記憶の居場所
――零憶二〇九九九番。
重厚な扉が、低く鈍い音を立てて閉じた。
その瞬間、外界の気配は完全に遮断される。
「……広いな」
思わず漏れた俺の声は、壁に触れることなく、空間の途中で溶けた。部屋は異様なほど広い。天井は高く、果てが見えない。
光はない。影も生まれない。空間全体が、均一な灰色に沈んでいた。
床は黒く、滑らかで、足音すら拒むようだ。歩いているはずなのに、進んでいる感覚がない。前に進んでいるのか、同じ場所を踏み続けているのか――判別がつかない。
この部屋に入ってから、110年が経っている。
そう言われても、誰も否定できないだろう。時間という概念そのものが、ここでは意味を失っていた。やがて、部屋の中央に“それ”が見えた。
ひとりの人間。――結城ロミ。
彼女は宙に浮かぶように佇み、全身を無数のトゲに覆われていた。
いや、覆われているのではない。そのトゲは、彼女自身から生え、彼女自身を貫いている。
血は流れていない。代わりに、終わることのない痛みだけが、静かに、確実に存在していた。
声も上げず、身じろぎもせず。ただ罰としての「存在」を保ったまま、彼女はそこにいた。
――これが、忘却の果て。
――記憶から消され、それでも終わらなかった結末。
零憶二〇九九九番の部屋。
ここは牢獄ではない。拷問室でもない。
――記憶を存在として保存する場所だ。
結城ロミは死んでいない。だが、生きてもいない。彼女はここで、忘れられないために、保存し続けていた。
三人は《ガーベラの罪言》を手に、言葉を失ったまま立ち尽くす。
きらりは、宙に浮かぶ結城ロミに駆け寄った。
存在していないはずの輪郭に、何度も声を投げる。
「……結城ロミ。聞こえるか、きらりだ」
返事がなく、そこにいるのに、結城ロミはいない。触れられないまま、時間だけが凍りついている。
「お願いだ……起きてくれ、どうしても、話したいことがあるんだ」
声が震える。それでも、彼女は呼び続けた。
「きらり」
かすかな声が、空間に滲んだ。きらりの息が止まる。
「……今の、聞こえた?」
太陽が静かに首を振る。
「結城ロミは現存していない。今聞こえたのは、残響だ」
きらりは歯を食いしばり、結城ロミに囲まれているトゲを殴る。血が雪崩落ちてくる。
「太陽、それでも……行く方法はあるんだろ」
「ある。彼女の脳内へ転移する」
「代償は、自我の損傷、記憶の混線。最悪、こちらには戻れない」
きらりは一切迷わなかった。
「太陽、なんでもする。きらりは全てを失ってもいい」
太陽の視線が、俺に向き、痛いくらい真剣な眼差しで刺してくる。
「類。君はどうするの?」
俺は息を吸い、吐くと同時に外連味あふれる声を発する。
「きらりと同じだ。文句も条件もいらない」
床を踏みしめ、太陽ときらりの前にでた。
「行こう。今度は――俺たちが取り戻そう」
太陽は豪快に盛大に笑う。
「はっはっはー僕たちなら大丈夫さ!!必ず戻ってくるよ!!覚悟はいいね」
太陽は結城ロミの閃光に手を伸ばし、指先に集束する。
《ソラリス・オープナー》――開門。
空間が、結城ロミの思考の内側へと裂けていく。
「――結城ロミ待ってろよ」
門が開いた瞬間、世界は内側へと裏返った。
落下感はない。代わりに、意識そのものを一枚ずつ剥がされていくような感覚が走る。
次に足が触れたのは、地面ではなかった。
柔らかく、ぬるりと脈打つ――思考そのものの床。
――ここが、結城ロミの脳内世界。
空は低く、色を失っている。無数の断片が宙に浮かび、言葉になり損ねた感情が霧のように漂っていた。笑顔、怒声、後悔、恐怖。
どれも黒く澱んで最後まで辿り着けない。
「……ロミ」
きらりが一歩踏み出す。
その声は、不思議なほど震えていなかった。
