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第七章

 子供の頃、妙に大人びた言葉を使うことがある。

 時として大人よりも大人らしい振る舞いをする。

 人間関係が複雑になり利害関係が発生すると大人らしい振る舞いでもどこか張り子のようなたどたどしさにも関わらずそれが板についてしまう。

 それが無用な不安を生む。

 その時の灰蓮はそれがなかった。

 思えば一番競争を強いられた時だった。

 紫落以来の龍の候補の公募があった。

 他の公募者は高官や高給な職務の子息だったが唯一、灰蓮のみが見窄らしい身なりで孤児ながら参加していた。

 推薦任は民舞である。

 灰蓮は言われるがままだった。

 記憶は朧気にある。

 民舞以外の面接官の顔が怪訝だったのは確かだ。

 その時の場所にいた受験生にある日声をかけられたことがある。

 とてもじゃないが龍使いになりそうにもない小太りの大声の男だ。

「生まれてはじめてあんな間近で襤褸野郎を見たの初めてだったよ」

 がはは笑いで同年代にもかかわらず中年親父のような発言に面と食らった覚えがある。

 選考に落ちたことを後悔した様子は微塵もなく、恨まれたような素振りもなく両手で握手された。

 灰蓮は人並みの身なりになったものの彼はそれ以上に体中に金銀装飾を身につけていた。

 それが余裕の証拠である。

 裕福な者が龍使いになることは結局のところ損であった。

 昔、誰が龍使いになるかは国中でちょっとした注目だった。

 灰蓮に決まった時は批判の声が上がった。

「突発的な話題づくりだ」

「民舞が贔屓にしている」

「どこの馬の骨ともしれない奴に龍なんか乗れるはずがない」

 時がたつにつれて批判も収まるが、その時は巷で悪い噂が蔓延った。

 しかし批判されるまでが華、関心が薄らぐほうが遙かに恐ろしいことに気づくのは後のことである。

 灰蓮はそんな批判を聞くことのない離れた場所で教育されることになる。

 山奥にある天然の龍が住む龍の里で青春時代の大半を過ごした。

 厳しい訓練に耐え、龍に信頼を得られるよう努力した。

 その結果、一番灰蓮に懐いたのが今の相棒の龍である。

 懐くまで四年、跨がれるまで四年、跨って飛べることになるまで四年掛かった。

 龍使いになるための平均的年数である。

 もし、信頼を得られずに相棒の龍と共に下山しようとするのならたちまち喰いちぎられてしまう。

 実際、幾多の龍使いの候補がそれで朽ちた。

 そのため龍使いを補助する人間は先に下山し、たった一人で龍を持ち帰ることになる。

 さながら割礼の儀式である。

 灰蓮は人生の中でこれほど心寂しい思いはなかった。

 そんな渇望した心を癒したのは紫落の言葉だった。

「龍に認められようと思うな、龍を認めろ。奴らは欺瞞を許さない」

 人生で一番救われた言葉でありいまでも言い聞かせている言葉。

 龍を端的にそして的確に表している。

 龍には龍独自の価値観と社会がある。

 言語はないが非常に高度に発達している。

 人間を取り込むほどに。

 龍は平等をなによりも平等を好む。

 見下げることはないが見下すことを非常に嫌う。

 家畜のように主従関係になることはまずない。

 命令ではなく互いの合意がなければ行動しないし、むしろ襲う可能性さえある。

 飼い慣らすことなどできはしない。

 飼い慣らせいるように見えるのは龍が人間社会に溶けこんでいるほかならない。

 日常じっとしていて暴れることもない。

 じゃれることもない。

 人と一緒に下山するのも同意の上であり、他の龍がちゃちゃ入れるような事例はない。

 では、なぜ人と共にする龍がいるのか?

