プロローグ
民舞の身体が大きく揺れた。
軽い眠りから覚醒へと呼び戻される。
触覚が外気の冷たさを知覚する。寒さが古傷を悪戯に弄る。
まだ、小刻み揺れていた。
かたかたと馬が闊歩する音が聞こえる。
説法の帰り、自分がいま屋根付きの馬車に乗っていることを思い出した。
ゆっくり顔を上げると民舞の執事がいた。
まだ若く、精悍な顔をしているが今はこちらを睨んでいる。
なぜそんな顔するかとしばし考え、民舞は自分に目線がきていないことに気づく。
後ろに向くと寝ていたのを知っていたのだろう、中年の運転手が手綱を握りながらばつが悪い顔しながらこちらを見ていた。
民舞は右腕を軽く上げ運転手に微笑んだ。運転手の顔が緩む。それを確認した後、身体を戻す。執事の顔を見るとまだ複雑な表情をしていた。
「石ころか何か乗っけたんだろう。そう敏感になるな」
民舞が宥める。
「そうですか」
執事はそう返事して、軽く鼻で息を吐いた。
そして、沈黙が続く。
執事のやる気はひしひしと伝わってくるのだが、それが逆に民舞は疲れた。
話相手でもなってくれれば良いのだが、若いわりには元々堅物で見識も狭い。
年齢にもかなりの開きがあるので、そんなことは期待はできない。
護衛も兼ねているので、彼はそちらに力をいれているみたいである。
腰に携えた剣をいつも大事そうに磨いているのをよく見る。
先代の執事は彼の父であるが、もう少し軟派で芸達者な人間だった。
変装や玉乗りを若い頃からそれを器用にこなしていた。
彼はそれに反発したのかもしれない。
民舞は彼の父のことを思い返す。
同年代の人間であり、友人であった。
死因の肺結核になるのが発覚するまで勤めていた。
残念だったのは感染を防ぐために隔離され、死に顔を見ていないことである。
それが心残りか、彼が最後に書き残した手紙を読めずにいた。
過去にしたくないのかもしれない。
しかし、彼を過去の思い出として思い浮かべる矛盾。
頭の中でへばりつくような過去の堂々巡りを繰り返す。
民舞はそんな思考を意識的に無理やり絶つ。
代わりに気分を変えようと、窓から都市風景を眺めた。
景色は霧で視界がはっきりしない。
微かに見えるのは戦前にない聳え立ち並ぶ赤煉瓦の工場。
見上げると何本もの煙突からは白い蒸気がもくもくと天に昇っている。
中では労働者がこの国、汝の国の主要産業である絹や綿を織り、経営者に脅されながら働いている。
戦後、蒸気機関による産業革命によって積み上げられたこれらの建築物は、原風景だったこの国の原生林から造られた木の建物から取って代わった。
発展した文明は過去の足跡を消してゆく。
何もかもが昔では考えられないことである。
それも戦争で資源も財源も消費し尽くしたために、戦国の乱世を守り抜いたものの、実質的に多国籍の商人から圧倒的な資金力に乗っ取られることとなってしまったからである。
そこから王が握っていた権力は形骸化し、代わりに実権は商人達が握っていった。
と同時に昔、団長として騎士団に所属していた民舞も組合と、揉めごとが続き退任。
権力の座から大きく遠のいた。
その後は家業の跡を継ぎ、祈祷師として第二の人生としていまにいたる。
最近、その祈祷師の商売も繁盛してきた。
しかし、それは皮肉にも工場の経営者からによるものであり、依頼が後をたたない。
原因は工員の集団的な神経症である。
これがある種、公害のように工業地域全体を覆い尽くした。
奇声が響き、怒号が飛ぶ。
鞭の乾いた音の後、悲鳴が上がる。
そんな中を民舞は説法を説き歩いた。
過去が消えないために。
そんなことお構いなしに馬車はまだ走る。
目の前に橋が見えてきた。
ちらりと民舞は目を左端に動かす。
浮浪者が馬車を横切った。汚れくたびれた風貌で俯き加減に歩いている。
浮浪者はきっかけだった。
空気は民舞を緊張感と解放感の両方から包む。
混在した感覚は空間をどんよりとさせた。しかし、それを察知したのは民舞だけであり、前の男も後ろの男もそれに気づかない。
民舞もそれが何かが気づかない。
ただ、何かであることだけがわかった。
民舞は笑った。久ぶりに心が高ぶっていた。
橋の真ん中で男は立っていた。
川は東から西へ、海へと流れる。ここからでも少し目を凝らせば霧の向こうから港が見えた
しかし、男はそんなことどうでもよく憂鬱だった。
これから人を殺すのだ、無理もない。
男を助ける者は誰もいない。
むしろ彼から遠のいた。
この殺しが成功しようと失敗しようと彼は死ぬ運命にあった。
不服はないはずである。
彼は全てを捧げ忠誠を誓ったのだ。
しかし、後悔という言葉だけが彼の心に刻んでいく。
目標が来た。
もうどうする事もできない。
忠誠を誓った男の計画どおり殺るしかない。
汚れた茶色い布を羽織り、彼は懐にある抜き身の小刀を握りしめながらこの殺人の計画を反芻した。
歯車の音が変った。
馬車は速度を落とし、橋を上る。
