噂は膨らむ何処までも
宿にそそくさと潜り込むと俺達は、可憐からウェスラの居る部屋を聞き出して直ぐに向かう。
俺もローザもライルの様子が気になっていたからなのだが、部屋も前まで来るなり、中からウェスラの怒鳴り声が漏れていた。
『この、大戯けっ! おぬしの所為でマサトがどれ程の苦労を背負い込んだのか、分かっておるのかっ?!』
『…………』
『何じゃと?! もう一辺言うてみい!』
どうやら、誰かを叱っているようなのだが、何となくそれが誰なのか、俺には想像が付いた。
「なあ、これってさあ――」
「ええ――」
ローザも俺と同じく誰が怒られているのか、分かっている様だった。
二人して暫くは扉越しに聞こえるウェスラの怒鳴り声を聞いていたが、徐々に物騒な事を口走り始めたので、これは不味い、と顔を見合わせて頷き合い、俺が慌てて扉をノックしながら声を掛ける。
「おーい、入るぞー」
途端、部屋の中の空気が凍り付いた様な気配を漂わせ、物静かになると、
「何じゃ?」
扉を少しだけ開けて、ウェスラが怒りに紅潮した顔を半分だけ覗かせた。
「ライルはどうしてるかなと思ったんだけど、今は取り込み中みたいだね」
流石に教授を叱ってるのか? などと直接問う程俺は抜けては居ない。今のウェスラの様子からすれば、触らぬ神に祟り無し、だからね。
「ライルならばユキと一緒じゃ」
「んじゃ、ユキのとこに行って見るよ。邪魔して悪かったな」
そう告げると直ぐに扉は閉まり、また、怒声が響き始める。
俺はそれに苦笑いを零し、ローザを促して扉の前から動くと、ユキの居る部屋へと向かう。が、どの部屋に居るのか、聞くのを忘れていた事を思い出した。
「やべ、どこだか分かんねえ」
その時、ローザの耳が忙しなく動き、
「こっちです」
俺の前を歩き出した。
それを見た俺が、ローザにもこんな芸当が出来たのかと、半分驚きで目を見開いていると、彼女は少し頬を染めて照れながら、言い訳をするように口を開いた。
「実は、人狼族よりも人虎族の方が耳はいいんですよ?」
俺にとっては初耳なのだが、彼女がそう言うのだから、そうなのだろう。
「てっきり、人狼族の方が良いと思ってたよ」
驚かれたのが余程嬉しかったのか、ローザは笑みを零しながら足取りも軽く俺の前を歩いて行く。その間中も忙しなく耳は動き回り、周りの音を拾い集めていた。
「あ、この部屋ですね」
俺にそう告げてからローザは躊躇いなく扉を叩き、ほんの僅か遅れて静かに扉が開くと、そこには唇に人差し指を当てたユキが立っていた。
「静かにお願いします。ライル様は寝ていますので」
俺達は頷き、そっと部屋の中に入ってベッドへ目を向けると、手足を縮めて丸まって眠るライルの姿があった。
やはり、と言うか、改めて根姿を見ると、人とは違うんだな、としみじみと思う。
「寝るまではどうだった?」
ライルの姿を目に納めたまま、ユキに小声で聞いた。
「ウェスラ様とだんな様のお陰だと思いますが、ウチが預かった時には大分落ち着いてました」
「そうか」
それを聞いて幾分安堵はしたが、ライルの事を思うと、何だか遣る瀬無い気持ちになった。
「済みません。わたしの所為で……」
沈み込んだ声音で、ローザが謝る。
「ローザの所為じゃないよ」
それを俺が否定するが、ローザは俯いてその表情を沈み込ませていた。
「でも……」
それでも尚も言い募ろうとする彼女に俺は向き直り、
「切欠は教授の一言だし、それを嘲ったのはあの二人だ。だから、ローザは何も悪くない」
「ですが、わたしの所為でライルちゃんは……」
俺はやれやれ、と肩を竦めて首を振る。
「謝られるよりも、礼を言ってもらった方が嬉しいんだけどな、俺もライルも。それに、表で言った事、もう忘れたのか?」
この一言で彼女は顔を挙げハッとした後、再び俯き頬を染めて「そうでした」と小声でバツが悪そうに呟いた。
「それじゃ、ライルの事は任せるかな」
