三十六計決めてみました
森の中に入ってから一時間ほども経つが、不思議な事に入る前に出て来た野盗以外には今だ何とも遭遇していなかった。
まあ、小動物の類ならば見掛けはしてるけどさ。
そしてライルはと言うと、肩にチッピを乗せて、再び俺の背中の住人と化していた。
なんせ背が低いから藪に埋もれちゃうし、手を引いて歩こうにも藪が邪魔でそれも出来ないってのもあるけど、一番の心配は、小動物を見掛けると追い掛けて何処かへ行ってしまいそうだから、と言うのが本当の理由だったりする。
だが、これは失敗だったみたいだ。
「おとーさん! あそこにうさぎさんがいるよ! あ! あっちにはいのししさんだ!」
普段のライルからすれば非常に見晴らしが良い所為か、あっちへきょろきょろ、こっちへきょろきょろと、兎に角体ごと動くので、背負い辛いったらありゃしない。
まあ、仕方ないって言えば仕方ないんだけどさ。子供にとって大人の視線の高さってのは、一種の憧れだしね。
「そんなに動くと落っこちちゃうぞ」
「おとーさんだから平気だもん」
何故か絶大な信頼を得ている様だ。
でもな、落ちる時は俺だからとか、関係ないと思うぞ?
まあ、いざと成ったら魔法を使って支えるけど、出来ればちゃんと掴まっていて欲しい。
「あんた達、緊張感って言葉、知ってる?」
前方を行く彼女が歩きながら振り向き、半眼になりつつ呆れ返っていた。
でもそれは、仕方ない事だと思う。森の中で危険な目に合っていなければ、ライルは遊びと区別が付く訳ないし、俺は俺で多少は気も緩むし、ピクニック気分にもなろうと言うものだ。
「まあ、いいじゃないか。今の所危険は無いんだしさ」
「だからって、気を抜いていい訳ないでしょ」
「そりゃそうだけど、こうも何も出て来ないと、気を張ってたら逆に疲れるだけだよ」
そんな事を言いはしたけど、これでも風魔法の応用で周囲の索敵はしてるんだぜ? だから、完全に気を抜いてる訳じゃないんだよね。
「まあ、油断して痛い目を見るのはあんた達の勝手だけど、あたいまで巻き込むのだけは勘弁してよね」
「へいへい」
俺の気の抜けたような返事に彼女の目尻が微かに釣り上がったが、次の瞬間には溜息を付いて肩を落とし、やれやれと首を振りながら前を向く。
「おとーさんは強いから大丈夫だもん」
そんな彼女の背にライルの一言が飛ぶと、今度は足を止めて彼女は振り向き、俺の事を嘲る様な目付きで見ながら優しい声音を響かせる。
「それじゃ、坊やのお父さんの強いとこ、見せてもらおっかな」
「いいよー」
ライルの気軽な返事に彼女は口元に嫌らしい笑いを浮かべ、俺はそれに少しだけ眉間に皺を寄せる。
「それじゃ一番槍、任せたわよ」
その台詞を残してまた前を向き、先ほどまでよりも早い足取りで進み始めた。
俺はそれに着いて行きながら、面倒な事を押し付けられた、と溜息を付くのだった。
*
更に一時間ほども歩くと森と街道の境が見え始め、俺達は一旦そこで立ち止まり、街道からは見えない場所へと移動した。
「森を抜ければもう隠れる場所もないから、覚悟は出来てる?」
彼女の真剣な眼差しが俺を射る。
「そう言われても、竜と対峙する訳じゃないからなあ」
対する俺は、緊張感に欠けていた。
だって、ガイラスやオラス団長さんと比べたら、大鬼なんて雑魚もいいとこだし。
「あんた、馬っ鹿じゃないの?! あんなのとこの人数で戦える訳ないでしょ!」
俺は戦ったぞ? それも単独で。
だが、彼女の言った事は最もなのだと思う。あれは本来、単独で戦っていい相手じゃない事は、俺が凄く良く知っている。
実際に体験してる訳だしな。
「そのくらい気楽に構えた方がいいって事だよ」