 科学的には解明されていない。

 しかし龍使いは薄々知っている。

 それは飛びたいからだ。

 安定した食料の確保、細部にわたる体調の管理、天気や風を読む計画、それをやる人材こそ龍は望んでいる。

 利害の合った関係こそ龍と人のありし共存である。

 これを理解してこそ龍使い。

 たとえ戦を経験してなくとも脈々と受け継ぐ正当な後継者。

 紫落も灰蓮もこれに十分に足り得る存在。

 これがあるから直接、伝えられたこそ灰蓮は紫落を尊敬し、信頼を置いていた。

 ひとつ正しければ全てが正しいわけじゃない。

 しかしそう思えてしまう、特に若輩者には。

 現役の龍使いが紫落しかいなかったのも大きい、つい縋りたくなる。

 それがわかるまで長年の時間がかかった。

 だがわかっていても尚、縋りたくなる。

 民舞は灰蓮よりもそれに対して遙かに長く激しいせめぎあいに戦っていた。

 瞬間の一点に輝く肯定に背を向け、自分を騙すために祈祷師として贖罪をしていた。

 行動としてはあまりに消極的だが老人の我慢とすれば驚く忍耐である。

 普通ならなんらかの癇癪をおこす。

 点数は低いが努力の証として賞賛されてもよいはずだと灰蓮は思った。

 同時に民舞を漠然と崇めていたのが、霧が晴れたように一他者の悩みとして理解できた。

 残念なのは悩みを聞ける友人が民舞にいないことと灰蓮が悩みを理解したのが死の直後であったことだ。

 しかしそれは無理からぬことだ。

 人間の本質を探ることなど不可能に等しい。

 一個体として物質に直面すればその形そのもとして認識してしまうが中にある精神は一度、物質をひき剥がすことでもしないかぎりわからない。

 外部からでは顕微鏡を覗くように観察しなければ発見さえ困難である。

 そもそも人は生まれ、名前という呪いをかけられることからはじまる。

 個別に認識できると同時に人間の暴力性を鎮火させる発明でもある。

 人間は他人の情報、特に顔の情報を読みとることに優れている。

 動物自身が名前をつけることはない。

 にもかかわらず人間は名前をつける。

 それは当たり前だ、当然だとの言葉はもっともである。

 ではどこからの欲求であるか。

 それは社会がそうさせたのだ。

 複雑な組織するために簡単に共通化して処理しなければならない。

 ただ機能的だったはずが、時が進むと価値が転化する場合がある。

 組織名、役職、血筋と付随すると人間は目の前の人の人格をすっ飛ばし、驚くほどに単純に判断してしまう。

 それがただの一人間を人外へと押しやる。

 結果のひとつが英雄である。

 感受性が強ければ強いほど世間から無言の振る舞いを強要されることに自覚的に気づき、心理的に矛盾を引き起こす。

 他人の想像が自己を浸食されることを拒むことは社会は許されない。

 期待された振る舞いに答えられれば、たとえ虚像であっても天にも舞い上がるような輝きを得られる。

 本来無かったはずの虚像が社会に認められるとき、虚構を現実としてあること前提に歯車がまわり始める。

 そして想像上に大多数が共有された座りのよい古典的物語が現実を覆い尽くすとき問題が発生する。

 より多くの物を生産するため、より効率的に動くため、共有するために機能的に働いていたはずの社会が別のことに戯れる。

 現在の維持と未来の繁栄のために存在する、鋭利に尖らした組織が大きく舵を切る。

 そして主題は見失う。

 問題の複雑さを前に単純な原理原則だったことも遠くに投げてしまう。

 現実の関心よりもちんけな美学が先走る。

 さらに新しい偽りの主題を刷り込みは事態を混乱させる。