二人に目線を投げ掛け「いいよな?」と問い掛けると、微笑みながら頷き返して来る。それに俺も頷き返してから、部屋の扉を静かに開けて廊下へと出る。
「さて、ギルドに行くか」
一人呟き、今だ怒声が響くウェスラの部屋の前を通り過ぎ階下へ向かえば、食堂では何時の間に帰って来たのか、ウォルさん以下、護送の騎士達が座り、黙々と食事を取っていた。
しかも、堆く積み上げられたパンを競う様にして。
なるほど、これがこの宿の名物なのか。
少しの驚きと苦笑を混ぜ合わせた様な表情になってしまったが、出かける旨だけは伝えなければならない。
「俺、これからちょっとギルドへ行って来るからね」
誰も一言も発さず、全員が片手を挙げて答える中、パンが一つだけ俺に向かって飛んで来たので上手くキャッチして齧り付くと、これならば、と思わず納得する。
小麦のパン独特の甘みと香りに加え、中に大量に練り込まれたナッツ類やレーズン、それにチーズの味が合わさり、下手なおかずなど無粋だと感じるほどだ。
「納得して頂けましたか?」
カウンター越しに声を掛けられ、俺は満面の笑みで口を動かしながらサムズアップを返し、宿の主人は満足げに口元を綻ばせ、俺を送り出すのだった。
*
外へ出た俺を待っていたのは、囁く声と、好奇に満ちた視線だった。
その囁きの内容だが、俺とローザの寸止めラブシーンの事で何やら噂になっている様だ。それも、人族の少女――たぶん可憐の事――が嫉妬に狂って俺達を引き剥がした、だとか、もう一人の妻――これも可憐の事らしい――が妬いて最後までさせなかった、だとか、挙句の果てには三行半を突き付けて妻を一人離縁――これはメルさんかも――しただとか、兎も角、おかしな事に成っていた。
これって、可憐が耳にしたらやばくないか? 主に俺の命が。
そんな有らぬ噂に眉間に皺を寄せて、険しい表情を取ってみても、噂が消えてなくなる訳ではない。
後ろ指を差されている様な気分のまま、ノエント支部の扉を潜ると、
「あっ! とっかえひっかえ男!」
見も知らぬ女性から指を指されて叫ばれ、思わずおかしな声を上げてしまった。
「はあ?!」
とっかえひっかえって何だよ?!
「あんたさあ、その内しっぺ返し食らうからね」
何で見ず知らずの女にそんな事言われにゃならんのだ。
俺が渋い顔で黙り込んでいると、更に追加でとんでも無い事を言われてしまった。
「女みたいな顔してるのに、あんたは結構あくどいって話だけど、本当なの?」
初対面なのに失礼な奴だ。それに、あくどいか、と聞かれて、はいそうです、と答える馬鹿なんている訳ないだろうに。でもまあ、こういった輩は無視するに限るな。
俺はその女から視線を外すと、依頼が張り出されている掲示板へと歩を進める。
「こらっ! 無視すんなっ!」
うっせい、だまれボケ!
心の中で罵りつつ、表情は平静を装ったまま掲示板に張り出された依頼に一通り目を通すと、一つ気になる依頼があった。
「大鬼の討伐依頼、か。でも、少し安いな……」
通常の依頼よりも報酬が半分位しかない事に俺は顔を顰めたが、ライルとの約束もあるし、張り出されている依頼の中ではこれが一番高額なのも確かなので、軽く溜息交じりの息を吐くと、掲示板から剥ぎ取り受付へと持って行く。
その間中、俺の後ろでは先ほどの女が、ぎゃあぎゃあと騒いでいた。
多分、無視されて怒っているのだろうけど、そんなの俺には知ったこっちゃ無い。
「この依頼、お願いします」
受付カウンターに依頼書を持ち込むと、そこにはどこか愛嬌のある顔の、中年のおばちゃんが座っていた。
「はいはい、っておや? 確かあんたは……、今噂の女に逃げられた情け無い優男じゃないか」
はい?! なんすかそれ?!
思わず目が点になった。
「まったく、情け無いねえ。いい男なのに女に逃げられるなんて。やっぱりあれかい? 性生活の不一致なのかい?」
性格の不一致じゃねえのかよっ!