肩を竦めて彼女の怒りを少しだけ和らげた心算が、どうやら呆れさせてしまった様で溜息を吐かれていた。
「今のあんたを見てるとただの能天気にしか見えないわよ……」
「それじゃ何か? 俺が馬鹿だってのか?」
「違うの?」
「俺は馬――!」
「おとーさんはおばかさんだもん」
ライルの突然の乱入に俺は呆気に取られ、彼女は目を丸くした後、声を押し殺して笑い転げていた。
あのね、ライルの思ってるお馬鹿さんと、あんたの思ってるお馬鹿さんは、たぶん違うと思うんですよ。まあ、タイミング的に凄く噛み合ってはいたけど……。
「そんなに笑う事ね――」
その時、俺のズボンが強く引っ張られ目線を落とすと、ライルが緊張した面持ちで森の奥へと視線を向けていた。
「どうした?」
幾分声のトーンを落として静かに問い掛けはしたものの、ライルが何かの気配を掴んだのは表情を見れば分かる。しかも、微かに鼻をひくつかせながら仕切りと首を左右に動かし、まるで獣が辺りを警戒する様な仕草まで見せている。
こんな態度を見せるライルを見たのは初めてなので、俺も周囲を警戒し、自然と表情が険しくなった。
そんな俺達の只ならぬ気配を察したのか、彼女は笑いを止めて怪訝な表情を取り、
「どしたの?」
小声で問い掛けて来たその瞬間。
「おとーさんっ!」
ライルが振り向き叫ぶのと、俺が裏拳を放ちながら後に急旋回したのはほぼ同時。
振り抜いた拳は何も無い空間を薙いだ様にも見えたが僅かな手応えはあり、俺の目には微かに空間が歪み霧散したのが見えた。
「ちっ、逃がしたか」
舌打ちをして呟く。
だが次の瞬間、
「えいっ!」
掛け声と共にライルの手が虚空に向けられ、白い魔方陣の檻が何も無い空間を包み込む。と、それは瞬時に閉じられ、全身の毛穴が一気に広がる程の怖気を帯びた叫び声が迸った。
「まだいるよ!」
ライルは緊張感を途切れさせずに俺達に向かって警告を発し、今だ危機が去っていない事を伝えてくるが、何も見えない俺には、どうすればいいのかまるで分からない。
そんな時、
「何で風獣がっ!」
彼女は焦りを帯びた声で叫び、俺はそれに眉根を寄せる。
「風獣?」
「説明は後! ここは一旦逃げるわよっ!」
まるで相手が何なのか分かっている様な口ぶりだが、この慌てっぷりは尋常じゃなかった。
「どうやってだ?! 相手は見えないし気配も分からないんだぞ?!」
「大丈夫! ここはあたいに任せてちょうだい!」
自信たっぷりに彼女は告げ、右腕を高々と上げて言霊を口にする。
「静謐な漂幕よ。我等を覆い隠し敵を露にせよ! 霧幻回廊!」
途端、俺達の視界は真っ白に染め上げられ、肌にはじっとりとした粘つく感触が伝わり、濃密な霧に包まれた事が窺い知れる。
「これじゃ逃げようったって何も見え――!」
声を上げている途中で突然視界がクリアーになったが、その光景に俺は眉を顰めた。
生き物、と呼ぶには余りにもおぞましい姿をくねらせながら、何かを探すようにうろついては居るが、時折戸惑う様に体の表面をを波打たせては行きつ戻りつを繰り返し、俺達に近寄って来る気配は無い。
「これで暫くはあたい達の位置は掴めない筈! 皆、行くわよっ!」
彼女が一気に駆け出し、俺達もその後に続く。
俺は走り出して直ぐに振り返り確認したが、白く染まった風獣はやはり迷路の中にでも居るかの様に右往左往しているだけで、追って来る気配は無く、少しだけ安堵したのも束の間、ライルの声が後から響き、俺を大いに慌てさせた。
「おとーさーん! まってー!」
その距離は既に百メートル以上も開いてしまっているが、それでもライルは懸命に走り、俺に向かって手を伸ばしていた。
やべっ! ライルがまだ風魔法使えない事忘れてた!