民舞は旧友を思い出していた。
面長の髭面でむさ苦しく目立ちたがり屋だった。
しかし、策略に長け彼が計画するやり口はいつも陰湿だった。
目的のためには虚偽と賄賂、時には恫喝と暴力を眉も動かさずにやり遂げる。
彼は軍師でありながら首を突っ込む癖があった。
捕虜の尋問に直接携わり、拷問に変えてしまうこともあった。
民舞はひょんなことから捕虜の尋問したときに旧友がいかに残忍かを気づかされた。
だが、軍師としては頼もしいことこの上なかった。
緻密な戦略、占星術の家系として天候をも考慮する。
消極的な態度を見せず、時に自信に満ちた発言は皆に勇気づけた。
味方から見ると痛快そのものであり、敵に勝たした気にさせて、引っこ抜く。
まるで、博打の胴元のような手腕だった。
味方にすれば情熱的で暖かく、敵であれば冷酷にして残酷。
その敵味方のあまりに対照的な顔に、印象が一致しない。
だからと言って、一致させようなんて誰もしない。
結局のところ誰もが恐怖してのだろう。
わざわざうまく歯車を回す奴を退場させる馬鹿はいない。
そろそろだと民舞は後ろを見た。向こう側からまたもうひとり浮浪者が歩いてきた。
この時間、浮浪者が歩く先には食べ物に在りつける場も寝床もない方に向かうのは不自然である。
限定された場所しかいかない貴族とは違い、生まれた頃からこの国に住み、危険な地域にも頻繁に足を踏み入れたからこそわかる。
ましてや二人。
もう、何かは晴れた。
旧友が刺客を送ってきたのだ。
暗殺とは陰湿かもしれないが、民舞はそれを奥ゆかしく感じた。
運命を選べるのである。
旧友は声にしないが示唆を与えた。
助けを求め、生き延びる余地があった。
しかし、民舞は何もせず浮浪者を見ていた。
そんなことよりも戦中の死期が近づく感覚を思い出し民舞は感謝した。
民舞は眼を見開く。身体は左手の取ってに全体重をかけた。
羽織った布をはぎ取って刺客が翔だした。
異変に気づき、執事が自慢の剣を抜き立ち上がろうとする。
だが遅い、刺客は馬の腹を切り裂いた。
堪らず馬が鳴き暴れだした。馬車も揺れ執事は体勢を大きく崩す。
計画を予知していた民舞は姿勢を保ち踏ん張る。
運転手何とか放り出されないよう堪えようとした。
しかし、刺客は足首を持ち、引きづり降す。
運転手は頭を強く打ち付けられた。
刺客は見下げる。刺客はやさしく運転手の頭を抱き上げ、首にそっと小刀の根元を置いた。
息を止めるとすぐさま小刀を引いた。
派手に鮮血が飛び散る。
刺客は運転手の頭を放り投げた。
瞬間、馬が走る音が聞こえた。
刺客は逃げたと思い、慌てて振り向く。
血の後をたどる。
だが、逃げたのは馬だけだった。
残された馬車は坂道に下る方向に重力に逆らわずのろのろと下り、端に停止した。
好機とばかりに刺客は走る。
接近戦に備え小刀を逆手にした。
馬車の扉を開くと、男が右手に剣を持ちながら大股で倒れている、執事だ。こちらに気づき驚き、脅えている。
向こうに標的の民舞がいるが、執事が邪魔で近づけない。急所も遠くやりづらい。
刺客は乗り上げようとした。
だが、必死で執事は足で応戦する。
刺客は足を振り払おうとするが、振りほどけない。痺れを切らし、左足の裏をぶっ刺した。
「あっあああぁ!」
執事は悲鳴を揚げた。声は広がるが身体は縮こまろうとする。
刺客は逃さない、すぐさま乗り上げる。執事の横に身体を滑り込ませ、頚動脈を締め上げる。
悲鳴が止まった。
抵抗も残りわずか、後は心肺機能を停止させるまで続けるだけ。
時間の経過と共に執事は全身に力が抜け、精気を絶たれた身体を離す。
刺客は目と鼻の先にある、民舞の足元を見た。
一連の行動に民舞の抵抗がなかったことを訝しげに思い、刺客は見上げた。
すると民舞はただ手紙を読んでいた。
まるでここで死闘がないように。
「あんたは!」
刺客は苛立ちを隠せない。
「これを読める機会を得たんだ、いいだろうに」
民舞は静かに言った。
刺客に手紙の字面を表に見せる。
「友人の遺書さ、お前が絞めた奴の親父だよ。これ見て確信したよ、死ぬ前の心境ってぇのは皆似るもんだなぁ」
民舞は朗らかに笑った。
今の状況に到底似つかわしくない表情である。
これが刺客の感情に火に油を注いだ。
腕に力が入る。
刺客はむくりと立ち上がった。
呼吸が荒く、眼が血走っている。
人を殺めたのを心の底では後悔するが、それがやり場のない怒りへ変換される。
「天誅!」
刺客は叫ぶ。
民舞は手紙を懐にしまい込み、冷たい眼差しで刺客を見上げた。
「お前は依頼者の要望を把握してないな」
民舞はそっけなく訂正した。
「それより奴に言っておけ、好きにしろ保険はしてある」
「他に言うことは」
刺客は意味を追求しなかった。
そんなことよりもこ緊張から解放されたかった。
「ない」
民舞は即答する。
刺客は近くにある剣を拾う。
そして、大上段に構えた。
革命の序幕が開いた。