3 ゴリラ、コンタクトを忘れる
プールの授業が終わり、航は教室へと戻る廊下を歩いていた。
航の後ろを千春が友達と一緒に歩いていて、千春たちの話し声が聞こえてくる。
「千春、コンタクト忘れたの?」
「うん。プールで泳ぐときはコンタクトを外さないといけないでしょ? プールが終わった後に替えのコンタクトが必要だったんだけど、替えのコンタクト持ってきてなかったんだよね」
「千春って視力だいぶ悪かったよね。コンタクトなくてもだいじょうぶなの?」
「平気、平気!」
元気に答えた千春だったが、足元がよく見えていないのか消火器に足をひっかけた。ちょうど前を歩いていた航の背中に掴まらなければ転んでいたことだろう。
背中に千春の柔らかな感触と体温を感じ、航は胸がどきりとした。背中を見ると千春と目があった。
「ちょうどいいところに背中があって助かったよ」
「背中の持ち主になにか言うことはないのか?」
「もちろんあるよ。ありがとう」
航を追い抜いて歩いていく千春の背中を見て、航は千春がまたつまづかないかと心配になった。
プールの後はなぜだか眠くなる。航は大きな欠伸をした。
「眠そうだね。私が膝枕してあげようか?」
教室に帰ってすぐにトイレに行っていた千春が席に戻ってきた。千春の席は航の隣だった。
「永遠に眠ってしまいそうだからやめておくわ。それより笹山、黒板は見えるのか? コンタクト忘れたんだろ? よかったら俺のノートを写すか?」
航からの突然の申し出に千春は目をぱちくりさせた。それから嬉しそうに笑う。
「写す写す!」
余計なお節介だと思われなくて良かった。航は内心胸を撫でおろしながら机を移動させて、千春の机と自分の机をくっつけた。
休み時間が終わり、数学の先生が教室に入って来て授業が始まった。航は千春が読みやすいように普段より丁寧に字を書いた。
「佐藤って字上手いね」
「そうか? ありがとう」
「ねっ、もうちょっと椅子を近づけていいかな? そっちのほうがノートが見やすいから」
「いいけど」
千春が椅子を動かして肘が触れるぐらい近くまで来た。千春からは良い匂いがする。体温を感じるぐらいに千春との距離が近いから、航は授業に集中できなかった。
集中しろ。
そうは思ってもすぐ間近に女子が、それも千春みたいに美人な女子が座っていて平静を保てる男子高校生なんていないだろう。
集中力を欠く航は、黒板に書かれた数式をうっかり2行ほど飛ばしてノートに写してしまった。
急いで間違いを消しゴムで消さないと、航のノートを写している千春まで間違えてしまう。
間違いを消そうと消しゴムを探す航の手に、千春が消しゴムを差し出した。俺の様子を見て、すぐに黒板の写し間違いに気づくなんて感の良いヤツだ。
「はい、気の利く女より消しゴムだよ」
「ありがとう、気の利く女さん」
「どういたしまして」
千春がにこにこと航の顔を見ている。航は黒板を写すことに集中しようとしたが、千春がずっと航の顔を見ているので集中できない。
航はシャーペンをノートの上に置くと、千春に顔を向けた。
「なんか俺の顔についている?」
「うん、とってあげるね」
千春が航のほっぺを人差し指でぷにぷにとつついてくる。
「取る気ねぇだろ? ていうか本当についてるのか?」
「うん、ご飯粒がついてるよ」
「おかしいな。俺、今朝はパンだったんだけど」
「ちょっと、そこのカップル! 授業中にいちゃつかない!」
数学の先生が腕組みをして航と千春を睨んでいた。
教室に笑いが起こる。一部の男子生徒が羨ましそうな目で航を見ていた。
放課後になり、航はリュックに教科書を入れて下校の準備をしていた。
今日はとても疲れた。授業中はずっと隣に千春がいて気を抜けないのだから当然だ。千春にノートを写させてあげたことに後悔はないが、俺みたいな男には似合わない行為だったのかもしれない。プールの授業の後に眠くならなかったのは、たぶん今日が初めてだ。