俺は直ぐにライルの下へと駆ける。
だが、幸いにも十数歩ほど戻っただけで伸ばされた手をしっかりと掴む事が出来、素早く背中へと担ぎ上げると、かなり遠くなった彼女の背中を再び追い掛け始めた。
木々を避け、藪を突っ切り、時には倒木を飛び越え俺達は森の中を疾走する。そんな行為が二十分ほども続き、何処まで逃げるのだろう、と思い始めた頃、視界の片隅に映った小さな沼に彼女は向かうと、そこで漸く止まった。
「さすがに――、風魔法を、使っても――これだけの距離を、全力疾走すると、やっぱり、キツイわね……」
その場にへたり込み息を荒げて呟く。
「そうだな。少し、きついな」
俺もそれに同意はしたものの、実際は若干息が上がる程度なので、まだまだ走り続けられそうだ。
まあ、彼女の全力疾走は、今の俺にしてみれば正直五割程度――要はマラソンをしているのと同じ感覚だった、と言うのもあるが、以前ならば確実に風魔法を使わないとバテていた筈なので、ここに来て冬の間に鍛えていた成果が現れた、と言っても良いかも知れない。
「その割には疲れた様子が見えないんだけど……」
息を整えるようにゆっくりと深呼吸を繰り返す彼女は半眼で俺を睨み、恨めしそうな表情をしている。
鍛え方が違いますから! とここで言う訳にはいかない。そんな事を口走れば何を言われるか分かったもんじゃないし、根掘り葉掘り鍛え方とかを聞かれる事は分かり切っている。
ただ俺の場合はハッキリ言って基礎体力が尋常じゃないレベルだから、普通の人が同じ鍛え方をしたからと言って、同様の事が出来るとは思えないけどね。
「まあ、それなりに鍛えてないと、獣族相手の稽古は出来ないからな」
一応は、そう嘯いておく。
「ベッドの上でのお稽古の為?」
「そうそう――って、そっちの体力は別もんだっ!」
「あ、ごっめーん。ベッドの上は精力だよね。あたい、間違えちゃった」
ぺろっと舌を出した彼女に俺は大きく頷き、直後、くすくすと笑う彼女を見て、直ぐに仏頂面を作った。
くそ、誘導尋問に引っ掛かっちまったぜ。
だが、和気藹々とした会話はここまでだ。逃げる前に彼女が言った、風獣とやらの説明をして貰わなければ成らないからな。
「でさ、風獣って何なんだ?」
ライルを降ろしながら聞くと、彼女は若干険しい表情になり、口を開いた。
「あれは魔法で生み出された化け物よ。普通は術者の傍で護衛に使うんだけど、中には暗殺目的で使役する奴も居るって聞いたわ。まあ、使い魔みたいなものなんだけど、普通の使い魔とは毛色が違うのよね。ただ、あそこまで数が多いのはあたいも初めてだけど」
「数が多い?」
「普通は術者一人に付き、一体が相場なのよ。それをあれだけ使役してるって事は、相当な魔力量の持ち主か、もしくはかなりの手練ね。それに、普通は倒せないのよ? あれ。ライルちゃんが一匹倒したみたいだけど」
「倒せない? 何で?」
「言ったでしょ、魔法で生み出されたって」
「だから、何でなんだよ」
魔法で生み出されると何故倒せないのか、俺にはまったく分からなかったが、その疑問は直ぐに解消された。
「あれは周りにあるレジムを常に取り込んで体を維持し続けているのよ。だから、レジムを取り込めないようにするか、ライルちゃんがやったみたいに一瞬で消し飛ばさないと駄目なの。最も、時間が経てば微かに残った魔力の残滓がレジムを吸収して、倒した奴も復活しちゃうんだけどね」
「って事は、不死身の化け物って事か」
「そゆ事。術者が生きてる限り風獣も死なないから、完全には倒す事も出来ない。もし完全に倒したければ、術者を殺るしか方法が無いって訳。だから逃げるのが一番なのよ」
「なんて厄介なんだ……」
倒しても復活するとか、ゾンビみたいな奴だな。ってか、ゾンビのがまだマシな気がする。だって、倒せるし。
「あんたさ、あんなのに狙われる様な心当たりって、無い?」
彼女が真顔でそんな事を聞いてきたが、俺は突然の事に少し呆けてしまった。
「は?」