「きらり?」
返事は、すぐ近くから聞こえた。
振り向くと、そこに彼女はいた。
トゲに縫い留められた姿ではない。
何事もなかったかのような制服姿の結城ロミが、こちらを見て立っている。
「……どうして来たんだ」
「どうしてって……ロミがいなくなったまま、何も終わってないだろ」
きらりは笑おうとして、うまくできなかった。
その歪んだ表情を見て、ロミは口元を吊り上げ、狂気じみた笑みを浮かべる。
「お前が消したんだろ。全部。全部、きらりのせいだ」
「私が……ロミの存在を?」
「忠告してやるよ。ここに来た時点で、もう死んでいる」
その言葉が終わる前に、ロミの輪郭がわずかに揺らいだ。きらりは気づいていない。
だが――俺は、見てしまった。
ロミの背後。この世界の奥。
そこに、本来あるはずのないものが口を開いている。
巨大な裂け目。脳内世界そのものを貫く、黒い亀裂。亀裂の向こうから、視線がこちらを覗いていた。
――グノリスだ。
記憶が壊れる瞬間に生まれる、欠損そのもの。
存在してはならない異物。
「……きらり、来るぞ」
太陽が低く呟いた、その瞬間。
裂け目が、先に笑うように大きく開いた。
黒い影が溢れ出し、形を持つ。
巨大なグノリスが、一直線に――
きらりへと襲いかかった。
それは生物というより、欠損そのものだった。
輪郭は歪み、形は一定せず、黒い霧と硬質な装甲が混ざり合った巨体。
目はない。だが、確実にこちらを見ている。
巨大グノリス。脳内世界の空が軋み、断片化した記憶が雨のように降り注ぐ。
「……っ、でかすぎだろ」
俺が呟いた瞬間、足元の思考の床が盛り上がった。グノリスの前脚――いや、概念そのものの腕が振り下ろされる。
「きらり、下がれ!」
太陽が一歩前に出る。
「《ソラリス・オープナー》――開門」
太陽のいちご色の頭部が、強く発光する。空間に役割が刻まれ、目前に半円状の光の門が出現した。グノリスに叩きつけたが、門に触れた瞬間、減速し、分解される。
力は消えない。ただ、剥がされた。
「っ……門が耐えらない!」
その隙に、きらりが前に出て、きらりの異能が発動する。
空間が、きしむ。グノリスの頭部、腹部が、内側から圧縮され潰れる。
「……ロミを、これ以上汚させない」
だが――潰れたはずの部位が、すぐに記憶のノイズとして再構成される。
「……はっ。全部、お前のせいなんだよ!!」
結城ロミの声は、刃物のように鋭かった。
グノリスがきらりの腹部を、鋭く突き刺し、
きらりから血が垂れる。
「あの事件で、私はお前を庇った。それなのに、なんで――お前は来るんだ?」
「っつ、ロミ……」
きらりは起き上がろうとするが、抵抗している。俺は踏み出し、問いかける。
「ルビーシア忘却の惨禍か。あの時、きらりは……何をした?」
ロミの身体から、黒い霧のようなものが噴き出した。それは毒にも似た、感情の残滓だった。
「……私が、暴走した」
淡々とした声。だが、そこに滲む後悔は重い。
「きらりが、いじめられていた。だから学園を壊した。規則も秩序も関係ない。ガーベラを植えるたび、正しいことをしていると思っていた」
宙に、赤いガーベラ、花弁の幻影が散る。
「全部、きらりのためだった。
……でも、きらりは、わかってくれなかった」
その瞬間、きらりの頭を何かが強く打った。
断片だった記憶が、一気に繋がる。
――嘲笑。孤立。血の匂い。
そして自分を守るために、壊れていったロミの背中。
「……私、いじめられて……」
きらりの声が震える。
「学園のためじゃない。ロミは、私のために……」
ロミは、冷たく言い放った。
「なのに、お前は私を消した」
「違う!!それは……ロミが、私に頼んだんだ。存在していても、ここにいてはいけないって……殺してほしいって……!」