「ああ、それとも稼ぎが悪くて見捨てられたとか?」
それはない! ってか、見捨ててくれない!
「あ! もしかしてっ! 人前で破廉恥な事をしようとしたとかかい?!」
それは家の奥様方の得意技だっ! ってか、有る事無い事おかしな噂が立ってるな。一体どうなってやがる。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
止まる事を知らない受付のおばちゃんに待ったを掛けるが、その程度では止まってくれなかった。
「あれだねっ! あんた、浮気相手を孕ませちまったんだろっ!」
「んな事するかっ! 浮気するくらいなら妻にするわっ!」
思わず、と言うか口が滑ってしまった。
「へえ、あんたはそれで女に逃げられたんかい。でも、ハーレムだけは止めときな」
「なんで?」
「あたしのカンだけど、あんたは稼ぎがあまり無いんじゃないのかい?」
う……。何故分かる。
「黙ってるって事は図星かい。まあ、なら話が早いさね。最初のうちは愛情だの何だのって言ってるけどね、最終的にはやっぱり金なのさ。金が無けりゃ愛情も直ぐにどっか行っちまうもんなんだよ。あんたはまだ若いから実感ないだろうけどね」
いえ、凄く実感有ります、俺的には。でも、稼ぐ事を許してくれないのが一名居るんですが、それはどうするばいいんですかね。
「き、肝に銘じておきます……」
とりあえず頷いておかないと、もっと説教されそうだから、ここは何としても早く逃れねば。
「そうかい、分かってくれたかい。おばちゃん、諭した甲斐があるよ」
しみじみと頷くおばちゃんに、俺は内心で溜息と苦笑を漏らしつつ、早くしてくれないかなと思い、
「あの、依頼なんですけど……」
遠慮がちにそんな事を口したが、おばちゃんの次の台詞を聞いた俺は、呆れて物も言えなくなった。
「あ、ああ、ごめんなさいねえ。おばちゃん、噂話に夢中になると仕事の事、つい忘れちゃってねえ」
しかも、悪びれた風もなく、満面の笑顔でそんな事をのたまう。
これに呆れずして何とすればいいのだ。
おいおい、こんなの飼っててここのギルドは大丈夫なんだろうな。
他の職員をそっと見回してみると、皆さん、一様に盛大な溜息を付いてらっしゃいました。
どうやらどうにもなら無い人のようで、ならば、仲良く成っておく方がここは得策かもしれない。のだが、そこは止めておこう。
後々面倒な事に成りそうだしな。
「ええと、大鬼討伐ね。人数は――二人って、あんた、もう新しい女を引っ掛けたのかい?」
「は?」
ほれ、とおばちゃんが俺の背後に顎をしゃくると、そこには先ほど無視をした女がちゃっかりすまし顔で立っていた。
「……おい」
「はい?」
「何故居る」
「彼女だから?」
「誰が?」
「あたい?」
「どちらのあたい様?」
「あんたの彼女のあたい様?」
「ほう、俺の彼女のあたい様か」
「そうそう」
「んな訳あるかっ!」
「ちっ」
「ちっ、じゃねえ、ちっ、じゃ!」
「けっ」
「同じだっ!」
「あたいもそれに連れてってよ。役に立つからさあ」
「どれくらい?」
「このくらい?」
彼女は両腕を目いっぱい広げて見せるが、それで分かれば大したものだと思う。
「そんなんで分かる訳ねえだろ」
「じゃあ、どうすれば分かってくれるのよ」
「とりあえず、職業とランクを言え」
「職業はいいけど、ランクはヤダ」
「何でランクを言えないんだよ」
「だって、言ったらあんたが泣くもん」
「ほほう、俺が泣くのか」
「うん」
「ちなみに俺は二段だぞ」
その途端、女はあさっての方向を向き、とぼけた表情で「相変わらずここはぼろっちいわねえ」などと呟いている。
俺がそんな姿をジト目で注視していると、女は徐々に額に汗を浮かべ「ここ、暑いわね」と呟き汗を拭い、終いには、受付のおばちゃんをちらちらと見ながら、助けでも求めている様な姿勢を取り始めた。
もしかして、五級とかその辺なのか? この女は。
俺がそんな事を思っていると、
