国境越えたら二分でドカン
「ごほごほ、ごほっ、がはっ、げはっ!」
「だ、大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃない」
俺は風邪を引いた。
昼の間は春を感じさせる暖かさの空気に包まれるとはいえ、この時期のユセルフの夜はまだ、真冬と同じだ。
そして俺は、罰として壁と天井の無くなった部屋で一夜を明かした。
一応、宿に居る状態ではあったが、その実、外に居るのと全く変わらない環境。
寒さを凌ごうにも防寒着は無く、剣は部屋の外へと出されてしまい、暖房の代わりをさせる事も出来なかった。
結果、危うく凍死し掛けた。
自業自得、と言われればそれまでなのだが、命を掛けてまで謝罪の姿勢を示す様な事じゃないと思うのは、俺の思い違いではない筈だ。
意識朦朧としていたので良く覚えてはいないのだが、死に掛けの俺を救ったのは、ライルだったと記憶している。
あの小さな体で俺を何とか部屋から引き摺り出し廊下に横たえた後、何処かへ行ってしまったが、それはユキを呼び行く為だったらしい。
その後ユキの部屋へと運び込まれ、彼女が添い寝して俺を暖め、その間ライルは誰も部屋に入れようとせず、小さな体で精一杯怒りを表し、手が付けられなかったそうだ。
しかも、宥めるウォルさんをぶっ飛ばしただけでなく、魔法まで叩き込んで伸してしまった、と言うのだから、その怒りの程は凄まじい。
なんせ「おとーさんが死んじゃったら僕が必ず仕返ししてやる!」とまで言っていたそうだから。
まあ、俺は廊下に横たえられた後、安堵から意識を手放してしまったので、これはユキから聞いた話なのだが。
「でも、宜しかったのですか?」
「何が?」
「街を出てしまってです」
ウォルさんのこの質問も分からないでもない。
こっちの世界では普通、旅の途中で体調不良に見舞われた場合、症状が安定するか軽く成るまでは安静にしているのが常だ。
無理をして症状が悪化し、命を落とした旅人も少なくないと、聞いていたし。
なのに、体調不良で進むのがどれ程の危険を伴うか既に知っている俺が強行に言い張ったのだから、ウェスラとローザが止めるのは当たり前で、それはウォルさんも同じ。
だが、俺は頑として譲らなかった。
ま、一人でも行くって宿を飛び出したしな、俺。
そんな俺に着いて来たのは、ライルとユキの二人だけだった。
当然と言えば、当然の成り行きだけどね。
そのまま三人して街を出て街道を暫く進んだ所で後から声が掛かり、振り向けば、ウォルさん達が急いで追って着ていた所だった。
その姿を見た時は、嬉しさで微かに口元が緩んだ程だ。
正直な話、熱も有ったし、自分の足で歩くのは少々辛かったから。
その後俺はまた馬車の御者代に座り、ライルとユキの二人は今、後の荷台で寝ている。
「これ以上遅れる訳にはいか――ごほごほ――いかないだろ?」
「しかし、その調子では何か有った時、不味いと思うのですが……」
「心配してくれるのは――ごほごほ――有り難いけど、ガルムイには一応、大体の予定日を伝えてあるし、余り遅れちゃ失礼だと思うけど?」
あっちの世界と違ってこっちの場合は、一週間程度のずれは普通に有り得る事で、それだけ不確定要素が大きいとも言えるのだが、流石にそれ以上は不味い。
最も、道程は余裕を持った日数を伝えてあるから、現状では寧ろ早い位だ。
ただ、一週間もノーザマインに滞在していたから、その余裕もそれほどある訳じゃない。とは言うものの、ある程度の遅れを加味すれば、まだ、二週間程の余裕は有る。しかし、カチェマの問題もあるから、時間は余り無いと見て差し支えない。
なので、出発は早ければ早いほど良いのだ。
ただし、これは建前。
本当の理由は、アルシェに送った手紙で出産までには絶対戻る、と書いてしまった為で、それを厳守しようとすると、何か問題が起きてもいい様に、余裕の有る日程でガルムイに着いて置かなければ成らない、と言うのが本音だった。
「ですが……」
ウォルさんは口篭り、微かに俯く。
まあ、俺に風邪を引かせてしまった事に対して少し後暗いとこがあるのかも知れないけど、この程度の風邪で寝込むとか、あっちでもしなかったから、そんなに心配しなくてもいいんだけどな。
「ごほごほ――俺が前に出なくても、野盗とか魔物に対処出――ごほっ! がははっ! げへっ! あー喉痛てえ……。出来るだろ?」
これだけの面子で対処出来ないとか言われたら、俺泣くけどな。
「それはそうですが……」