疲れた足取りで校門を出たところで、航の背中に誰かがのしかかってきた。それと同時に今日はさんざんかいだ匂いがした。
背中に当たる柔らかな感触と体温には、いつまでたっても慣れそうにない。
「転びそうになったけど、前にちょうどいい背中があって助かったよ」
背中を見ると、そこにはやはり千春がいた。
「なんか前にも同じようなことがあった気がするな。足元に気を付けて帰れよ」
千春を置いて帰ろうとした航の袖を千春が握る。
「こらこら待ちなさい。足元が良く見えていない女の子を佐藤は放っておくのかい?」
航は地面を見下ろした。歩道には小石や落ち葉が落ちていて、学校の廊下に比べてつまずきやすそうだった。
「じゃあ一緒に帰るか?」
航が並んで歩いているだけでも、千春がつまづいて倒れそうになったら掴まるものぐらいにはなれるだろう。反射神経に自信があるわけではないが、いざとなったら千春の体を支えることだってできるかもしれない。
「素直でよろしい!」
「その言い方だと、俺が笹山と一緒に帰りたがってるように聞こえるんだけど」
「佐藤は私と一緒に帰りたくないの?」
千春が航に顔を寄せ、上目遣いで見つめてくる。
「距離が近いんだよ。コンタクトがなくても、これだけ近くにいたら表情ぐらいわかるだろ」
航は慌てて千春と距離をとった。ただし、あまり離れ過ぎると千春の転倒防止材としての役目を果たせないので、少しだけ離れるに留めておく。
千春は笑って航の隣を歩いている。なにが楽しいのか千春はずっと航の顔を見てにこにこしていた。
「俺ばっかり見てたら、またつまづくんじゃないか?」
「だいじょうぶ! 私には佐藤がいる!」
どうやら千春は足元より航のほうが気になるらしい。まぁ学校の廊下に比べてつまづきやすいとはいえ、歩道はちゃんと整備されているし、千春がつまづくことなんてそうそうないだろう。
それに気を付けないといけないのは、なにも足元だけではない。千春が外灯や標識に体をぶつける可能性だってある。
危険な物はないか確認するために航が周囲を見回すと、下校途中の他の生徒と目が合った。目が合うと慌てて向こうの方から目をそらす。別の方向に顔を向けると、また同じようなことが起こった。
そこでようやく航は、自分と千春が他の生徒の視線を集めていることに気づいた。千春とのやり取りに意識を取られて忘れていたが、千春はそこにいるだけで人の視線を集めるような人間だった。
千春自身はまったく気にしていないというか、もしかしたらコンタクトをつけていないせいで見えていないのかもしれない。
「笹山は俺と一緒に歩いていて大丈夫なのか?」
思いついた心配を航が口にすると、千春は首を傾げた。
「なんで? 佐藤はなにか空気感染する病気でも持ってるの?」
「持ってねぇよ。笹山は彼氏はいないのか? いたら他の男、例えば俺とこうして並んで歩いているのを他の人に見られたらヤバいんじゃないのか?」
千春が首を横に振る。
「彼氏はいないよ。嬉しい?」
「なんで俺が嬉しがらないといけないんだよ」
「素直じゃないところもかわいいね」
千春が航の頬をつつく。航はされるがままだった。抵抗すればするほど千春は航の手を上回る手を打ってくるだけなのだ。
「佐藤は彼女とかいるの? 彼氏でもいいけど」
「おまけみたいにとんでもないこと言うなよ。……彼女はいないけど」
「へぇー、そうなんだ」
千春がにやにやと笑っている。
「嬉しいか?」
航はお返しとばかりに千春に聞いた。
「うん、嬉しい!」
千春がとびっきりの笑顔でこたえる。
これが航と千春の違いだった。本気にしても冗談にしても、なんの照れもなくここまできっぱりと言い切られると、今の航には上手い返し方がわからない。そして、まごつく航を見て千春は楽しんでいるのだった。
航にできるのはせいぜい老人臭い説教をすることだけだ。こんなことでしか千春にマウントをとれない。