「――それでもだ」
ロミの声が歪む。
「向こうの世界でも、痛かった。
誰も居なくて、何も発することもない。ずっと、ずっと、痛くて、苦しいんだ……!」
きらりの足から力が抜け床に崩れ落ち、声を殺して泣く。
「ごめん……ごめん!全部……全部、私のせいだ……!」
「きらり、戻ってこい!」
俺の叫びは、霧に吸われ、ロミの表情が、グノリスと同化し完全に崩れる。
「全部、お前のせいだ」
歪んだ感情が、黒い裂け目と共鳴する。
「狂え。――お前を、めちゃめちゃに殺す」
その瞬間、巨大グノリスが咆哮し、
脳内世界そのものが、悲鳴を上げた。
巨大なグノリスが、きらりを捕食しようと口――開いた。
「きらり!グノリスが結城ロミの壊れた記憶を喰って形を保ってる!!本当の結城ロミとは違うんだ」
太陽の叫びが、脳内世界に反響する。
俺は歯を食いしばり、グノリス討伐専用大剣を構えた。
だが、踏み出した瞬間――圧が来る。存在そのものを押し潰すような反発。
「……っ、来る!」
グノリスの腕――概念の塊が、横薙ぎに振るわれる。俺は転がるようにかわし、その勢いのまま踏み込み、刃を振り抜いた。
頭部に相当する欠損が裂け、続けざまに腕を切り落とす。だが、切断面はすぐに黒い霧となって再構成されていく。
「……ならーー今から再生してやるよ!!!」
思考異能が、完全に開く。視界が反転する。世界が意味で組み上がり、グノリスの内部構造が暴かれる。
胸部――いや、存在をつなぎ止めている概念的な接合点。
「……そこだろ!!!結城ロミ!!こっちにこい!!」
《リコレクター》に刻まれた雷紋が唸りを上げる。刃が青白く輝き、雷が収束していく。
「雷電抹消兼斬!!!」
雷撃が走り、刃が触れた瞬間、グノリスの胸が軋み、折れた。
――ガクン。音は、遅れて響いた。グノリスは動かない、絶叫しない。ただ、存在理由を失った欠損として、崩れ落ちる。
黒い霧が霧散し、脳内世界を貫いていた裂け目が、ゆっくりと閉じていく。降り注いでいた記憶の断片も、静かに消えていった。
――零憶二〇九九九番。
そこには、無数の棘に縫い留められた結城ロミがいた。宙に浮かぶように静止し、逃げ場のない痛みの中心で、ただ存在し続けている。
きらりは迷わなかった。歩み寄り、その身体を強く抱きしめる。
棘が容赦なく突き刺さるが、布を裂き、肌を裂き、赤い血が床へと落ちる。
それでも、きらりは腕を緩めなかった。
「ロミ……私も、苦しかった」
震える声で、きらりはロミを更に強く抱きしめる。
「ずっと、会いたかった。ずっと……ここに来たかった」
ロミの肩がわずかに揺れ、閉じていた瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……来てくれたんだな」
棘に覆われた指が、きらりの背に触れる。
「本当はさ……あの時、きらりを救えて良かったんだ。いつまでも大親友だから。きらり、来てくれてありがとう」
その言葉と同時に、ロミの身体が、ゆっくりと光に溶け始めた。
「ロミ……!ロミ!!消えないでくれ!!ロミ!!」
きらりの叫びは、空間に滲む。
「私は!結城ロミとの日々はとっても馬鹿して面白くて、たくさん笑って、何処にいてもきらりの大親友は、結城ロミだ!!大好きだ、よ」
ロミは最後に、穏やかに微笑んだ。
虹色の光源となり、棘も痛みもすべてを置き去りにして――静かに消えていく。
きらりも、太陽も、俺も、言葉を失って立ち尽くしていた。
その場に残ったのは、血の匂いと、取り戻された声ーー。だが、胸の奥には確かにあり続ける。
結城ロミという存在は、忘却の向こうではなく――。
これからも、きらりの中で、生き続ける。




