序章:黒い夢
――無
そこには何もなかった。
光と闇。熱と冷気。天と地。そういったあらゆる対比を排除した上に、静寂を塗りたくったような、おそらく、空間。
いつしか彼の意識は、そんな場所でただぼんやりと漂流していた。
心地よい眠りからの目覚めのように、初めは鬱陶しく、もっと深くへと潜り込みたくなる感覚が、半ば強制的に思考へと浮きあがって来てしまう。しかし世界には、緩やかな覚醒を次の行動へと導く刺激は無く、結局は、彼をまどろみのような思索の渦へと、追いやることしか出来なかった。
寂しい場所だな……
それが、彼の意識に上った最初の言葉だった。
何もない。
誰もいない。
それを確かめるために周りを見回したが、全てが黒で埋め尽くされた世界は、彼にその行為を実行したことさえ、疑問に思わせた。
本当に誰もいないのかな……
意識は、わずかな変化を求めて、知らずに鋭敏になっていく。
家族……とうさんやかあさんは――
――――ィン
かすかな音を、耳が感じ取った。左方向から、金属音のような何かを。
音のした方へ鋭く目を向けると、見逃しても仕方のない、砂粒ほどの白い点があった。あまりにも小さすぎて距離感がつかめず、すぐそこにあるもののように思えた。けれどもそれは、ずっとずっと遠い所にあるようで、つかみ取ろうと伸ばした手の、うんと先に居座り続けていた。
彼は泳ぐようにして、白い点へと向かった。
思いがけないほどの速さで、大きくなり、近づいてくるそれは光だった。
金属音も何度となく打ち鳴らされていた。
そうして彼が辿り着いた場所は、凄惨な殺人現場だった。
むき出しの、赤茶けた岩肌に横たわる三つの死体。黒い灰と化したもの、鋭利な刃物で突き刺され、目にも毒な鮮やかな血を流すもの、外傷こそ見えないものの、一目で異変と分かる青白く変化した肌に、そこだけ逃げ出すように酷く浮きだした眼球のもの。
彼は中空に浮いたまま、手で口をおさえ、胎児のように体を丸めて吐き気をこらえた。その間も、金属音は続いた。
吐き気の波が去ると、彼は死体をつとめて見ないようにしつつ、音の正体を探った。
ほど近い場所で、二人の戦士が刃を交えていた。
一人は槍を使う、白い光に身を包んだ男。
一人は剣を使う、黒い闇に身を包んだ男。
激しく打ち合い、時には雷や炎を操る不可思議な術、魔法を放つ二人は傷だらけ。自分のものとも、相手の返り血とも分からないほど赤く染まっている。
この二人のどちらか――あるいは双方――が、この現場を引き起こしたのだろうか。互いに何かを言い合っているようだが、その声は不思議と、彼の耳には届かなかった。
やがて熾烈な戦いに決着の時が来た。
黒い剣が、白い男の腹を切り裂き、
白い槍が、黒い男の心臓を貫いていた。
二人は同時に倒れこんだ。
完全なる刺し違えに見えたが、白い男は、まだわずかに息があった。うつぶせのまま胸元から何かを、引きちぎるようにして取りだした。それは雄々しく翼を広げる竜の姿をかたどった、銀色の首飾りだった。
彼はそれを見て、あっと声を漏らした。
まるでその声がきっかけだったかのように、首飾りから光が溢れ出した。光は圧倒的に強く、持ち主を始め、その場に倒れていた者全てを飲み込み、それでも飽き足らず、赤茶けた地を、黒い空を、そして彼までをも、白く、白く染め上げていき――
世界を満たした白は、朝の日差しとなって、彼――ナオリオ・リーズレイブを呼び起こすのだった。