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4 タバスコサンドをご賞味あれ

 中森美穂は強い不安と孤独を感じていた。

 それもこれも佐藤航とかいう男のせいだ。


 その日、美穂はいつものように学校の廊下でスマホを触りながら、隣のクラスの千春が通りがかるのを待っていた。千春は美穂を見かけると、いつも美穂に話しかけてくれる。

 ところがその日はいつもと様子が違っていた。千春は男子と楽しそうに話しながら廊下を歩いて来た。千春はその男子を佐藤と呼んでいた。


 それで美穂はピンときた。最近、千春と仲の良い佐藤航という男子がいると噂には聞いていた。航は女みたいな顔をした男子だった。身長だって千春と同じぐらいしかない。航のどこがいいのか美穂にはさっぱりわからなかった。


 千春は航と話すことに夢中なようで、美穂に気づかずに美穂の前を通り過ぎた。それは美穂にかってない危機感を与えた。もし千春が航と付き合うことになれば、千春は航にかまけて美穂のことを忘れてしまうのではないか。


 美穂と千春は小学校の時からの長なじみで、美穂はなにかと千春と張り合ってきた。それもすべて千春の気を引くためだった。

 千春はかなりの美人だが、美穂も負けてはいない。美穂は身長が170センチ以上もあって、顔が小さく8頭身もあり、千春と同じくモデルをしている。彫が深くて目が西洋人のように大きく、鼻は付け根から高くて鼻筋も通っている。それもそのはず美穂の母はアメリカ人だった。つまり美穂は日米のハーフということになる。


 美穂はその外見の派手さからたくさんの異性を惹きつけてきたが、小学校も高学年になると、その人気は千春のほうへ傾き始めた。

 二人の明暗を分けたのは性格だった。誰にも分け隔てなく優しい千春と比べて、美穂は自己中心的なところが目立った。努力だけではどうにもならない容姿の良さは、ときに妬みを生む。たびたび美穂はクラスメートの女子と衝突し、やがて美穂のもとから友達はいなくなった。


 美穂の容姿目当てでたまに男が寄ってくることもあったが、例外なく美穂の性格に我慢ならなくなり、美穂のもとを離れていった。今や美穂とまともに会話してくれるのは家族を除いては千春だけだった。

 しかし、このままではその千春も失いかねない。


 千春と航の仲を邪魔しよう。

 千春に存在を忘れられないためにそうする必要があったし、千春のような上位の女に航はふさわしくないはずだ。これは千春のためでもあるのだ。

 千春は航に階段での落下から助けられたことで、航のことを好きになってしまったに違いない。そんなつまらないアクシデントで自分を安く売らないで欲しかった。


 美穂は放課後になると教室を早足で出た。校門前で待ち伏せをして航を待つ。

 下校途中の航を見つけた美穂は、背後から航に声をかけた。


「ちょっといい?」


 航は美穂の姿を見つけると、驚いてびくりと体を震わせた。美穂は辛辣な物言いで大半の生徒から恐れられていた。航もその中の一人だったらしい。


「隣のクラスの中森さんだよな。俺なんか悪いことしたっけ?」


 美穂を恐れてへりくだるような航の態度が美穂は気に食わなかった。美穂が舌打ちすると、また航が体を震わせる。

 航をいちいち怖がらせていては、まともに会話すらできない。美穂は深く息を吐くと怒りを沈めた。


「違うわよ。ちょっと頼み事があるの」

「頼み事?」


 美穂は頷いた。


「初対面の相手にこんなお願いをするのはちょっと気が引けるんだけど、私の彼氏のふりをしてくれないかな?」


 美穂が考えた作戦は、航に彼氏のふりをしてもらうことだった。美穂と航が付き合っていると千春に勘違いさせれば、二人の仲を引き裂くことができるかもしれない。

 美穂の予想外の頼みに航は驚いた。


「なんで彼氏のふりなんかしなきゃいけないんだ?」

「私ストーカーされてるの。たぶんこの学校の生徒だと思うんだけど、後をつけられて写真を撮られたりしてるんだよね。ほらスマホで写真撮ると音がするでしょ? あと非通知で電話がかかってきて、電話に出ても無言電話だったこともあるし。私に彼氏がいるってストーカーに誤解させれば、ストーカーをやめてくれるかもって思ってさ。それで佐藤に彼氏のふりを頼んでるわけ」