「笹山、そんな風に男をからかうのはやめたほうがいいぞ。いつか誤解されて変な男につきまとわれるかもしれないぞ」
千春が航を指さす。
「変な男?」
「俺は変じゃないから誤解しません。でも、マジで誤解されるから誰にでもそういう態度とるのはやめたほうがいいぞ」
「佐藤は私が他の男子にも、こういうことやってるの見たことあるの?」
千春が航のほっぺを摘まんで揉む。
航は教室での千春の様子を思い出してみた。
千春は男女問わずに笑顔を振りまいているが、他の男子を誤解させるような言動や体に触れるようなスキンシップはなかったように思う。
答えられない航に満足した様子の千春は偉そうに胸を張った。
「私は自分がモテることをちゃんと自覚してるからね。思わせぶりな態度はとらないように気をつけてるんだよ」
「じゃあ、なんで俺だけには思わせぶりな態度をとるんだよ?」
「なんでだろうね? わかる?」
千春がとぼけた顔で聞いてくる。
俺をからかうのが楽しいからか? それとも笹山は本当に俺のことを――。
「わからない! もうやめてくれ!」
千春が、仕方ないなぁ、と言って笑う。ようやく勘弁してくれるらしい。
「佐藤は好きな女性のタイプとかあるの?」
「うーん、そうだな。元気で明るい子がいいかな」
あえて口には出さないが、ここにもちろん美人という条件が入るのは言うまでもない。
「元気で明るい子って、こんな感じ?」
千春が胸を両手で叩いて、ゴリラのドラミングを真似て見せた。蟹股に開いた足で地面をだんだんと激しく踏みながら、うほうほ、とそれっぽい声を出す。千春のスカートが翻って、航は目のやり場に困った。
「それは元気で明るい子じゃなくて、元気で明るいゴリラだろ。笹山はどんな男子が好きなんだ?」
千春が航に顔を近づけてにんまりと笑う。
「気になる? 気になって仕方ないよね?」
「別に言いたくないんだったらいい」
「ちょっとちょっとちょっと! 言います! 言わせて頂きます!」
「言いたいんだったら素直に言えよな」
「私が好きなのはね……優しい人かな」
その後にイケメンが入るのは間違いないだろう。あと高身長が入る。そして数年すれば、これに高学歴が加わって、最後に高収入が加わるに違いない。
「ふーん優しい人ね。無難な答えだな」
「たとえば倒れそうになった私に背中を貸してくれたり、コンタクトを忘れて黒板が見えない私にノートを写させてくれるような人」
「へー、そんなヤツどっかにいた気がするな」
「ここだ!」
千春が航を指さす。その指は航の頬にめり込んでいた。
こんなことをされても腹が立たないどころが、嬉しいと感じる俺はおかしいのだろうか。
「明るく元気なゴリラさん、指が頬にめりこんでますよ」
「ごめんごめん。いいほっぺをお持ちですね」
「……ありがとよ」
出し抜けに千春が悲鳴のような声を上げた。航はびっくりして少し跳び上がってしまった。
「ど、どうしたんだよ?」
「あれ、お母さんだ! ヤバい! 男子と一緒に歩いているのを見られると絶対にからかわれるから! 佐藤、送ってくれてサンキュ! じゃあ、また明日!」
矢継ぎ早に喋ると千春は走り出した。
「足元に気を付けろよ!」
航が千春の背中に声を投げると、千春は背中を見せたまま右手の親指を立てた。
航は遠ざかる千春の背中を見て思った。
黒板は見えないのに、あんな遠くにいる母親は見えるのか。親子の絆って偉大だな。
家に帰った千春は洗面所に立つとコンタクトを外した。
実はプールの授業が終わった後、教室に帰ってリュックの中を見たら、予備のコンタクトを持って来ていたことに気づいたのだ。
トイレでコンタクトをつけて自分の席に戻ったら、航がノートを写すかと聞いてくれた。そこであえてコンタクトをつけていないふりをしたのだ。
なぜそんなことをしたのかって?
「なんでだろうね?」
千春は鏡に向かって笑った。できるだけ明るく元気に。