どうやらウォルさんの心配は、そこではない様だ。
「俺は大丈夫だって、さっきも言ったじゃん」
「しかし……」
「心配性だなあ」
「マサト様が体調を崩したのは私の責任ですし、もしもこれ以上悪化したら……」
「申し訳が立たない?」
ウォルさんは首肯する。
随分と責任を感じているというか、心配してるというか、兎も角、あの事を後悔しているのは分かった。でも、終わった事で落ち込まれても、俺としては、はっきり言って困る。
「風邪ってさあ、うつすと早く治るって言われてんだよね」
無論、これは迷信の類だし、絶対に有り得ない事だけど、そんな事を呟いて、チラリとウォルさんに目線を向けると、嫌そうな顔で微かに俺から体を離している。
そこまで露骨に嫌がらなくてもいいと思うんだけどなあ。
「確か――ごほごご――咳って半径二メルくらいまで拡散するらしいよ」
「そ、それは――」
「ごほごほ――ウォルさんは十分、射程範囲だね」
そこでにっこりと笑い掛ける。
然も貰ってください、と言わんばかりに。
「え、遠慮しておきます!」
御者台の端、それも、それ以上行くと完全に尻が落ちる、という場所まで素早く身を引き、顔を顰めて俺の事を睨み付けていた。
「そんな事言わずに貰ってよ」
にじり寄る俺。
が、気が付くと次の瞬間には、宙を舞っていた。
あれ? 何がどうなってんの?
ただ、タイミング良くというか、丁度良い場所に騎馬が居てくれたお陰で、上手い事その後に跨る事が出来た。
「あ、あぶなかったあ……」
若干股間からの痛みが激しいが、騎乗している騎士にしがみ付き、安堵の呟きを洩らす。
「一度ならず二度までも……! 私の胸に何か執着でも有るのですかっ!」
どうやら俺はメルさんの後へ乗ったらしい。
「え?! あ! い、いや! こ、これは、ふ、不可抗力だっ!」
必死に弁解するが、二つの丁度良い盛り上がりを俺の両手は、しっかりと掴んでいた。
鎧の上からだけどね。
「普通、腰だと思うのですが、これは私の思い違いでしょうか?」
対するメルさんは、冷え冷えとした声音を投げ付けてくる。
これに対する脳内返答の第一候補は……。
だって、握り易いんだもん。メルさんて結構大きいしさ!
でもこれを口に出したら、絶対唯では済まないと分かっているので、
「御尤もですね」
無難な答えと成る。
俺はまだ、死にたくはないからな。
「なら、さっさと離してください」
「あ、はい。でも、出来れば生――ぐほっ!」
つい本音が漏れ、彼女の肘鉄を脇腹に食らった。
「もう一発いきますか?」
「え、遠慮しておきます……」
あ、危なかった……。
やっぱ体調がおかしいと頭の中も少しおかしいのかも知れない。
「馬車に寄せますので、上手く乗り移ってください」
そう言いながら御者台の傍まで馬を寄せる。
俺は丁度いいタイミングを見計らい、馬から馬車へと乗り移った。
「ありがとう、メルさん」
一応、礼は言っておかないとな。
「次は容赦なく叩き落します」
軽く目礼をして隊列へと戻る彼女が返した言葉は、とっても冷たかった。
*
街を出て一時間ほども進んだ頃、俺達は狭隘な谷間の道に差し掛かっていた。
そこは両脇に切り立った崖が聳え立ち、場所に因っては頭上に岩が迫り出している様な、非常に危険な道だ。その証拠に、上からは時々小石が降り落ちてくるばかりか、道の至る所に大小様々な石が転がっており、頻繁に崖崩れが起きている事を匂わせている。
中には巨岩、と呼べる程の大きさの石が道を半分塞いでいる場所もあり、その下から木片が覗いているのを見て、少し顔を顰めてしまった程だ。
しかも、馬車がやっと擦れ違いが出来るだけの幅しか備えておらず、広い所でも幅員は四メートル有るか無いか、という狭さ。
「――これじゃ、逃げ道がないな」
木片が覗く岩を横目に見ながら、俺はそんな事を呟いた。
「ですが、この道のお陰で過去のユセルフは独立を保っていられた経緯もありますから、危険だからと言って簡単には道を広げられないのです」
召喚された日にアルシェがそんな事を言っていた事を、ぼんやりと思い出した。
「過去に縛られてる部分もあるのか……」
「ええ。隣国のカチェマは今でこそ友好国となっていますが、百年ほど前まではガルムイと組んでユセルフを何度も攻めてますから」
「第二王女が嫁いでいても、完全に警戒を緩める事は出来ないって事か」
ウォルさんは小さく頷いた。
「国同士って難しいもんだな」
「個人と同じ、と言う訳には参りませんからね」