 もちろんストーカーなんていない。航に彼氏のふりを頼むために考えた嘘だ。

 航が信じてくれるか少し心配だったが、その心配は杞憂に終わる。


「それは大変だな。でも、なんで俺なんだ?」

「佐藤だったら信頼できるかなと思ったんだ。あんたなんでしょ? 柔道部の鈴木を3年生のいじめから助けたのって」


 美穂としては自分よりも身長の低い航が、巨漢の寛を助けたなんて話はとうてい信じられなかった。しかし、航に彼氏のふりを頼む理由としては利用できる。

 航は肩をすくめた。


「俺はなにもしてねぇよ。寛が自分で解決したんだ。あいつは強いからな」


 どうやら航は正直者らしい。美穂なら自分の良い噂が広まったら、その噂が嘘でも喜ぶのに。


「とにかくストーカーには本当に困ってるの。だめ?」


 うーんと航は考える仕草を見せた。なにを悩んでるのよ。ふりとはいえ私の彼氏になれるんだから、考えるまでもなくOKしろっての。

 まだ悩んでいる航を見て、美穂は探りを入れてみることにした。


「もしかして佐藤は好きな人がいたりするの?」

「さあ、どうだろう?」


 はぐらかすような航の答えに美穂は不安になった。もしかして千春のことを考えているのか?


「お願い! 一週間だけでもいいから!」


 美穂は頭を下げた。なんで私がこんなやつに頭を下げないといけないのよ!


「ちょっと考えさせてもらってもいいか? 明日には返事するからさ」

「仕方ないわね。じゃあ、また明日同じ時間に校門で待ってるから」


 ひきつる表情を隠して美穂は航と別れた。

 翌日、航からOKの返事をもらい、航が一週間だけ美穂の彼氏のふりを引き受けてくれることになった。

 

 


 美穂はリュックから弁当箱を取り出すと、航のいる隣のクラスに入っていった。周囲の視線が美穂に集まったが、その視線を無視して美穂は航の席の前まで歩いた。

 航は寛と一緒に昼ご飯を食べようとしていた。美穂に気づいた航が顔を上げる。

 美穂は航にモデルの笑顔を向けた。


「一緒にお昼ご飯を食べましょう」


 航は目を剥いて驚いた。それから慌てて立ち上がると、美穂の耳元に口を寄せる。


「彼氏のふりは放課後に一緒に帰るだけでよかったんじゃないのか?」

「もっとアピールしないとストーカーに私たちが付き合ってるって気づいてもらえないでしょ。協力してくれない?」


 美穂が航の耳元でささやくと、航は眉間に皺を寄せて考える仕草を見せた。それから、あきらめたように頷く。


「私たち付き合ってるし、ご飯ぐらい一緒に食べるのは当然よね」


 不自然にならない程度に、しかしなるべく教室中に聞こえるような大きな声で美穂は言った。周囲の驚く声が気持ちいい。そっと千春の様子をうかがうと、千春はぽかんと口を開けていた。


「ちょっと、あんたどきなさいよ。空気ぐらい読めないの?」


 美穂は航の向かいの席に座っている寛の肩を遠慮なく押した。


「航、これはどういうことなんだ?」


 驚いた寛が航に説明を求める。


「これから最後の晩餐が始まるんだよ。お前は逃げたほうがいい」


 航にうながされて、寛はよろよろと椅子から立ち上がった。しかし、すぐには去らずに航に顔を寄せると声を落として聞いた。


「お前が中森と付き合ってるってことは、あの人のことは好きじゃなかったのか?」


 航は一度視線を床に落としたが、やがて決意したように顔を上げた。


「俺が好きなのは中森だけだ」


 その声には力が籠っていた。美穂をストーカーから守るために、しっかりと航は彼氏のふりをしてくれている。これだけ人の視線を集める中で、この落ち着きはなかなか見事だった。見た目に似合わず肝が据わっている。もしかしたら寛を助けた話もあながち嘘ではない?