 人間にある根元的願望、欲望、自己破壊の因子が暴走する。

 するとうまくいったはずのところがぼとぼととこぼれ落ちる。

 だが止まらない。

 たしかに組織が目的通りに稼働していても欠点はある。

 それを皆が自認していてもうまくいっていれば黙認できる。

 うまくいかなくなるとその欠点が憎々しい。

 あれがなければ、あれがなければと・・・・・・。

 気を抜いた瞬間ある時に底が抜け、目的が替わり手段も替わる。

 賢明な行動が愚考な行動に犯される。

 幻想に酔えば愚考だなんて考えない。

 苦しみも明日への架け橋にしか見えない。

 結局は取り越し苦労。

 虹色の夢は暗黒の序曲。

 それをくい止めるために灰蓮は戦うことを決意した。

 灰蓮が煙日で自問自答したことをここで記す。


 混濁な事情を抱えた状況に似合わない陽気な天気。

 それに誘われるかのように龍と共に灰蓮は天高く舞い上がる。

 無限にある空につくられた透明な絹の道。

 それに添うように飛翔する。

 向かう先にもう同じひとつ個体がいる。

 事情を知らなければ、さながら求愛の行為にも見える。

 観客は灰蓮の視界に入り歓声が沸く。

 灰蓮はちらりと銀行屋の顔だけうかがう。

 距離が離れて詳しくは確認できないが演説を止め笑みだけを浮かべていた。

 すると上空から風を切る音がした。

 灰蓮はすぐさま振り向く。

 加速で鋭角な形をしたように見える紫落の龍が灰蓮と僅かな距離を空け交差する。

 紫落の龍は速度を落として首と胴体と尻尾を器用にうねりながら動かして、最小の軌道で灰蓮の龍の尻尾を追う体制にした。

 これには灰蓮も舌を巻いた。

 細かい技術だが難なくやり遂げ実践にもいかす。

 灰蓮には一生かかっても真似できないだろう。

 技術の問題ではない、意識の問題である。

 日頃、なにを想定しながら訓練するかが決定的な差を生む。

 まさに超人。

 その超人を振り切るために灰蓮は加速しながら後ろに手中する。

 しばらくして城の上空で一定の円を描きながら互いの尾を追う。

 龍対龍の戦闘では背後を狙うことが基本となる。

 実践ではこれまでなかったが仮想的に想定され模擬戦も何度も行われている。

 これに地上にいる観戦者も様子がおかしいと察知する。

 やはり詳しい者達が落ち着かず隣の者に小声で話す。

 小声の伝言は瞬く間にざわめきに変わった。

 式典のような優雅さではない、生死を伴う戦闘の緊張感が場に広がる。

 紫落の龍と一緒に飛ばしてみて感じたのは、それなりの駆け引きをしたかったが灰蓮は分が悪いと読んだ。

 それは想定の範囲内だが対等にやりあえるという若干の期待はすぐ吹き飛ぶ。

 龍は飛ばすととても体力を消耗する。

 そのため長い間隔を空ける。

 ほいほいと飛ばせるわけではない。

 全盛期の龍使いの部隊は龍使いよりも龍の方が多かったほどである。

 灰蓮の龍は間隔を短かったために万全の状態ではない。さらに煙日だったために体調の管理も不十分な対処となってしまった。

 紫落に煽られるのを我慢しなければならない。

 主導権を握られれば選択の余地はかなり狭まる。

 だがこの状態が続けばやがて後ろから刺されることは誰にでもわかることだ。

 で、あるからして危険であったとしても基本は灰蓮が仕掛けなければならない。

(弱ったな)

 口にはしないが発したくなる。

 顔に出すことは誰も見てはいないがそれだけで負けに傾いてしまいそうな気分になる。

 役のない手札で博打をする博徒気取り。

 だが心中だけは勝ち気を徐々に削られていく。

(落ち着け、持ち直せ)