俺は前を見詰めながら少しだけ考えたが、国同士の事は政治が絡んで来るし、思惑やら何やら色々と難し過ぎるので、直ぐに思考を放棄して別の話題に切り替える。
「国境まで後どれくらいあるんだ?」
「このまま順調に進めば、後半刻ほどですね」
後一時間くらいで着くという事だが、それを早い、と言っていいのか、俺には判断しかねる。
あっちの世界とは、時間の感覚が違うからね。
「それじゃあ、俺は少し後で休ませてもらおうかな」
こういう時は逃げるに限る。
今日は体調も悪いしさ。
「分かりました。国境に着きましたら声を掛けますので、その時はお願い致します」
「了解。それじゃ後は宜しく」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
寝ている二人を起こさない様に静かに荷台に移ると俺は、置かれている毛布を掴み、自分の体に巻き付けて寝そべる。
荷台は幌に覆われている所為もあり意外と暖かく、俺は直ぐに夢の世界へと旅立って行った。
暫くすると、と言うか、熟睡していたからだろう。直ぐ声が掛かった様な錯覚を受け、俺は目を擦りながら御者台へと移動する。
「もう着いたの?」
欠伸交じりにそんな事を口にした。
「はい」
その声に誘われて目線を前へ送れば、そこには崖を利用した立派な城壁が聳え立ち、鉄製の頑丈な門前では、屈強そうな騎士達が何人も忙しなく動き回っているのが見える。
「あそこを抜けて暫く進めば、カチェマの国境までは直ぐですよ」
ウォルさんの説明に幾分眉根を寄せる。
「国境と国境が離れてるの?」
「はい、所謂、緩衝地帯、というものです」
ああ、そうか、そういう事か、と俺は直ぐに納得をした。
「ご理解頂けたようですね」
俺は頷く。
たぶんだけど、お互いの騎士達が小競り合いを起こさない様にと、設けられたのだと思う。国が違えば考えも違うし、しかも騎士なんて誇りの塊だし、自分の国の事を馬鹿にされでもしたら、直ぐに争い事に発展しかねないからね。
「これがお互いに上手く遣るコツってやつか」
「個々人がどんなに素晴らしく立派な考えを持って居ても、国を背負うと主義主張が生まれてしまいますから」
この国の騎士達を見ていれば、ウォルさんの言いたい事も何となくだけど分かる。
国王に忠誠を誓い、自国に誇りを持ち、そこに暮らす民を守る為ならば、命も掛ける。
そして、それが出来る騎士である事に皆、喜びを見出している。
それは何処の国の騎士でも同じだろうし、自分のプライドを傷付けられただけならまだしも、国の事まで悪く言われたとすれば、黙って居られない事も、想像に難くない。
「騎士も因果な商売だな」
「全くです」
ウォルさんの表情には、苦笑いが踊っていた。
そんな話をしている内に国境が近付く。
俺は改めて築かれた城壁を眺めて、感嘆の呻きを上げた。
崖の高さよりも更に二メートル程も上に伸ばされ、そこには数人の騎士達が弓を手にカチェマの方を監視しているのが見える。城門内部には通路でも有るのだろう。所々に銃眼の様な小さな窓が規則的に設けられている。
そして、開け放たれた鉄門は驚く事に、厚さが十センチ近くもあった。
無論、全て鉄製という訳では無いだろうが、そうだとしても凄まじい厚みを持った門と言える。
「すげえ……」
その威容に圧倒されて言葉も出ない俺を尻目に、馬車に気付いた騎士の一人が素早く近付き、最敬礼で出迎えられた。
「お疲れ様です! ウォルケウス将軍閣下!」
「うむ、変わり無いな?」
「はっ! カチェマにも将軍閣下が向かう事は既に伝えて御座います!」
「そうか。手間を掛けるな」
「いえっ! これも仕事なれば!」
「では、我等も通常通りに検閲せよ」
「はっ! それでは失礼致します! おい! 一人こっちに回してくれ!」
騎士はもう一人呼び寄せるとウォルさんの言葉を忠実に守り、馬車や馬のチェックを始め、呼ばれたもう一人の騎士は、俺達の身分証の確認を始めた。
それをぼんやりと眺めていると、俺はユキの身分証が無かった事に気が付き、慌ててウォルさんに顔を向けた。
だが、ウォルさんは既に対策を考えていた様で、慌てる事無く俺に目配せをすると、身分証を確認している騎士に声を掛ける。
「一人身分証の発行が間に合わなくて持って居ないのだか、ここで簡易身分証書を発行して貰えないだろうか」
「簡易証、でありますか」
「うむ」
「身分保証責任者の設定に少々お時間が……」
身分保証責任者ってなんだろう?