「だってあれ、明らかにあんたを狙ってたわよ?」
「たまたまそう見えただけだろ?」
「あんた、分かってないわねえ。風獣ってね、生み出した術者の命令でしか動かないの。だから、あんたが最初に襲われたって事は、術者が命令したって事なのよ。あんたを見付け出して殺せって。ただ、そういう使い方をする奴は何かしらの対価を貰わないと動かない筈だから、誰かから恨みでも買ってるんじゃないかって言ったのよ」
そう言われると思い当たる節は無くも無い。無くも無いのだが……。
俺が考え込んでいると、溜息混じりに彼女は呟いた。
「有り過ぎて、どれだか分からないって顔ね……」
「いや、思い当たる節はあるんだけどさ、その術者って、そんなに簡単に接触出来るものなのか?」
「簡単じゃ無いらしいわよ?」
あっさりと答えが帰って来て、俺は少しだけ拍子抜けする。
「そうなの?」
「そりゃそうよ。第一、依頼者の代わりに殺しをする訳でしょう? そうすれば殺された人の身内や親しい人からその術者が恨まれる訳だから、簡単には見付けられないと思うわよ? それに、簡単に見付かる様じゃ暗殺なんて仕事出来る筈ないしね。最も、依頼が出来るんだから、何らかの連絡手段があるのでしょうけど、あたいもそこまでは知らないわね」
ただ、請けてから実行するまで、少なくとも一月くらい掛かるらしいわ、と彼女は締め括った。
彼女の語った事は、噂に自分の憶測を織り交ぜたものの様だが、それだけに信憑性は高いと言える。ただ仮に、俺が今狙われているのだとしても、依頼はユセルフ王国、それもセルスリウスにまだ居た時に行われた、と見るべきだ。
何故なら、ここへ来るまでに約一月ほど掛かっているのがその理由でもある。
ただそれだと、今頃になって何故、と言う疑問が出てくる。
俺だって何人かの人物から恨まれているだろう事位は知ってる。でも、それならもっと早い時期、それも俺だけではなく、家族も巻き込んで狙われなければおかしい。
でも今回、俺だけが狙われた。
そうなるともう、あの時の事しか無い訳だが、彼女の言った事から鑑みると、時間的な面から言って、まず有り得ないと言い切れる。
「駄目だ、見当が付かない……」
「恨まれ過ぎて?」
「違う。確かに幾つか恨みは買ってるけど、それは半年以上前とかだし、それならもっと早い時期じゃないとおかしいんだ。それに、その恨みは俺だけに向けられた物じゃないしね。後は、二、三日前の事だけど、こっちは幾らなんでも早過ぎる。そうなると皆目検討が付かないんだよ」
まあ、俺の知らない所で恨まれてるかもしれないってものあるけど、逆恨みなんて記憶にある訳ないからな。
難しい顔で唸っている所にズボンが引かれたので、表情を緩めて顔を向ける。
「ん?」
「チッピが居なくなっちゃったよう……」
ライルが今にも泣きそうな顔で俺を見上げ、その口からは悲しそうな声を漏らしていた。
俺は一先ず考える事を止め、しゃがみ込んでライルに目線を合わせる。
「何時気が付いた?」
「ここきてから……」
「って事は、途中で落っこちちゃったかもしれないって事か」
コクン、と小さく首が振られた。
「どうしよう……チッピがしんじゃう。僕のはじめてのおともだちなのに、僕がせわするってやくそくしたのに……」
目に涙を浮かべて鼻をすすり始め、ライルは今にも声を上げて泣き出しそうだ。
そんな息子の頬を優しく撫でながら俺は、笑い掛ける。
「大丈夫、チッピは死なないよ。お父さんが必ず連れて来るからな。だから、ライルはここで安心してお姉さんと待ってるんだぞ」
「――うん」
再度ライルの頭を軽く撫でて俺は立ち上がり、元来た方角へと顔を向ける。
「ちょ、ちょっとあんた! まさか――!」
ライルとの遣り取りを見ていた彼女は驚愕の声を放ち、俺は口角を吊り上げ、
「そのまさか、さ!」
脱兎の如く駆けだして行くのだった。
ったく、手間掛けさせやがって! これでもう、あいつの呼び名はチビラスで決定だな!