 航の宣言に驚いた寛が金魚のように口をぱくぱくさせている。他のクラスメートの反応も寛と似たり寄ったりだった。意外なことに千春だけは驚いた様子を見せず、真剣な目でこちらを見ていた。


「なんてこった。俺にはなにがなんだかわからねぇよ。と、とりあえず、お幸せにな」


 ようやく寛が二人のもとから離れる。

 美穂は空いた机に弁当箱を置いた。


「お弁当を作ってきたわよ。食べてくれるわよね?」


 嘘だった。この弁当を作ったのはアメリカ人の母だ。まぁ、私が作ったと思えば3割増しでおいしく感じるだろう。


「弁当ってまじかよ。でも、俺も弁当持って来てるんだけどな」


 航が困ったように頬をかく。


「じゃあ交換しましょう」


 航の返事も待たず、美穂は自分の弁当と航の弁当を交換した。

 航の弁当は母親が作った弁当なのだろうか。普通においしそうだった。ミートボールにだし巻き卵、タコさんウィンナーにウサギの形をしたリンゴ、どれも美穂の好物ばかりだ。


「ほら、私のお弁当箱を開けてみてよ」


 航は美穂の弁当箱のふたを開けた。


「へぇー、これが中森の弁当か」


 中にはサンドイッチが詰められており、サラダにフルーツも詰められている。航の弁当と比べればずいぶん簡素だが、昔の母が作った弁当と比べればかなりマシになった。

 小学校一年生のときの遠足でジップロックに入っていた美穂の弁当は、弁当箱にすら入っていなかった。母に日本の弁当事情を泣く泣く説明して、どうにか目立たない弁当を作ってくれるようにまでなったのだ。


