稼いだ後、適当な所で普通に歩き出す。
すると、いくらもしない内に報告にあった集団が視界に入り始め、姿が確認出来る距離まで近付いた時、俺は顔を顰めた。
馬車の周りを固める者達は全部で四人。
その全員が顔も見えないほど目深にローブを被って馬に跨り、御者台に座る獣族に至っては仮面を付けて顔を隠している始末。
明らかに普通の冒険者とは違う雰囲気を周囲に撒き散らす怪しさ満載の集団だった。
まあ、遠目に見れば商隊護衛をしている様にも見えなくも無いが、近付けば一発で違う事などバレバレなのに、何故あんな格好をしているのだろうか。
こいつら何者だ?
そんな疑問を抱く俺の眼前で集団は止まると、
「これはこれは――、そちらからお出迎えして頂けるとは思ってもいませんでしたよ」
まるで俺の事を知っている様な口振りで獣族が声を投げてくる。
余りにも気軽に声を掛けられた俺は、更に表情を険しくして訝しんだ。
こいつはなんで俺の事知ってるんだ?
「そうあからさまに警戒されると、傷付いてしまいますねえ。でもまあ、仕方ありませんね。君は僕の事を知らないのですから」
こいつとは絶対に気が合わない、そう直感した俺は、自分でも表情がかなり険悪になったのが分かった。
「これはまた、初対面なのに随分と嫌われたものですね。でも、それで良いですよ。僕と君はたぶん、水と油でしょうから、無理に合わせて頂く必要は有りませんしね」
「俺とお前が水と油、だと? 笑わせるなよ。もっと根本的で決定的に違う筈だ。例えば、光と闇、位にな」
決して交じり合う事の無い存在。
俺はそう直感していて、半分嫌味ですぐさま訂正をしたのだが、奴はそれを笑って受け止める。
「ははは。これは一本取られたね。確かに君の言うとおりだ。決して交じり合う事は無い。何が有ろうともね。でもね、これだけは覚えて置いた方が良いよ」
そこで言葉を止めると、仮面の奥の瞳で俺の目をジッと見詰める。
「君は僕に絶対勝てない。どんな手段を使ってもね」
「そうか、なら俺も言わなきゃいけないな。お前は俺を倒す事は出来ないって」
数瞬の間、俺達の間に目に見えない火花が散るが、奴は鼻を鳴らして嘲る笑いを洩らしながら、
「流石、召喚者は言う事が違うねえ。でもね、この世界に置いて君は異物だって事、忘れない方がいいよ。さもないと、世界から排除されちゃうからね。あの一族の様に」
「あの一族?」
「おや、まだ知らなかったのか? これは僕の思い違いだったようだね だとすると、少しミスしちゃったな。でも、まあいいか。生きていれば何れ辿り着く事だし、ここでヒントを少しあげても僕には何の影響も無いしね」
そして奴の口から出た台詞は、俺が眉間に皺を寄せるには十分だった。
「という事で、ヒントはあげたからね。後は自分で推理でもするか――、鬼共に聞くのもいいかもね」
「鬼?」
「そうだよ、あいつ等は鬼その物じゃないか。それに君はそいつ等の長に成ったんだろう? なら、聞き出す事も出来る筈さ。ま、話してくれれば、だけどね」
仮面を付けているので表情は分からないが、肩を竦める奴の台詞を聞いた俺が、驚愕に目を見開いたのは当然の事だった。
「いいね、その顔。でもさ、この程度で驚くなんてホント、君ってまだ子供なんだね。でもまあ、仕方ないよね。高校生なんだから」