俺が疑問に思っていると、それを察したのか、騎士の方から説明が加えられた。
「簡易身分証書を発行するに当たり、その者の身分を保証し、問題を起こした時に責任を取る者の設定を行うのです。これには保証者の魔力量などの関係もあり、設定に時間が掛かる場合もあるのです」
なるほど。魔力量で設定時間が変わってくるのか。
「それならば問題あるまい。保証者はマサト様だからな」
騎士の顔が俺に向けられ少しだけ訝む表情を取った後、直ぐに目を見開き、わなわなと唇を震わせながら、絶叫を放った。
「こ、この方がっ――! マサト・ハザマ殿下っ!!」
そしてすぐさま跪き、臣下の礼を取られてしまった。
「我等が騎士――いいえ! 我が国の武を志す者全ての憧れ! 竜殺しのハーレム王! マサト殿下にお目に掛かれ、恐悦至極に存じますっ!」
騎士の声に全員がこちらに向いて一様に驚いた後、一斉に跪き、賞賛の声を口にしていた。
ただ、全員がハーレム王と連呼していたのには流石に参ったけど。
「そろそろ顔を上げてくれないかな? じゃないと色々と支障が出ると思うんだけど……」
少ないとはいえ、カチェマ側から来た商人らしき人達が戸惑っているし、ユキの証書の発行もあるし、何時までもそうしていられると非常に困るし恥ずかしい。
「そうでした! 申し訳御座いません!」
顔を上げるどころか、更に深々と頭を垂れ謝罪する騎士を見ていると、溜息しか出て来なかった。
それでも何とかユキの簡易身分証書を発行してもらうと、騎士達に見送られてユセルフの国境を抜け、カチェマ側の国境へと向かう。
カチェマ側では何の滞りもなく検閲も進み、無事に国境を越えて安堵したのも束の間、距離にして百メートルも行かない内に、野盗の集団がわらわらと目の前に集まって来た。
その数、五十人程。
しかし、その程度の人数で何とか出来る集団じゃ無い事くらい、分からないのだろうか。
「なあ、ウォルさん」
「ええ、マサト様」
目配せをしてお互いに思った事を確認をすると同時に頷き、
「こいつら、絶対馬鹿だよな」
俺がそれを口にした。
「おい! 女と荷物を置いてさっさと帰りな!」
野盗の頭らしき人物が声を張り上げて口上を述べると、手下どもが下卑た笑いを上げ始め、口々に卑猥な事を叫び始める。
それに俺達は一斉に溜息を吐いて、やれやれ、と首を振った。
「なんだっ! その態度はっ! 俺達を――」
「うるさい! あんた達邪魔っ! 弾け飛びなさい!」
可憐の怒声が放たれると同時に轟音が連続して響き渡り、目の前の野盗達が次々と遥か彼方へと吹き飛ばされて行く。
それはもう風船が風に吹き飛ばされる様な感じで、人ってあんなにも簡単に飛べるんだなあ、と妙な関心をさせられる光景だった。
「ウォルさんや」
「何でしょう?」
「奥さんは怒らせないようにね」
「肝に銘じておきます」
そうして最初に遭遇した野盗は、呆気なく退治されたのだった。
野盗達に、合唱!