「うん、うまい」


 航がサンドイッチを頬張って言う。


「そうでしょ?」


 きっと今頃、千春は箸を噛んでいるに違いない。

 ほくそ笑んだ美穂だったが、千春は大人しく見ているような女ではなかった。


「へぇー、そんなにおいしいんだ。私にも味見させてよ」


 美穂が顔を上げると、そこには千春の顔があった。口は笑っているが目がぜんぜん笑っていない。

 千春は持ってきた弁当箱を近くの使っていない机に叩きつけるように置いた。それから美穂と航の机の横側に、その机を移動させてくっつけると椅子に座った。

 美穂と航が向かい合った机にそれぞれ座っており、二人の隣の机に千春が座っている。誰の目から見てもわかりやすい三角関係だった。


「なんで千春が入ってくるのよ。彼氏との時間を邪魔するつもり?」


 千春は、ふふふっと聖女のように笑った。


「邪魔なんてしないよ。みんなで食べたほうがご飯はおいしいでしょ。佐藤もいいよね?」


 千春が笑顔で航に尋ねる。笑顔なのに有無を言わせぬ迫力で満ちていた。質問というより脅迫のほうがしっくりくる。


「い、いいけど」


 迫力に飲まれた航があっさり了承する。もし航が千春と結婚したら、千春の尻に敷かれる未来が美穂にははっきりと見えた。もっとも二人を恋人関係になど私がさせない。


「仕方ないわね」


 美穂が彼女の余裕を見せつけると、千春が歯ぎしりして悔しがる音が聞こえた。

 美穂は自分が優位な立場にいると思って油断してしまった。そしてその油断を千春は見逃さなかった。


「これが美穂の作ったお弁当か。じゃあ味見させてもらうね。あ、おいしい! おいしすぎて手が止まらないよ!」


 千春がすさまじい勢いで航の前に置かれた弁当から、中身をかっさらっていく。飲み込む時間も惜しんで、どんどん口の中に放り込むから、千春の頬がリスのように膨らんだ。


「あんた食べすぎよ! そんなに食べたら、航の食べる分がなくなっちゃうでしょ!」


 美穂が止めたが、千春の勢いは止まらなかった。サンドイッチに続いて、サラダもフルーツもすべて口の中に収めてしまった。一分もたたないうちに美穂の弁当箱は空になった。

 唖然として見つめる美穂の前で、千春はもぐもぐと口の中の物を咀嚼すると、食べ物を飲み込んで口を開いた。


「あー、おいしかった!」


 そして今気づいたような声を出す。

「あっ、ごめん。佐藤の食べる分がないじゃん。じゃあ、佐藤には私のお弁当をあげるよ」

「えっ? あ、ありがとう」


 なにもわかっていない様子の航が千春から弁当箱を受け取る。

 鈍い航と違って、美穂には千春の意図することがわかった。

 航に美穂の弁当を食べさせたくなくて、千春は美穂の弁当を食べたのだ。ここまでするということは、千春が航に好意を持っているのは間違いないだろう。千春に航のことをあきらめさせるのは一筋縄ではいかないかもしれない。

 仕方ない。それなら次の作戦だ。


「航、今度の日曜日デートしようね」


 隣から殺気を感じたが、それには気づかないふりをした。


「デート?」


 航が初めて聞いた言葉のように繰り返した。


「恋人だからデートぐらいするでしょ?」

「えっ? ……あっ、そうそう! 俺たちは恋人だからな!」


 航の大根役者ぶりに、美穂は航が彼氏のふりをしていることが千春にバレないかと少し心配になった。

 美穂がデートの話を進めようとしたら、スマホを見ていた千春が顔を上げた。


「よかったぁ。今度の日曜なら私も予定が空いてるよ」

「なんであんたも来ようとしているのよ!」

「デートはみんなでしたほうが楽しいよ?」

「ご飯と一緒にしないで!」


 千春との掛け合いが楽しかった。やっぱり航に千春は譲れない。




 日曜日のショッピングモールに美穂と航の姿があった。

 デートの約束をした日、千春や他の生徒に話を聞かれる心配がない下校中に、本当にデートするのかと美穂は航に聞かれた。

 ストーカーは休日も美穂を見ていて、本当にデートしないと美穂と航が付き合っているとストーカーは信じない。そんなふうに答えたら航も納得してくれた。


「どう? 似合ってる?」


 服屋の試着室から出てきた美穂が航に尋ねる。

 美穂が試着している服はオフショルダーのブラウスにミニスカートと、肌の露出が多かった。美穂としては日本人離れしたスタイルを航に見せつけたくて、この服を選んだのだが、航の反応はいまいちだった。


「なによ、その顔は? まさか似合っていないとでも言いたいわけ?」


 不機嫌を露にする美穂に、航は慌てて弁解する。


「いや似合ってないわけではないけど……」

「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよね」

「俺はもっとこういう感じの服がいいと思うな」


 航が指さしたのは、ゆったりとしたデザインの白のサマーセーターだった。


「下はどうするの?」


 美穂に聞かれて次に航が指さしたのは深紅のロングスカートだった。そのスカートだと私の美脚が隠れてしまう。


「まぁ、いいか」


 航はこんな感じの服が好きなのか。航に本気で好きになられても困るが、彼氏のふりを続けてもらうためにも多少のサービスは必要だろう。

 美穂は航のおすすめした服に試着室で着替えてから、試着室のカーテンを開けた。


「どう?」


 航に感想を尋ねると、航が満足そうに頷いた。


「いいんじゃないか」

「この服のどこらへんが気に入ってるの?」

「優しい感じがするとこかな」

「優しい感じ? それって私の雰囲気にあってるの?」


 美穂は自分の持つ雰囲気が優しいとは正反対だと知っている。モデルをしていても美穂に求められるのはクールな表情ばかりだ。同じくモデルをしている千春は対照的に笑顔を求められることが多かった。