こっちの世界へ来てから今日まで、今の台詞以上に驚いた事は無い。
第一、高校という物はこっちの世界には無いのだ。だから、高校生という概念も無い。
「お前、まさか……」
言葉に詰まる俺に、奴はすぐさま否定を突き付ける。
「ハズレ。一応言っておくけど、僕はこの通り獣族だから召喚者じゃないよ。でもそれ以上は教える義理もないし言う心算もない。だけど今日は君の驚く顔がいっぱい見れたし、楽しかったよ」
驚きで固まる俺を尻目に、奴が何かの合図を出すとローブを着た者達が馬車から大きな麻袋を運び出し、無造作に俺の足元へ放り投げる。それはまるで大量の肉でも詰めた様な感じの重々しい音を立てて地面に転がると、縛っていた紐が解けその中身を露にした。
「なっ――!」
「これ返すよ。壊れちゃったみたいだしさ。でもさあ、君って凄いよねえ。どうやったらこんなに負の感情を育てる事が出来るんだい? その秘訣をちょっとでいいから教えてくれないかなあ」
だが、俺には奴の言葉など耳に入らなかった。
麻袋から覗いていたのは、表情は弛緩し切り虚ろな瞳を彷徨わせ、半開きの口からは涎を垂れ流して呻き声とも泣き声とも付かない声を洩らす、メルさんだったのだから。
膝を付き、彼女を抱き起こして奴を睨み付ける。
「お前、メルさんに何をした……」
「僕の研究を手伝ってもらっただけさ」
「何をどうすればこんな風になるんだよ!」
「何だ、君は知らないのか。なら、教えてあげる。生き物はね、限界以上の魔力を搾り取られると、そうなるんだよ。面白いだろ? でもそれのお陰で僕の研究は一歩前へ進んだから、その事に点いては感謝しないとね。ただし、それにじゃなくて君に、だけどさ」
俺は怒りに任せて簡単な手の動きだけで風刃を完全無詠唱で放った。
「甘いよ」
奴は一言呟くと何の動作も詠唱も無しに風刃を防ぎ、同時に俺の眼前に火炎弾を出現させ、そのまま弾けさせると周囲を炎で包み込み、更にその炎から無数の炎槍が飛び出し俺とメルさんを襲う。
「防壁生成!」
瞬時に土壁を展開させて炎槍を何とか防ぐ。
「何だ、その程度か」
奴の詰まらなそうな声が響き、俺が声を出そうとした瞬間、足元から氷刃が沸き起こり、咄嗟にメルさんだけは庇ったものの、魔法を展開する暇も無く串刺しにされてしまった。
「ぐ、がああああああああ!」
何とかメルさんを寸での所で避けさせる事は出来たが、急所を外しているとはいえ、俺は全身を無数の氷刃に貫かれ、瀕死の状態へ陥ってしまった。
それに急速に血が失われているのか、体は寒さに震え目の前も暗くなっていく。
だがそれでも俺は、奴の顔を睨み続けた。
「へえ、そんなに成ってまでそれを守るのか。君って変わってるねえ。でもさ、もうそれだと、守れないよね?」
「な――るな……」
くそ、上手く、声が出ねえ……。こりゃ、肺もやられてるな。
「止めを刺してもいいんだけど、このまま放っておいても君もそれも死んじゃうし、僕の目的は達成出来るし、それに、あの子ももう直ぐ僕の物になるしね」
「ど――」
どういう事だ、そう言おうとしたけど、俺の口からは血が溢れ出し、徐々に意識が闇に飲まれ始める。
そんな時、ライルの泣き顔が脳裏を過ぎった。
俺はあの子をずっと笑顔に、皆の不幸を殺すって約束したんだ。だから、こんな所で死ぬ訳には、いかねえんだよ!