「そう言えばお譲ちゃんもここじゃ初顔だね。もしかして、流れかい?」
微笑ましいものでも見る様な柔和な表情で尋ねた。
彼女はこの辺りでは珍しい黒髪黒目だ。まあ、俺もそうだけどさ。
最も、そんな見掛けだからおばちゃんは流れ、と言ったのだろうけど、俺からしたら些細な事だ。だって、俺だってそれに当てはめれば流れになっちゃうしな。
そして、言われて初めて彼女の事をマジマジと見た。
ショートボブ、と言うのだろうか、短めの髪と少し日焼けした浅黒い肌に、大きな瞳とちょこん顔の中央に乗る小ぢんまりとした鼻、その下のやや薄めだがふっくらとした唇。それに少し低めの身長と、どこか活発そうな雰囲気。それらを合わせると、綺麗、と言うよりも可愛らしく見え、外見年齢は十四歳前後に見える。
ま、要は幼く見えるって事だな。
最も、それと反比例するかの様に、首から下にある張り出しは、物凄く凶悪だ。
うーむ、ローザよりでかいかもしれん。
ただ、冒険者、と言うからには、十四歳前後という事はまず無い。
ライルを冒険者登録しようとしたら、未成年は駄目だ、と断られたからね。
「流れ、って訳じゃないけど、この国の噂を聞いてさ、ちょっと稼ごうかなって思って、ここまで来たんだけどね」
「一人でかい?」
おや? おばちゃんが目を丸くしてるぞ。
「そうだけど?」
彼女は何当たり前な事を、と不思議そうにしているが、おばちゃんが驚くのも無理は無い。
今この国は野盗が溢れ返り、魔物の数も相当数に上っている。その為、騎士団や冒険者を動員しても手が回らない程、危機的状況に置かれているのだ。そんな中をうら若い女一人で来たと言うのだから、驚かない方が無理、というもの。
「無事でここまで来られたから良い様なものの、まったく最近の若い者ときたら、無謀と勇気をすぐ履き違えるんだから、困ったもんだね」
おばちゃんは盛大な溜息を付いて、説教モードに入りそうな雰囲気。
やばいなー、などと暢気に思っていると、
「大丈夫、あたいは強いから」
彼女はあっけらかんと言い放った。
でも、自分で自分の事を強いとか、ちょっと自信過剰じゃないか?
「あんたねえ、自分の事を強いって言う奴ほど――」
「はいこれ」
おばちゃんの台詞を遮り、彼女は腰からカードを取り出して突き付ける。と、見る間におばちゃんの表情が驚きに彩られ、その目は、カードと彼女の顔を忙しなく行き来していた。
はて? そんなに驚くほど凄いのか?
少し興味が沸き、俺も見せてもらおうかな、と身を乗り出した瞬間、おばちゃんの顔が向けられ、
「あんたっ! この子と一緒に行きなさい!」
そんな事を言われてしまった。
「へ? なんで?」
「いいからっ! おばちゃんのいう事は聞きなさい!」
そう言われても何が何だか分からない俺としては、納得しかねる。
稼ぎも減るし。
「そうそう、おばちゃんの言うとおりだよー。あたいと行けば生きて返って来れるしさー」
軽い口調で言われても、安心するどころか、返って不安にしかならない。
何を根拠にこの女はこんな事をのたまうのだろうな。
「でもなあ、俺、一人の方が遣り易くていいんだけどなあ」
思わず零れる呟きに、おばちゃんは素早く噛み付く。
「なら、あんたのカードも見せなっ! おばちゃんが判断してあげるからっ!」
「へいへい」
肩を竦めて腰のパウチからカードを取り出すと、おばちゃんはひったくる様にして俺から奪い、
「ぶっ……!」
固まるおばちゃんと、苦笑する俺が出来上がった。
何だかなあ。毎回こうだと、ギルドへ来るのも嫌になるぞ。
「ねえあんた、一体何したの?」
固まるおばちゃんを見たのか、彼女が訊ねて来たので仕方なく俺のカードが見える様に身を動かすと、彼女の表情も驚愕に変わり、俺とカードを交互に眺めながら、金魚の様に口をパクパクとさせていたのだった。
驚くのは後回しにしてくれませんかねえ。じゃないと俺、貧乏から抜け出せないんですけど……。




