第八十二話 信じる、選ぶ
七月二日。期末テスト最終日。
窓の外では、日差しが校舎を白く照らしていた。
二限目、生物。
シャーペンの芯が、何度も折れた。
問題は読める。
答えも、たぶんわかる。
それでも、手が止まる。
――『テストが終わったら、狛さんたちに話に行こう』
光流くんの声が、頭の中で反響した。
僕たちの中に、内通者がいる。
その事実が、水に落ちた墨のように広がって、問題文の文字を滲ませていた。
「……回答やめ!」
先生の声で、我に返る。
答案用紙が回収され、教室の空気が一気に緩んだ。
「あー!終わった〜!」
「むずかったんだけど!斎賀先生、本気出してね!?」
笑い声。椅子が軋む音。
開放感に、全員が包まれていた。
「……全然できなかった」
小さく呟く。
結果は来週出る。
今はそれより――今日だ。
鞄に荷物を詰める。
颯は廊下の窓際に浮いていた。
視線が、一瞬だけ合う。
すぐに逸らされた。
僕たちの心音は、まだ、ずれている。
聞こえるのに、噛み合わない。
そばにいるはずなのに、遠い。
「柊くん」
顔を上げると奏さんが立っていた。
「テスト、お疲れ様です。
……今日は、河川敷、行きますか?」
喉が、ひゅっと鳴った。
しまった。想定していなかった。
「あ……えっと……今日は……」
言葉が出ない。
何て答えたら、正解なんだ?
全部話せたら……楽なのに。
「柊くん?」
奏さんの目が、細くなる。
疑っているわけじゃない。
ただ、真っ直ぐなだけだ。
その視線が、今は痛い。
「柊ー!!」
「っ!光流くん!」
教室の入り口から、光流くんが手を振る。
助かった……!
「おーっと!奏ちゃん!
今日はね〜、俺ら他校生と合コン〜!」
背後から、ぎゅっと抱きしめられた。
柑橘と、ほんのり海の香りが鼻をかすめる。
……合コン?
「は!?合コンですか!?こんな時に!?」
奏さんの声が、一段高くなった。
「こんな時だからだよ〜!
狛さんたちも河川敷来るかわかんないし〜!」
軽すぎる。
でも、光流くんの腕は、わずかに強張っていた。
「終わったらちゃんと訓練するから!ね、柊!」
「え?あ、うん……!」
合わせるしかない。
奏さんが、僕を見た。
「柊くん。無理して付き合う必要は――」
「……大丈夫です」
嘘をついた。
胸の奥が、重くなる。
「……はぁ。わかりました。明日は、河川敷ですよ」
奏さんはそれだけ言って、去っていく。
出入り口ですれ違った颯が、眉を寄せた。
「奏、なんかブツブツ言ってたぞ。
“これだから男は”とか何とか」
「……」
奏さん、申し訳ない。
「で?どこ行きゃいーの?」
「狛さんたち、うち来てくれるって〜」
光流くんは、スマホを見ながら言う。
その顔は笑っているのに、どこか辛そうだった。
*
「ちょっと〜。ここ、高校生の溜まり場じゃないんだけど〜」
カウンターの向こう側。
電子タバコを片手に、光知瑠さんが頬杖をつく。
スナックHikari。
僕たちはまた、ここに集まっていた。
一昨日と同じ配置で座る。
だけど、空気は一昨日よりも一段と重い。
「まあまあ、姉ちゃん。
まだ営業まで時間あるっしょ?」
「今日はグラス割んなよ〜!」
そう言って、光知瑠さんは奥へと消える。
電子タバコの匂いだけが残った。
「距離的にも、うちが一番集まりやすいもんね〜」
光流くんがカウンターの向こうから、お茶をとってきてくれる。
カランカラン……。
入り口のドアが音を立て、ゆっくり開いた。
「すまない、待たせたか?」
狛さん。
その後ろから、伊吹さんが顔を出す。
二人の距離に、隙間はなかった。
狛さんの袖を掴む伊吹さんの手に、胸が騒つく。
「いーえ、全然!こっちどーぞ!」
光流くんが二人に駆け寄り、案内する。
僕もソファの端にずれた。
「……で、大事な話って?」
僕の隣に腰掛けた狛さんに、じっと見つめられた。
思わず目が泳ぐ。
「……えっと」
「俺が話すよ」
光流くんはグラスをテーブルに並べた後、丸椅子に腰を下ろした。
僕は、きゅっと口をつぐむ。
光流くんの話に、全員が真剣に耳を傾けていた。
「……つまり、『常夜の研究所に人質がいて、助けに行きたい。だが俺たちの中に内通者がいるから、全員では動けない』……ということだな?」
「そうっす」
「……やはり、内通者はいたんだな。
どうりで、先回りされるはずだ」
狛さんは腕を組み、眉間に皺を寄せた。
その隣で、伊吹さんが俯く。
「俺たちに話したのは、なぜだ」
「狛さんたちのこと信じてるからです……って、言いたいとこなんすけど。
ごめんなさい、消去法っす」
光流くんは膝に手を添え、頭を下げた。
「いや、妥当だろう。俺がお前でも、そうする」
狛さんがグラスに口をつける。
「……一応、言っておくが、俺は内通者ではない」
「まあ、自分から“はい、裏切り者です”とは言わないわよねェ」
「おい麗子!」
咄嗟に颯が叫ぶ。
麗子さんはお構いなく続けた。
「今、アタシたちは“奏か紫苑が内通者”だと仮定して、狛たちに話してるワケ。だとすると――」
「紫苑くんだよ」
俯いたまま、伊吹さんが口を開いた。
「奏ちゃんなはずない」
膝の上で、握った拳が震えている。
狛さんが、伊吹さんの顔を覗き込んだ。
「伊吹、大丈夫か?すごい汗だぞ」
額に滲む、大粒の汗。
狛さんは麗子さんを見た。
「俺も、十中八九、紫苑だと見ている」
脳裏にまた、あの傷跡が蘇る。
――『俺たちの知らない絆?みたいなのがあるんでしょ〜?』
――『二人が一緒に行動しているのは、何か訳があるのでしょう』
――『狛には絶対言うな』
色んな言葉が、反芻される。
わからない。
だから、聞くしかない。
「狛さん。
紫苑さんとは、どういう関係なんですか?」
「……腐れ縁だ」
嘘だと、思ってしまった。
そう思った自分が、いちばん嫌だった。
「研究所の方だが、人質がいるなら早く動いた方が良い。
明日、行ってみよう」
「うっす」
颯が即答した。
だけど。
――『明日は、河川敷ですよ』
今度は奏さんの言葉が浮かんで、僕は答えられなかった。
「……奏さんは?」
「俺の父さんから、依頼が入ったことにすれば良いだろう。無理に奏を連れていく必要はない」
「……」
また、嘘を重ねる。
肺に、空気がうまく入らない。
颯が、僕に何か言いかけたように見えた。
だけどそれより早く、麗子さんの手が僕の頭に触れる。
「明日が終わったら、奏に話しましょ。
奏はきっと、わかってくれるわ」
何もないはずなのに、熱がある。
その温もりに、少しだけ呼吸が楽になった。
「では、明日。十時に」
また、戦いが始まる。
僕と颯は、重ならないまま。
僕の心音がやけに大きくて、
颯の音が、聞こえない。
僕は、
狛さんの言葉を疑いかけていた。
読んでくださってありがとうございます。
※次回更新:3月16日21時
第八十三話 最高傑作