気持ちを奮い立たせ暗くなる視界の中で目を凝らして虚空を見詰める。そして口元に笑みを浮かべて、
「――えろ」
燃えろ、奴に向かってそう言った。
しかし、奴は首を傾げ、楽しそうに笑っているだけだ。でも、俺も楽しい。だって、奴の驚く声が耳に飛び込んで来たから。
天空から振り落ちる光は一瞬。でもそれは、数千度に達する灼熱の光。
そんな光を浴びて無事で居られるものなど、こっちの世界には存在しない。
馬車ごと光を浴びた奴は一瞬にして炎に包まれもだえ苦しむ。ただ、直ぐに魔法で大量の水を精製して被られてしまったのが、少し残念でならない。
だがそれでも、その姿は見るも無残に焼け爛れ、手指などは肉が炭化して骨を見せている部分もある。
もう殆ど見えなくなった瞳で奴のその姿を見て、口元に嘲りの笑みを浮かべた。
「き、貴様……。よくも――よくも僕をこんな――こんな姿にいいいいい!」
骨だけの指で奴が俺を指すと、ブチブチという音と共に、足の肉が徐々に引き剥がされて行く感覚があった。
でも、今の俺はもう、殆ど痛みを感じていない。それに、視界も暗闇に閉ざされ、何も見る事が出来ない。
やがて音も聞こえなくなるだろう。
そして、静かに死んでいくんだ。愛しい人が居ないこの場所で。
そう思うと、切なくて寂しくて悲しくて、約束を守れない事が悔しくて、心の中で力限り叫んでいた。
俺は――まだ死ねない! こんな所で立ち止まる訳にはいかないんだ! お願いだ! 誰か――、誰か俺に力を、貸してくれえ!
――ならば、お貸ししましょう。
――なれば、貸し与えよう。
直後、そんな声が頭の中に響き渡り急に目の前が明るくなると、その光に目を細めながら自分の手足を眺める。
なんだか随分と肉が無くなったなあ。
そんな馬鹿な感想を抱いた後、これをやった奴に目を向ける。
「な、何だその目……」
目? 俺の目がどうかしたのか?
そう言葉を紡ごうとしたのだが、俺の喉から溢れ出た声は、辺り一帯を振るわせる竜の如き咆哮だった。
それを真正面から浴びたそいつは、ひび割れた仮面の隙間から泡を吐き出して倒れ、馬は目を剥いて崩れ落ち、馬上の者達を地面へと放り出した。
放り出されたローブを着た者達は暫くの間体を震わせていたが、その中の一人が立ち上がると馬車に近付き仮面の獣族を抱え上げ、よろめきながら元来た道を戻って行く。
それに追従するように他の三人も立ち上がり、後を着いて去って行った。
俺はそんな奴等の姿が見えなくなるまで見送った後、再び手足に視線を落とし、乾いた笑いを上げる。
「は、はははは……これじゃもう人間、って言えねえな」
先ほどまで骨が剥き出しになっていた手足は何時の間にか元通りに成り、胸の傷すらも薄っすらと残る程度にまで回復していて、正直な所、余りの回復力に自分の体が信じられなくなってしまった。
「何だよ、この中二的不死身っぷりは……」
そんな呟きを洩らした後立ち上がり、地面に横たわるメルさんの余りにも痛ましい姿に、俺の顔は歪んだ。
「ごめん、メルさん……。まさかこんな事になるなんて、思っても居なかった。今更謝っても取り返しが付かない事だけど……本当にごめん……」
赤子の様にだらしなく涎を垂れ流す彼女を優しく抱き抱え、俺は村へ向かって歩き始める。
そして途中で振り向き、燃え尽きた馬車の残骸を眺めた後、メルさんに視線を戻して約束をした。
「俺はメルさんを元に戻すためなら、何だってしてやる、だから、それまでは少しだけ、我慢してくれ」
その時一瞬、彼女の瞳に理性の色が戻り、俺の首に腕を巻き付けて唇を寄せる。
俺は驚きで目を見開き、暫くの間声が出せなくなってしまった。
そして我に返って改めて何かを言おうとした時には、彼女はまた元に戻ってしまっていたが、何故かその表情は、少しだけ嬉しそうに見えた。
でも俺は、その理由を知っている。
一瞬だけしか彼女の意識は戻らなくとも、心はしっかりと繋がったのだから。