 自重に耐えるかのように言い聞かせた。

 しかし、そんなことを見越すかのように紫落は海のある方向に龍を向けた。

 これに灰蓮は考えられなくなる。

 灰蓮は手札を捨てることを考えているうちに先に紫落が持っている手札をすべて交換するのを目にした感覚に陥る。

 しかも、こちら手札を知りながら有利な流れにもかかわらず大きく場を乱す。

 基本となる土台が崩される。

 覚えたこと、学んだことが真っ黒に塗りつぶされる。

 だがそれでも紫落の龍を追う。

 常識を考えれば有利である。

 それを信じて、尻尾を見せたからには基本を忠実に実行する。

 紫落は灰蓮のほうをのぞき込む。

 冷たい視線で誘う。

 率いていることを確認すると翼を羽ばたき高度を上げる。

 地上にいる人間がひとりひとり見えたのが黒い塊にしか見えなくなる。

 酸素の濃度が薄くなり息苦しくなる。

 天空のはずが深海に潜る感覚に似ている。

 実際に龍使いの訓練のひとつとして素潜りは組み込まれている。

 違いは暗いか明るいかだけ。

 他とは狭心症になりそうなほど狭さを感じ、押しつぶれそうなほど圧力に苦しみを噛みしめて、世界でただひとりではないかと孤独感が襲う。

 夢でさえ出ててくる。

 だからこそ自分を自分で支えなければならない。

 反対にだからこその部分のを相手は根本から刈り取ろうとする。

 高度を上げることは龍にも重い負荷がかかる。

 しきりに羽をばたつかせることは人間で言えば、全力で走ることと同等である。

 龍の息が急速にはやくなる。

 必然的に動きも鈍くなる。

 紫落はここぞとばかりに龍を旋回させ、灰蓮に襲いかかる。

 鋭利にとぎすまされた槍の刃が光る。

 深手を負えば即、真っ逆さま。

 灰蓮は重心に近い場所、骨盤からやや上で背中側を狙うと予想する。

 相手側から考えれば、あまりに会心のあたりであると骨と槍が絡まり共倒れになりかねないし、急所から遠ければはずす可能性が高くなる。

 理想は一撃で絶命させることより、肉を深く削ることが望ましい。

 灰蓮は長く手綱を持ち、肘を畳んで身体をねじり込んだ。

 角度が違うものの龍の翼が互いに交差する。

 触れあいながらもすれすれで衝突を避けた。

 そして、激しい風圧と共に槍が飛び込んでくる。

 灰蓮に痛覚が走る。

 時が一時停止して一点の痛みが永遠続くのではないかと感覚に襲われた。

 もちろんそれは気の持ちよう。

 その呪縛がとき放たれた時、急速に景色が濁流のように巡り回る。

 結果、服は切れ、肌も若干傷つけながらも既の所で回避した。

 灰蓮は真剣に対峙して発見したことがある。

 紫落は灰蓮を信頼している。

 戦う相手におかしいかもしれない。

 だが、超接近戦をするには相手に委ねることには成立しない。

 相手が下手であったり、誤魔化そうとしたりしてら危険が伴う。

 それが自信になる。

 だが状況は依然として劣性である。

 姿勢を崩したことで龍との保たれたが崩される。

 大きく振られながらも手綱を必死に握りしめながら灰蓮は龍の首に抱きついた。

 安定するまで嵐がやむのを耐えるように、目を閉じ思考を停止させる。

 しかし、耳だけは閉じられない。

 龍の嗚咽のような叫びだけはよく聞こえる。

 やがて叫びは止み、龍の息がゆっくり吸い込んだ。

 肺に酸素を大量にため込む。

 外皮もぱんぱんに膨らんだころに灰蓮は首を上げる。

 蒸気を上げるような汗をかき、それを推進力にするように意志は高く、そして熱く奮い立たせた。

 絞り出すような鼓動が心地よい。

 海の地平線よりもやや下あたり、動く物体を発見し追う。

 太陽の逆行により、紫落と龍は黒く塗りつぶされていた。

 眩しくとも目の瞼を下げて、細めても凝らして動きを逃さない。

 紫落の龍は迂回する。

 あまりに陸から遠のくと、漂流して投げ出されてしまう。

 たとえ目的を達しても死んでしまえば元も子もない。

 無事帰還できるような距離感だけは、どんなに決死の戦いをしようとも頭の片隅に置いている。

 灰蓮は先回りしながら高度を落としていく。

 水面に近づくにしたがい、水の動きが乱反射した光が刺す。

「くそったれが!」

 焼き付いた網膜に灰蓮はいらだちを隠せない。

 だが、それに反比例するかのように飛行は安定する。

 地面効果により比較的楽な力で航続飛行を伸ばすのを可能にしている。

 激しい空中戦の後にはうってつけの休息ではある。

 紫落の龍が前方を横切る。

 それと同じ航路に灰蓮は入った。

 思っていたよりも短い距離。

 そしてひらめく。

(上から潰せる!)

 灰蓮は槍を捨てた。

 つまり勝負にでた。

 灰蓮は頭を下げ、龍は首を伸ばす。

 力を一杯に使い紫落に接近戦を仕掛ける。

 一定に近づいた時にぐうぅっと速くなった。

 努力が実ったか、誰かの力を借りたのか。

 違う、紫落の背後に新たな気流が生じて気圧が低下する。

 空気抵抗の減少は灰蓮の龍に力を与えた。

(いける!)