「中森って美人だけど、なんか近寄りがたい雰囲気があるんだよな。だから人が近寄りやすいように、優しい感じのする服にしたほうがいいんじゃないかなっと思ってさ」


 美穂は鏡に映った自分をもう一度見てみた。いつもの自分に比べて柔らかい雰囲気がして、たしかに人から話しかけられやすそうに見えた。

 航が意外と美穂のことを考えていて驚いた。せっかくだから美穂はその服を買うことにした。もちろん服の入った紙袋は航に持たせた。


 ショッピングモールを航と歩きながら、美穂は周囲をそっと確認した。

 いた。千春だ。やっぱり美穂と航のデートが気になって、隠れてデートを見に来ているようだ。

 千春の隣には寛の姿も見えた。おおかた千春に誘われて来たのだろう。

 なんとか千春には美穂と航が本当に付き合っていると思わせたい。そのために、このデートは絶対に成功させなければならない。

 そう心がけた美穂だったが、物事はそう上手くはいかなかった。


「お前! あの時の女じゃねぇか!」


 ドスの効いた声に美穂が振り向くと、そこにはいかにも柄の悪そうな男が立っていた。男は険しい目で美穂を睨んでいる。


「ごめんなさい。私はあなたのことを覚えていないんだけど」

「ふざけんじゃねぇよ! 二週間前に飯を奢ってやっただろ!」

「……ああ、あの時の」


 言われてようやく思い出した。学校の帰りにデパートで買い物をしていたところを、この男にナンパされて、ご飯をご馳走になったのだ。

 もちろんこんな男と付き合う気なんてさらさらなかったから、LINEだけ交換して、その日は用事があるとか適当に理由をつけて別れた。連絡が来るとウザいので家に帰るなりLINEはブロックしておいたのだが、その結果こうして怒っているらしい。


「俺に飯だけ奢らせて、LINEをブロックしやがって!」

「別にいいじゃない。私とご飯を一緒に食べられたことだけで満足しなさいよ」


 美穂は本心からそう言ったのだが、男は納得しなかった。


「なめてんのか!」


 美穂に詰め寄ろうとした男の前に航が割って入る。


「ちょっと待って下さい」

「お前だれだよ?」

「俺はこいつの彼氏です。と言っても付き合い始めたのは最近なんですけどね」


 航が場違いな笑みを浮かべる。妙に余裕があって、これには美穂も少し期待した。


「彼氏だと? 邪魔する気か?」

「ちょっと渡したいものがあって」


 しかし美穂の期待は裏切られた。

 航は財布から千円札を3枚取り出すと、それを男の前に差し出した。


「俺の彼女が迷惑かけたみたいで、すいません。食事代はお返しします」


 航が美穂に代わって謝っているのが、美穂は気に食わなかった。これではまるで私が悪いことをしたみたいじゃない!


