第五十五話 湯上がりの、不安
※更新時間を19時に変更しました。
床の抜ける騒ぎのあと、僕たちは男子部屋に戻った。
「お先でーす!」
襖を開けた瞬間、古い縁側椅子に腰掛けていた紫苑さんが、こちらを振り返った。部屋には、他に誰もいない。
「……うるさ⭐︎てか遅⭐︎」
紫苑さんは立ち上がり、鞄から着替えとタオルを取り出した。
荷物を抱えたまま、僕らの横をすり抜ける。
「風呂場、汚かったら殺すから⭐︎」
「……ひっ……」
ちゃんと洗い場も流した。
脱衣所の水滴も拭いた。
……たぶん、大丈夫だ。
「あ、あとさ」
紫苑さんが、ふっと振り返る。
「は、はい?」
「絶対、覗くなよ⭐︎」
冗談に聞こえない声。
喉が、ひゅっと鳴った。
「なあなあ、自販機行かーん?外にあったよね〜?」
「おー!炭酸飲みてぇ!」
僕の心臓だけが、やけにうるさい。
光流くんも颯も、いつも通りだった。
……怖がってるは、僕だけか。
「じゃん負け奢り〜!颯が負けたら柊の奢りね!」
「確率おかしいよね!?」
そんなやりとりをしながら、僕たちは民宿の外へ向かった。
***
一方、女湯。
湯気の向こうで、奏と伊吹が並んで湯に浸かっていた。
「奏ちゃーん」
「……」
「せっかく温泉なのに、暗いよー!」
ぱしゃ、と伊吹が奏にお湯をかける。
「……伊吹さん」
「やっぱり麗子ちゃんも一緒に来た方が良かった?」
「……いや、それはちょっと……。
麗子さんは女性ですが、まだ女性ではないところもあるようなので……」
奏は眉を八の字にして言った。
少しの沈黙。
山鳥の囀りが、遠くで響く。
「……怖いの?」
伊吹の声が、急に落ち着いた。
「っ!いえ、そんなことは――」
「ボクは怖いよ。
……狛くんが勝てなかった相手に、ボクと福ちゃんが敵うわけないもん」
伊吹は沈んで、口元までお湯に浸かった。
「逃げられるなら、逃げちゃいたい」
伊吹の声は、水音に消えるくらい小さかった。
「私も、怖いです」
響の顔が、脳裏を過る。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
だけど、逃げるなんてできない。
「……でもさ!」
伊吹が勢いよく立ち上がる。
はねた湯が、奏の顔を濡らした。
「ボクたち、仲間だから!
みんなで力を合わせれば、なんとかなーる!」
「……仲間」
湯気の向こうで、伊吹が無理やり笑う。
「そうですよね」
奏は、ふっと口元を緩めた。
伊吹の明るさが、怖さを一瞬だけ薄めてくれる。
「ふへへ〜。
じゃあさ!奏ちゃん、恋バナしようよ!」
「え!?恋バナですか!?」
「奏ちゃんは好きな人いる?柊くんとか?」
「いや!私は別に……っ!」
奏の頬が、じわりと熱くなる。
「あ!もしかして光流くん!?」
「それは絶対ないです」
即答だった。
伊吹が声を出して笑う。
でも、その笑い声の奥に、不安がまだ残っていることを、奏はわかっていた。
***
Side:柊
「ぶぇーっくし!!」
光流くんが、豪快にくしゃみをした。
「汚ねぇぞ」
「……湯冷めしちゃったかな?」
僕たちは自販機でジュースを買って、部屋に戻っていた。
「ごめんごめん!なんか急に!」
光流くんは指で鼻を擦る。
「てか今何時〜?ご飯六時って言ってたよね〜?」
「ちょっと待ってね」
僕はスマホで時間を確認しようとして――
「あれ?」
ない。
ポケットにも、鞄の中にも。
胸の奥がざわつく。
――嫌な予感がした。
「お前、風呂場に持ってっただろ」
颯が呆れ顔で呟いた。
確かに、脱衣所で置いた覚えがある。
「……取りに行ってくる」
僕は肩を落として、部屋を出た。
颯が浮遊しながら後ろをついてくる。
「アホだなー、ほんと」
小馬鹿にする声を背に、廊下を急いだ。
今は、紫苑さんが入浴中だ。
――どうか鉢合わせませんように。
廊下の奥から、水音が聞こえる。
その音が、急に止んだ。
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※次回更新:2月23日21時
第五十六話 天才の傷