 勝利を確信した。

 龍の三本の爪で紫落を引っかき毟るの想像する。

 刹那。

 紫落の龍の足が水面に突っ込む。

 巨大な水柱がそびえ立つ。

 水しぶきが灰蓮の頭からふりかかる。

 口に塩分の味が広がる。

 それよりも重大なことは紫落が視野から消えたことだ。

 かわりに大きな影が多い被さる。

 灰蓮は視線を上に向ける。

 紫落の龍がまるで空中で立つかのごとく縦の姿勢をしていた。

 背骨を伸ばし、翼を広げ、上顎の牙と逞しい足の爪が光る。

 灰蓮が熨され、引き裂かれようとした時に身体が上下に激しく動いた。

 防衛本能でも働いたか、指示もななしに灰蓮の龍は勝手に飛び立つ。

(ぐっ!)

 灰蓮は歯を食いしばる。

 背後で水を叩く音がした。

 着水すれば勝負の決着はそこでつく。

 しかし、それだけでは終わらない。紫落の龍は激しく翼をばたつかせる。

 風に叩きつけられた水面は波打ちばしゃばしゃと音を立てる。

 そのまま着水せずに逆に高度を上昇させる。

 奇跡としかいえないことが目前でおこなわれていた。

「そんな曲芸ありかよ!」

 灰蓮は語気を強め吐き捨てる。

 実践を想定しない技を駆使してまで負けない紫落の不屈の精神力は重圧となる。

 さすがにもうほとんど力はどちらも残されていない。

 気力が勝敗を分ける。

 次撃が最後になる。

 逃げるのは灰蓮、追うのは紫落。

 灰蓮は振り向ける機会を伺い、一心不乱に距離を話そうとする。

 再び高高度の我慢対決を腹積もりを決める。

 その時、身体に異変がおこった。

 龍ではなく、灰蓮自身に。

(密林!?)

 そうも形容したくなるのも理解できる。

 左右が黒く塗られ、ぼんやりと真ん中しか見ることができない。

 まるで樹木がそびえ立ち、葉に覆われた光量が足りない場所でさまよい歩くかのように。

 脳に酸素が十分に届けられない状態でなる現象である。

 とても危険であり気を失う一歩手前、死の淵にあった。

 悪いことは続く。

 眼鏡の鏡が割れた。

 温度差により硝子が耐えられなくなり、ひとつの面が三つになる。

 下降するよりも冷えた空気を吸い込む、上昇するほうが事例は多い。

 元々、眼鏡は要求に即した性能を満たしているわけだはない。

 いついかなるかはわからないが想定内ではある。

 しかし、屈折して眼球に入る世界はくしゃくしゃと混沌としたことにはかわりはない。

 地獄のような観念的絶対悪ならばよかったと灰蓮は思った。

 現状は地獄よりも割り切れない。

 どこか明確、どこかぼんやりしていて、屈折していて息苦しい、人生を圧縮して詰め込まれたようである。

 それでも生きたい。

 意識的か本能的かは知る由もないが、湧き出る感情はそれだった。

 灰蓮は腹をくくった。

「敵にいいようにやられて、相棒に助けられて、このままで終わるかよ!」

 速度を僅かだが落とす。

 それと同期するように灰蓮は空気を吸い込んだ。

 事を起こすための間合いを計る。

 忘れていたように無意識に塞いでいた聴覚が復活する。

 空気がめまぐるしく流れる音が耳を叩いていた。

 仕掛けがばれないようにぎりぎりまで後ろを見ない。

 歯をかたかたさせながら網に掛かるのを待つ。

「うしっ!」

 灰蓮は手綱を巻き込んだ。

 頭は天に向き、尻尾は地に向いて、翼を左右に大きく広げた。

 丁度、凧のような形状をしていた。

 灰蓮は真横に後ろを見ながら立った。

 距離はどんぴしゃだった。

 そこからきりもみのような動きをする。

 でか物の急な行動に乱気流を生み出す。

 巻き込まれるのはもちろん後ろの龍。

 見えない絹に乱雑に包まれて制御不能に陥る。

 こうなればどうしようもない。

 力の入れようもなくただ一直線、頭から真っ逆さまに地に落ちるしかなかった。

 灰蓮は堅く拳を握りしめた。

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