「なにやってんの? あんたがお金を渡す必要なんて――」

「いいからお前は黙ってろって」


 美穂を黙らせると、航は男に頭を下げた。


「これで勘弁してください」


 男はひったくるように航の手から紙幣を奪い取った。


「今回は物分かりのいい彼氏に免じて許してやるよ。じゃあな」


 男は紙幣を数えながら去っていった。

 美穂は鋭い目で航を睨みつけた。


「なんでお金を渡したのよ!」

「奢ってもらった金を返しただけだろ」

「私は3千円分も食べていないわよ!」

「慰謝料ってやつだよ。色をつけて返さないと、向こうの気も収まらないだろ」


 美穂は大げさにため息を吐いた。


「男ならお金を渡さずに戦いなさいよね」

「無茶言うなよ。そもそも悪いのは中森のほうだろ」

「もういい。今日は気分が乗らないから帰る」


 美穂はくるりと航に背を向けると、航を置いて早足で歩き出した。


「あっ、おい! この服はどうすんだよ?」


 航に先ほど服屋で買った服を預けたままだったが、航の選んだ服などもう着たくなかった。

 私は奢られて当然の女だから謝る必要なんてないのに。それにお金を払って許してもらうなんてダサすぎる。


 千春に航と仲が良いところを見せつけるつもりだったが、これ以上航と一緒にいると、喧嘩にまで発展してしまいそうだった。とにかく今は一人になりたい。

 美穂がショッピングモールを出て、人気のない場所に出たところで、美穂は後ろから声をかけられた。


「また会ったな」


 振り向くと先ほど絡んできた柄の悪い男が立っていた。驚きのあまり美穂は心臓が止まりそうになった。


「なんであなたがここにいるのよ?」

「そんなの決まってるだろ。お前をつけていたんだよ。俺があんなはした金でお前を許すわけないだろ」


 身の危険を感じて美穂は身構えた。


「大声を出すわよ」

「助けを呼びたいなら呼べよ。でも叫んだらその口を俺の拳でふさいでやるからな」


 男は拳を鳴らした。男の大きな手は女性の手を握るよりは、女性を殴るほうが得意そうだった。

 助けを求めて叫ぶと男を逆上させてしまい、かえって危険かもしれない。とにかく男を落ち着かせよう。


「私になんの用なの?」

「ちょっと話がしたいだけだよ。この近くにある廃工場まで一緒に来てもらおうか」


 このショッピングモールの近くにある廃工場は使われておらず、ときおり不良少年たちのたまり場となっていた。


「なんであんな所まで行かないといけないのよ? 話ならここでもできるでしょ」


 素直に男の要求に従おうとしない美穂にいらついたのか、男が美穂の腕を握った。男の太い指が肉に食い込み、美穂は小さな悲鳴を上げた。


「今ここでボコボコにされたいのか?」


 男の握力が増し、腕の痛みは耐えきれないものになった。


「わ、わかったわよ! 行くから腕を放して!」


 男の要求に従えばさらに状況が悪くなることは目に見えていたが、今このときをやり過ごすことだけで美穂は精いっぱいだった。

 けっきょく美穂は男の望み通り廃工場まで行くことになった。




 他に誰か人がいれば、ひどいことにならないかもしれない。

 一縷の望みを抱いていた美穂だったが、廃工場には他に誰もいなかった。がらんとした廃工場で、美穂は男と二人っきりになった。

 男が選んだのは敷地の中でも最も奥まったところに建っている建物で、もし助けを求めて叫んでも、誰かが助けに来てくれる可能性は低そうだった。状況はかなり悪い。


「あなたの望み通り廃工場まで来たわよ。私これから用事があるの。話があるなら早く終わらせましょう」


 美穂は気力を振り絞って強がった声を出した。弱々しい声を出したら、悪い想像が現実になりそうで怖かった。


「そうだな。俺ももう我慢できねぇし。脱げよ」

「脱ぐ?」


 とぼけてみたが男から予想通りの言葉を聞いて、美穂は自分の体が冷たくなるのを感じた。


「服を脱げって言ってんだよ。脱がして欲しいのか?」

「話が違うじゃない! あんたは私と話がしたいだけじゃなかったの?」


 男が近づいてきて美穂の肩を乱暴に掴んだ。そして濁った瞳で美穂を見下す。


「話なんかで俺の気が収まるかよ。お前はあのときの償いをその体で払うんだよ」


 美穂は男を睨みつけた。しかし、その瞳は恐怖で濡れていた。


「こんなことして無事で済むと思ってんの? 後で警察に通報するわよ!」

「すればいい。でも警察に言えば俺にレイプされたって事実は学校には隠せないぞ。お前が俺に襲われたことは学校のみんなが知ることになる。お前が大人になってからもずっと、お前はレイプされた哀れな女って陰で噂されて、周囲のゲスな視線にさらされることになるんだ。そいつらの妄想の中で、お前はずっと犯され続けるんだ。もう普通の生活は送れなくなるぜ」


 男は心底楽しそうに笑った。どうやら状況を一番理解していたのは、美穂ではなくこの男のほうだったらしい。

 美穂は愕然とした。こんな人気のない場所に連れ込まれて、今さら自分だけの力で逃げることなど不可能だ。そして男に好き放題された後でそのことを警察に通報すれば、周囲からは生涯を通して変な目で見られることになる。かといって警察に言わなければ男は捕まることもなく、それこそ男の思うつぼだ。美穂にとっては悪い選択肢しか残っていない。


「そこまでよ」


 聞きなれた声に美穂が廃工場の入り口へ顔を向けると、そこには千春が立っていた。千春の後ろには航と寛の姿も見えた。

 三人の姿を見つけたとき、美穂は不覚にも泣きそうになった。

 千春は男に向かってスマホを突きつけた。


「さっきの二人の会話は録音させてもらったわ。警察に通報されたくなかったら、今すぐ美穂をこっちに返して。今なら見逃してあげる」


 男が凶暴な目で千春を睨む。


「そっちのほうが人数が多いからって調子に乗るなよ。連れの男を痛めつけたら、お前もかわいがってやるよ」


 男が千春たちに向かって走り出した。

 寛がすっと前に出てきて、男の前に立ちはだかる。

 寛は男の拳を上体をひねってかわすと、男の鳩尾にボディーブローを叩きこんだ。男は涎を垂らしながらコンクリートの床に崩れ落ちる。


「もう終わりかよ」


 つまらなさそうに寛が呟いた。

 胎児のような恰好で床にうずくまる男の前に航が座る。


「俺の彼女があなたにしたことは良くないことですけど、あなたが俺の彼女にしようとしたことは犯罪です。でも、俺たちはあなたを警察に通報しませんから、あなたも俺たちのことは忘れてくれませんか? 全部なかったことにするのが、お互いにとって一番良いと思います」


 警察に通報すれば学校にも今日のことが伝わるだろう。美穂が初対面の男に食事を奢らせたことが学校に知られれば、美穂にもなんらかの処分が下されるかもしれない。それは美穂としても避けたかったから、航の取引は美穂にとってもありがたいものだった。

 男はコンクリートの冷たい床に頬をつけたまま航を見上げ、やがてあきらめたように視線を床に落とした。


「……わかった」

「ありがとうございます。じゃあ俺たちはこれで」


 千春が美穂のもとへ走ってきて、美穂の手を握った。美穂の手も千春の手も汗でびしょびしょだった。


「もうだいじょうだからね」


 千春が幼い子供に向けるような笑顔で美穂に言う。

 美穂はそのときになってようやく自分の足が震えていることに気づいた。




 夕焼けに染まるショッピングモールのフードコートで、美穂は放心したように椅子に座っていた。


「だいじょうぶ?」


 千春が心配そうな目で美穂を見ている。航と寛も同じような目で美穂を見ていた。揃いもそろって、お人よしが集まったものだ。

 美穂はだいじょうぶとこたえると、気になっていたことを千春に尋ねた。


「なんで千春たちが廃工場にいたの?」

「ああ、それはね」


 千春が説明してくれた。

 千春は寛を誘い、美穂と航のデートを一緒に見に来ていた。

 航から金を受け取った男は美穂と航の前から去ったように見えたが、実は物陰に隠れて美穂を見ていた。そしてそれを千春は見つけた。

 男の不審な行動が気になった千春は、美穂と別れた航と合流して一緒に男の後をつけた。つまり美穂を尾行する男を、千春たちがさらに尾行していたことになる。

 男に廃工場に連れて行かれる美穂を見て危険を感じた千春たちが、機を見て助けに現れたというのが、美穂の知らぬところで起きていたことだった。


「あとはストーカーだけだね」


 千春の言葉に美穂は目を丸くする。


「なんでそれを知ってるの?」

「佐藤から聞いたの。ストーカーに彼氏がいるって思わせるために、佐藤に彼氏のふりをしてもらっていたんでしょ?」


 美穂が航に目を向けると、航は気まずそうに目をそらした。


「中森は笹山と仲がいいだろ。だから、中森のことを笹山に相談したんだよ」


 なんてことだ。じゃあ最初から千春は、美穂と航が付き合っていないことを知っていたのか。航のやつ、千春に嫌われたくなくて千春にだけは話していたな。


「彼氏のふりって、航と中森は付き合っていなかったのか?」


 寛が驚いている。どうやらこの中で騙されていたのは寛だけだったらしい。

 航が自慢げに胸を張る。


「そういうことだな。俺も大した役者だろ?」

「佐藤の将来は俳優だね。今のうちにブルーリボン賞の受賞の言葉を考えておこうよ」


 会話に千春が加わり、楽しそうな輪ができた。

 その輪に加われない美穂はため息をはいた。馬鹿らしい。私のしたことはなんだったんだ。


「ストーカーなんていないから」


 千春が驚いた目で美穂を見る。


「じゃあなんで佐藤に彼氏のふりなんか頼んだの?」

「あんたの慌てる顔が見たかったからに決まってるじゃない。あんた佐藤のことが好きなんでしょ?」

「ちょっといきなりなに言い出すのよ!」


 千春が慌てている。同じように航も慌てているのが滑稽だった。

 千春が赤い顔で航を見る。赤いのは夕日のせいだけじゃない。


「佐藤、美穂は今冷静じゃないから、血迷ったことの一つや二つ言うのは当然だよね?」


 航は首がとれるんじゃないかと思うほど激しく何度も頷いた。


「当然だ!」

「冷静じゃないのは、どっちだよ?」


 寛がにやにやしながら指摘すると、そんな寛に千春は鋭い視線を向けた。

 また千春たちが騒がしくなる。

 四人が一つのテーブルに座っているのに、美穂だけ仲間外れだ。

 美穂にわざわざ話しかけにくる物好きは千春だけで、その千春は仲の良い友達に囲まれて楽しそうにしている。そして、その中の一人とは付き合ってもおかしくないほどに仲が良かった。


 千春には美穂が必要ではない。千春がわざわざ美穂に話しかけてくれるのは千春が優しいからだ。千春は一人ぼっちの美穂を放っておけるような人間ではない。

 美穂は強い孤独とみじめさを感じた。そしてそれは涙となって美穂の瞳からあふれだした。


「千春はいいよね。友達がたくさんいて仲の良い男子もいてさ。私は性格がブスだから友達なんていないし、あんなヤバい奴にヤバい目にあわされて当然だよね」


 美穂は自嘲的に笑った。

 なにを私は言っているのだろう。ひがみなのか弱みなのか、とにかく千春たちが作り出すこの温かな空気に耐えられなかった。


「なに言ってるんだ?」


 美穂が涙で濡れた顔を上げると、航がいつもと変わらぬ顔でこちらを見ていた。


「中森に友達がいないわけないだろ。少なくとも俺ら全員もう友達だ。なぁ、寛?」

「もちろん」


 寛が大げさに頷く。


「私は小学校の頃から、ずっと美穂とは友達だよ」


 千春は変わらぬ笑顔を美穂に送る。

 航に預けておいた服の入った紙袋がテーブルの上に置いてある。中に入っている白のサマーセーターと深紅のロングスカート。優しい千春が着ればとてもよく似合うだろう。

 美穂は涙を乱暴に拭いて椅子から立ち上がった。


「友達か。まっ、考えといてあげる」


 美穂は服の入った紙袋を掴むと、千春たちに背を向けてモデルのように歩き出した。

 美穂には美穂のやり方がある。甘ったるいやりとりは苦手だ。

 どんなことがあっても私の美しさは変わらない。情けないところを見せてしまったけど、自信を持って生きていたかった。


「結果は明日の昼ご飯の時に教えてくれ」


 背中に航が声をかけてきた。


「美穂、おいしいお弁当作って来てね! 私が全部食べるから!」


 続いて千春も声をかけてくれた。

 美穂は後ろを振り返らず、ふっと小さく笑う。

 明日のサンドイッチにはタバスコでも入れてやろう。

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